九 夜の帳下りて
富山は、おおむね上限の月が少し欠けたような三日月形を描く県だ。北に富山湾があり、それに面した富山平野が県北部から中部に広がる。そして平野部をぐるりと囲むように、西、南、東とそれぞれの方角に山脈が連なっている。
南側の飛騨山脈の延長として、呉羽丘陵が富山平野の中央を分断するように突き出しており、ここを境として西側を呉西平野、東側を呉東平野と呼ぶ。山地がWの字型になっていて、左右のVの中にそれぞれ東西の平野が入っている、と言えばわかりやすいだろうか。
家永たちが大学で呼び出した蜘蛛は、石川県から富山県へと東進したが、行く手を隠れる場所のない呉西平野に阻まれ、南回りに平野を迂回すると思われた。理渡もそう考えており、このまま立山を目指して進んだとして、恐らく最短ルートである呉羽丘陵南部から呉東平野南部の山地に至るだろうと予測した。
蜘蛛が東進するに際し、必ず移動経路を制限されるのが河川を越える時だ。空を飛びでもしない限り、富山平野に流れ込む大小幾つもの急流をただ渡ることはできまい。
渡河ポイントを考えれば、いかに広い飛騨山脈といえど自ずとルートは絞り込める。その付近が蜘蛛の出現予想地点というわけだ。
俺たちは呉東平野南部の神通川を最終阻止線とし、まずは呉西平野に流れ込む庄川流域を第一の接触場所に選んだ。おそらく蜘蛛はまだここに到達しておらず、最初に遭遇できる可能性があったからである。
庄川沿いの宿をとり、そこを当面の活動拠点とすることになった。
理渡に言われるまま車を駐車場に止めたものの、予約なしで泊めてもらえるのだろうかと、宿泊荷物を降ろしながら思ったが、中に入ると宿の人が出てきて、
「二名様でお越しの、真舘様ですね」
「はい」
などと話は進み、三分とかからず部屋の鍵が手に入った。
「おい」
すたすたと音を立てずに先へ行こうとした理渡を呼び止める。
「予約を入れていたのか?」
「ええ、そうです」
当然でしょう? と言いたげな表情を向けてきた。
「なら早く言え。それから疑問を一ついいか」
「部屋にベッドは、ちゃんと二つあるそうですよ」
「うるせえ。宿の人となんで平然と会話している、今おまえ姿が見えているのか?」
以前、大学に現れた時は坂井には見えなかったはずだ。
それとも坂井の目が節穴だったか。
「あら。私が見えないと、あなたが困るでしょう」
「世間体的にな。そうじゃなく、普通の人間にも見えるのかって話だ」
くすくす、と理渡は笑った。
「私、どちらかというと、人間の血のほうが、多いですから。それとも、真舘さんだけに、見えていたほうが、良いかしら」
「おまえ俺にすら見えない時あるだろ」
随分といい加減な奴だ。人間が神の力を持て余したら、こうなるのだろうか。
あるいは神というやつに人間の尺度で常識を問うほうが間違っているのかもしれない。
行楽シーズンというだけあり、部屋の窓に広がる庄川と対岸の紅葉の景色は見事だった。
今夜にもその山中に分け入り、暗黒と対峙せねばならないという予定さえなければ、のんびりと湯治を楽しめただろう。
部屋に備え付けのテーブルの上に地図を広げ、俺と理渡は向かい合って座る。
「真舘さんは、どう思われます」
理渡は、蜘蛛の渡河ポイントについて問うてきた。
「俺の予想ではここだ」
ネットから拾ってきた航空写真をスマートフォンに表示し、地図の上に置く。
「祖山ダム。ヤツが他のダムや橋、浅瀬を通ることも考えられるが、ここは予想進路上にあって、なおかつ渡る場所が多い。写真を見ると、普段はダム下から水力発電所まで地下を通っているようで、ダムと発電所の間にあるこの湾曲部には水がほとんどない。おそらく増水時には川になるんだろうが、そうでなければ川原が対岸まで続く天然の渡り場になる」
祖山ダムの真西には呉西平野の南端が、真東に直線を引けば立山周辺に至る。まさに最短ルートの途上だ。
「今は台風の季節だし、増水しているかもしれないから、確実とは言えないが……」
「いえ、おそらくここでしょう」
理渡は庄川の下流と上流を順に指差す。
