十 神殺し

 夜半過ぎ。俺と理渡は宿を抜け出し、車で庄川沿いの道を上流に向かう。

 途中、川幅が狭くなっている地点や橋のあたりで止まり、罠をしかけた。罠というより警報装置と言うべきか。それぞれの場所で理渡は自らの手の平を切り、数滴の血を地面に零した。そうすることで、蜘蛛がもしそこを通れば、すぐさま知ることができるという。いかなる原理かはわからず、完全に魔術の領域だったが、それは今さらだろう。

「来ると思うか」

 理渡の手に開いた傷口へ薬を塗り、包帯を巻きつけながら問う。

「予測通りなら、今夜」

 車窓から外を見れば、庄川を挟んで対岸にある祖山ダムとその下流に位置する発電所が、ライトアップによって浮かび上がっている。

 車を西岸、つまり蜘蛛が来るであろう側の森近い空き地に停め、そのまま車内で待機すること数時間。

 理渡は助手席に体重を預け、目を閉じ、口数を減らしていた。車を停めてからずっとこの調子で、何かを待ち続けているように見える。

 秋の夜、それも山中となるとひどく冷える。寮から少し早めのコートを引っ張りだしてきていたが、それでも指先から冷気が侵入してくるのを抑えることはできない。

 宿を出る時に自販機で購入した缶コーヒーも尽き、五臓六腑に蓄えた温かさがじわじわと失われていく。

 このまま何事も起きないほうが良いのかもしれない。

 ただ待つしかない時間は、ろくでもないことを考えがちだ。今さらながらに怖気のようなものが足首を掴まえ、何もかもから逃げ出したくなる気持ちを呼び起こそうとする。痛い目にあうのがわかっている、歯医者の待合室で抱くような。

