わんこは、五十より先を数えられない。

 いつの間にか、両目が開かなくなっていた。

 片目は、狼男の指が、長く鋭い爪と一緒に飛び込んできて、押し潰されたことは覚えている。

 しかし、片目はいつの間に見えなくなったのだろう。

 暫くしてから、それは目に血が染みているからだと気づいた。

 はっ、はっ、はっ。と、切れた息が耳に届く。

 自分の息かと思ったが、それは狼男の粋だった。胸に突き刺すような一撃が入る。


「ぐむっ……!」

 口から血が出る。まだ出るのか。

 自分の胸に突き刺さっている腕を両手で掴んで、背負い投げの要領で、狼男を地面に叩きつける。派手な音がして、息の音はしなくなった。

 これで、何体目だったか。

 十? 二十? 三十?

 もしかしたら、五十までいっているかもしれない。

 ――僕、それ以上は数えられないんだけどなあ。

 五十の次ってなんだっけ? とか、どうでもいいことを考えながら、ロッヅは両腕をだらんと垂らした。もう、構えるだけの元気も残っていなかった。

 人のようで、獣のようで。

 人ではないようで、獣ではないようで。

 麦色の体毛は赤色のペンキをバケツで被ったみたいに、体にべったりと張りついている。腕や足にはたくさんの爪痕と噛まれた痕。切れ切れの息を吐く口からは、だらだらと血が溢れている。どうでもいいことでもいいからなにか考えていないと、すっと気絶してしまいそうだった。

 獣の臭いが近づいてくる。

 臭いのする方へ向けて、拳を振るう。拳が当たった感触。肉がぐちっ。と音をたてる。

 ロッヅは拳を開いて、それを掴むと自分の元に引き寄せ、口を大きく開いて噛みついた。口の中で骨が折れる音がして、獣と人の声が混じった悲鳴が聞こえた。しかし、ロッヅは噛みつきを緩めず、再び

拳を振るった。

 肉にめり込む感触。

 抵抗がなくなり、ロッヅは首を振って投げ捨てると、怒りをそのまま口から吐き出しているように吠えた。

 次、次、次、次、次。

 全員許さない。

 狛谷を傷つけた全員を許さない。

 あのデブは、一番許さない。


***


「なかなかやるね。うちの奴らがここまでやられるとは。ここまでやられるのが、うちの奴らとは」

 狛谷柴が捕まっている檻の前で椅子に座っている狛谷厚真は、若干呆れたように言いながら、部屋を見回す。

 廃墟の部屋の中は、四肢と死屍が積もり積もっていた。

 事切れて人の姿に戻っている狼男を踏んづけ、狼男が唸り声をあげている。

 中にはロッヅに興味を示すことなく、事切れた仲間の肉を食う狼男もいる。

 それを一瞥した厚真は深くため息をつく。


「『怪異籠絡かいいろうらく』も安くないんだぞ。あいつらを探す手間を考えろっていうんだ。まあ、憑依型な分、人柱を用意するだけでいいんだが」

「人柱……?」

 狛谷が檻につかまりながら、疑問の声をあげた。

 その声は少しばかり震えている。

 目は暴れているロッヅを見ていた。

 厚真はこめかみを指でポリポリとかきながら、にまぁと笑う。


「んー。なんてことはない。そこにいる彼らは、元はただの人間だった。ということだ」

「…………は?」

「知らないんだね賢くない子だ、可愛い子だ。いや、兄さんが隠していたのかもしれない。そうだそうだ、きっとそうだろう」

 ぐりん。と頭だけを動かして、厚真は狛谷の方を向いた。


「狼男というのはね、基本的に『満月を見ると狼に変身する人間もどき』として描かれることも多いけれども、『憑りつかれて狼男となってしまう』というタイプの描かれ方もされているものもあるのさ。つまるところ、日本風に表現するとするならば、悪霊に憑りつかれた。憑りつかれたのが悪霊。ということさ。狐憑きとかはさすがに知ってるよね?」

