第十七霊 憂鬱

「ああ、憂鬱ゆううつだ、ゆううつって言葉わかるか優希さん」


「それはわかるよ、意味の説明は難しいけど。何が憂鬱なの」


「憂鬱な気分にも説明はできないよ」


 辞書で意味を調べると、気分が晴れ晴れとしないこと。と出てくる。こういう気分になるときは、必ずしも自分に関連した出来事で暗くなってるとは限らない。


 自分に直接関連していなくても、自分の好きなものや関心のある物事に対して、何かもやがかかって見えるとき、こんな気分になる。取り越し苦労ぐろうに終わることもあるし、振り返ってみればたいしたことなかった話でもこんな気分になったりする。


「あああああああ」

「まあまあ、落ち着いて」


 僕を悩ませるものは何だろう。とても巨大なようで、小さいようで。目に見えるような、見えないような。


「気晴らしに何かしようかな」

「何かって?」

「ここは理科室だ、何かあるだろう」


 おもむろに立ち上がり、実験器具などを眺めた。授業で使われる第二理科室にはないようなものがあったりしないだろうかと適当に探した。


「あ、天秤てんびんだ、懐かしい」


 上皿天秤うわざらてんびん。これ去年使ったっけな。小学生のときだっけな。意外とデリケートに扱わなきゃいけないんだよね。分銅ふんどうとか薬包紙やくほうしとか今見るとなぜか可愛らしい。本当にちょっとした思い出が詰まってるな。


「ねぇ、ちょっと、あまり触らない方がいいよ」

「触ってないよ、見てるだけ」


 そう、ガラスケース越しに見てるだけ。自分みたいな中途半端な理科部員が触っていいものではないだろう。でも何だか、去年までいた先輩たちみたいに実験とかしてみたいなぁとか思えてきた。今更だけど、液体を調合させたり、顕微鏡けんびきょうを覗いたり。帰り際に先輩たちを見てちょっとした憧れがあった。でもいざやってみたら、面倒なことがあったり自分には向かないことかもしれない。だいたい、普段の理科の授業は苦手だし。


「ふう」

「すぐ戻ってきたね」

「自分にはこの椅子があればそれでいいよ」


 優希玲子もいるし。


「なんて思うわけないだろ」

「え、椅子だけじゃだめなの」

「あああああああ」


 心の言葉が漏れることは本当に増えた。


「それにしても優希さんはアレだな」

「アレとは」

「よくそんなやる気満々の格好で何もしないな」


 優希玲子がセーラー服に白衣を羽織ってるのはこれまで書いた通り。しかし、優希玲子が何かの実験に励むような姿は一度も見たことがない。


「何もしないって、何もできないし」

「まぁそうか、でも僕を怒ったりもしない」

「怒るって何を」

「理科部員なのに何もしない僕を」


 自分で言ってて気づいたが、僕は優希玲子が見えるし話せるし、気分悪くなったりもしない。だけど僕以外の部員は、卒業した先輩たちを除いて気分が悪くなったと言って(立ち聞きして)出ていった。なのに、僕だけ何もないのは変だ。依怙贔屓えこひいきだ。


「何もしなくてもいいじゃない」

「え」

「何かに熱心になる気持ちが、ときに暴走を呼ぶこともあるし、間違いを犯すこともある。でも夢人くんはきっと、ギリギリのところで踏ん張れる」


 思わず、ダメ人間になりそうな話だなと思いながら聞いていた。


「だって夢人くんは、夢人くんは……」


 ん、何だ。やっぱり自分は優希玲子にとって何か特別な人間なのか。今日まで秘密を隠していたんだな、優希玲子。ついに明かすんだな、優希玲子。思えばこれまで疑問がたくさんあったんだ優希玲子。なるべく聞くにしても踏み込み過ぎないような部分もあったんだ優希玲子。というかお前がしらばっくれてたんだぞ優希玲子。何かと都合がいいんだよ優希玲子。と、心で唱えた間に一秒も経っていない。


「夢人くんは、本当に、何もしてないに等しい人だから」

「えええええええ」

「幽霊的な私に、何もしてないに等しい夢人くんは、いいコンビだよ」


 僕は選ばれた人というわけではないのかもしれない。ただ、何もしてないに等しい人だから、幽霊という何もできない存在と分かり合えたのかもしれない。って、ちょっと待て。僕だって宿題とか小説の構想を練ったりとか色々してるぞ。何もしてないことはないぞ。何もしてないことは、ないぞ。ああ、だから何もしてないに等しいのか。


「うえーん」

 泣き真似の一つでもしたくなる。知りたくなかったこともある。今はもう憂鬱な気分というより、それを超えて清々しいくらいだけど、どこかにかかったもやはまだ見える。むしろ、きりになったような。


「このコンビ、大丈夫かな」

 そう僕が呟くと、優希玲子は優しく目を逸らした。

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