125 採用試験の結果

 トイレは客席フロアからは見えない店の奥にある。

 男子トイレと女子トイレの個室がそれぞれ一室ずつ。トイレの手前は、男女共用の手洗い場となっていた。


 僕の前を歩いていたスパッツメイドが、その手洗い場で足を止める。

 彼女はくるりと振り返ると、僕の顔を見上げて言った。


「ご、ごめんなさいッス、冬市郎くん」

「んっ?」

「採用試験なんスけど……。自分、上手くやれているかどうか……」


 黒髪のポニーテールを揺らしながら、キーナはうつむく。


「いやいや、キーナ。きっと大丈夫だよ。採用試験の方は、上手くやれていると僕は思う」

「そうだといいんスけど……」


 足の裏たちが、声が届かないとわかっていながらも、キーナを励ます。


「心配スルナ、キーナ」と右足が言った。

「キット大丈夫ダゼ。ソレヨリ早ク、冬市郎ノ首筋ヲ舐メルンダ」と左足が続ける。


 左足の言う通りだ。

 早く、首筋をキーナに――。


「キーナ。今はそれよりも、誰かがトイレに来る前に、急いで僕の首筋を舐めてほしいんだ」

「うッス!」

「戻りが遅くなると、大森さんが様子を見に来ちゃうかもしれないし」

「そ、そうッスね」


 ポニーテールの少女は、僕の背後にまわった。

 彼女が首筋を舐めやすくなるよう、僕はその場で足を曲げて少しかがむ。


「では冬市郎くん、失礼するッスよ」


 キーナは薄桃色のくちびるを僕の首筋に近づける。

 そして、いつものようにカプリッと甘噛あまがみすると、歯を立てずにくちびるだけを動かした。

 はむはむと僕の首筋の感触を、彼女は何度も味わう。


 足の裏たちが再び声を出した。


「シカシ、冬市郎ガ頻尿ヒンニョウデ、良カッタナ」と右足が言った。

「マッタクダゼ、ハハハッ」と左足が笑う。


 いやいや……僕は本当は頻尿ではないのだが……。

 あくまでも頻尿は、今回の『ロボット弟』のキャラ設定である。


 続いてキーナは、舌先を伸ばしてチロチロと舐めはじめた。

 ハンカチを持っていたようで、ときどき首筋の唾液だえきいてくれる。

 この行為も、もはや手慣れたものだった。


 それにしても――。

 キーナのピンチにそなえて、頻尿の設定を用意しておいたわけだけど。

 その設定にまさか、本当に助けられるとは……。


 我ながら、もう少しスマートな設定を思いつけなかったものだろうか?

 いまさらながら、少しだけ悲しくなった。


「冬市郎くん、どうもありがとうッス。おかげで助かったッスよ」


 首筋を舐め終えたキーナが、そう言って笑顔を浮かべる。


「いやいや、キーナがお礼を言う必要なんてないから。『僕』と『吸血鬼の幽霊』とのトラブルに巻き込まれたせいで、キーナはこんなことになっているんだからさあ。本当にごめんな」