 知っている。

 えっと、だから、えっと。

 つまり、そこらに転がっているのは、あそこで食べられているのは。化物ではなくて。


「うっ……げ、げげっ、げえええええっ」

 喉の奥からせり上がってきたそれを、狛谷は我慢することなく吐きだした。

 びちゃびちゃ、と音をたてる。つん、とした酸っぱい臭いが鼻の奥からした。


「げえっ、げえっ……」

「ああ、辛かったかなあ。きつい光景だったねごめんごめん。化物ならともかく、人が死んでいると思うと、すごくなんだか、嫌な気分になるよねぇ。嫌な気分は、人が死んでいるんだもんねぇ」

 足に力が入らずに崩れ落ちる狛谷に、厚真はしゃがみ込んで、彼女の口周りをハンカチで拭く。

 背後からは獣の唸り声が何度も響き、その度に硬いものに叩きつける音や、肉が裂ける音が続く。


「でも大丈夫、もうそろそろ終わるから。もうそろそろ終わるから大丈夫だからねぇ」

 獣の唸り声。

 ぐしゃりと潰れたような音がして、狛谷は口の端から白い糸を垂らしながら、面をあげた。

 一匹の狼男が倒れていた。

 綺麗だった麦色の体毛は、もはや見る影もなく、真っ赤な血に塗れていて、べっとりと体に張りついている。

 両目は見えていないのか瞑っていて、片目から血が流れている。体中どこを見ても、噛み傷と刺し傷だらけになっている。

 ぐったりと倒れている狼男は動く気配もない。胸が上下しているから、多分、生きてはいる。

 狼男が――ロッヅ・セルストが、倒れていた。


「なかなか手こずらせてくれたね。おかげでこちらの手札が減ってしまった。減ってしまったのが、私の手札だ。別に、あの兄さんを相手に、沢山の手札は必要ないかもしれないが、たくさんあることが重要なんだよ。重要なのが、たくさんあることなんだよ。たくさんあることはいいことだ。たくさんあるだけで、人はすごいと思ってくれる」

 立ち上がった厚真は、その太い体躯を揺らしながら、倒れているロッヅの元に近寄る。

「一よりは二だし、二より三だ。どれだけ一の質が良くても、三の量には敵わない。そうだろう?」

 きみは私の五十を消した。

 きみを一足した程度では、数としては釣り合わないのだが、まあ、それでも、一増えるだけいい。

 それにそうだ。きみは憑依の狼男ではなく、変身種族シェイプシフターの、正真正銘の人狼だ。

 種類が違う。使役する種類が一つから二つになる。

 それは、素晴らしいことではないか。

 そうだろう?

 厚真は、ロッヅの顔に向けて人差し指を伸ばした。

 なんだか変な――気持ち悪い気というか、雰囲気が、厚真の指の先から感じられる。

 