 嫌な時間だ。心臓にも精神にも悪い。

 一秒でも早い夜明けを待ち望む俺に構うことなく、夜は緩慢な動きでのしかかっていった。


 兆候というものは最初それとわからないものだ。

 理渡が身じろぎをしたことに、意味があるのかどうか、一度目は判断がつかなかった。

 それが二度、三度と続いたことで、何事かが起きたことを悟る。

「……来ます」

 短くそれだけ言うと、理渡は助手席のドアを開いた。

 慌てて俺も着けっぱなしのシートベルトを外し、理渡を追って外へ出る。

 冷え切った夜の底で、腕時計の夜光塗料を見れば、なんの冗談か、丑三つ時がまだ終わりきらぬ頃。朝は遠く、闇は濃い。

 すぐさま動きがあると思ったが、車のルーフ越しに見た理渡は、身動きせず暗闇の先をじっと見つめているだけだった。

 その様子に余裕を取り戻した俺は、運転席下にある後部トランクの開閉レバーを引く。後ろにまわり、トランクを開くと、理渡も俺の横に立った。 

 船岡神社で積み込んだ荷物を理渡のほうへと引っ張り出す。理渡がそれを開いている間に、トランクの中にもう一つ、俺のものではない荷があるのを思い出した。

「そういえば、結局返しそびれていたな」

 入れっぱなしになっていた白のつば広帽を持って見せるが、理渡は首を横にふった。

「今は、必要ないでしょう」

「それもそうだ」

「さあ、手を」

 言われるまま、左手を差し出す。

 理渡は俺の手の平に小型ナイフの刃を入れ、なぞるように皮膚を切った。そして取り出した白い小皿を持つ。

 俺は傷口を下にし、あふれ出る血液を小皿へ一滴、また一滴と注ぐ。

 ある程度血が溜まると理渡は小皿を一旦置き、今度は俺の傷口の手当をする。

 包帯をした手が、包帯を巻きつけた後。

「真舘さん、これを」

 理渡が、小さな何かを手渡してくる。

「……御守?」

 どこの神社でも売っている、何の変哲も無い御守袋。

「これは、私の、御守」

 それを俺の手に握らせる。

「私がいない間、もしもの時は、この中に書いてあるとおりに、してください」

「縁起でもないことを……」

 まるで『三枚のお札』の話のような。

 そのもしもが俺だけに起こるとは限るまい。

「それなら、これを持っていけ」

 俺は虎の子のハンドライトを取り出す。

「こいつは太陽と同じ光を出す特別製だ。いざという時、役に立つだろう」

 しかし、理渡は首を横に振る。

「いいえ。それはむしろ、あなたが持っていてください」

「だが……」

「あなたのほうが、危険ですから」

 有無を言わさぬ言葉に、気圧された一瞬。その間に、理渡は血が入った小皿を持って、俺から離れる。

「それでは、行ってきます」

 理渡は山林の奥へと去っていく。

 置き去りにされた俺は、もはや追いかけることもできず。

 ただ、その場に留まるしかなかった。


 ハンドライトを膝の上に載せたまま、運転席で一人待ち続ける。

 理渡が去ってから、どれだけの時間が過ぎただろう。腕時計の針は進むが、外の闇が薄れる気配はない。本当に時が進んでいるのか、いぶかしむほどの不変。

 寒さだけではない震えが、ハンドルを握る手に汗を生む。理渡がいなくなったことで、夜の闇への恐怖が鎌首をもたげはじめていた。

 心細さが首を絞める。

「こんなところで、再発してたまるか……」

 自分を見失うな。正気を忘れれば終わりだ。

 理渡の御守を握り締めながら、暗示をかけるように自分へ言い聞かせる。

 それでも、冷気と共に暗闇がじわりじわりと這い寄ってくるのを止められない。

 いつしか息を潜め、隠れるように身を縮こまらせていた。耳をそばだてて、どんな物音も聞き逃すまいと、あるいは、何も聞こえてくるなと願った。

 そのため、気づくのが遅れた。

「…………」

 ある音が、聞こえない。

 風そのものの音や、風が梢を揺らす乾いた音。遠く庄川のせせらぎの水音は、まだ聞こえていた。

 聞こえないのは、虫の音。

 耳障りなほどに響いていた、秋の虫の音色が、ぱったりと消え失せていた。

「…………」

 コオロギなどの虫、そしてカエルが鳴きやむのは、人が近くを通りかかった時。

 つまり。今。

 なにかが。

「…………」

 こんな時間に、俺たち以外にこのあたりを通る車があるとは思えない。

 民家があるのは遠く庄川を挟んで対岸の集落だ。

 理渡が戻ってきたのだろうか。

 それとも。

「……………………」

 何かを叩く音が聞こえてきた。

 俺の歯が、カチカチと震えて鳴る音だった。

 そんな小さな音すら、何かに聞かれるのを恐れ、指を噛んで鳴り止ませる。

 振り返るのが怖い。

 その時。

「――――」

 なにかが、聞こえた。

「――――」

 かすかに、聞こえる。

 風の音に混じり、遠くから響くように小さな音が。

 まるで、声のような。

 呻き声のような、叫び声のような

「――ぉ――」

 犬の遠吠え。風鳴る音。電線が鳴らす風切り音。梢の擦れる音。樹木の軋み。蟇蛙の鳴き声。そのいずれでもない。どれでもない。

 確かに、人の声。

「――だれ――か――」

 夜風に乗ってきたように、途切れ途切れの声が聞こえる。

「――お――い――」

 それは次第に近づいてくる。

 俺のほうへ。

 誰だ。

 誰が来る。

「――け――た――」

 理渡ではない。

 男の声。

 ただの人間か。あるいは。

「――ま――」

 だが。それはまったく予想していなかった。

 聞き覚えのある声。

 聞きなれたその名。

「――ま――だ――」

 そいつは、呼んでいた。

 俺の名を。

「――真――舘――」

 友の声で。

「……家永……?」


