18章 SPA・製造小売業

1  『商社のアプローチ』


 ただ、『サルパーレ・プライベート』は、その高いイメージを壊さないためには、それこれ以上の出店は限界であった。一つの成功は、次なる成功を求める。折角、取った有力な百貨店の売り場を利用して、次なるビジネスチャンスはないだろうか、と良太は考えるようになっていた。

 世の中はバブル景気で沸き、若い人たちが1着20万円もするベルサーチや、アルマーニを着て夜の街を闊歩するようになっていた。高い服を売ってはきたけれど、さすがに何処かおかしいと思うようになった。

「ファションの流れは大きく変わり、着こなしを知った若い消費者は、デザイナーの提供する高い服ではなく、パーツを自分流に着こなす新しい流れが、これからの主流になるのではないか。高品質だけど、簡素化されて安い、パーツカジュアルを提案する。新しい業態として製造小売業(SPA)が考えられる」と、業界紙の新年号にいっぱしなことを書いた。


 こんな時に3大商社の一つである、日実商事の繊維部長、北富雄の訪問を受けたのである。同行して来ていたのが、何と、野々村健太であった。何年振りのことであろうか、健太が大学を卒業する年、西京極球場に淡路組のメンバーと見に行って以来であるから、かれこれ20年は経っていることになる。池野良太も、野々村健太も43才と厄年を乗り越えた、仕事では油の乗り切った歳頃であった。エミも同席し、お互いの再会を喜び、場はなごやんだものとなった。

「近年の御社の活躍はかねがね注目をしていました。小売屋さんがプライベートのブランドを持って、成功させるとは稀有のことです。特に先日の業界紙に書かれてあったことに感銘しました。それで、出身校が洲本実業高校と書かれていましたので、洲本高校出身の野々村に『知ってるか?』と聞きましたら、『高校時代ピッチャーで投げ合っていました』と答えるではありませんか、それで彼を同行させた次第です。彼は私の右腕として頑張ってくれています」と北富雄は語ったあと、仕事の用件を話した。商社も川下作戦で小売業に関心があり、良太が云った製造小売業を支援し、ゆくゆくは共同事業で展開したいということであった。良太はこの提案に乗った。


注釈と資料

SPA(製造小売業):1986年GAP(ギヤップ・アメリカ最大の衣料品小売店)が自らを定義した「speciality store retailer of private label apparel」という用語は、訳してみると「独自のブランドをもち、それに特化した専門店を営む衣料品販売業」、衣料品業界で販売から商品企画までを手がける、従来の日本の衣料品業界の商習慣から見て目新しい業態を指すものであったが、GAPの成功を見て、「SPA」、あるいはその訳語である「製造小売業」という用語、業態が普及するようになった。日本における最大企業は株式会社ファーストリテイリング(ユニクロなどの衣料品会社を傘下にもつ)である。世界企業として売上高1兆円を掲げている。DC後のアパレルの主流となりつつある。


2  『SPAとVAN』


 このSPAという考えは、良太のオリジナルなものではなかた。DCも作って直営で売っているという意味ではSPAとも云えた。良太の言ったことの中で新しい感覚をメッセージしたものがあったとしたら、「パーツカジュアル」という言葉と「消費者が着こなす」と言うことではなかったか、この言葉がこの繊維部長を動かしたのではないかと良太は考えた。そうでないと3大商社の部長がわざわざ、一介の小売屋を訪ねてくるはずはない。繊維部長の上は重役である。

 この言葉を初めて、良太の前で使ったのは、柳本正であった。良太が彼と出会ったのは昭和55年夏であった。柳本正はセンター街のメンズ店、『マック』に勤めていた。良太が服を買いに行って2回程接客してくれたろうか、印象の良い接客ぶりだった。良太がたまたま入った居酒屋で偶然一緒になった。それから話がよく合い、連絡し合ってはよく飲みに行くようになったのである。柳本正はVANの元社員であった。

 

 昭和53年VANは突然倒産した。日本におけるメンズファッションの草分け的な存在として、団塊世代の若者の間では神格化された存在であったから、なぜ?なんで? 社会の注目度は圧倒的に高かった。あらゆる新聞・雑誌・テレビ等においてトップニュースとして報道された。

 2年後、和議が成立したのを区切りに、柳本は辞めて、取引で関係のあったマックに就職したのである。メンズとレディースの違いはあっても、服の世界に変わりはなく、むしろ畑が違ったからこそ話が合ったのかもしれない。柳本はVANの倒産について、良太に次のように語ったことがあった。


