087 廊下の陰に注意深く身を隠した

   * * *



 愛名高校の旧校舎。その三階にある『ジャーナリズム研究会』の部室。

 女子中等部から戻った僕は、そこを目指して階段を上っていた。

 すると――。

 階段を上りきる手前で、男女の話し声が聞こえてくる。

 僕の耳に届く声はふたつ。


 ひとつはキーナの声――。

 そして、もうひとつの声は……僕がまったく知らない男の声だった。


「んっ? キーナと話しているのは誰だ?」


 一人そうつぶやくと、僕はその場に飛び出すことはせずに、廊下の陰に注意深く身を隠した。

 そして、ほんの少しだけ身を乗り出すと、見知らぬ声の持ち主を盗み見る。


 男は僕と同じく愛名高校の制服を身につけていた。

 この高校の男子生徒なのだろう。


「……誰だあいつ? なんだかずいぶんと爽やかそうな奴だが?」


 そんな独り言を僕が口にすると、足の裏たちが話しはじめる。


「アノ男、冬市郎トハ真逆ノタイプダナ」と右足が言った。

「見タ目ガ良クテ、爽ヤカ。ソシテナニヨリ、マトモソウナ男ダ」と左足が続ける。


「……僕はまともじゃねえってことかよ」


 僕は顔をひきつらせながら、小声で左足にツッコむ。

 それから、イケないことだと自覚しつつも、キーナとその男の会話にこっそりと聞き耳を立て続けた。


 キーナの正面に立つ男子学生は、それはそれは爽やかな笑みを浮かべている。

 のぞき見されていることなど知らない彼は、キーナに向かって尋ねた。


「それで、栄町さん。よかったら返事の方を聞かせてもらいたいんだけど――」


 ポニーテールを揺らしながらキーナはすぐに頭を下げた。


「ごめんなさい」


 迷いなく即答といった感じである。

 男子学生は「えっ……」と顔をゆがめた。

 キーナは相手の反応には構わずに、頭を下げたまま言葉を続ける。


「告白してもらったことはとても嬉しかったです。でも、本当にごめんなさい」


 あの特徴的な『ス』を付けたしゃべり方ではないキーナ。それは、例の窃盗事件のとき以来、僕の前では見せたことのない『昔のキーナ』の姿だった。

 おそらく、告白してきた相手を彼女なりに精一杯気遣って、そういう普通の口調で応対しているのだろう。


「うっ……。どうしても、オレとは付き合えない?」


 男子学生はショックを受けた様子で両目を大きく見開くと、キーナに向かって半歩詰め寄った。

 それでもキーナは、頭を下げたまま答える。


「すみません。あなたのことが嫌いとかそういうわけではないんです。けれど今は私、恋愛する気はまったくなくて……」


 足の裏たちがまた声を出す。


「ソウカ。キーナ、告白サレタノカ」と右足が言った。

「マア……キーナハ、美人ダカラナァ」と左足が続ける。


 キーナが男の告白を受け入れなかったことで、僕はひとまずホッと胸を撫で下ろした。

 だが彼女の、『今は私、恋愛する気はまったくなくて……』という言葉に不安も覚える。

 それってやっぱり、僕との恋愛だってまるで頭にないってことだよな――。

 僕は心の中でそうつぶやく。


 キーナにフラれた男子学生は、まだまだあきらめきれないといった態度で食い下がった。


「そ、そうか。栄町さん、今は恋愛する気がないんだ……」

「はい」

「じゃあ仕方がないよね」

「ごめんなさい」

「う、うん。それじゃあ、栄町さん……せめて、友達からお願いします」

「えっと……。『友達から』……ですか?」


 そう口にしながらキーナは、顏を上げる。

 男子学生の方は、爽やかな笑顔を浮かべて言葉を繰り返す。


「そう。友達から――。友達からお願いします」


 しかし、男の言葉にキーナの表情が曇った。

 彼女の中の触れてはいけない何かに、男子学生が触れてしまったのだろうか。

 ポニーテールの少女は、あからさまに不機嫌な雰囲気を漂わせはじめる。


 男はそんな彼女を目にして、やや戸惑いながらも話を続けた。


「う、うん。ほら、栄町さんがいつも教室なんかで一人でいる姿をよく見ていたからさ。もしオレでよかったら、たまに話し相手になるよ。恋人じゃなくて、気楽に会話の出来る友達なら、どうかな……?」


 キーナは再び頭を下げた。


「それは本当に、ごめんなさい。恋人になるよりも、もっと無理です」


 どこか少し冷めたような声色。

 キーナのその反応は、最初に告白を断ったときよりも、露骨に拒否感を表している。

 彼女は続けてこう言った。


「申し訳ありませんが、『友達』でしたら私、心にキチンと決めた大切な友達が、すでに一人おりますので――」

「えっ……!?」


 男子学生は、彼女の返事を上手く理解できないといった様子だった。

 一方でキーナは顔を上げ、戸惑う男をまっすぐに見つめる。


「ですから、友達でしたら『心にキチンと決めた友達』がすでに一人いますので、これ以上はお断わりします」

「んっ……? さ、栄町さん、よくわからないんだけど……。友達なんて多ければ多いほどいいんじゃないのかな……? べ、別に一人だけに決める必要なんて……」


 キーナは首を横に振った。

 あなたはまるで何もわかっていない――とでも言いたげな態度である。

 むしろ彼女は、男の発言に対して、完全に頭にきているといった様子だった。


「はあ? 自分は駄目なんスよね。恋愛はこれまでしたことがないんで正直わからないんスけど、『友達』は心に決めた一人と、じっくりトコトン付き合うタイプなんスよ」


 キーナの口調と声のトーンが、すっかり普段通りに戻る。

 彼女の変貌に、男は目をパチクリさせた。


「い、いや……。だから、栄町さん。友達は二人以上いたって、別にいいと思うんだけど……」


 キーナは、男が口にするそんな一般的な意見にはまったく聞く耳を持たないといった様子で、深々と頭を下げる。


「あなたの告白に良い返事が出来なくて本当に申し訳ありませんッス。それと友達になるってのも本当に申し訳ありませんが、お断わりさせてもらうッスよ」


 それからキーナは頭を上げると、眉間に小さなシワを寄せ、男に向かって言う。


「先ほども申しましたが、別にあなたのことが嫌いだとか、そういうわけじゃないんッス。ただ、私にはもう生涯寄り添うと心に決めた『友達』が一人おりますので。『同時に二人以上の友達と付き合う』とか、どう考えても倫理的に無理なんスよね。だから、本当にごめんなさいッス」


 告白してきた男子学生には、おそらく理解できないであろうキーナの理屈。

 それで諦めがついたのか、男は小首をかしげたり、肩をがっくり落としたりしながら、複雑な表情を浮かべてキーナの前から去っていった。


 一方でキーナは男を見送ると、重い足取りでジャリ研の部室の中へと戻っていく。

 フラれた方はもちろんだが、フッた方もそれなりに大きなダメージを受けているといった様子だった。


 二人のやりとりをのぞき見ていた僕は、フラれた男が完全に立ち去るのを廊下の陰で見送る。

 その後、窓から空を眺めて深呼吸をはじめた。

 僕はそれこそ何十回も深呼吸を繰り返したのだ。


 告白した方でも、された方でもない――。

 そんな第三者であるにもかかわらず、僕の心臓は、その激しい鼓動をなかなか落ち着かせなかったのである。

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