『クリスティニア』が『桐花』でいるために……再び-3
第一会議室には教頭先生が一人で待っていた。
「忙しいところ済まないね」
忙しいのは教頭先生のはずだけど。
大会議室は長机がいくつかと、キャスター付きの椅子が何脚か置いてあるだけの殺風景な部屋だった。
「依子、お茶を淹れてくれと言ったんだが?」
俺達の後ろから入ってきた依子先生は、パックのコーヒー牛乳を抱えていた。
「はぁ? ジジィの趣味に合わせてらんねぇっての」
うへぇ反抗的。
教頭先生になんて口利いてんだ。
俺達の前の机にパックを置くと、依子先生は離れた場所に座ってそっぽを向いてしまった。
「依子はここの卒業生でな。二、三年の時は私が担任だったんだよ。こんな先生が顧問で楽しいだろう?」
四人でじっと依子先生を見る。
「な、何よ?」
依子先生が若干狼狽えていた。
「い、いい先生です」
つぶやく嗣乃の目には哀れみが見て取れた。
「そうだろう。大雑把だわ計画性は無いわ、自治委員会の君達がドブさらいしてる間雑談でホームルームの時間を潰すわ、自治会の仕事も君達に頼り切りでな」
教え子だったのか。
道理で気安く下の名前を呼んでいる訳だ。
「はいはいどうせ初めて担任になるまで三十過ぎまでかかりましたけど何かぁ? 教頭のくせに生徒に愚痴かましてるとかキメェなぁ」
教師としてあり得ない暴言にも、教頭はニカニカ笑っているだけだった。
「依子はな、私のことを恨んでいるんだよ。元々漫画家を目指していたんだがな、教職課程を取れと俺が脅して取らせたのさ」
「なんで今その話すんだよ! 別に恨んでねぇし」
あ、ちょっとデレた。
嗣乃も気付いたらしく、口に手を当てて笑いをこらえていた。
山丹先輩や多江とよく漫画の話をしている姿は見かけたが、漫画家志望だったとは思わなかった。
「あーあのー、教頭せんせー、俺、あ、僕、なんで呼ばれたんですか? 僕は依ちゃん……先生のクラスじゃないし……」
意外に勇気あるな、杜太。
いや、逃げようとしてるのか。
「ああ、すまん。クリスティニア・フロンクロスさんの名前の件だったね。私もあきらめきれなくて。君達の知恵を借りたいんだが、どうかね?」
なら全員呼べばよかったじゃないか。
この四人を呼んだ意味はどこにあるんだ。
「あ、あのーますます呼ばれた意味が分からないっていうかぁ」
杜太は隙あらば逃げようとするのをやめろ。
「まぁまぁ。ちょっと知恵を貸しておくれよ」
この人、声優の稲田徹っぽい声だなぁ。
俺の声豚センサーが反応していた。
余計なことを考え始めるのは集中力が途切れてきた証拠だ。
少しずつイライラも押さえられなくなってきた。
どうして桐花本人を蚊帳の外に置くんだ。
「まず、前提に問題があるんだ。うちの生徒には『セシル』、『ノエル』、『メリーアン』、『マエストロ』なんて名前の子までいるんだ。もちろん全員日本人だ。そして、自分の名前を嫌がっている子もいる」
やべぇ。
メリーアンの破壊力もさることながら、マエストロは名前として良いんだろうか。
「つまり、何をもって日本人名かそうでないかを判断できないと言うことですか?」
「その通りだ瀞井君」
一体何が言いたいんだ。
何故桐花がいないこの場所でこんな話をしているんだ。
「実際、マエストロ君は向井さんと一緒で、『マコト』という名前で友人に呼んでもらっているんだ。苗字で呼ばれることが多いだろうが」
教頭先生は心底困ったといいたげに、溜め息を吐いた。
「説教臭くなってしまって申し訳ないんだがね……名前というのは子供にあげるプレゼントみたいに言う人もいるが、私は親が子供に対して示す最初の方針だと思うんだ。だからね、成長著しい高校時代に名前を突然変えて良いとはなかなか言い辛いんだよ」
いかにも教師って哲学だな。
