第4章 最高の提案

035 第4章 最高の提案

 僕とキーナが教室で困った立場になったのは、一年前の四月のことだ。

 体育の授業中に起きた、が原因だった。

 それは、僕たちが高校に入学してすぐのことである。


 その日の体育は体力測定で、授業は男女別々になって行われていた。

 春の青空とやわらかな陽射しの下、男子生徒たちは運動場に集まり『一五〇〇メートル持久走』に挑む。

 黙々とグラウンドを走る男子生徒たち。

 その中に、僕の姿もあった。


 ちなみに僕の運動神経は、特別良くも悪くもないと思う。ごくごく平均的なものだ。

 人一倍運動が得意というわけではない。

 だがそれでも、持久走は自分の中ではそこそこ得意な種目だった。


 上位陣よりもいくらか後方の第二集団の中。そこで僕は軽快に走っていた。

 リズミカルに地面を踏み続ける両足の裏。残り四〇〇メートルほどといったところ。

 しかしそんなとき、僕の身にちょっとしたトラブルが起きる。右足を妙な角度でひねってしまったのだ。


 動かすたびに右足に痛みが走った。

 苦痛に耐えながらも、僕は根性で最後まで走りきる。

 もちろん後半の失速から、タイムは満足のいくものとはならなかった。


 持久走を終えると、僕の右足は本格的に熱を帯び、ジンジンとしびれはじめた。

 走っていたときから当然痛みはあった。だが、走り終えたことで緊張が薄れ、その痛みがさらに激しさを増したという印象だ。


 まだ授業の途中であり、この後には他種目の計測をいくつか残していた。

 しかし、この足ではこれ以上続けるのは困難だろう。そう判断した僕は、足をひねったことを体育教師に伝え、保健室に行くことを希望した。


「それは本当か?」


 体育教師はそう口にしながら、少し疑いの混じった視線を僕に向けた。


 根性で最後まで走り切ったことで、逆に疑われてしまったのかもしれない。

 こんなことなら無理して完走せず、途中棄権して身体の異常をもっと大袈裟にアピールしておけばよかった――と、僕は少し後悔したものだ。


「本当です」


 そう答えながら僕は、右足を教師に見せて、痛そうな表情を浮かべた。

 もちろんその顔は、芝居ではない。右足には実際に痛みが走っていたのだ。


「わかった。とにかく保健室に行ってきなさい」


 無事に体育教師から許可をもらうと、僕は右足をかばいながら保健室までひとりで向かった。




 保健室で湿布しっぷを貼り、包帯を巻いてもらうと、運動場ではなく教室へ戻った。

 そして、後になって僕は、この行動をやむことになる。



『おそらくこのとき、教室に戻らないで、もう一度授業に顔を出すのが正解だったのだ』



 しかしながら当時の僕は、授業には顔を出さず、教室へ戻ってしまったのである。


 教室に着くと、痛めた右足をかばいながら体操着から制服へと着替えた。それから授業の終わりを待ち、自分の席に座ったまましばらくボーっと時間を潰す。

 ひねった右足は相変わらずジンジンしていた。


 念のために病院へ行った方が良いだろうか、なんてことを僕は考えた。

 だが捻挫ねんざくらい、たいしたことないような気もしていた。


 そんなふうに僕がひとりであれこれ考えていると――。

 突然、教室前方の扉が開いた。


 そして、苦しそうな表情をしたクラスメイトの少女がひとり、こめかみを押さえながら足早に教室の中へ入ってきたのだ。


 黒髪のポニーテールを揺らす体操着姿の少女。

 彼女こそ、栄町さかえまち樹衣菜・きーなだった。


 その当時、僕とキーナは同じクラスメイトではあったが、まだ一度も会話を交わしたことはなかった。入学からそんなに日も過ぎていなかったし、会話をしたことのないクラスメイトは、キーナの他にも、まあ、たくさんいた。


 体育の授業中であるにもかかわらず、自分以外の人間が教室にやって来たことに、とにかく僕は驚いた。

 それから、少し迷ったのだが、思いきってキーナに話しかける。

 こんな状況の中、黙って彼女の挙動を見守っていると、それはそれで居心地が悪いように思えたからだ。


「えっと……。確か栄町さん……だったっけ?」


 静かな教室に響く僕の声。

 キーナの動きが、一瞬固まった。

 本来なら無人であるはずの教室で、突然人から話しかけられたのだから、彼女が戸惑うのも無理はないだろう。

 僕がキーナの登場に驚いたように、キーナも自分以外の人間が教室にいることに驚いている様子だった。


「えっ!? えっと……。い、印場いんば……くん?」

「あ、うん。そうそう」


 名前をちゃんと覚えてもらっていたことに少し感動しながら、僕は話を続ける。


「それで栄町さん、どうしたの? まだ授業中でしょ?」


 僕は、自分だって授業を抜け出している身でありながら、キーナにそう尋ねた。

 すると彼女は、強張こわばった笑みをぎこちなく浮かべる。それから、こめかみを押さえつつ、少々苦しそうな声で僕の問いに答えた。


「えっと……ちょっと、具合が悪くなって……。私、薬を取りに来たんです」


 そう言い終えると彼女は、どことなく恥ずかしげな様子で小さくうなずいた。

 ちなみに、当時のキーナだが、例の独特なしゃべり方はまだ身につけていなかった。

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