020 下の名前でお呼びください

「おおおおおおおおっ!?」


 と叫びながら、僕は慌てて少女の胸から手を放す。


「ひゃんっ!」


 と大曽根みどり子が声を上げた。

 それから彼女は、床に押し倒されたままの状態で、僕にこう尋ねてくる。


「ど、ど、ど、ど、どうですか、センパイ!?」

「はっ!? はあ? ど、ど、ど、ど、どうって!?」

「む、む、胸ですよ……今、ボクの胸を、さ、さ、三回くらいんでいましたよね?」


 僕は「うっ……」と黙り込む。

 身に覚えがあり過ぎるのだ。


「せ、センパイ? しょ、小学生みたいなボクの身体じゃ、やはり興奮しませんか?」

「えっ?」

「そ、そうでしょ? うん、きっとそうだよ……。どうせアナタは昔から、ボクじゃ興奮しないんだ……。この胸だって自分でも驚くほど小さいですし……」


「冬市郎ハ、スゴク興奮シテイル」と右足が真実を語った。

「興奮ガ、足ノ裏ニマデ伝ワッテクル程ニ」と左足が情報を補足する。


 足の裏たちの声を無視して、僕は緑髪の少女に言った。


「す、すまない、委員長。こ、これは事故だ――」


 そんな言い訳をしてから僕は、立ち上がる。

 それから、床に寝そべっている大曽根みどり子に目を向けてみると――。


「ぶっ!」


 と、僕は驚きのあまり吹きだしてしまった。

 椅子から床に転げ落ちたときのドサクサで、彼女のスカートが、バッチリとめくれ上がっていたのだ。


 緑と白の縞々しましまパンツが、大胆に顔をのぞかせている。

 すべすべ肌の細くて白い太腿ふとももも、めくれ上がったスカートのおかげですっかりさらされていた。


 大曽根みどり子は、そんな僕の視線から、すぐに自分のスカートの異常に気がつく。

 彼女は慌てて、スカートを元に戻した。

 僕は小さく「こほん」と咳払いをしてから、こう口にする。


「す、すまん。でも、い、今のも事故……だよ」

「も、もう……別にいいんですよ、センパイ……」


 緑髪の少女は、頬を赤く染めたままフラフラと立ち上がる。

 続いて、ぱんぱん、とスカートをはたく音が室内に響いた。


 やがて彼女が落ち着くと、僕は深々と頭を下げ、念のためにもう一度謝罪しておく。


「委員長、本当にごめんなさい」

「い、いえ……。そもそもボクが、センパイを椅子にして無理やり座ったのが原因なわけですし。怒りに任せて太腿をつねったりしたのも悪かったんですよ……」


 そう口にすると小柄な少女は、少し居心地が悪そうにボリボリと頭を掻いた。

 それから彼女は、小首をかしげる。


「しかし、これだけボクと接触していても、センパイの記憶って戻らないものなんですね?」


 僕は首を横に振る。


「いや、委員長。そのシグーレなんとかって人は、僕じゃなくて別人だからね?」

「いえいえ、アナタで間違いないですよ」

「だから別人だって」

「いや、センパイです」


 かたくなにゆずらない彼女の様子に、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。


「ところで印場センパイ?」

「うん?」

「そろそろ委員長ではなく『みどり子』と、下の名前でお呼びくださいませんか?」

「へっ?」

「ボクも『冬市郎センパイ』と、下の名前でお呼びしますので」


 緑髪の少女は、その充血した両目で、まっすぐに僕を見つめてくる。

 それから薄桃色の可愛らしい唇を、ぶぅーぶぅーと不満気にとがらせてこう言った。


「――だって、センパイ。女の子の胸を揉んでおいて、今さら下の名前で呼ばないとか、なしでしょ?」

「はあ? な、なに、その理屈。どういうこと?」

「とにかく、下の名前で呼ばないと、センパイがボクの胸を揉んだことを、今年の文化祭の開会式かいかいしきで発表します」

「うっ……せめて閉会式へいかいしきにしておけよ。でないと、祭りがふたつ同時開催されることになるぞ?」


 僕は咄嗟とっさにそう言い返した。

 だがきっと、その顔は青ざめていたに違いない。

 揉んだ胸は小さいが、その代償だいしょうは下手をすると、かなり大きなものになりそうだ。僕の両足が、ガクガクと震えはじめる。


