狭霧さぎり更谷平治さらたにへいじという者を覚えているか?」

「…覚えておりませんが。」

 狭霧が表情ひとつ変えずに答えると、和木わきは少し困ったように溜息をいた。

「…じゃあ、一年程前まで、やたらと伏見の船宿や料亭に出入りしていた、町人体の男なら覚えはあるか?」

「…少しだけ、ある気がします。」

 一年前、伏見、町人体。実のところ、今ありありと思い出していた。

 同時に、あの男を斬ったときの屈辱が甦ってくる。

「その男、実の姿は奉行所の役人であったというのは話したな?」

「はい。」

 だからこそ斬った。和木には報告していない。

 そもそもその男の肩書がどのようなものかは理解していなかった。ただ漠然と、同志に、和木先生に仇なす、斬るべき敵、という認識しかしていなかった。

「その男、昨年死んだのだが、死体には持っているはずの密書がなかった。」

 狭霧は眉をひそめた。自分が斬った時、あの男は一本差しと身ひとつだった。ならば、端から何も持っていなかったということなのか。

「その密書には、在京の志士たちの潜伏場所、密会所、交遊録が事細かに記されているらしい。様子を窺うにまだバレてはいないようだが、それが奉行所に渡れば一気にお縄だ。浪士たちが血眼になって探している。」

「その密書を、探せということですか。」

「いいや、むしろ探すな。我々は密書に記されるような、後ろめたいことは何一つしていない。探せば逆に怪しまれる。我が藩はあくまで譜代なのだから。」

 和木はいつにない険しい顔で狭霧を見据えた。

「ただ今は、行動を慎めよ。」

 その意を解するには、狭霧はまだ未熟であった。





「やあ狭霧、丁度良かった。」

 和木の元を辞して藩邸内を歩いていると声を掛けられた。

「拙者に何か御座いましょうか。」

「俺が、というわけではないのだが、屋敷前に客人が来ていた。」

「客人…?」

「名乗っちゃいないが、やけにちびこいお客人だったぞ。」

 嫌な予感がした。

「何かの間違いでしょう。そも、拙者に客人のあるはずが御座いません。」

「いいや、確かに深川狭霧を探していた。この名前が二人といるかい。ともかく、何か切羽詰まっているようだったから、早く行っておやり。」

「いやしかし、」

「狭霧兄ちゃん!」

 甲高い音がした。そちらを見たくはなかったが、反射的に見てしまった。

 案の定、宿に置いてきたはずの童二人がそこにいた。

「お前ら、何故ここへ来た!」

「宿のひとが教えてくれた!」

 言うや否や、二人は狭霧に纏わりついた。

「やめろ!」

「だけど狭霧兄ちゃん、十日も来ないんだもん。」

「今後一切付きまとうなと言っただろうが。」

「そんなのあたしら聞いてませんー。」

 さわは、ねえ、と、狭霧の足元に引っ付いている音弥に問うた。

 こうなると狭霧は振り払う気も失せて溜息を一つ吐いた。

「お前、宿の仕事はどうした。」

「別に怠けてるわけじゃないよ。宿のひとがぜひ会いに行っておいでって…どうしたの?」

 狭霧は頭を抱えて蹲った。その上に音弥おとやがのしかかる。

「頼むから、頼むからこれ以上俺に纏わりつくのはやめてくれ。」

 そう言われて、意外なことに爽は少し困った顔をした。

「それは無理だよ。」

「何故だ。」

「あたしらは狭霧兄ちゃんについていくって決めたんだもん。だから、そういうことだから、離れられないじゃないか。」

「…意味が分からん。」

「分かってよ。別に飯たかろうとか情けがほしいとかじゃないんだ。ほんとうに、ついていかないといけないって、何かが言っているような、そんな感じなの。」

「……。」

「勝手にいなくならないで。あたしらが分からないところに、消えないで。」

「……。」

「…音弥が声もあげずに泣くんだ。お願いします。」

 この童らしくもない、しおれた声だった。音弥が狭霧から降りて、姉の顔を覗き込んだ。

「絶対に帰ってきて。狭霧兄ちゃん。」

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千年の満月 康平 @katakura

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