八 古き神
翌朝。鶴来船岡神社の前に俺は車を乗り付けた。
トランクを開け、理渡が運んでくる荷物を順次積み込んでいく。
長丁場になることを考慮したガソリン携行缶と、宿泊道具。そして空いたスペースに風呂敷包みの箱やら何やらが押し込まれた。何故か福井県から持ち帰ってきた例の容器の姿もある。
「こいつら、いったい何に使うんだ」
「色々なことに。見つけたり、おびき寄せたり、あるいは追い払ったり。そうしたことに」
理渡は手近な荷物の包みを解いて中を見せた。小さな引き出しがついた、小さなタンスのようなそれは、それぞれの引き出しに小皿や乳鉢、何かを入れた包み紙などが収められていた。
「まるで、まじない師だな」
俺の言葉に小さく笑いを漏らして、理渡は荷物を元通りに包みなおす。
「この、俺が福井から持ってきたやつも、そういうのに使うのか」
「ええ。遠いところにありましたから、その節は助かりました」
「なんで俺に取りに行かせたんだ?」
理渡は、はにかむように顔をかしげる。
「だって、私、車を持っていないんですもの」
白々しいほど嘘くさい。どうせ、俺が境界とやらを本当に越えることができるのか、それを確かめるためにアルバイトという形で送り出した、といったところだろう。
そうした秘密主義な態度に肩をすくめて、俺はバタンとトランクを閉めた。
閉めてから、理渡へ返すつもりだった帽子が奥に入れっぱなしだったことを思い出したが、まあ、これは後で渡せばいい。俺はそのまま運転席へ向かった。
準備が整った後、俺と理渡は一路富山県に向けて出発。
秋の北陸には珍しく、よく晴れた空の下でのドライブである。
「ちらっと思ったんだが。いつもそんな白装束なのは、おまえがシラヤマガミだからか?」
理渡は今日も白い出で立ちだった。名前は知らないが半袖のシャツに襞の少ないスカート。それから肩にケープとかいったか、そんなものを羽織っている。たぶん秋物というやつだろう。こいつが服屋で買い物をしているところなど想像もできないが。
「あら。似合っていませんか?」
助手席に座る理渡は、顔の右半分が髪で隠れているのもあって、運転席側からでは表情が窺い知れない。それでも、いつものように笑みをたたえているように思えた。
「そんなに白が好きなら、いっそのこと巫女服でも着てれば、神様だと一発でわかって便利だろうよ」
「ふふ。真舘さんは、和装のほうが、お好きですか」
のらりくらりと口撃をかわしてくる。こまっしゃくれた少女のようにも、海千山千の年長者のようにも見えるが、これは単に俺が一枚下手なだけということはあるまいか。
国道に入ると、信号の間隔が広くなり、運転のストレスも軽減された。余裕が出てきた俺は、あらためて理渡に問う。
「……真面目な話、おまえは本当に神なのか」
「まだ、信じてもらえませんか?」
「人間じゃないことは認めてもいい。なんというか……それでも神よりは人間に近い気がしてな。神様ってのはもっとこう、精神的というか実体の無いものってイメージがあるから」
一晩経った今になると、色々と気になる点も出てくる。
そもそも、理渡が言う神とやらが、いかなる基準でそう定義されているかも不明なのだ。
「私は、あなたと同じ」
「俺と?」
「あなたが、夢見人の血を引いているのと同じように。私も、人ならざるモノの血を受け継いでいます。だから、正しく言うのなら、私は神そのものじゃなく、その末裔」
末裔。そういえば、昨日もこいつはそう言っていた。
神に奉じられしモノたちの末裔。
「神様の子孫、ね。だが、そもそも神とはなんだ。おまえの話に出てくる、人ならざるモノと、どういう関係がある」
「少し、こみいった話になります」
「いいさ。どうせ今日は長いんだ。暇つぶしに丁度いい」
今日の予定では日暮れまでに目的地につけば、どれだけ遅れても問題がない。だが隣県まで行くのにそれほど時間を費やすはずがなく、空いた時間が必ずできるだろう。