 すると、そんなおびえる僕に、大曽根みどり子は真顔でめ寄ってきた。


「――で、どうします?」


 そう問われて、僕はごくりと唾を飲み込む。

 選択肢を間違えたら、この子は本当に開会式で、このえっちな事故のことを暴露ばくろしそうである。


『彼女を下の名前で呼ぶ』か、それとも、『開会式で胸を揉んだことを発表される』か――。

 正直、特に難しい選択肢ではない。


 少女の真顔に恐怖を感じながら、僕はゆっくりとうなずき、こう答えた。


「お、おう。わかった……みどり子。こ、これでいいかな?」

「はい、冬市郎センパイっ!」


 童顔少女は、とても満足気に微笑んだ。

 その顔を目にすれば、彼女が心の底から喜んでいることが、ありありと伝わってくる。


 下の名前を呼ぶだけで、まさかこれほどの笑顔を見せてくれるとは……。


 僕がそう驚くほどの、純粋な可愛らしい笑顔だった。

 それからみどり子は、自分の髪をいじりながら小さく首をかしげる。


「でもどうして、今日こうして直接会うまで、ボクは冬市郎センパイの存在に気がつけなかったのでしょうか?」

「えっ?」

「いや、実はですね、一週間ほど前から突然なんです――」

「何が?」

「ですから、漆黒のレッドラインこと『シグーレ・グリーン』の――つまり冬市郎センパイの存在が、サイキックパワーで薄っすらと探知たんちできるようになったのは」


 凹凸おうとつの少ない胸の前で腕組みをすると、みどり子は「うーん」と唸りはじめた。

 その真剣な様子から、彼女は冗談を口にしているわけではなさそうだ。


「ボク、一週間ほど前からアナタの存在は感じていたんです。けれどこうして今日、直接センパイの姿を目にするまでは、誰が『シグーレ・グリーン』なのか特定まではできていませんでした」

「そ、そうなんだ」

「はい。あのぉ、センパイ?」

「うん?」

「一週間ほど前に、何か変わったことはありませんでしたか?」

「変わったこと?」


 僕は首をかしげた。

 そんな僕の顔を、みどり子の充血した両目がのぞき込む。


「例えば、誰か『異能の者』と接触したとか……」

「異能の者?」

「ええ。センパイが一週間前に、はじめて会った人なんかはいませんでしたか?」

「一週間前に、はじめて会った人かあ……」


 つぶやきながら僕の脳裏のうりには、すぐにある人物が浮かんだ。

 銀髪おかっぱ頭の中二病少女・瀬戸灰音である。


 ――えっ……。

 じゃあ、あの子って本物の異能の者?

 いやいや……異能の者って、そもそもなんだよ?


 それから僕は、少し時間をかけ慎重に考えたうえで、こう答えた。


「もし、何か思い出すようなことがあったら、みどり子に伝えるよ」


 瀬戸灰音の名前を出さなかったのは、この大曽根みどり子に接触するよう依頼してきたのが灰音本人だったからである。

 依頼者の名前をここで出すのは、さすがにマズイと僕は考えたのだ。


「そうですか。では、もし何か思い出しましたら、ボクに教えてください」

「おう。まあ、期待はしないでくれ、みどり子」

「ふふ、わかりました。ところで――」


 みどり子は、そのオレンジ色の瞳を、部屋の扉に向けた。


「栄町センパイは大丈夫なんでしょうか? お手洗いがずいぶんと長いようですが……」

「ああ、心配しなくても大丈夫だ。キーナだったら、当分は戻って来ないだろうから」


 彼女が戻って来ない理由を僕は知っている。

 しかし、正直に話すわけにもいかない。

 そのため、僕は苦笑いを浮かべながらポリポリと後頭部を掻いた。


 一方でみどり子だが、キーナが戻って来ない理由を、深く追求することもなかった。


「そうですか。では、栄町センパイが戻ってくるまで、冬市郎センパイ――」

「んっ?」

「ボクのブログを読んでくれますか?」


 少女の両目がカッと見開き、僕をロックオンする。

 絶対に逃がしませんよ、と語りかけてくるかのように。


「あははっ……。そうそう、ブログを読まなきゃね……あはは」


 僕は力なく笑った。

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