「ロ、ロッヅくん! それに触れたらダメ!」

「大丈夫だよぉ。ちょっとちくりとするだけだから。注射みたいなものだ。まあ、注ぎ込むのは幻覚剤とかそういう類のものかもしれないけど……っ!?」

 檻を揺らしながら、狛谷は思わず叫ぶ。

 厚真は頭だけ振り返って、脂の載った気色の悪い笑みを浮かべたが、一瞬で、苦悶の表情に変わった。

 脂の載った笑みが、脂汗に変わり、絶叫しながら、ロッヅに向けていた手を、もう片方の手で掴みながら、頭の上に掲げている。

 いや、『向けていた手を』ではない。

 なにせ、その手は、手首から先は、無くなっているのだから。

 ぶしゃあああ、と、まるで噴水のように、手首から血が噴きだす。噴水の真ん中で、小太りの男は顔を真っ青にしながら、踊り狂っている。

 のそりと、その背後で狼男が立ち上がった。口からべっと、手のひらのようなものを吐きだす。


《GRRRRRrrr…………》

 鳴き声。喉の奥を震わしただけのような、獣じみた声。

 ロッヅの姿は、人とも獣ともつかない中途半端な姿は、獣の方へと近づくように、波打ちっている。


《RRRAAAAAAAA!!!!》

 再び、吠える。

 部屋全体がビリビリと震えるような声に、残っていた狼男たちは、一斉に、ロッヅにめがけて飛びかかった。

 それをロッヅは、一匹一匹、乱雑に、払いのけるように、適当に、殺した。

 退治したとか、倒したとか、撃退したとか。

 そんなんじゃなくて。

 殺した。

 憑りつかれている人を、殺した。

 そうとしか、表現できなかった。

 そうとしか言えないぐらいの、残酷さだった。

 ロッヅは、ゆっくりと狛谷の方を向いた。

 狛谷の口から、自然と、ひっ。と小さな声が漏れた。

 学校の授業で昔、狂犬病にかかった犬の映像を見たことがある。

 目はうつろで、挙動不審。歯茎が見えるまで牙をちらつかせて、止まらない涎をだらだらと垂らしながら、動いていても動いていなくても、とにかく近くにあるものに噛みついていた。

 今のロッヅは、それにそっくりだった。

 のそりのそりと近づいてきたロッヅは、狛谷が捕まっている檻を、両手で掴んだ。

 指は細く、爪は長い。腕には引き締まった筋肉がついている。

 掴まれたら痛そうだ。苦しそうだ。死んでしまいそうだ。

 鉄製の檻はぎちぎちぎち、と悲鳴をあげる。檻の軸が少しずつ歪んでいく。腕がなんとか通るぐらいだった隙間が、人の体一つぐらいなら通りそうになるまで広がっていく。

 ロッヅの上半身が、その隙間から檻の中に入ってくる。

 にゅう、と手を伸ばしてきた。

 腕は傷まみれで、体毛は血でべったりと張りついていて、指には肉がひっついていて、爪の先には――。


「い――いやっ!」

 狛谷は。

 思わずロッヅの腕を払いのけてしまった。

 払いのけて、狛谷はロッヅから逃げるように、尻もちをついたまま、後ずさった。背中が檻にぶつかる。

 ロッヅの目は、払いのけられた手のひらを見ている。なんだか少し、悲しそうな目をしていた。

 あ。と、狛谷は自分がやってしまったことに気づいた。


「ご、ごめん。ごめんロッーー」

「この、犬畜生。人間に歯向かうか。俺に歯向かうか。操られていればいいんだよ、お前らなんてよぉ」

 言葉を遮るように、向こうから厚真の声がした。

 ロッヅは狛谷から視線を外して、振り返る。

 その目は既に、敵を見る目に変わっている。

 殺すべき相手を見る目に変わっている。


「犬と人では、人の方が上だ。確かに、嗅覚や運動神経においては人間の方が劣る。劣ってしまうのが人間であるのだが、総合的な、合計点では私たちの方が上回っている。体育だけが出来ても、意味はないんだよぉ」

