124 トイレまでの道のり

『眠りより目覚めしシェフの気まぐれサラダ』

『純粋な白と閉じ込められし漆黒しっこく


 そのふたつを僕は注文することになった。

 もちろん本当に注文するわけではない。

 あくまでも、お芝居である。


 大森さんの方は、『ほど温かい漆黒のしずくの集合体』を注文することにしたようだ。

 それは、この喫茶店のブレンドコーヒーのことであった。


「スススッ……オーダー、かしこまりましたッス。少々お待ちくださいませッス」


 スパッツメイドはそう言い残すと、僕たちのテーブルから一度立ち去った。


「オーダーヲ、厨房チュウボウニ、伝エニ行ッタンダナ」と右足が言う。

「アア。モチロン、オ芝居デナ」と左足が続ける。


 左足の言う通りだ。

 お芝居だから本当に厨房に伝えるわけではない。


 やがてメイドが、ポニーテールを揺らして店の奥から戻ってきた。料理を運んでいるフリをしながらである。


「こちら、『ほど温かい漆黒の雫の集合体』でございますッス……」


 キーナはまず、大森さんが注文した品をテーブルの上に置く芝居をした。

 本当にコーヒーがあるわけではなく、『エアコーヒー』だ。


 それにしても……。

 僕たちの前に戻って来たキーナの様子が、明らかにおかしくなっていた。彼女の栗色くりいろの瞳がキョロキョロと落ち着かないのだ。


「ナア……左足ヨ。キーナノ様子ガ……」と右足が言った。

「アア。冬市郎ノ首筋ヲ、チラチラ見テイルナ」と左足が続ける。


 確かに僕も、首筋にチラチラと視線を感じていた。

 キーナのその様子から、どうやらタイムリミットが近いことがわかる。


 そんなスパッツメイドは、料理をふたつテーブルの上に並べる芝居をしながら僕に言った。


「こちら、『眠りより目覚めしシェフの気まぐれサラダ』でございますッス」

「ガガガッ――」

「そして、『純粋な白と閉じ込められし漆黒』でございますッス――」


 本来なら僕の目の前には『サラダ』と『ホイップ状のクリームが乗っかったコーヒーゼリー』があるわけだ。

 続いてキーナは、コーヒーゼリーがあるだろう場所を指し示しながら言った。


「こちらの『純粋な白と閉じ込められし漆黒』をご注文のお客様は、ここで首のチョーカーを外していただき、ゼリーの上に乗っかっておりますクリームを首筋にたっぷりとお塗りくださいッス……スススッ」


 キーナが口にしたその不思議発言に、僕は思わず、「えっ……?」と声を漏らしてしまう。


 コーヒーゼリーのクリームを首筋に……?

 身体にクリームを塗るってのは……なんだか童話で読んだことがあるような話だ。

 注文の多いどっかの料理店かよ……。


 狂科学者が片手で顔を覆い隠しながらつぶやく。


「むむっ……。クリームを首筋に塗る……だと?」


 大森さんもメイドの発言に疑問を抱いたのだろう。


 とにかく、キーナは限界のようだった。

『クリームを首筋に――』という発言は、絶対に『キーナからのSOS』だ。

 もう、僕の首筋を舐めたくて仕方がないのである。


「キーナヲ、助ケテヤリタイナ」と右足が言った。

「キーナト冬市郎ガ、二人キリニ、ナラナイトナ」と左足が続ける。


 その通りだった。

 僕はなんとかして、キーナと二人きりにならなければいけない。

 もし首筋を大森さんの前で舐めさせたら、「クククッ……ここはそういうサービスをするお店ではないぞ」と、キーナが注意されてしまうのは確実なのだから。


 大森さんがもう一度つぶやく。


「むう……首筋……」


 ダメだ。

 これ以上この狂科学者に、深く考える時間を与えてはいけない。


 そこで僕は、


「ガガガッ――」


 と声を出しながら、椅子から立ち上がった。

 もちろん大森さんの注意をこちらに向けるためだ。


「クククッ……弟よ。なぜ立ち上がる?」


 狙い通り狂科学者は、鋭い視線を僕に向けた。

 しかし……。

 僕も、特にこの先の行動を考えていたわけではない。だから何をしていいのか困った。


 おもむろに上着でも脱ぐか?

