第三霊 命

「たまたま名前がそうなっただけです」

「たまたまって、自分で名付けたんでしょ」

 優希玲子はやはりなかなか強情ごうじょうらしい。


「いや、略したらそう読めますけど、そんなふうに読もうとした人に初めて会いました」

 そりゃ、自分の存在に気づいたのはあなたが初めてと言ってたから……。それにたまたまではないと思う。


「もう幽霊でも幽霊じゃなくても」

「幽霊じゃありません」


 どうしてそこにそんなにこだわるのか。というか、その前に話を聞いてほしい。


「とりあえず宿題やっていいですか」


 この突然目の前に現れた女性は、知らない内に僕のルーティーンを壊してる。授業が終わると第一理科室に行って黙々と時間を潰す。帰る。それを部活と呼ぶ。たいしたことないルーティーンだけど、僕にはこの日々が安心だ。何も、悪いことをしてるわけじゃない。学生なんだから、と厳しい声を持つ人もいるかもしれないけど、そんなこと気にするために……。


 語るには若すぎるけど、何か価値あることをすることが生きることだと言うなら、僕はたぶん生きられない。そんな気がしていた。


「どうぞ」

 優希玲子はついさっきまでそれなりに白熱した議論をしていたのに、すっと背中を向けて窓の向こうを見てる。僕は数学の宿題を始めた。


 十八時のチャイムが鳴る。基本的な部活終了時刻だ。これより長く活動する部活もあるし、これより早く帰る僕もいる。でも今日は自然と長居してしまった。


 このあとは何気なく立ち上がり、先輩たちに軽く礼をして場を去りたいのだが、やっぱり目の前に女性が見える。夕日の前に座ってる。


「あの、帰ります」

「うん」


 背を向けたままの挨拶。この幽霊的な女性はいつからここにいたんだろう。どうして僕に見えるようになったんだろう。疑問は色々とあるけれど、考え過ぎたら立ちくらみしそう。だって幽霊と会話してるんだぜ。はっきり姿が見えるんだぜ。でも手と脚は見えないんだぜ。何だそれ。


 家に帰って、布団に入る頃。やっぱり今日の不思議な出来事を思い出す。明日もいるのかな、見えるのかな。ひょっとして、あれは自分の妄想や幻覚なのかな。だから幽霊ではないのかな。もし、また明日会えたら聞いてみよう、なんて思う。こんなこと考えていたら目の前が真っ暗になった。



 第一理科室の鍵を開けるのは一年生の仕事というか。先輩たちより職員室が近かったり、授業時間が短かったりして自然とそうなる。第一理科室は普段授業では使われていない部屋だから、理科部が開けようとしない限り開かない。だから、これが僕の唯一理科部らしい仕事というか。あとたまに掃除もするけど。不真面目で真面目なのが僕の個性。


 さあ、古めかしく横に開けるときガタガタ言う扉の前に。鍵を差し込んで何回か右か左に回して音が鳴るのを合図に引き抜く。昨日の幻はいるだろうか。


 やっぱり、一人ぼっちの気配が漂う。実験台も黒板も試験管もスポイトもプレパラートもきっと無機質。でもそれがいい。今日も僕はしっとりした仲間たちに会いに来た。はずだった。


「わっ」

「うわあっ」


 足を踏み入れた瞬間だった。冷たい孤独が命を持った。命なきものの力によって。というか、おどろかさないでよ。

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