 噛みちぎられた手首をもう片方の手で掴んで止血している厚真の口には、短い鉄のパイプみたいなものが咥えられている。

 笛、だろうか。


「だからこうして、せっかくの長所すら、利用される」

 ふっと、厚真は短いパイプに息を吹き込んだ。

 しかし、なにも起きない。笛のようなそれからはなにも聞こえなかった。

 狛谷の頭の上に、?マークが浮かぶ。が、厚真の表情は勝ち誇ったものであり、なにかを仕掛けてきたのは確かである。


「……ねえ、ロッヅくん」

 狛谷は、ロッヅに声をかける。ロッヅは体をふらりと揺らしてから、倒れた。

 両耳を手で押さえつけるように塞いで体を痙攣させている。まるで、黒板を引っかく音をヘッドホンで延々と聞かされたみたいな反応だ。


「なに?」

「犬笛って言うんだけどね」

 くつくつくつ、と笑いながら、厚真は近づいてくる。

「犬の調教に使うんだ。人には聞こえず、犬には聞こえる周波数の音を出す。これで、犬を調教したり、罰を与えたりするのさ」

 罰。つまりロッヅの耳には、ここまで嫌がるほどの音が聞こえているということか。

「まったく、まったくまったくまったく。酷い話だよ。せっかくだったのにさぁ、準備もしておいたのにさぁ……」

 厚真は倒れているロッヅに近づくと、その腹を思いっきり蹴飛ばした。

 何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。

 蹴って。蹴って。蹴って。蹴って。蹴って。蹴って。

 踏んづけて。踏んづけて。踏んづけて。踏んづけた。


「俺に歯向かうな! 俺の腕を噛みちぎりやがって、この犬畜生が! 人間様に歯向かってんじゃあねえよ!!」

 蹴られ踏まれ潰されるたびに、ロッヅは苦痛の声をあげる。


「お前のせいで、お前のせいで、お前のせいで、滅茶苦茶だ! 娘を捕らえ、狼男を引き連れた状態であの兄を待つ! しかしこれではただの小物だ! 操るものもなく、実力を示すものもない。自らの実力を見せつけれない! お前のせいで台無しだ! これではただの小物ではないか!!」

「ああ、そうだ。お前は小物だ」

 声が聞こえた。

 ロッヅを蹴り、声も息も荒くなっていた厚真は、びくりと体を震わせて、振り返った。

 部屋の入り口に、白装束が立っていた。

 まだ数度も、もしかしたらこれが初めて着たのかもしれない、しわのない白装束はところどころ血が染みついている。

 手に持った赤みかかった日本刀の切先を厚真に向けた。


「お前の方が、私よりも優れている。そんな風に思っていた私が、愚かなように思えて仕方ないよ」

「……やあ、兄さん。久しぶり。その恰好、似合ってるよ。似合ってるのが、その恰好だよ。まるで七五三だ。着せられている感じがよくでている」

 厚真はにひ。と粘着質な笑みを浮かべる。

 対して狛谷は、十石の姿を見て少しばかりほっとしていた。

 そりゃあまあ、ポンコツな父親ではあるが、助けであることは変わらない。

 ――ん。

 あれ? なにか忘れているような気がする。

 なんていうか。なんというか。

 十石が助けに来ること自体、喜ばしいことではなかったような気もする。なんだっけ。


「来てくれて嬉しいよ。兄さん。予定は狂ってしまったけど、狂ってしまったのが予定だけど、もう仕方ない。どうしようもない。兄さん、俺はあんたのことが大嫌いだ。長男だというだけで、たかだか二年三年早く産まれただけで、俺から憧れを奪った。それが許せなかった」

「お前が陰陽師の仕事に、奇妙なほど憧れを抱いていたのは知っていた」

 十石は厚真に言い返す。


「だが、今となれば、この状況を見れば、俺が陰陽師に選ばれたのは、早く産まれたからだけではない。と、そう確信できるよ。まあ、消去法であるのは確かだろうが」

「兄さんよりも、俺の方が実力があるのにか?」

「どれだけ実力があろうと、禁忌の術を使い、街に被害を与えている時点で、陰陽師にはなれない。陰陽師は、正義の味方であるべきだ」

「俺は、正義だ」

「だから、陰陽師にはなれないと言ったんだ」

 自分が正しいかどうかぐらい、悩んで然るべきだ。

 それが人間だ。

 それができないのであれば、正義の味方――誰かの敵なんて、やってられるか。


「己の芯。軸の話なら、また、話は別だがな。そっちは悩まない方がいい」

「……は昔からそうだ」

 厚真は、十石を睨みつける。


「昔から、弱い癖に、出来損ないの癖に、説教臭い。そんなあんたが、俺は、嫌いで、だから、こうして、あんたを、あんたの周りから、壊してやりたいと、そう、思っていた!」

 十石はポケットの中から、サバイバルナイフを取りだした。

 ポケットの中に隠せるとは思えないほど、大きく、厚く、人を殺せそうな形をしている。

 厚真はそれを、感情のなすままに、勢いよく、狛谷の方へと振り下ろした。

 ――俺は兄貴を否定したい。

 ――兄の前で柴ちゃんを殺そうかなと思って。

 ――愛しの娘を目の前に、目の前の愛しの娘を助けることすらできない陰陽師になんの意味があるだろう。愚かだが実直ではある兄は、一体どうなってしまうだろうねぇ?