 ハンドライトを点灯させ、注意深く車外へと出る。

 決して運転席の傍から離れず。あたりを光で照らす。

「……家永か?」

 家永守人。俺の友人。蜘蛛に襲われた犠牲者の一人。

 しかし。今にいたるまで、その行方は杳として知れぬまま。

「家永、なのか?」

 俺は大きな思い違いをしていたのではないか。

 家永は本当に死んでいたのか。

 あいつも犠牲になったと考えたのは、状況証拠から推測したにすぎない。

 いつも一緒にいた山壁と宵満が殺され、残された血痕の量から、家永も致命傷を負ったと考えられた。

 たとえ遺体が見つからなくとも、とても生きているとは思えなかった。

 だが。それは本当に家永が被害者側だったとしたらの話だ。

――いわく、今も行方を暗ませている家永こそが、他の二人を殺害した犯人だと――

 あまりに馬鹿馬鹿しくて、気にもとめなかった噂。

 あの家永が、そんなことをするはずがない。

 それは、果たして客観的な判断と言えただろうか。

 友人であった俺だからこそ、見落としていたものがあるのではないか。

「生きていたのか、家永。なぜだ。なぜ、あんなことになった」

 お前は被害者だったのか。

 それとも、あれは人が殺されることも織り込み済みの儀式だったのか。

 まるで生贄を捧げるがごとく。

「なぜ、お前がここにいる。あの化け物と一緒なのか」

 暗闇に向かって問いを投げる。ほとんど、否定の言葉を欲して。

「――こんなはずじゃ――」

 苦しげな声が、闇の中から聞こえてくる。

「――どうして――どうして――」

「なにがあった。あの夜、なにがあったんだ」

 声が聞こえた方向にライトを向けるが、何も照らし出さない。ただ山林の下生えと木々の幹が浮かび上がるのみ。

「答えろ、家永! お前が、山壁と宵満を殺したのか。それとも事故だったのか?」

 それでも、返答は確かに来た。

「――たすけて――」

 苦悶に満ちた声。

 助けを求める声。

「……もしかして、化け物に何かされたのか」

 姿が見えない。俺の目には見えない。

「家永お前、境界の向こう側にいるのか」

 人ならざるモノの領域。神の世界。

 昼間、理渡は言っていた。

――人ならざるモノの全てが、荒ぶる神や魑魅魍魎というわけでは、ありません。中には人間に近いもの、かつて人間だったもの、そして人間に好意的な存在もいます――

 かつて人間だったもの。

 それに、今の家永が変貌している。

「――真、舘――」

 息も絶え絶えな、苦しげな声が夜に消えていく。

 人をやめた者が、いかなる変容を遂げるのかは知らない。

 一体どれほどの苦痛を受けるのかも。

「家永、お前が今どうなっているのか、俺には見えない。だが、俺の連れなら、お前を元に戻せるかもしれない」

 理渡なら。

 俺を治してくれた、シラヤマガミなら。

「あいつなら、きっとお前を治せる」

「――真、舘――」

 声は弱々しく、俺の名を呼ぶ。

「そこにいろ。蜘蛛をどうにかしたら、理渡が帰ってくるはずだ。安全をとって、夜明けまで待ってくれないか」

「――早く――」

「しばらくの辛抱だ。きっとすぐ帰ってくる。信じられないだろうが、あいつは、お前の好きな神様なんだぞ」

 ああ、家永、お前なら絶対に喜ぶはずだ。

 白山の神、菊理媛、その本物なのだから。

「――出て、くれ――」

「……なんだって?」

 不意に、家永は妙なことを言い出した。

 俺は今、車外にいた。既に外に出ている。

 なんのことだ?

「どうした、家永」

 もしかして何か危険なことが迫っているのか。俺はそう問いかけようとした。

 そして。

「――寝て、いる、のか――」

 声はそう問うた。

「……何を、言っている」

 俺は、起きている。確かに、起きている。

 本当に?

 今、俺が見ているのはどっちだ。現実か、それとも夢か。

 まさか、今の俺は夢を見ていて、現実の家永の姿を見ることができていないのか。

「俺が、夢を見ていると、言いたいのか」

 境界のどちら側にいる。

 理渡の姿が見えていたのなら、向こう側なのか。

 家永の姿が見えていないから、こちら側なのか。

 判断基準が見つからない。

 いや、ある。

 理渡が切った手の傷。力をこめればジクジクと蠢く痛み。

 これは現実だ。ここは目覚めの世界だ。

 しかし、夢ではないのだとしたら、家永の言葉が意味するものはなんだ?

「家永、お前は今、どっちにいる。答えろ、お前は人間のままか、それとも」

 俺の必死の問いかけに、しかし、返ってきたのは。

「――ぅ――」

「家永……」

「――あ、ああ――」

 呻き声。

 だが、違う。

 家永のものではない。

 これは。

「その声……」

 馬鹿な。

 そんな。

「……山、壁……?」

 山壁日也。俺の友人。

 あの夜、殺された。

「――痛い、やめ――」

 悲痛な叫び声が、奇妙なところで途切れ。

「――なんだ――なにが――」

「宵満……なぜ」

 宵満敦。

 その声、忘れるものか。

 だが、どうして。

「なぜ、お前らの声がする! お前らは……お前らは……!」

 死んだ、はず。

 確かに、見た。

 血まみれの部屋で、記憶に刻まれた恐ろしい場所で。

 死んでいた。

「ここにいるわけがない!」

 ありえない、ありえないありえない、絶対にありえない!

 なにが起きている。どうして死んだ二人の声が聞こえる!

「理渡!」

 菊理媛の伝説のように、あの世とこの世の間で、死者と言葉を交わしているとでもいうのか、馬鹿な!

「理渡、近くにいないのか! 戻ってきてくれ、早く!!」

 おかしい、この状況は絶対におかしい!