 いやいや……。今の僕にはアレがあるじゃないか!


「ガガガッ――。受信しました。電波が弱いので、アンテナ代わりに自分が立ち上がります。ガガガッ――」


 僕は『謎の電波を受信した芝居』をはじめた。

 これなら唐突とうとつに立ち上がるという謎の行動にも、ある程度説明がつくはずだ。


「ガガガッ――。電波が弱いため、店内のマップデータが更新できません」

「クククッ……弟よ。今度は店内のマップデータを受信しようとしているのか?」

「はい、姉さん。しかし、更新に失敗したため、店内のトイレの位置がわかりませんでした。ガガガッ――」


 そう口にしながら僕は、キーナに何度か視線を送った。

 キーナも僕が何かを伝えようとしていることには気がついたようである。

 ポニーテールの少女は、僕の目を見ながらほんの小さくうなずいた。


 続いて僕は、大森さんの方を向いてこう言った。


「ガガガッ――。姉さん、僕はここらで一度トイレに……。いや、やっぱりなんでもないです。どうせトイレの位置情報も受信できなかったし、ガガガッ――」


『頻尿なのに自分からはトイレに行くと言い出せない』設定。

 実はこれは、キーナのピンチを想定して僕が仕込んでおいたものだ。


 採用試験中にキーナが首筋を舐めたくなったとき。

 もし彼女が僕を上手くトイレまで連れ出してくれたら、二人きりになれるチャンスがつくれるだろう。

 そう考えて仕込んでいた設定である。


 そして、かんの鋭いキーナには、僕の意図いとがきちんと伝わっていたようだ。


「スススッ……お客様。もしよろしければ、立ち上がったついでに当店のお手洗いの場所を、ご案内させていただくッスがいかがッスか?」

「ガガガッ――」

「スススッ……今は大丈夫でも、後でお手洗いに行きたくなることもあるかもしれないッスよ?」

「ガガガッ――」

「今のうちに一度、お手洗いの下見に行かれてみてはいかがッスか?」


 どうやら上手くいきそうである。

 僕は小さくうなずくとスパッツメイドに言った。


「ガガガッ――。そうですね。別に僕は、自分からトイレに行きたいと言い出したわけではありません」

「スススッ……そうッスね」

「はい。しかし、あくまでも店内のマップデータを更新するために、一度トイレの場所を確認しておくのも悪くないなと考えました。ガガガッ――」


 それから僕は、姉役の狂科学者に向かって言う。


「ガガガッ――。姉さん、僕はこの親切な人と、トイレまでの道のりをマッピングしてくるよ」

「クククッ……そうか」

「頭の中のディスクにも、この店のトイレの位置情報を正確に記録してくるつもりさ。ガガガッ――」


 大森さんは、こくりとうなずく。


「クククッ……弟よ、わたしはここで待っているぞ。せいぜい気をつけてな」


 続いてキーナが、僕に向かってゆっくりと頭を下げる。


「それでは、このブラックポニーテールが、お手洗いまでの道のりを案内させていただくッス……スススッ」

「よろしくお願いします。ガガガッ――」

「スススッ……お客様。店内はれていないお客様が一人で歩きますと、心も身体も迷子になってしまう危険がございますッス」

「ガガガッ――。僕は店内で迷子にはなりたくないです」


 僕がそう口にするとキーナが、ニコリと微笑む。


「ええ。それでは、このブラックポニーテールの後をちゃんとついて来てほしいッスよ」

「ガガガッ――。わかりました」


 やがてキーナが歩き出すと、僕はその後をついて行った。


「スススッ……お客様。ここは普通の喫茶店ではなく、『中二病喫茶・ブラックエリクサー』の内部であることを、どうか片時かたときもお忘れなくッス。迷子になりませんようご注意くださいッスよ……スススッ」

「ガガガッ――。僕の心の一部は姉の実験によって失われ、すでに迷子になっているようです。ガガガッ――」


 僕とキーナは二人で、なんとなくそれっぽいことを口にしながらテーブルから離れていく。

 多少の不自然さはあるもののピンチを切り抜けたようだ。


 こうして僕たちは、大森さんを一人だけテーブルに残し、二人きりになることに成功したのだった。

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