 そういえば。

 そんなことも言っていた。

 まるでとばっちりな、意味不明な殺害予告をされていた。

 確か、本来なら、狼男たちに食われる予定だったらしい。

 じゃあ、サバイバルナイフに刺されるというのは、まだ、少しは、楽な死に方ではないか? いや、まあ、そもそも、死ぬのは変わらないんだけど。

 動けない。足が竦んでいる。立ち上がれない。

 十石は少し離れたところにいる。助けは間に合わない。

 ここで終わり? 享年、十一歳?

 思わず目を瞑ってしまう。瞑ったところで、刃は止まらない。

 ざくり――と、音がした。

 顔に熱い水がかかる。ねとぉ、とした粘着質なそれは、多分、血なのだろう。


「……あれ?」

 しかし、いつまで経っても――痛みは来なかった。

 恐る恐る目を開いてみる。

 自分の目の前に、毛むくじゃらが立っていた。

 ロッヅだ。ロッヅ・セルストだ。

 狛谷に刺さるはずだったサバイバルナイフは、彼の肩を貫通していた。

 ぽたり、ぽたりと、切先から赤い赤い血が滴り落ちる。


「――なぁあ!?」

《GRRRRRrr!!》

 驚きの声を上げる厚真を傍目に、ロッヅは喉を鳴らしながら、自分の肩に突き刺さっているサバイバルナイフを掴み、引っこ抜いた。

 ぐちゅ。という音と共に、肩から飛び出していたナイフは、体の中に消え、ロッヅはナイフを、バラバラに、粉々に、握り壊すと、その握った拳で、厚真を思いっきりぶん殴った。

 小太りの体が、宙を舞った。

 まるで、サッカーボールか蹴鞠みたいだった。

 ずでん。ずでん。と地面を何回かバウンドしたあと、埃に塗れた顔を厚真は持ち上げ、憤怒の表情を浮かべた。


「この、クソ! 犬畜生! 何度邪魔をしたら気が済むんだ!!」

 懐から厚真は犬笛を取り出した。

 言うことを聞かない狼男への罰。もしくは言うことを聞く狼男への伝達。

 どちらの意味で厚真が笛を吹こうとしているのかは定かではなかったが、厚真は笛を吹こうとした。しかし、その直前で、その笛を横に立っていた青年がひょいと取り上げた。


「ああ、なるほど。そういうことなんだ」

 厚真の隣に、いつの間にか人が立っていた。

 白髪交じりの黒髪。白い肌。クマのある目。長身痩躯。死人のような死人。

 その人に、狛谷は見覚えがあった。

 不楽ふらく

 ゾンビ。フランケンシュタインの化物。

 奇っ怪なるもの。

 それは、手に持っている笛を興味深そうに眺めていた。

 まるで、顕微鏡みたいな目だった。

 見てはいるんだけど、それの正体を確認してはいるんだけど、それ以上のことはない。

 綺麗な、とか、汚い、とか。そういう言葉が一切浮かんでなさそうな目だった。「ああ、笛だ」としか思っていなさそうな目だった。

 厚真は、隣にいつの間にかいた不楽に驚いているのか、しきりに瞬く。


「さっきから、高い音がすると思ってたんだけど。この笛からしていたんだ」

「……聞こえてるのか?」

「ん。ああ、そうか。そうなんだ。人には聞こえない音なんだ。これは。僕はどうやら聞こえるみたいだけど。どうしてだろう。あの人の考えていることはよく分からないや。僕は人に似せて造られたんじゃあないのか?」