だが、そうなると俺はずっと陽太郎の陰って意味で名付けられたみたいになっちゃうんだけど。
留学生に日本人名ってのはちょっとしたレクリエーションに過ぎないが、桐花の場合は少々話が変わってくる。教頭先生が慎重になるのも頷ける。
「安佐手君……月人君」
「え? あ、あ、はい?」
急になんだ。
「依子が頼りにしているのは君なんだそうだが、何か考えつかないかい?」
「い、いえ」
本人不在の場をいつまで続けるんだ。
でも、教頭の困った顔を見ると、怒りが少し和らいだ。
困っていた。
たった一人の生徒のために、真摯に協力を申し出てくれている。無理だと切り捨てるのは簡単なのに。
「え、ええと」
こういう時はまず、前提を考え直さなくては。
単純に考えることが大事だ。
そもそも俺は中二病も患ったどうしようもない人間だ。
謎は全て解けたと宣えるキャラでもなく、薬で子供にされた訳でもなく、黒髪美少女に「私気になります!」なんて迫られることもない。
そんなつまらない人生を今もこれからも送るのが俺だ。
そんな人並みの俺には何ができるだろうか。
己の知能の範囲で考えることだ。これに尽きる。
この場で一つの答えを出さないと、次のステップには進めない。
「ええと、その、本名そのものを変えなくてもいいんです」
「な……!」
「よー、聞け」
俺にできること。
一つ目は事態の単純化だ。
「あの、どこかに併記できれば充分なんです。あの、名簿に、特記事項の部分とかあるなら……」
そしてもう一つ、事態の矮小化だ。
今この場は我慢が必要だ。まずは実現的なレベルの提案をしないと。
「え? まじ? そんなんでいいの!? つっきー話分かるぅ!」
緊張感のない先生だな。
「依子! 生徒の言葉を茶化すな! 月人君、現実的でいい案だ。ただ、それをする必然性が必要だ」
えぇ……必然性なんてないよ。
名前なんて一つで十分だし。
この場に桐花が呼ばれなかったのは、先生方なりの配慮なのかもしれない。
会議室内に沈黙が走った。
落ち着け。何も恐れる必要はないんだ。
教頭先生も依子先生も俺達を上から見ずに、同じ目線の高さを保って話をしてくれているんだ。
結論次第で半公認程度は取れるかもしれない。
緊張で頭の中が空回りしてしまうのは俺の悪い癖だ。
空回り度合いで言えば隣の嗣乃も同じだ。
俺よりも緊張する場を多く体験している分、緊張に対する許容量はある。でも、この状況には結構参っているようだ。
陽太郎はこういう時役に立たない。じっくり考えて、一番良い答えをなんていう気長な奴だ。
「あーあのぉ、向井ちゃん……さんは騒ぎにならない方がいいって、い、言ってたよねぇ? 月人ぉ?」
八方塞がりかと思った時、杜太が突然声を発した。
さすが杜太だ。よく覚えてくれている。
「あの……なんていうか、向井さんが、倒れた時とかにぃ、近くで見ていた人が、その、『向井桐花』っていう名前しか知らなくてもぉ、救急車の人がそのぉ、先生方に聞けば、分かるようになってれば……なんて……」
ああ、そうだ、それだ!
杜太は思いがけない所で頼りになる!
この話はまだ一歩目だ。その程度で良いんだ。この場は平易なアイディアでなきゃならないのに、何を複雑に考えていたんだ。
「なるほど。検討の余地はあるね」
「へ……?」
そうだ。
名前が学校に認識されているだけでも小さな一歩だ。
こんなことを桐花がいない場で決めてしまうのはどうかと思うけど、今は仕方ない。
「杜太、いいんだよ! まずは学校に認知されるだけでも!」
陽太郎も同じ結論に至ってくれたらしい。
「よし、案が出たところでこれを持ち帰らせてもらっていいかね?」
「え? ええー!? な、なんでぇ!?」
そこまでうろたえることはないだろう。
杜太は自分の案がすんなり採用されたことに驚いているのか?