「下流の小牧ダム、上流の小原ダムでは離れすぎています。仮にこれらへ向かうとしても、それだけ時間がかかります。これまでの移動距離を鑑みて、最初に現れる可能性が高いのは、この祖山ダム近辺で間違いないはず」
「なるほど」
「他の橋や浅瀬は、車ですぐ移動できる距離にありますから、いざという時はそちらへ急げば、間に合うかと」
「どうやってそれを知る?」
「罠を、しかけます。まず先に、これらの場所へ立ち寄って……」
そうして俺と理渡は、蜘蛛に対する作戦を詰めていった。
宿を出るのは夜半過ぎ。それに備えて、打ち合わせの後、俺たちは各々入浴を済ませて仮眠をとることにしていた。
打ち合わせが少々長引いてしまったが、運良く宿の入浴開始時間とタイミングが合い、一番風呂と洒落こむことになった。もっとも、下手をすればこれが人生最後の温泉になるかもしれないと、充分にリラックスすることはできなかったが。
落ち着かないまま何度ものぼせては湯に浸かるを繰り返し、部屋に戻ると、理渡は既に浴衣姿のままベッドで横になっていた。水分を含んだ黒い髪は光を照り返し、その瑞々しさは確かに人間離れしたものに見えた。うつぶせになっているため表情は分からなかったが、俺が戻ってきても反応がなかったから、もう眠りについているのだろう。
奇妙な感じだった。あれほど非現実的なやつだと思っていたのに、こうして普通の人間と同じような姿を見ると、どちらが本当のこいつなのか、わからなくなる。
神と人。人と人ならざるモノ。
異質な存在同士の混血児。
理渡の中には、二つの異なる世界が混ざり合っている。それとも、こいつ自身の内世界においてさえ、そこには境界線が引かれているのだろうか。
神にして神にあらず。人にして人ならざる、少女。
昔の人間は、こうした存在を神と見なしたのだろうか。そんなことをとりとめもなく考えつつ、俺は自分の荷物から薬ビンを取り出し、ベッドへと腰掛ける。
久しく蓋を開けていなかった睡眠薬だ。記憶を封じられた後、使用する機会は絶えていた。再び全てを思い出した後も、夜間恐怖症が再発しなかったため、やはり手をつけなかった。
再発しなかった理由は明白だ。
かつての俺は恐れていたのだ。夜の闇に消えた恐怖が、再び俺のもとへ現れるのではないかと。夜の街を這い回り、犠牲者を喰らっているのではと。そしてその標的に、いつ自分が選ばれるのか、と。それこそが恐怖症の正体だった。
今は違う。今は、ヤツが俺を見ていないことを知っている。ヤツがいかなる存在なのか、なにを目的としているか、そして、それに対抗できる存在を知っている。
家永たちと交わした言葉を思い出す。
『妖怪はある意味、人間の精神安定のために作られた設定とも言える。夜道を歩いていて、急に何かに蹴飛ばされた。何が自分を襲ったのかわからない。これは怖いだろう? けれどそれが「妖怪の仕業だ」と言われたら、なるほどそうかと納得してしまう。人間にとって真に恐ろしいものは「未知」であり、それを消すための手段が名づけること、定義すること、すなわち「知ること」なんだよ』
まさしく、その通りだった。俺は敵を知り、己の恐怖の源を知った。
だが。
だが、知ってもなお、恐ろしい。
あんな化け物が、足元の地面の下、奥深くに棲みついているのだという。あまりに強大になったものは、人の手では殺せないという。そして、人間がこれまで信仰してきた神々の中に、そいつらと同じ世界の住人がいるという。
知識が、怖い。
知らなければ良かった。これまで生きてきて、そう思ったことは何度かある。尊敬していた人の恥部、クリーンだと思っていた飲食店の裏側、テレビでは報道しない紛争地帯に転がる死体。
その中でも、これは極めつけだ。もはや他の人間と同じ価値観は持てまい。
「知識、か……」
――知らないほうが良かった経験を記憶に残すことになる。だから、総じて知識と言います――
――それは、人の死体を見るより、誰かを自ら殺してしまうことより、なお恐ろしいもの。人が定めた倫理に対する禁忌ではない、生物としての人間にとって耐え難い、もっと根源的な恐怖――
その言葉の意味を、ようやく理解した。理解してしまった。
