和平交渉――卑屈少年、卑屈を貫き通す-3

 雨が降る校舎内はひどいものだ。


 昇降口で野球部員が思い思いのトレーニングをしているのはいつもの光景だ。

 ここまでしても甲子園へ行けないのだから、彼らがどれほどの茨の道を歩んでいるのかと思うと心が痛んだ。

 雨の日の練習場所は用意したいが、全くアテがない。


 廊下ではサッカー部員がリフティング対決で盛り上がっていた。

 硬式テニス部はサイドステップ競争を繰り返していた。


 廊下は走らないのは当然だし、校舎内でボールやらラケットやらを扱うのは禁止というルールもちゃんと成文化されているんだけどな。


 ダンス部はずいぶんとバラけていた。

 手洗い場やトイレの横のあらゆる鏡の前で動きの確認をしていた。


 どの部員も生徒自治会ジャケットを羽織った俺が通りかかると「おーす」とか「うーす」とか挨拶らしき奇声を発され、さっと道を開けてくれる。


 階段に近付くと、ポコンポコンという音が聞こえてきた。

 なんだろうこの音? 


「あだっ!」


 額にクリーンヒットしたのは軟式テニスボールだった。

 やっぱり俺、狙われてるかな?


「げ! 一年のアレだ!」

「アレとかいわないでよ先輩! 一年の委員長なんだから!」


 ああ、我がクラスの女子学級委員様ではないか。


「病み上がりなんだから丁重に扱ってよ! 安佐手大丈夫? 保健室行く?」

「い、いや、平気」


 そうじゃなくて階段でスカッシュもどきをしないで欲しいんだけど。


「あぁもう……交野先生」


 職員室の扉を開けて依子先生を呼んだ。


「あ? 依ちゃんって呼べよ。てかオメェ、最近依子先生って呼んでくれてたのどーした?」


 そりゃTPOってやつを弁えてるからだよ。

 職員室だぞここは。


「ん? なんだそのデコ誰にやられた? 嗣乃? 仁那?」


 まぁ、その辺を疑うだろうな。

 残念ながらあんたのクラスの学級委員だ。


「そんなことはどうでもいいですから。質問したいことがあるから来たんですよ」

「あ? テスト範囲なら教えてやらんでもねーよ?」


 う……聞きたい。

 いや、騙されるな! 既に公開されてる情報じゃねぇか!


「職員側の学祭実行委員会の先生って誰ですか?」

「はぁ、復活してきたと思ったらこれだよ。教えねーよバーカ。先生側のメンバーは非公開なんだよ。テメーみたいなのが交渉しに来るからよぉ」


 さもありなん。

 とはいえ、これで引き下がる訳にもいかない。


「なら教頭せ」「呼ばねーよぶわーか!」


 カブり気味に拒否された。

 でも依子先生の言うことなんて知らん。だって、依子先生のすぐ後ろにいるし。

 教頭先生の巨大な手が依子先生の頭に置かれた。


「生徒の願いを簡単に突っぱねるなと何度も言ったつもりだが?」

「はぁ? こいつは友達みたいなもんだし」


 え? そういう扱いなの?

 ぼっちは素直にお友達にしてもらえたって喜んじゃうよ? 


