036 事件発生

 教室内を静かに舞うホコリたちは、窓から差し込む外光を浴びてキラキラと輝いていた。

 きっと普段、体育の授業中なんかは、邪魔する者のいない室内をそうやって優雅ゆうがただよっているのだろう。


 だが、この日は事情が違った。


 キーナが、こめかみを押さえながら歩き出す。

 そして、きらめき浮遊するホコリたちの中へと分け入っていく。


 やがて彼女は自分の席にたどり着くと、錠剤じょうざいと小さな水筒すいとうを取り出した。

 椅子に腰を下ろして薬を飲むキーナ。それから、再びこめかみを押さえる。

 続いて彼女は、物憂ものうげな表情で一度だけ小さなため息をついた。


 様子を見守っていた僕は、彼女が薬を飲み終えたのを見計みはからって話しかける。


「……ねえ。そんなにひどいなら、僕みたいに保健室に行けば?」


 痛めた右足をやや引きずるように動かしながら、僕はキーナのそばまでゆっくりと移動した。

 それから、上履うわばきを静かに脱いで、ズボンのすそを上げる。

 包帯で巻かれた右足を、キーナに見せたのだ。


「えっ……なんですか?」


 と、体操着姿のキーナは、こめかみを押さえたまま首をかしげて戸惑った。

 だが、やがて僕の右足を目にすると――。


「わっ……その足、痛そうですね……」


 と、その顔に同情の色を浮かべる。


 こめかみから手を離すキーナ。

 彼女は栗色の瞳を小刻みに動かし、僕の右足に包帯が作りだした白い螺旋らせんを、くるくると目で追った。


 僕の方は、そんな彼女の表情を眺めながら後頭部をポリポリ掻いて、話を続ける。


「じ、持久走で足を派手にひねっちゃってさ……。なんだか、すごくジンジンしているんだよね……あ、あははっ」


 授業中であるにもかかわらず、二人きりで過ごす教室。

 少しだけ非日常的な雰囲気が漂うその空間に、僕の笑い声がぎこちなく響いた。

 はじめて会話を交わしたキーナに対する照れや緊張なんかも、その笑い声の中にはきっと含まれていたと思う。


 一方でキーナは、こめかみに時折り走る鈍痛どんつうを、ぐっとこらえているといった様子だった。

 しかしそれでも彼女は、愛想よく微笑み、僕の話に付き合ってくれる。


「そうなんですか。私の方は薬を飲んでおけばなんとかなるんですけど……印場くんの方は大丈夫?」


 薬を飲んだとはいえ、もちろんすぐに調子が良くなるわけではないだろう。その証拠に、笑顔を浮かべてはいるが、彼女の眉間には時々小さなシワがほんのりと刻まれることがあった。

 自分だって辛いだろうに、他人である僕の心配をしてくれるキーナ。


 当時のことを思えば、僕はずいぶんと面倒臭い奴だったと思う。

 正直な話、キーナは僕の足に巻かれた包帯など見たくもなかっただろうし、興味もなかったはずだ。

 もしかすると、頭痛に耐えていた彼女は、話しかけてくる僕の存在をいくらか鬱陶うっとうしく感じていたかもしれない。


『こっちは頭が痛いんですよ? 少しは気をつかって、黙ってくれても良さそうなのにっ! もう、どうして話しかけてくるんですか?』


 なんてことを彼女が口にしても、まったくおかしくはない状況だった。

 でもキーナは、僕のような気のかないクラスメイトの男子相手に、そんなことを口にはしなかった。


「印場くん。もし痛いのなら、今すぐ早退して病院に行ってくるといいんじゃないですか?」

「えっ、早退?」

「はい。その足で職員室まで報告に行くのが大変なのでしたら、担任の先生には私から上手いこと事情を説明しておきますけど……」


 キーナは椅子に座ったまま上目遣うわめづかいで僕の顔を見つめてきた。そして、僕の反応をうかがうかのように、ごくごく小さくうなずく。

 まばたきのような一瞬の短いうなずき。それに合わせて、黒髪のポニーテールが控え目に揺れる。

 彼女は僕の出方を待っていた。


 僕はそんなキーナのそばで直立したまま、ごくりと唾を飲み込んだ。

 正直それまでは、『捻挫なんかで学校を早退するのはどうだろう』と迷っていた。

 しかし、キーナの優しい言葉が、僕の背中を思いのほか強く押す。

 それに、目の前にいる親切な少女の気の利いた提案を、簡単に断るのは少々気が引けた。


「どうします? 早退しますか?」


 キーナは優しい口調でそう言った。

 それで僕は、早退することを決断する。


「うん。僕、早退して病院に行ってくるよ」

「そうですか」

「ああ。じゃあ悪いけど、栄町さん。お言葉に甘えて、先生にはよろしく頼めるかな?」

「はい、大丈夫です。事情は私から、きちんと説明しておきますので」


 頭痛に耐えている少女は、そう言うと優しく微笑んだ。

 そして僕は、親切な少女に感謝しながら学校を早退したのだった。


 後から聞いた話によるとキーナは、僕が教室から出ていくとすぐに机に顔を伏せて目を閉じていたらしい。

 その後、しばらくじっとして過ごし、いくらか気分が落ち着くと、彼女は授業が終わる前に再び体育の授業へと戻っていったそうだ。




 さて――。

 僕とキーナにとって、非常に具合の悪い出来事が発覚したのは、その体育の授業の後であった。



『教室で盗難事件発生』



 体育の授業中、教室に置いてあったクラスメイトたちの荷物が荒らされていたというのだ。

 どうやら、何人かの男子生徒たちの荷物から、財布や貴重品、携帯型ゲーム機などが盗まれていたようである。


 当然、真っ先に容疑者として名前が上がったのは、体育の授業を抜け出していた僕とキーナの二人だった。

 さらに、授業を抜け出しそのまま帰宅した僕にいたっては、この事件の一番の容疑者として、クラス内はおろか学校中で噂されてしまったのである。


 僕が通う愛名高校なのだが、体育の時間などは男子は教室で着替え、女子は更衣室を使用することになっていた。

 女子たちは財布や貴重品を持って更衣室に移動していたり、管理をきちんとしていたりと、用心していたため被害はなかったようである。

 盗難の被害を受けたのは、教室で着替えた男子生徒のみであった。


 しかし、そもそも教室で着替えることになっている男子生徒たちにも、貴重品を管理する方法はもちろん用意されていた。

 この高校では生徒たち一人ひとりに、鍵をかけることの出来る個人ロッカーが与えられているのだ。

 ロッカーは各教室前の廊下に設置されており、体育の授業中など、財布や貴重品はそこに入れて鍵をかけておくよう、日頃から指導されているのである。


 だがそれでも、教室で着替えた男子生徒たちの中には、警戒心の低い者が何人かいたようだ。

 財布や貴重品などを、脱いだ制服のポケットや机の横に掛けたカバンの中に入れっぱなしにしていたのである。


 そしてその油断が、こういった盗難事件の発生につながってしまったのだった。


 突然起きた盗難事件。

 それに対する、周囲の人々の不慣れな対応。


 被害状況把握までの不手際、様々なゴタゴタ、それに続くいくつかの混乱が起きた末――。

 容疑者の一人であるキーナが、担任から正式な呼び出しを受けたのは放課後のことだった。

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