その間に、もろもろの背景や事情を整理しておきたい。そういう目論みもあった。
「……ここでいう神とは、人が彼らを、そう呼んだことに、由来しています」
「彼ら?」
「人ならざるモノ」
薄々感じていたことだが、いざ明言されると、背筋にくるものがる。
あの化け物を含めた、異なる世界の存在。
それを人は、神と崇めていたという。
「……神様の話より先に、そっちについて聞いたほうが良さそうだな」
「そう」
そして理渡は語りだす。古き神にまつわる話を。
「人ならざるモノという呼び方は、総称です。動物や植物を、ひとまとめに生物と呼ぶような。非常に大雑把な括り」
「普通の人間には知覚出来ない領域にいる存在、ぐらいのカテゴライズか」
「ええ。真舘さんが見た動物同然のものいれば、私のように言葉を解するものもいる」
「……おまえ以外にも、知能をもったやつはいるのか?」
「いたるところに」
冗談に聞こえない。
「彼らは、今の人の世の理から外れた存在です。幽霊や、妖怪のようなもの、と言ったほうが、わかりやすいでしょう。物質としての肉体を持つものもいれば、そうでないものもいます。この世の始まり、アメノヌボコで掻き混ぜられる以前の、混沌の中から産まれたもの。あるいは星々の世界から移り住んできたもの。彼らの種族一つ一つに、それぞれの由来があり、一口に言い表すことはできません」
「地球がもう一つあると考えるのが手っ取り早そうだ」
重なり合う二つの異なる世界。
考えただけで気が遠くなる。
「かつて、人と人ならざるモノとの境界は、今ほど明確なものでは、ありませんでした。まだ彼らを見ることができた時代、人は強大な力を持つ彼らを畏れ、神と崇めたのです。長い年月の果てに、人は彼らのことを忘れ果ててしまいましたが、信仰だけが残った土地もあります」
「……まるで、大和朝廷に征服された、土着信仰のようだな」
古代日本は様々な民族がひしめきあい、やがて大和政権によって統一されていった。特に東日本はまつろわぬ民の地として、失われた古代神についての話がいくつか現存している。
「ヤトノカミ、アラハバキ、モリヤシン。大和朝廷の天津神に対する、被征服民の国津神。家永の話じゃ、本来の伝承はほとんど失われたというが」
「日本における、人ならざるモノへの信仰は、ほとんどが国津神の中に含まれています。というよりも、天津神、すなわち大和朝廷が勃興した頃には、既に人と彼らとの境界がはっきりと別たれていました。それに、まつろわぬ民の多くが、口伝を用いていたため、彼ら自身でさえ、自らが信奉するものの正体について、何も知らなかったことでしょう」
「なんでおまえは、それを知っている」
その知識はどこから来たものだ。
「彼らは忘れないもの」
「彼ら?」
「言ったでしょう。いたるところにいる、と」
――おまえ以外にも知能を持ったやつはいるのか――
「……直接聞いたのか」
「ええ。人ならざるモノが信仰された理由の一つに、その智慧があります。星に匹敵する寿命を持ち、知識を蓄えるもの。いわば生きた書庫。今でも古い伝承を知る人間が、彼らと接触を図ろうとすることもあります」
「畏れ知らずだな、神様をデータベース代わりとは」
むしろ科学全盛の現代だからこそ、信仰心なく関われるのだろうか。
「それじゃ、あの本も」
「少なくとも、人間の知識ではないものが、書かれていました。ただ、本そのものは写本で、原典ではありませんでしたが」
どうやら昨晩のうちに一通り目を通したらしい。
俺は昨日に記憶を巡らせる。
●
「協力?」
理渡からの思いがけない申し出に、俺はオウム返しで答えた。
「はい。真舘さんのお話では、儀式の際、血を与えたそうですね」
「ああ」
「それでは、アレが真舘さんの血を、覚えているかもしれません」
「……それは、俺が狙われるかもしれないと、いうことか。山壁や宵満、それに家永が襲われたように」