 縋るように俺は、唯一の望みの名を呼んだ。

 果たして、闇に吸い込まれていたその言葉に、応じたのは。

「――私は――」

 おごそかで、静かな声だった。


「――私は、白き山の神。境に立つもの。私の名は、理渡――」

 闇の中から言葉が響く。

「――あなたは、古き世に生きるモノ。深き常闇に住むモノ――」

 声は、闇の中に潜む何かに告げる。

「――されど扉は閉ざされたり。其は深淵に還ることあたわず。高き峰の上にて、払暁の炎もて滅ぼされん。なれば我が言葉を聞け――」

 朗々と語る声は、その厳粛な響きにて、夜の闇を律する。

 だが。 

「――地の底の都へ、行かんと欲するならば、我は岩戸を開かん――」

 だが、何故。

 何故、理渡の姿が、闇夜にすら映えるあの白装束が、俺には見えない?

 あいつは今、どこにいる?

「――荒ぶる御霊を鎮めたまえ。人ならざるモノ、古き――」

 唐突に、言葉は途切れた。

 その後に続いたのは。

「――真、舘さん――」

 咳き込むような、鈍く、くぐもった理渡の声。

「――逃げ――」

「理渡?」

「――私は――」

 そして。

 それは。

「――私は、白き山の神。境に立つもの。私の名は、理渡――」

 まったく同じ調子で、同じ言葉を、繰り返した。

「理渡……?」

 今、何が起きた。

「――あなたは、古き世に生きるモノ。深き常闇に住むモノ――」

 繰り返す。呪文のような言葉が、繰り返される。

「――されど扉は閉ざされたり。其は深淵に還ることあたわず――」

 呪文は、繰り返し唱えることで効力を持つという。

「――高き峰の上にて、払暁の炎もて滅ぼされん。なれば我が言葉を聞け――」

 だが、だが。

「――地の底の都へ、行かんと欲するならば、我は岩戸を開かん――」

 なぜ、さっきとまったく同じ口調、同じ響きで、繰り返すことができる?

「――荒ぶる御霊を鎮めたまえ。人ならざるモノ、古き――」

 なぜ、まったく同じところで、言葉が途切れる……!?

「理渡……!」

「――私の名は、理渡――」

 声は繰り返す。

「――私は、白き山の神――」

 ただ、繰り返す。

「――私の名は、理渡――」

 まるで。

「――私の名は、理渡――私の名は、理渡――」

 録音された音声を、何度も何度も再生するように。


「――私の名は、理渡、り、りわ、たり、り、りりりりりわたったたりりりりっぃぃぃ――」


 ぴちゃりと、水音がした。

 思わず、聞こえてきた方向にライトを向ける。

 左足の横の地面に、赤い飛沫が弾けていた。

 俺は包帯を巻いた左手を見る。

 包帯に血が滲んでいたが、それは、とうの昔に乾いて固まっていた。

 俺はようやく気づいた。

 理渡の声が、真上から聞こえていたことに。


 後から振り返れば、この夜、俺は様々な判断ミスを犯していた。

 そんな中で、ここですぐさまハンドライトを真上にかざしたのは、唯一の正答だった。

 そして同時に、最悪の結末でもあった。

 闇夜の中、頭上に照らし出されたもの。

 それを見たのは一瞬のこと。だが、まるで撮影した写真を後になって見るように、そこにいたものの姿は、後々まで脳裏に焼きついて離れず、何度でも鮮明に思い出すことができた。

 それは巨大な顔だった。

 それには上下に二つの口があった。

 上は、戯画化した人間のような形状をした器官についた口だった。幾つかの複眼らしき目と突起物と太い毛に覆われたものが、太陽と同じ光に照らされ、人間の声に似た音を発した。

「――RRRRIIIIIIWAAAAAAAATAAAAARIIIII!!――」

 ボロボロと無数の破片を撒き散らしながら、それは苦悶の絶叫を上げた。そしてその下にある、もう一つの口を、俺は見た。

 下にあったのは、これこそが本来の口腔器官なのだろう。節足動物のものに似た、横からくわえ込むための牙が何対も備わった、胴体幅と同じほどに巨大な口。

 そしてそこには、もう一つの顔があった。

 ギョロりと見開かれた、二つの大きな眼球。

 光に照らされてなお漆黒を保つ長い黒髪。

 氷のように白い、血の気を失った肌。

 赤い液体を吹き零す、笑みの絶えた唇。

 そして、その頭部をもぎ取ろうとするかのように、首筋に巨大な牙が突き立てられていた。首だけではない。闇夜にも映える白い装束ごと、その身体は何本もの牙で貫かれ、どす黒く変色した色に染まっている。

 理渡が、殺されていた。

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