「どうした御宿直君? 自分の提案だろう」
「あ? え? あぇ?」
「杜太、大丈夫。落ち着いて」
パニックに陥った杜太を、嗣乃が背中から抱きしめて落ち着かせていた。
「あの、教頭先生、どうしてこの四人かって聞いてないんですが」
一足先に落ち着きを取り戻した陽太郎が、もう一つの核心に踏み込んでくれた。
「おお、忘れるところだったよ」
教頭先生の笑顔が大きくなった。
「君達のお母さんの共通点は何かね?」
あ、もう分かった。
「……黙秘権はありですか?」
陽太郎が一気に渋い顔になる。黙秘は無理だ。
少々やんちゃが過ぎた写真がたくさん残っている。
「黙秘? 四人ともこの高校だったってことだが……黙秘する程のことかね?」
「「え?」」
四人見事にハモった。全員知らなかった。
実家はもっと田舎なので、そこの高校にでも通っていたのだと思っていたのだ。
「聞いていないのか。まぁ、あの子達らしいな。三月に四人揃って挨拶に来たから知っているものだと思ったよ」
「き、聞いてないです! 子供の頃の話は全然してくれないんです! 暴走族は入ってたことも!」
俺達四人は写真を見たことがあるだけなんだが。
「まぁ、聞いてくれ。昔な、ちょっと困った双子の担任になったんだ」
やっぱりかぁ。
「その双子が正義の味方だなんて自称して、いつの間にかメンバーも四人に増えて……本当に手を焼いたよ。バスの中で痴漢を追いかけまわす騒動を起こしたり、いじめをした生徒にいじめられた側がされたことをそのままやり返したりしてな」
うへぇ、我が母上達ならやりかねない。
俺達が悪いことををすると、容赦がなかった。
「だが、三年になった時、大きな事故を起こしてしまったんだ。一人の男子生徒に大けがをさせてしまったんだ。四人に追いかけられて、階段から転落してしまったんだ。男子生徒が何か良くないことをしたのは確かなんだが、四人はその生徒と約束したからと、頑として口を割らなかったんだ。お陰で四人とも、男子生徒よりも重い停学処分を受けてしまった」
母上達、何してるのぉ?
当時は『出席停止』ではなくて『停学』があったのか。
「そこからは君達が知っている通りだ。ガラの悪い連中と付き合う程度だったがね」
付き合うどころか幹部クラスまで上り詰めていたっぽいんですけど。
写真の並び的に。
「そ、その生徒がやったことって?」
やっと俺の口が動いてくれた。
「私も知らないんだ。その生徒と和解する代わりに黙っていると言っていたよ」
そんな任侠な性分の母親から、どうして俺みたいな小ずるいキモヲタが産まれたんだろう。
「街中走り回ってとっ捕まえるのは苦労したよ。大事な生徒の人生を学校の決断が狂わせる訳にはいかないからな」
なんというご迷惑を。
息子達が土下座すれば許してくださるだろうか。
「え、ええと、うちのママ……母親達を大学に入れてくれたのって」
嗣乃が恐る恐る質問する。
「それは本人達の努力の結果だ。彼女達は私を悪鬼の類だと思っているよ。高校を出て楽しくフリーター生活をしようという時に、無理矢理浪人生活をさせられて大学に叩き込まれたんだからな」
断言できるが、教頭先生を悪鬼だなんて思ってはいない。
全員楽しんでいたはずだ。
高校の話は聞いたことがないが、大学の頃の話はよくしてくれていた。
「だーからこのゴリラはクソ野郎だっつってんだよ! アタシにもアタシの旦那にも同じことしてんだから!」
旦那さんもそうなのか。
「お前は親御さんのお陰で奨学金を利用していないだろう?」
「東京行くの止めたくせに!」
「当たり前だ。面白い漫画も描けないのに」
容赦ないな。
でも、こういう人こそ必要なのかもしれない。
「はん。時代がアタシに追いついてないだけだしぃ!」
今の依子先生の発言は冗談であって欲しい。
典型的な駄目セリフじゃないか。
「まったく。君達は依子から色々学ぶといい。私は良くない方向へ進んでしまった生徒を引っ張り戻すのが専門だからね。君達には必要ないようだ」
呵々笑いする教頭先生の姿は、多分一生忘れられないだろう。
この人がいなかったら、俺達は間違いなく存在しなかったんだ。
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