「これによると」理渡は水竜の書を指す。「真舘さんたちの血は、時の窓を開くための、材料として用いられたようです。だとすると、窓を通じて、その匂いか、あるいは味を、知った可能性は充分あるでしょう」
「アレにはそんな習性があるのか。……ええい、アレ、アレと一々面倒だ。あの化け物には名前はないのか?」
理渡は少しだけ首を傾けた。
「まったく同じ存在は、現代にはいません。似たようなものなら、いますけれど」
「そいつらの親戚か、あるいはご先祖様といったところか」
「おそらく。……闇に潜み、節くれだった脚を持ち、太陽を厭うもの。私はそれらを蜘蛛と、呼んでいます」
「蜘蛛か……」
記憶にあるあの異形は、後ろ姿とはいえ、蜘蛛に似てなくもなかった。
「たぶん、その蜘蛛とやらだろう」
「であれば、とるべき手段は二つ。一つは、これ以上の犠牲が出る前に、滅ぼすこと。これは最後の手段となります」
「もう一つは」
「元いた場所へ、帰します。彼らは常闇の世界に住まうもの。地底の奥深く、古き都市に誘えば、光差す世界には、二度と現れないでしょう」
「地底に、都市?」
「立山連峰の底に」
富山県東部にある山脈だ。北アルプスの北端であり、富士、白山に並ぶ三霊山の一つ。
だが、その地下というと……。
「あそこの地下にあるのは、巨大なマグマ溜まりだと推測されていたはずだが。そもそも、山脈の地下に都市なんて、いつ築いたんだ」
「最初から、山の下に作られたわけでは、ありません。元々地上にあったものが、長い年月の末、山の中に埋もれていったのです。玄武岩造りの、巨大な都市だったと聞きます」
肉眼で直接確認できない地下構造の把握には、地震波や重力異常の測定などが用いられる。マグマ溜まりは液体であり、岩石と比べて低密度だ。都市、というからにはエアポケットのような空間が無数にあると仮定できる。そうなれば低密度となり、測定によってマグマ溜まりと誤認するかもしれない。ただ、立山連峰そのものは火山帯であることに間違いないから、観測されたもののうち何割か、恐らく大部分はマグマ溜まりだろう。
周囲の村落を巻き込んで成長した昭和新山の例もある。飛騨山脈を形成した造山運動が古代の都市を内部に取り込んだのだ、と言われれば、そういうこともあるだろうかと即座に反論できないかもしれない。
だが。
「馬鹿なことを言うな。立山を含めた北アルプスが形成されたのは、数百万年前だ。日本列島に人類が渡ってくるはるか以前だぞ。そんな時代に、石造りの都市を築けるはずがない」
数万年前にやっと旧石器時代というレベルだ。どんなに学説を引っくり返そうと、その数十倍も昔に文明があったなどと言えば、即座に考古学会からつまみ出されるだろう。
しかし、俺の反論に対し、理渡は笑みを浮かべてこう答えた。
「誰も、人類が造った、とは、言ってませんよ」
●
「……人類以外の知的生命体。まるで宇宙人が昔から地球に潜伏していると言われたような気分だ」
「事実、宇宙から飛来し、地球上で文明を開いたものたちも、います」
「凄いな、迂闊に冗談を言うと冗談でなくなる。実は俺の発言に合わせて、適当に答えていたりしないよな」
「しませんよ」
理渡はクスクスと楽しげに笑った。
「ところで、それだけの力を持ったやつらが、なぜ今は大人しくしているんだ。昨日言っていた地下都市にしろ、人類の目の届かないところにしか痕跡が残っていないなんて、都合が良すぎるだろう。それとも、おまえのところの神社のように、夢の中にしかないとでも?」
「そうした都市の例もありますが、ほとんどは放棄されたか、破壊されました」
「なぜ?」
「滅びたからです。古き文明同士の戦争で、あるいは凍てつく氷河によって。そして時間が全てを風化させ、地上から消し去りました。それだけ、これは古い古い時代の話なのです」
「神と呼ばれるほどの存在でも、絶滅してしまうんだな」
「絶滅は、していません。より原始的なものに零落したか、あるいは、長い眠りについています。いずれ彼らは目覚め、再び地上に君臨するでしょう」