これは人を殺す知識だ。以前の理渡が、まったく語らなかった理由は、ここにある。
「……くそ」
気がつくと震えていた拳を、腹いせにベッドの布団に叩きつける。柔らかな布に包まれて威力は減衰したが、それが逆に癪にさわり、二、三度殴る。
そして、あ、と我に返る。横では理渡が仮眠をとっているのだ。
起こしてしまっただろうかと、横のベッドに振り向き、そして心臓が止まった。
理渡はうつぶせの格好で布団に沈みながら、その左目だけが、俺を見ていた。
絶句して何も言えない俺の視線と、湿り気をおびた長い黒髪の隙間からのぞく眼球とが、繋がり、固化される。
それは何秒ほどの長さであったろうか。
やがて理渡は蛇を思わせる動きで身をよじり、顔をこちらに向けて寝そべる姿勢になった。
「……いつから見ていた」
明らかに、今の物音で目覚めたということはない。衣擦れの音が聞こえなかったということは、それより前から、その眼は俺に向けられていたはずだ。
「眠れないのですか」
理渡は、俺の手の中にある薬ビンを見やる。
「いや。これから寝るところだ。逆に聞くが、おまえは何をやっている」
「眠れないの」
そう言って、しのぶ気のない笑い声で喉を鳴らす。
「ねぇ。今度は、真舘さんが、お話してくれませんか」
「俺が? 今度は?」
「だって、来る時は私ばかり、喋っていたでしょう?」
「それは俺が運転していたからだ。それとも安全確認をやめて、おしゃべりに付き合えば良かったか?」
「でも、私のことばかり話していたのでは、不公平です。次は、私が真舘さんに質問しても、良いでしょう?」
また妙なことを言い出してきた。いったい、いつから質疑応答が持ちまわり制になったのか。
「何が聞きたいんだ」
大したことは答えられない。俺は普通の大学生で、先祖に神様はいないし、実家の地下に遺跡も埋まっていない。ただの、人間だ。
理渡はそんな凡人の俺に向かって、冷たい問いを投げた。
「あなたは、なにをしたいの」
「……なんだと」
「あなたは、どうして、ここまできたの」
「どうして、か? それは」
「お友達の、仇を討つため? 自らの恐怖を、滅ぼすため? それとも、義憤にかられて?」
俺がここにいる理由。ここへきた理由。
「忘れ去った恐怖を、思い出したのは、なぜ?」
それは。
「あなたは。なにを求めているの」
それは……。
「俺は……」
言うべきか。言わざるべきか。
黙っていれば、一生バレることはない。
だが、最後に天秤を傾けたのは、胸にわだかまる罪悪感だった。
「……俺が、求めるのは……償うことだ」
罪の意識が口を開き、舌を動かす。
「あの本を……水竜の書を手に入れて、家永に渡したのは、俺なんだ……」
何かに突き動かされるように、俺は懺悔の告白をはじめていた。
「あれを見つけたのは、中国へ海外研修に行っていた時だった。最終日、丸一日が自由時間になって、俺は現地の古本屋を巡ることにした。そのなかのある店で、あれを見つけた。中身を見て、家永が好きそうだと思って、土産にしようと。日本に帰ってあいつに渡したら、予想以上に喜んで、翻訳まではじめて、そして、とうとう、あの事件が起きた……」
今でも思い出すことができる。家永が俺からの土産を受け取って、興奮するほど喜んでくれた時のことを。それを見て山壁や宵満たちと笑いあったこと。
「俺が、あんなものを見つけて、渡したりしなければ。こんなことには……」
「けれど。実際に行動にうつしたのは、お友達自身の意思でしょう」
「だから死んで当然だと!? 因果応報ってか、くそが!! あいつは、あいつらは死ぬ必要なんかなかった!」
「なんであれ、使い方を誤れば、犠牲は出るものです」
「だとしても、山壁と宵満まで死ぬことはなかったろうが! あの二人は、家永を手伝っただけだ、そこにどんな罪がある!」
「理不尽な死は、決して珍しいものでは、ありません。まして、何も知らずに禁忌に触れたのであれば」
「無知が罪だというなら、俺たちのなかで一番何も知らなかったのは、俺だ。俺は何も知らずにあの本を家永に渡し、何も知らずに実験に協力し、何も知らずに血を差し出した。そして儀式は成功してしまった。四人の中で、一番の無知は俺だった。何も知らずに、多くの過ちをおかし、判断を間違えた。無知が罪なら、どうして、俺はまだこうして生きている!!」
