和平交渉――卑屈少年、卑屈を貫き通す-4
「月人君……休憩には早いが、少し別の話でもしようか。年寄りの戯れ言と思って聞いてくれ」
「へ? は、はい」
教頭先生が急に老け込んだみたいに見えた。
「月人君は本当に高校生の頃の母親に似ているな。常に渇望感に支配されているような顔をしている。何をしても満たされなくて、ただ前へ前へと突き進んで、周囲をどんどん置き去りにしてしまうんだ」
なら、俺は少しも母上に似ていない。
「……逆だと思います。うちの親はそうやって突っ走って族までやったんでしょうけど、僕はその、ただ追い抜いていく奴のために……なんていうか、露払いをしてるだけです」
露払いなんていう変な言葉を使ってしまったが、偽りない感覚だ。
「ふむ。自覚は無いか。君の母親姉妹はな、止まれなかったんだよ。まるで突っ走ってないと息が詰まってしまうかのようでな」
教頭先生は小さく息を吐いた。
「……彼女達の歯車を狂わせたのは私なんだ。責任を痛感しているよ。正義の味方なんて名乗るから、当時あった風紀委員会に入れてみたんだよ。あれは大きな失敗だった。彼女達は義務感に駆られて、ますます止まれなくなってな」
母上達は今でも教頭先生を慕ってるから、良いと思うんだが。
「あぁ、すまん。再雇用のジジイは話が長くて申し訳ないね。君は一晩入院もして大変だったと思うが、私の偽らざる感想を述べてしまうと、倒れて良かったとも思っている」
俺もそう思う。
同じように考えてくれる人がいるのは嬉しいな。
「あそこで倒れなかったら、君は脇目も振らずにどんどん突き進んで、君が全てをコントロールせざるを得なくなってしまっていたところだよ。誰もが君の意に反して動こうとしなくなってしまう。その方が確実で、しかも自分が責任を負わずに済む」
確実さについては反論したいが、言葉が口をついて出なかった。
確かに俺は全員でやるべき仕事を勝手気ままに奪っていた。
全員に、特に桐花に仕事を一人で抱え込むなと言っておきながら。
「率先して仕事をするのは委員長向きだが、あのまま突き進んでしまえば君と対等な相手がいなくなってしまう。君の母親には双子の姉と仲間がいた。でも、嗣乃君の母と杜太君の母の四人は、孤独に見えたよ。君はまるで、同じ孤独を求めているかのようだ」
「い、いや、そんなことは、ないと思うんですが」
違う。俺はみんなに置いて行かれる立場だって主張したいのに。
そんな反論はし辛かった。
教頭先生の悲しそうな目を見ると、何も言えなくなってしまった。
「なら、今日ここに一人で来てしまったのはどうしてかね? 一人で来る必要はなかったとは思わないか?」
『孤独』という言葉が、重くのしかかった。
教頭先生の言う『孤独』の意味は、ただのひとりぼっちという意味ではないのは分かるが、本当の意味が分からなかった。
「ふん。コイツがなんで一人で来たかなんて分かるっての。どーせアレだろ? 今自治会の連中に学校側の味方するとか、和解する方向で進めるなんて言える空気じゃねーと思ったからだろ?」
その通りだよ。
誰にも賛成されないような方法で解決しようとしているからだよ。
「コイツの選択は正しいよ。一年も二年も好戦的なのが多すぎてよぅ」
珍しく依子先生がフォローしてくれた。
「ほう、山丹君と旗沼君は穏便そうに見えるがね」
「そ、そんなことはないです。山丹先輩は結構、はっきりした性格をしているので」
正直、こんな折衷案がしっかりした性格の山丹先輩に理解される自信がない。
表向きは理解を示してくれるだろうが、必ず軋轢が生まれる。
「なんで教頭のくせに分かんねーんだよゴリラ脳が。湊は体が伴わないだけで、神経は武闘派そのものだっつの。沼っちは湊に対してイエスマンだしよ。アンタに賛成するのは……金髪くらいか」