「それは、予言か?」
「古き神は、かつてあり、今はなく、いずれある。人類が最後の大陸で死滅してなお後に、正しき星辰の下、彼らは目覚め、往古の繁栄を取り戻す。予言というよりも、これは予定。人が夜に眠り、朝に起きるように。人類という種は、たまたま彼らが寝静まっている間に羽化し、飛び、命尽きる、カゲロウのようなもの。儚く燃え尽きる蛍に、すぎません」
淡々と語るその口調には、嘲りも哀れみもなかった。ただ、事実を述べている風に。
俺とて、人類の永遠性について、どこまでも楽観的ではない。よく言われていることだが、現在世界中にある核兵器を用いれば、世界人口を十分の一にすることも難しくはあるまい。北欧神話にあるラグナレクが来る前に、人類自身の手で滅びる可能性はゼロではないのだ。
「俺としては、人類には銀河系に進出して、星間国家を築き上げてもらいたいものだがな」
その願望が成就するには多大な困難を要することも、承知はしているが。
「しかし、今日はやけに饒舌だな」
「お気に触りました?」
「いや。前よりマシだ」
少なくとも、蚊帳の外に置かれ、傍観者であることを余儀なくされるよりは。
そう思い、ちらりと横を見ると、向こうも首を少し傾けて、こちらを横目で見ていた。
「……どうした?」
「ふふ。こうして、誰かとおしゃべりするのは、久しぶりでしたから。少し、良い気持ちです」
「そうか」
まともな友達がいそうに見えないしな、とは言わなかった。
気軽に語り合える友人を亡くした寂寥感を知っている俺には、口にできなかった。
「だが、こういう話を嬉々として語るのはどうかと思うぞ」
「それでは、もうおしまいに、しましょうか」
「いや。まだ幾つか質問がある」
どうぞ、という促しに、俺は疑問に思った点を提示した。
「まず、本来のシラヤマガミとは、どういう存在だ? おまえが言うように境界と水界を司るモノなのか、それともその権能は、子孫であるおまえ自身のものなのか」
「シラヤマガミそのものは、水に関わり深いモノでした。一方で、境の神と呼ばれるようになったのは、神格化されて以後のことだったと、されています」
「それはやっぱり、川を隔てた向こうは彼岸、異界であるという、そういう観念が……」
「いいえ」
「それじゃ、日本書紀にある菊理媛の記述、イザナギとイザナミを仲裁したという……」
「いいえ。それらはもっと後代における、概念や伝承です」
「なら本来のシラヤマガミは、どうして境界神としての側面を持つようになったんだ」
「人と交わったからですよ」
ドクリと、心臓が跳ねた気がした。
「……下世話な話だが、そういうことが可能なのか、人と、神との間で」
「その答えは、ここにいるでしょう?」
シラヤマガミの末裔は胸に手をあて、バックミラー越しに俺へ笑みを投げかける。
「人ならざるモノの全てが、荒ぶる神や魑魅魍魎というわけでは、ありません。中には人間に近いもの、かつて人間だったもの、そして人間に好意的な存在もいます」
「シラヤマガミも、そのひとつだと」
「少なくとも、信奉者との間に、仔をなすほどには」
人と神の子。
異なる世界が交わりできた捩れ。
「人と人ならざるモノの間にできた落とし仔。それは、こちらとあちらを繋ぐもの。神でもあり、人でもある存在は、二つの世界の間をとりなす役目を担いました」
「巫女や祈祷師、いわゆるシャーマンにあたる神職者か。……すると、境の神と言うべきはシラヤマガミそのものではなく、その落とし仔のほうじゃないのか」
「かも、しれません」
「シラヤマガミそのものは、そこんところどう考えているんだ」
「さあ」
珍しく何の含みもなさそうな返事だった。
「さあ、っておまえ」
「人と神との世界が、不必要なほど交わらぬよう、調停者としての任を、仔に課したとされていますけれど。その本心が那辺にあるかは、わかりません」
「直接聞けないのか」
「今はまだ死んでいますから」
誰が。
シラヤマガミが?