全ては、俺が蒔いた種だった。俺こそが元凶だった。
そして、あの日その場にいなかったという、ただそれだけで、生き延びてしまった。
「……俺は今まで、どこかで自分を正当化しようとしていた。確かに、おまえが言うように実行したのは家永だ。そして誰も、自分たちが何をしているのかを正確に把握できていなかった。あるいは、避けえない結末だったのかもしれない。そう信じこんだ」
そして俺は、全てを忘れた。
「挙句の果てには、おまえにすがって、記憶を消そうともした。なにもかも無かったことにしたかった、自分自身ですら思い出せなくなれば、もう誰からも咎められることはないだろうと。だが、駄目だった! どんなに他人を欺けても、俺自身の罪悪感は騙せなかった!」
「だから、思い出した」
「そうだ。俺は思い出した。自分が何をしたのかを。そしてそれを隠そうとしたことを。俺は逃げたんだ。恐怖からだけじゃない、自分の犯した過ちからも逃げ出したんだ」
それを愚かと言うべきか。
人の心は、そこまで強くないと言うべきか。
だが、それとて自己の正当化ではないのか。
「……だから俺は、ここへ来た。ヤツを呼び出し、野放しにしたのは俺の罪だ。こうしてのうのうと生き残ってしまった今、俺にできる贖罪は、この事件を終わらせることしかない。どんなに墓前で這いつくばったところで、あいつらは還ってこないんだ。せめて自分がしでかした事に、自分で決着をつけなければ、どこに顔向けができるものか」
「罪滅ぼしが、したいのね」
「そうだ」
「あなたは、愚かな人」
それは、半分期待していた言葉であり、半分、理渡が言うはずはないと、思っていた言葉だった。
誰からも責められなかった俺の罪を、明らかにしてもらいたかった。
決して他人を侮蔑するようなことを言わない理渡が、俺を責めることはないだろう。
そうした相反する感情がない交ぜになった、醜い心の産物だった。
羞恥心が胸を焼きはじめたことで理渡の顔が直視できず、ただ、うなだれる。
「なんて、愚かで、哀れで、痛ましい」
それは不意のことだった。
理渡の手が、俺の頭を後ろから抱きかかえた。
「あなたは、自ら苦しもうとしている。暗闇の中で、過去の行いを繰り返し咎めるように。それは、あなた自身を殺す道」
「違う。俺は、悲劇の登場人物ぶっているだけの、あさましく卑しい男だ。哀れむな、軽蔑しろ。慈悲めいた言葉をかけるな」
「背負うべきでない罪まで、自らに課しています。見えざるところに、罪を見ている。たとえこの世の万人に問うたとて、誰があなたを責められるでしょう」
「だが、だが……だとしても、俺が元凶であることに変わりはない。俺さえいなければ。俺が余計なことをしなければ、家永たちを止めていれば。俺が判断を間違えなければ、あいつらが死なずにすんだ瞬間は何度もあったのに……」
理渡は、俺の頭に顔を寄せた。
「罪には、罰を。けれど、あなたは、充分に罰を受けた」
水のように冷たい肌が触れる。
「誰にも言えない苦しみ。己を責める苦しみ。友を亡くした苦しみ。それは一生背負うかもしれない、地獄。けれど。それ以上は、もう、自らに課さないで」
身体に触れる理渡の指が、手が、溶けていく。
「その自責は、深いもの。けれどいずれ、時の流れと共に、過去はあなたのものになる」
不思議と、身体を包む水は温かく、心のざわめきが飛沫のように消えていく。
「さあ、今はただ、眠りましょう。目覚めるために。進むために」
気づけば、部屋の中に夕闇が降りていた。やがてそれは暖かな暗闇となり、俺の上に降り積もる。
「……また、おまえの夢を、見ているのか……」
ささやく声が、それに答えた。
「これは、あなたの、夢」
まぶたが落ち、全てが消えても。理渡は俺のそばにいた。
「私は、夢」
それは水面に響く波紋のように、意識の底へと消えていった。
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