桐花は賛成してくれる。なんとなく分かる。
でも同行を頼む訳にはいかない。
「ふむ、ではなぜ一緒に連れて来なかったのかね?」
「コイツは予算を捻出した功労者の愛しい愛しい金髪ちゃんの前で半分だけでも取り返せりゃいいって言えねーからだよ」
言い方はひっかかるが、その通りだ。
俺みたいなチンケな人間でもプライドってものはあるんだ。
「元々全額返してもらうつもりなんてないんです。だからその、最初から勝負なんてしに来てないんです」
生徒側の勝利やら学校側の敗北やらもしくはその逆なんて、考え方は害悪でしかないんだ。
お互い納得した形で融通し合う。これが俺の最終的なゴールだ。
最悪これが泥沼の対立を産んだとしても、これは俺の独断専行だ。
失敗したら俺一人が叩かれればいい話だ。俺以外に悪者なんて一人もいない。
「今使い道が決まっちゃった三割くらいの分だけでも、こちらで使わせてもらえたらって思ってるだけなんです」
「……つっきーよぅ、この交渉で何を勝ち取ろうとしてんだよ? 協力して損したような気分にさせんじゃねーぞ」
「だから勝ち取る気なんてないんですよ」
『勝ち取る』なんて考えはもう捨て去った。
俺が欲しいのは本の少しの予算と、学校側と生徒側の良好な関係だ。
この件は間違いなく今後も軋轢を生み続ける。
「……話してみるかね? 教職員側の実行委員会と」
「い、いいんですか?」
良かった。
今喜んではいけないけれど、俺が喧嘩をしに来たんじゃないことだけは伝わったはずだ。
「少し待っていてくれ」
教頭先生が小会議室を出て行った。
さて、真打ちは一体誰なんだろうな。
誰であろうと、俺はその人と対立する気は一切無い。
そう考えると、少しだけ気が楽だ。
「……つっきーよぅ、少しは手加減しろよ。あのゴリラだって年食ってんだよ。あれでもう還暦から五年経ってんだぞ? ニシローランドゴリラは近絶滅種なんだからあんま苦労かけんなよ」
「へ……?」
そういえばさっき再雇用って言ってたような。
いや、そりゃそうか。
うちの母上達の先生でもあったんだ。
「先生って、教頭先生とどうしてそんなに仲いいんですか?」
「ふん。そりゃぁアタシを漫画家のワナビから卒業させてくれたのはあのオヤジだし、こんなのを教師として使い続けてくれてるのもアイツだし。アタシと結婚してくれる聖人君子に引き合わせてくれたのもあのゴリラのお陰だしさ。今この瞬間もだよ。アタシ一人じゃオメーの手綱掴んでられねぇし」
う……またご迷惑をおかけしてしまっている。
「……つっきーさ」
「は、はい?」
依子先生の諭すような声に、思わず体がこわばってしまった。
「学祭が終わったら普通のガキに戻れよ」
「は、はい? 普通?」
普通のってなんだ?
自分があまりノーマルな考えをした人間じゃないのは認めざるを得ないけど。
「おめーの考える普通でいいよ。アタシはオメーが何しでかすかすげー怖えんだよ。真っ向勝負仕掛けてくると思ったら、テメーの仲間を裏切るような交渉持ちかけやがって」
絶対に失敗したくないのだから、それも仕方ない。
「なぁ、オメーの頭の中って他人のためばっかりになってねぇか? 自分のことなんて考えてもねーだろ? この件が終わったらせめて半分くらいは自分のこと考えろ……少なくとも考える訓練をしろ」
無理難題を。
他人を気にすることで、自分自身のどうしようもなさを誤魔化しているのに。
見てみろこの姿を。
顔の造形はよく言っても十人二十人並みで、背は低くてネクラでコミュ障でオタク趣味で卑屈で。
俺の良いところってどこなんだ?
瀬野川の言っていた体臭が少ないところくらいじゃないのか?