「……眠っている、の暗喩かそれは」
「似て非なる、とだけ。その状態を、言葉で言い表すことは、難しいです。いずれ目覚めるという意味では、眠っていると言えるでしょう。生物としての活性が失われているという意味では、それは死者以外のなにものでもありません」
「生ける死体とは、矛盾した表現だな。まるで優美な屍骸のようだ」
「とこしえに臥すものなれど、其は死せじ。久遠の果てに、死も死すならば」
詠うように理渡は呟く。
「人にとって死が不可逆性のものであろうと。古き神、大いなる人ならざるモノにとっても、そうとは限りません」
それはもう、不老不死という域を超えている。
一度死んだとしても蘇る。
その特性は、不滅と言うべきではないか。
「どちらにせよシラヤマガミが今不在であることは変わらないんだな。ということは、今その権能は全ておまえが引き継いでいることになるのか?」
「そう捉えていただければ」
理渡の返事に、俺は肯く。
「じゃあ次の質問だ。おまえが大学での事件を調べていたのは、その調停役という任によるものだろう」
「ええ」
やはり。
「なぜ金沢くんだりまで。いや、鶴来からさほど遠いというわけでもないが。ほとんど興味本位で聞くが、おまえの活動範囲はいったいどこまで広がっているんだ?」
「日本の、東半分ほどでしょうか」
「またえらくスケールが大きくなったな。せいぜい北陸だけだと」
「かつてはそうでしたが、理由が二つほど。一つは、今回のような事態が現代では極端に珍しいということ。日本全体を見ても、人ならざるモノに関わる事件は数年に一度あるかどうか。だから、北陸に限らず、より遠くへ赴くだけの、時間的余裕があるのです」
「絶対数の少なさか。もう一つは?」
「白山神社が、東日本に多く点在していることです」
家永から聞いたことがある。かつて熊野信仰が衰退した後、そのニッチを埋めるように白山信仰が興隆を極めた。白山神社は全国に建立され、のちに総本山たる北陸が一向一揆で荒廃しても、そうした神社は現代まで残っていると。
そしてそれらが特に東日本に多いということも。
「神社は中継基地か何かか」
「ふふ。そういう言い方は、はじめてですね」
「それじゃあ船岡神社もその一つか? こいつも疑問だったんだが、白山の神なら同じ鶴来でも白山比咩神社か、あるいは御前峰にあるその奥宮を拠点にするんじゃ? ……いや、そうか。そうした所は境界のこちら側だから、か」
「ええ。それらはあくまで、人のための社。私のものでは、ありません」
私のもの、か。
理渡は、神のもの、とは言わなかった。ここでいう人のための社というのは、人々が神を崇めるための神社を指すのだろう。当然、神社本来の主は神のはずだ。
シラヤマガミを名乗った理渡が、それらを自分のものではないと言うのは、謙遜か、あるいは……。
「…………」
そんなことを思って横目で見ると、理渡はなにが面白いのか相変わらずニマニマとした笑みを浮かべて、俺のほうをじっと見つめてきていた。
「なんだよ」
「ふふ、ふ。だって。真舘さんの質問、さっきから私についてのことばかりですもの」
「そうだったか?」
「そうですよ」
思い返してみるが、シラヤマガミにまつわることしか聞いていなかった。
「得体の知れん奴を助手席に乗せる趣味はないからな。せめて正体を見極めるぐらいの用心は必要だろう」
「そういうことに、しておきますよ」
「言ってろ」
そうして言い合っている間にも、車は北東へと進む。
渋滞にも巻き込まれず、どちらかといえば快適なドライブが続いていた。
北陸自動車道を使えば金沢から富山までは一時間ほどで到着する。高速料金をケチって下道を行ったとしても、大して時間はかからない。
よく晴れた天の下、路面を擦るタイヤの振動に心地よさを感じながら、車内で不穏な話題を続けていることが、改めて考えるとひどくアンバランスな気がしてきた。
「知りたいことは、もうありませんか?」
理渡が質問の続きを促す。
知りたいこと。今日これからのこと。
あるいはシラヤマガミのことばかり訊ねたのは、それを無意識に避けていたからなのか。
「……そうだな。それじゃ聞くが」
俺は昨日のことを思い返しながら問いかける。
「蜘蛛を殺すのが二の次なのは何故だ?」
●
「蜘蛛の行動原理は、二つ。元いた暗闇に還ること。そして、獲物を仕留めること」
俺は理渡の前に、地図を広げた。
様々な情報をもとに俺が作成した、ヤツの移動経路図だ。
「アイツはおおよそ東に向かって進んでいる。今の話からすれば、最終目的地は立山だろう」
理渡は畳の上に置いた水竜の書に手を触れる。