 さて――。

 あの吸血鬼の幽霊には、なんとかしてもう一度会わなくてはいけないだろう。

 もし、キーナの状態を元に戻す方法をアイツが知っているのなら、絶対に聞き出さなくてはいけない。

 だが、今は採用試験に集中である。


 やがて僕たちは、狂科学者が待つテーブルへ戻ったのだった。




「スススッ……お待たせいたしましたッス」

「ガガガッ――。姉さん、トイレの位置情報は、頭の中の光ディスクにしっかりと記録したよ。ガガガッ――」


 狂科学者は片手で顔を覆い隠しながら、不敵な様子で僕たちの帰りを待っていた。


「クククッ……弟よ、お帰り。そして、ブラックポニーテールよ、案内をありがとう」


 大森さんはプロ意識が高い人だ。

 もしかすると、顔をずっと片手で覆い隠しながら、僕たちの帰りを待っていたのかもしれない。


 しかしまあ、手洗い場で僕たちが何をしていたのかを、大森さんが怪しんでいる様子はなかった。


 再び三人になると、採用試験はもう少しだけ続いた。

 けれど、首筋を舐めて落ち着きを取り戻したキーナは、大きなミスを犯すこともなく、最後まで中二病ウェイトレスを演じきったのである。


「お疲れ様だったな、ブラックポニーテールよ……クククッ」

「ありがとうございますッス、大森さん……スススッ」

「キャラ設定がもうひとつ定まっていない状況だった。それなのに、よくぞ最後までやりきったものだ……クククッ」

「このブラックポニーテール、最後までやりきれるかどうか正直不安だったッスよ……スススッ」


 採用試験が終わっても二人は、中二病キャラをやんわりと演じながら感想を口にし合った。

 中二病キャラをやめるタイミングが、お互いわからないのかもしれない。


 やがて大森さんが、椅子から立ち上がった。


「クククッ……わたしは店長に、採用の結果を伝えてくるとしよう。ブラックポニーテールと弟くんは、ここでしばらく待っていてくれたまえ」


 そう言って狂科学者は、長い黒髪をさっとかき上げ、白衣をひるがえす。

 無駄に鋭い衣擦きぬずれの音が、バサッと店内に響くと、狂科学者は店の奥に向かってゆらゆらと歩きはじめたのだった。


「合格シテイルトイイナ……」と右足がつぶやいた。

「キット、大丈夫サ」と左足が続ける。


 僕も左足の意見と同じだった。

 まあ、きっと大丈夫だ。


 しばらくすると――。

 大森さんではなく、ゴスロリ姿の二十五歳が、茶色い巻き髪と豊満な胸を揺らしながら一人でこちらにやって来た。

 僕の本当の姉・印場美冬いんば・みふゆである。


 やって来るなり姉は、あっさりとこう口にした。


「大森さんと話し合った結果、『合格』ということになりました」


 キーナは黒髪のポニーテールとニセモノの大きな胸を揺らしながら、ぺこりと頭を下げた。


「お姉さん、ありがとうございますッス」

「うんうん。キーナちゃん、これからよろしくね」

「はいッス!」


 それから姉は、胸の下で腕組みをして言った。


「合格したからには、ちゃんとしたキャラ設定を何か考えなくちゃね」

「はいッス! 自分でも何か考えてみるッス」

「うんうん。まあ、キーナちゃんにはこのまま『ミニスカメイドキャラ』としてお店に立ってもらう選択肢せんたくしもあるんだけど……って、あれ? キーナちゃん、スパッツ穿いているの?」


 姉が首をかしげる。

 僕は二人の会話に口を挟んだ。


「大森さんが、スパッツを貸してくれたんだよ。その方が、動きやすいだろうって」

「へっ……へえ、そうなんだ。大森さんがねえ……」


 そう口にしながら姉は、あからさまに残念そうな表情を浮かべた。

 しかし店長といえど、大森さんのやることには、なかなか反対はできない。


 そもそも、キーナのパンチラを利用して、客を増やそうとたくらんでいた姉が悪いのである。

 正義は大森さんの方にあった。


 姉は「こほん」と軽く咳払せきばらいをすると僕に言う。


「まあ、スパッツを穿いた方が動きやすいわよね。スカートすごく短いし。それにしても冬市郎は残念だったわね、ふふっ」

「何がだよ……」


 姉は『キーナちゃんのパンチラが見られなくて残念だったわね』と言いたいのだろう。

 けれど僕は、それには気がつかないフリをした。

 こういうところが、姉の地味に嫌なところである。


 とにかくそんなわけで、採用試験は終わったのだ。

 こうしてキーナは、中二病喫茶『ブラックエリクサー』の一員となったのであった。

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