「あだだだ! やめろ変態! レイプ魔!」


 なんて口の利き方だ。

 教頭先生の手がぐいぐいと依子先生の頭を潰さんばかりに力を入れていく。

 親子喧嘩を見ている気分だ。

 他の先生もあまり気にしていないのは日常茶飯事だからだろうか。


「復活したかね。体調は大丈夫かね?」

「は、はい。問題ないです。あの、ご迷惑をおかけしました。運んでいただいて……」


 ああ、顔を合わせ辛いな。

 お世話になりっぱなしだったのに、挨拶するのも今になってしまった。


「そこは『ご心配をおかけしました』というんだ。私が倒れた生徒を迷惑に思うような人間だと思わないでおくれよ」

「は、はい、すみません」


 教頭先生は苦笑しつつ、すぐ近くの壁に掛かったホワイトボードに『教頭・交野 小会議室』と記載した。 


「小会議室へ行こうか。依子、鍵を持ってきてくれ」

「は? なんでコイツの与太話聞くの!?」


 その歯向かい癖みたいなのはどうかと思うんだが。

 それから与太話と決めつけないでよ。



 教頭先生の巨体が、小会議室のパイプ椅子をきしませた。


「さて、まずはその額のミミズ腫れみたいな赤みはどうしたんだ?」

「あ、ええと、軟式のテニスボールが当たっただけで」


 教頭先生が溜息をつく。


「スポーツ部の連中は注意はしないのか?」


 疑問形か。

 この人は他人の言い分を受け止める度量を持った人だ。


「できないです。雨の日の練習場所を用意できないのは自治会の落ち度なんで。一応階段の蛍光灯は全部金網がついてますし」

「ハァ? 依ちゃんオメーのことそんな風に育てた覚えないんだけど? 待っててやるからソイツら磔獄門はりつけごくもんにして来い!」


 良寛牛乳のコーヒー牛乳を三つ持った依子先生が入ってきた。


「依子、いつになったらお茶を淹れるという言葉を理解するんだ?」

「うっさいなぁ」


 反抗的だな。


「まったく。運動部の処遇については月人君の考えを尊重しよう。で、話はなんだい?」

「は、はい、ええと……」


 色々なことが脳裏に浮かび上がったせいか、声が上擦ってしまった。

 落ち着け。今は予算の件だけだ。

 他のことは一切シャットアウトしろ。


 女子サッカー部の話や過去にこの学校で起きた事件について質問したくてたまらない。でも、駄目だ。


「えと、合同企画の余り予算を引くって決定した先生方と直接お話したくて」

「やはりか」


 教頭先生の困り顔は久々だ。

 誰かがこの交渉をしに来るんだと予想していたはずだ。


「まぁ、君になら教職員側の委員が誰か教えてもいいとは思うんだがね。どんな話をしたいんだ?」

「ええと、まず質問がしたくて」


 教頭先生が次の言葉を促すように頷いた。


「まずはその、一度予算の流用を認めたような態度をとっていたのに変えたのかなんですけど」

「ふむ。それは私も依子も事情を確認できていないんだ。実は今までこれほどの金額が余ったということがなくてな。それに驚いてしまっただけかもしれないんだ」

「あいつら頭おかしーんだよ! テメーの力で経費削減できたとか勘違いしやがってさぁ! 明らかに金髪の功績だろ! 生徒の功績奪うゴミクソどもが!」

「依子、そう言うな」


 生徒のことを第一に考えるというか、生徒と同じ目線なところは依子先生の良いところでも悪いところでもあるな。


「だってあいつら絶対間違ってるし! そもそも削る必要なんかねーのに!」


 依子先生には悪いけど、正義は我にあると謂わんばかりに文句を並べてしまったら話し合いが滞ってしまう。

 俺は言いたいことの押し付け合いじゃなくて話し合いをしたいんだ。


「それで、どういう交渉を考えているかね?」


 教頭先生の顔が少し険しい。


「あの、教頭先生、怒ってますか?」


 こちらの言葉を計りかねたのか、教頭先生は眉をひそめた。

 主語が無さ過ぎたよ。質問しなおせ!


「あの……その予算を取り上げた人に怒ってますか?」

「そういうことなら、もちろんだ。生徒達の頑張りを抑制してしまうのは好ましくない。君は怒っていないのかい?」


 息を少し多めに吸い込む。


「……怒ってはないです」

「ほう?」


 怒ってはいないつもりだ。

 ただ、イライラが止まらなかった。


 でも、俺達は所詮生徒で子供だ。

 怒鳴り散らせば精神的に未熟だという烙印を捺されて、相手にしてすらもらえない可能性がある。


「だから、その、自治会も実行委員会も協力できることはするんで、何にその予算を使うか教えて欲しいんです……例えば、生徒が肩代わりして予算を使わずに済むことはないかなって」

「ふむ」


 依子先生がスマートフォンを取り出した。


「おいゴリラ」


 教頭先生をゴリラ呼ばわり?


「なんだねこれは? 老眼鏡がないから拡大してくれ」


 ゴリラ呼ばわりはスルーなのかよ。

 本当の親子みたいな会話だ。

 依子先生が見せているのは間違いなく、多江の裏金計算表だ。


「どーせ学校側が奪った予算をなんかに流用するってぇなら、こっちもこの部活の余り予算を流用させろって言うつもりでいたんだろ、テメーは」


 ぐぬぬ。

 半分正解だよ。でも、まだ半分だけだ。


「なるほど。しかし、学校側がどのように予算を流用しようとね、それは学校側の権利だ。生徒にその権限まで委譲していないんだよ」


 それは確かにそうだ。

 生徒側の学園祭実行委員会側こそ、余った予算に喜んで暴走していた側だ。


「あの、だから相談したいんです。生徒側が何を我慢すればその予算の例えば、その、半分でも貰えないかって」

「半分? アンタどっちの味方なんだよ?」


 依子先生が呆れた顔で俺を見る。

 そんな風に言われてもな。


「両方のですよ」


 教頭先生が少し身を前に乗り出した。


「その、生徒側が何か妥協したり労働したりして返せるようなことがあるなら、させてもらえれば……」


 今のところ教頭先生は聴いてはくれている。


「はぁ? これ以上仕事増やす気か!?」

「依子、話しを遮るな。つまり、取り上げた予算を使う先を生徒がカバーしたり、別の手段で生徒がカバーできないかということかね?」

「そ、そうです」


 この交渉を進めるために、俺は自分たちの立場を根本的に変えることにした。

 奪い返すという立場ではなく、『新たに貰う』という立場に立つんだ。


 ただ一人の生徒自治委員会会員が、学校交流会合同企画で余った予算を財源に新たな予算の増額を依頼しているだけ。

 それがこの交渉だ。

 こうすることで、生徒側と学校側の間に一切対立構造を作らないことがゴールだ。


「ふむ。依子、予算の流用先を知っているか? お前は全ての実行委員会の会議に参加していたんだろう?」

「そんな話してなかったっての。知ってたら言うに決まってんだろ」


 恐らく何も決まっていない。

 ただ、百万単位の大きな金額だからセーブしておきたいだけという予想は当たっていそうだ。


「……月人君。どちらの味方もするというのは、一つ間違えばどちらの敵にもなってしまうのは分かった上で言っているのかい?」

「い、いえ、そんなことにはならないと思います」


 落ち着け。

 自分の考えをまとめてから口を開け。


「元々、その、学校側と生徒側は対立なんてしてないんです。ただ、この予算の使い方で意見が食い違ってるだけで。この一点をお互い協力してなんとかできれば……」

「先ほどの繰り返しだが、もし生徒側に教職員に媚びたと君が思われたらどうする? 教職員側が君のやり口をよく思わず一円も出さなかったらどうする? 君は孤立してしまわないか?」


 それくらい理解している。


「分かってますよ。それでまとまるなら安いもんです。僕をええと、スケープゴート……? にして先生側と生徒側が協力し合えるなら」


 はぁ、という年寄りのようなため息が聞こえた。

 いつも若々しく見える教頭先生が、少し小さく見えた。

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