「古き時代の蜘蛛とはいえ、ねぐらにしていた場所は同じようです。作り出された時の窓が、結果として、召喚と同じ働きをしたのでしょう。呼び出された蜘蛛は本能に従って、立山を目指す」
「つまり、放っておいても、アレは地上から引っ込むということか?」
「地下への道は閉ざされています。よしんば、立山へ至ったところで、地上に留められるだけ。では、その後は?」
「…………」
それは恐ろしい想像だった。
夜の闇の中、山間部をうろつく黒い影。
見えざる怪物が、その爪をもし人に向けたなら。
「……一つ、気になることがある。アレは、最初に家永たちを襲った後、なぜ大人しくしている。どうして行く先々の人間を襲わない」
「恐らく、人が蜘蛛を見れないように、蜘蛛もまた、人を見ることができない。街の光を恐れているのかも、しれません。けれど、おそらくそれは時間の問題。今は立山へ向かっていますが、それが果たされないと知ったなら。その矛先はどこへ向かうか」
「結局、放置はできないか……待て、地下への道が閉ざされていると言ったな。それじゃ、どうやって地下へ戻す。それとも扉のようなものがあって、それを開いたりするのか」
「おおむね、そのような手段を使います」
理渡は地図を指差す。
「立山に入られてからでは、遅すぎるでしょう。その手前で蜘蛛を見つけ、誘導します。そのために、真舘さん、あなたの血を使います」
「つまり、それは……」
乾いた唇をつぐみ、言いよどむ。
「俺に、囮になれ、と」
「いいえ。血だけをいただきます」
理渡は手の平を切る仕草をした。
「彼らは常闇に住むため、嗅覚が鋭く、匂いだけで獲物を見つける術を持っている。真舘さん本人でなくとも、その血だけあれば、誘い出すことはできるでしょう」
●
「殺すのは最後の手段、というようなことを言っていたが。人を三人も殺しているようなやつだぞ、なぜ生かしたままにする」
「……復讐、したいのですか」
理渡の声に冷たいものが混ざる。
「正直言えば、ぶっ殺してやりたいさ。できるもんならな。だがそれを省いても、人を殺した害獣を野放しにするのはどうなんだ。ただの虎より人食い虎が危険なのは、人の味を覚えてしまったからだ。そういう獣は、また人間を襲うぞ」
なにしろ毛皮も爪も歯もない弱い動物だ。逃げ足も遅く、これほど狩りやすい獲物はいまい。
地下都市とやらにいかほどの生態系があるかは知らないが、そんなところよりも地上のほうが狩場として魅力的に見えるだろう。なにしろ、北陸は一年の大半が陽の射さない薄暗闇の世界だ。やつらにとって日本中でここより過ごしやすいところは無い。
「人ならざるモノを、滅ぼすことは困難です」
「ヤツの弱点はわかっている。日光にさらされれば、肉体が崩壊する、そうだろう」
「では、どうやって、太陽の下に連れ出すのです」
「それは……」
北欧神話には、地下に住む小人を質問攻めにして夜明けまで足止めし、朝日によって石に変えてしまったという伝承がある。
その話が頭に浮かんだが、同じ手が使えるとは思えない。ヤツが人間の言葉を理解できるとは思えないからだ。
「それに。どうして、殺す必要があるのです」
「言ったろう、ヤツは人を殺した。野放しにして良いもんじゃないだろう」
「なぜ、人を殺したら、いけないのかしら」
「……哲学問答でもはじめるつもりか? そいつは突き詰めていくとキリがないぞ」
倫理、社会、精神。様々な視点から、その人類最大のタブーは議論されてきた。
そして確たる正解というものは存在しない。
「それは、人と人とが、殺しあう時の、話でしょう?」
「…………」
こいつ。
まさか。
「……つまりなにか、神なら人を殺して良いとでも」
「いいえ。もっと普遍的なこと。人という、生き物のこと」
「食物連鎖でも持ち出すつもりか。人ならざるモノが人間を捕食する存在だったとして、だったらどうした。ただ大人しく喰われてやる義理がどこにある」
「同じことは、彼らにも言えるのでは、ないかしら」
語気が強くなる俺に対し、理渡は平淡に答える。
「あなたが、虎を数頭撃ち殺したとします。その報復として、虎があなたを食い殺そうとする。あなたはそれを、享受できますか」
「それは……」
できるわけがない。
だが、そう答えたら、理渡は言うはずだ。
それはヤツも同じだろう、と。
「罪には罰が必要です。けれど、いきすぎた報いは、双方に憎悪をつのらせるだけ」
「そんなのは相手が人間か、それと同じぐらい分別のあるやつの場合だろう。おまえは言っていたじゃないか、人ならざるモノの中でも、蜘蛛は獣に近いと」
「それは、現代の蜘蛛の話です」