「先生……俺、なんで委員長なんですか?」
「はぁ?」
そりゃ、『はぁ?』と言われてしまうよな。
「眉間のシワなくせ。委員長はどう考えてもオメーだからだよ。今もちゃんと委員長してるじゃねぇか。本当は女子サッカー部のことを根掘り葉掘り聞きたくて仕方ねーのに我慢しただろ? 褒めてやるよ。アンタだけだよこんなに我慢強いのは。やっぱりお前がトップになるべきなんだよ」
依子先生が下を向いた。
でも、俺がこうして自分勝手な交渉をしているのは委員長として向いていないと思うんだけど。
「それからちょっと、交野依子個人からの言葉を聞きやがれ」
何を言い出すんだろう?
「湊を、助けてくれてありがと」
「は、はい? いや、助けられてるのは、こっちですけど」
山丹先輩が俺をバックアップしてくれているからこんな交渉ができるのに。
「アンタがいてくれたから、今年はまだひどい発作が一回しか起きてないし、アンタがこんな交渉持ちかけてくれなかったら、湊が悪者になるしかなかったでしょうが」
照れくさいというか、むず痒い。
「あの子がこんな大変な仕事を他人に頼むなんて、アタシが知ってる限りは初めてだよ。沼っちにも塔子にも頼んだことねぇよ」
「そ、そんなはずが」
あんなに信頼関係ができてるのに。
心底困ったという先生の顔は初めて見たかもしれない。
「あるんだよ。体を使う仕事ができないから、キツい交渉事は全部やってのけてきたんだ。でも、湊の中の本音は、心配で沼っちにも塔子に任せられないからさ。やっとアンタみたいなのが現われてくれて良かったよ。湊も自分のことを考える余裕ができてさ。でも……余計なのが戻って来やがって」
余計なの?
背後のドアが空いて、会話が中断した。
「月人君、残念ながら時間が取れないそうだ。交渉内容は間違いなく伝えたよ。なるべく早い内に結論は出すということだ」
「はぁ!? 逃げやがったな!」
依子先生の人聞きの悪さがツボに入ったのか、教頭先生が笑いながらため息を吐いた。
「月人君。とりあえず、半分は予算があるものとしてくれ」
「は、はい」
ふぅ、半分は交渉成立か。
「はーあ。よし、湊にいい報告して来い。そして良寛コーヒー飲め」
だからなんで地元メーカーのコーヒー牛乳なんだよ。
「かぁー! ぬるくてもうめえ!」
あぁ、自分が好きなのね。
とにかくストローを挿して飲んでみる。
「うめーだろ!」
「は、はぁ」
「何がはぁだ! 黄金の舌が天井貫く程うめーだろ!」
相手をするのが面倒くさくなってきた。
「……失礼します」
小会議室から出ると、見慣れた人物が立っていた。
「おっせーんだよテメェ。何の話してたんだよ?」
「条辺先輩? な、なんで?」
「一年委員長閣下を迎えに来てやったんだよ。感謝しろウンカス」
廊下の前に立っていたのは、条辺先輩だった。
「塔子! コイツ良寛コーヒー否定しやがった!」
「あん? アタシコーヒー飲まねぇし。いいから帰るぞ!」
「やーいやーいコーヒー飲めないお子ちゃまー!」
「うるせぇワナビレイヤー教師! 委員長閣下のウンカス! とにかくこっち来い」
「はい? 階段は?」
職員室脇のエレベーターは生徒使用禁止なのに。
珍しく生徒自治委員会ジャケットを着ている条辺先輩が周囲を見回してから、開いたエレベータに俺を押し込められた。
乗り込む寸前、一瞬だけ廊下の向こうが見えた。
「あ……」
あぁ、こんなに早くお目にかかるとは。
制服をやたらと着崩した男女が、こちらを見ていた。
ぴりぴりとした緊張感が背中に走った。
陽太郎と嗣乃は大丈夫だろうか? 山丹先輩は? 笹井本会長は?
俺はただ、成り行きを見守るしかないのか。
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