 考えていることが分からないのは、あのヴィクター・フランケンシュタインだけではないような気もするのだが。

 ともかく、不楽が笛を見ながら首を傾げている横で、厚真の表情が変わっていくのを、狛谷は確かに見た。

 そう、それはまるで。吹っ飛ばされた先に、偶然たまたま、ロケット砲があるのを見つけてしまったみたいな。

 厚真は素早く立ち上がると、不楽の額に指をあてた。

 指の周りには、あの、嫌な気配が漂っている。


「『怪異籠絡』! お前は俺の支配下におさまり、あいつらを殺せ!!」


 とまあ。

 そんな風に叫んでみたものの。

 不楽の表情には、まるで変化はなかった。

 むしろ、変化があったのは厚真の方である。

 勝ち誇った表情から、みるみるうちに、極寒の冷凍庫の中に裸で突っ込まれたように、真っ青に変わっていく。


「……なん、なんだよ。お前」

 厚真は震えた声で言う。

「なんでそんなになにもなくて、なんでそんなに適当に分からないままになにかがあって、なんでお前は、平気な顔をしているんだよおおお!!」


「どうしてって」

 不楽は、なにも感じていない、なんにも思っていない平坦な口調で。

 初めから用意されていたような答えを口にした。


「そういうものだから」

 そういうものだから。そういうものなんだ。

 それ以上でも。それ以下でもなく。

 考察めいた理由なんてものはない。


「……ひ、ひあああああああああっ!!」

 厚真は。そんな不楽から逃げるように、地面を二つの脚と一つの手で叩くようにしながら、部屋の外へと走りだした。


「あ、待て!」

 十石も遅れて走り出す。

 騒がしかった部屋も、再び静かになる。

 もう、狼男の姿はどこにもない。


「……よかった」

「ロッヅくん!? ロッヅくん!!」

 それを確認したロッヅは、ふっと意識を失って倒れて、人間の姿に成った。心配そうに見下ろしている狛谷の姿を、最後に捉えながら。


***


 暗かった空が、少し明るんできた。

 長かった夜は終わり、そろそろ朝になろうという時間帯。

 雀が鳴くよりも少し早い、まだ人の気配が外からしない時間帯に、小太りの男が路地裏を歩いていた。

 肩を壁にぶつけて、擦るようにしながら、歩いている。

 左腕は、手首から先が無くなっていた。

 引き千切られたように見える手からは、ぽたぽたと血が垂れていて、男が歩いてきた道を示している。

 顔からは血の気が引いている。

 それは、体に血が足りない。という意味合いでもあるし、見てはいけないものを見てしまった。という意味合いでもある。

 口を殆ど動かさずに、ブツブツとなにやら呟いている。


「ふっざけんなよ、なんてもんを連れて来てんだよあの野郎は……」

「俺とあんたの問題だろうが……」

「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな……」

「次は、うまくやってやる。うまくやるのが、次だ。今度こそは、俺の方が出来るんだと兄さんに」

 カツ。という音がした。

 獣の爪が、アスファルトを叩く音だ。

 厚真はブツブツと呟くのをやめ、音のした方を向いた。

 暗い暗い影の中から、それは姿を現した。

 銀色に近い白い毛並み。

 しなやかな筋肉。

 大きな体躯。

 半開きの口から覗く、太い牙。


「……送り犬か? それとも、迎え犬?」

 この街出身である厚真は、もちろん、守り神と祟り神についても知っていた。

 その名前を呟いて、厚真は後ずさった。

 目の前にいる送り犬、もしくは迎え犬の目が、明らかに、敵対の目をしていたからだ。


「おい、おい。ちょっと待てよ。俺は正義の味方だぞ。陰陽師の家系の男だぞ。そんな目をするなよ、なあ、確かに、お前らの仲間を一匹か二匹殺してしまったかもしれないが、それはお前らが俺の邪魔をしたからで、それに、俺が殺したわけじゃあなくて、あの狼男どもが」

 守り神だろうが祟り神だろうが。

 送り犬だろうが迎え犬だろうが。

 どちらであっても、結果は変わらない。

 この街に仇なし、人々が安全に家路を歩くのを邪魔する存在は。

 正義であろうと悪であろうと。

 皆殺し。

 犬は、地面を蹴り、厚真に喰らいついた。

 男の絶叫が、街に響いたが、それはすぐにかき消された。

 太陽が昇る。

 雀が鳴く。

 夜は終わった。奇っ怪なるものたちの時間は、ようやく終わりを迎えた。

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