「現、代……」
そうだ。俺たちが呼び出したものは、遥か数千万年も前の時代にいた何かだ。
「古の蜘蛛がいかなるモノであったかは、私もよく知りません。地下の闇に潜む小さな存在に零落する前、彼らがどのような智慧と力を持っていたのか……」
俺は、その抜け殻しか見なかった。
本当に、単なる怪物だったのか。
それとも。人の世であれば神と崇められるだけの権能を持つモノだったのか。
「アレも神だったとでもいうのか……冗談じゃない」
信じたくは無い。仮にそうだとしても、とんだ禍津神だ。
「遥かな未来、同属も死に絶えた時代に連れてこられ、自らを滅ぼす太陽の光から隠れながら、闇を渡り歩いていく。古の蜘蛛にとっては、己こそが被害者だ、と思うかもしれません」
「だったらまた大昔に戻してやればいい。立山の地下深くにそのまま放り込んだところで、生態系に外来種を入れるようなものだ、どうせロクなことにはならんぞ」
「それが一番の解決策ですが、時間がありません」
理渡は、予期された問いであったかのように、迷い無く言い切った。
「再び時の窓を開くには、準備が必要。けれど、そうしてる間に古の蜘蛛は立山へと至る。そして用意が整ったとしても、送り返すことができるのか。過去への窓が双方向ではなく、一方通行だとしたら? あまりにも不確実で、そして何より、間に合わない」
理渡の言わんとしていることはわかる。
そもそも、家永が成功したこと自体、恐ろしいほどの偶然が揃った結果だったに違いない。
「せめて装置が残っていれば……」
だが、それらは全て実験室と共に残骸へと変わった。
よしんば残っていたとして、装置の起動に必要な双晶は手元に無い。
「真舘さんのご友人が、いかなる手段を用いたのかは、わかりかねます。時を見守るものの叡智を、その一端を復活させたことは、驚異に値すること。それだけに、再現は難しいのです」
「結局、おまえの案が最善手か……」
最初から打つ手は限られている。その中から最適解を見つけ出せるのは、俺より理渡のほうだ。その理渡が決めたプランに、素人が口出しできるはずもない。
それでも、やはり、不愉快だ。
「……念のために聞いておくが、殺す方法それ自体はあるのか」
「困難が伴います。力を持たない人ならざるモノであれば、たとえば真舘さんでも、武器を使えば殺せるでしょう。しかしもし、相手が神と呼べるほどの力を、持っていたなら。人の身でそれを滅ぼすことは、できません」
古き神は死しても死なず。
長き時の果てに蘇る。
「神を殺すには神の手で屠るか、神が喰らうか、あるいは神の力を借りるか。今回は真舘さんが見たように、太陽の光で滅ぼすこともできる、かもしれない。いずれにせよ、神殺しは難しく、それを成し遂げられるかは、残念ながら断言できません」
「それじゃもし、今夜俺たちが失敗したら」
「予定通り、出直しましょう。少なくとも今日は、確実に殺せる条件が、揃いませんから」
今日は、か。
条件が整えば、理渡は神殺しも厭わないのだろう。
逆に言えばそれは、今夜の策が失敗することを前提としているが。
「わかった。俺も危ない橋は渡りたくない。今夜はおまえの作戦が上手くいくよう協力するよ」
復讐はしたい。罪滅ぼしをしたい。
だが、それは無事に生きて帰れてこそだ。
いや、それとも。
俺も死ぬべきだったのだろうか。
「……真舘さんは」
いつのまにか長いこと黙り込んでいたらしく、理渡の声で我に返った。
車は県境を抜け、富山へと入っていた。
「殺してしまわなければ、気がすみませんか?」
なんのことかと一瞬判断が遅れ、すぐに蜘蛛のことを言っているのだと気づく。
そんなの当然だ。
「……お前が今、乗っているこの車はな。車が好きで好きでたまらない友人に勧められて買ったものだ。オンボロだが、しっかり動いてくれるし、だだをこねた時もその友人に見てもらうとすぐ機嫌が良くなった」
懐かしい記憶。もう戻らない時間。
「そいつは山壁といってな、蜘蛛に殺された三人のうちの一人だ」
「…………」
仇は討ちたい。
許しておけない。
激情にも似たどす黒い感情が胸に渦巻いたが、どうしてだか、その言葉は出てこなかった。
「そう……」
理渡は、俺の胸中を知ってか知らずか、それだけを言うと目を閉じて黙り込んでしまった。それからしばらくの間、さっきまでの饒舌ぶりが嘘だったかのように、静かに、氷の彫像のような沈黙がたもたれた。
まるで、死者の霊を悼むかのように、俺には思えた。
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