《10年前、憧れの『ヴァン・ヂャケット』に入社出来たことを俺は喜んだよ。当時、最高倍率の難関を越えて、ようやく掴んだ憧れのVAN社員の肩書だった。一体誰がその日に倒産を予想しただろうか。生活の保障も無い、青山の路頭に迷い漂う、わずか80人の破産財団、ヴァン・ヂャケット残務処理作業員の一員として残ったよ。VANは俺に取って人生そのものだったからだ。でないと、女房、子供抱えて残りなんぞしないよ。年末も近づいてきたある日、天下のNHKテレビから年末特番の取材の申し込みがあったのだ。女優・高瀬春奈のレポートで、「年の瀬を迎えたかつての若者のカリスマ・青山VAN本社」から悲惨な年末状況を伝えようというものだった。残務社員達からは、惨めな姿を晒したくない、恥ずかしいから嫌と言う意見も相次いだが、相談の結果、VANの現状を社会に伝えようということで、取材を受けることになった。ところがだ、皆、レポーターにマイクを向けられるのはイヤダ、私は写りたくない、しゃべりに自信がないと言いだした。相談の結果、なぜか、担当は俺になってしまった。柳本正テレビ初出演となった次第だ。そんなこともあったりして、目立つ存在になってしまって、俺は労組に対し提案したんだ。「破産財団から在庫品を払い下げてもらい、これを売ることで残存社員の生計を立てましょう。私にVAN・SHOPをやらせて下さい」とね。VANは倒産したが、ブランドは生きていた。債権者に取られて、2足3文で売られるより、ズートいい考えと思ったのだ。何とか説得出来て、青山本社の1階をショップにして売ることが許されたんだ。VANフアンが押しかけてよく売れて、残った社員は何とか食いつなぐことが出来た。その時、ショップの力を思い知ったんだよ。小売を知らなければアパレルは出来ないとね。和議が成立して、残る社員は多かったが、俺は、ブランドは生きていても、会社は死んでいると思って、それでやめたのさ・・》


 神戸で聞く関東弁であった。柳本は、広島出身で東京の私学を出て、良太と同い年であった。柳本はこうも云った。

「俺はブランドに頼らないアパレルをやりたいんだ。VANは結局それに甘えたのだと思う。着こなしの提案と云う功績は残したが、何時までもお仕着せの着こなしが続く筈はない、お客は自分流の着こなしをする時代がやがてくるはずだ」と、SPAという言葉こそ使わなかったが、これが良太のヒントになっていたのである。事実、1980年代末期、〈渋カジ*〉と呼ばれるメンズファションが、団塊ジュニアーと呼ばれる若者の間で流行った。良太はレディースの世界であるが故に、この流れを見逃したが、柳本正は見逃さなかった。


注釈と資料

渋カジ:バブル期の頂点1988年頃から、一世を風靡したDCブランドの反動か、カジュアルなファッションスタイルが流行った。白のTシャツやポロシャツ、ストライプシャツにインポートもののストレートジーンズ、紺のブレザー、ヴィトンのバッグに足元はモカシンというシンプルなファッションは渋カジ(渋谷カジュアル)と呼ばれた。このファッションスタイルの発信源が、渋谷区、港区、世田谷区などの私立男子高校生からのタウンファションにあったことからこの名前になった。彼らの親は、社会的にも経済的にも恵まれた世代で、アイビー・ルックなどに親しんだ世代であった。当然のように、その子供達は親のファッションセンスを受け継ぎ、ジーンズや紺のブレザーなどをカジュアルに着こなすのは自然なことであった。こうした私服で渋谷や六本木で遊ぶ男子高校生の姿がメディアに取り上げられると、全国的に広まって行った。


3  『SPAは単純に製造小売業ということではない』


 柳本正はその後、父親が亡くなって広島に帰り、実家の商売を継いだ。実家は婦人服店で3店舗を持つ地方都市では有力店であった。父親が厳しくって一緒に仕事をする気にはなれないと語ったのは、良太と同じであった。そんなことでも、意気投合したのかもしれない。

 季節には広島の生牡蠣を送ってきて、手紙が添えられていた。内容は季節の言葉は違っても、「田舎で悪戦苦闘しています。実際自分で経営して見るとそのむつかしさがわかります。親父をもっと認めてやったらと、今頃気が付く始末です。メンズの畑だったので、レディースは尚むつかしいです。良太に聞いたことが随分と役に立っています。いつか中央に打って出たいと思っています」と云う内容であった。


 準備期間を経て、商社日実との新たなる事業、『SPA・サルパーレ』は始まった。商社の担当窓口になった、野々村健太と良太、かつてのライバルは、今は同じチームのユニホームを着る関係となって、スタートしたのであった。

 初年度は百貨店の売り場も取れ、売上も順調に推移したかのように思われた。百貨店の売り場も広がり、翌年の強気になった。しかし、年号が変わった1989年(平成元年)12月の日経平均38915円を最高値として、翌年、10月には株価は2万円を割り込み、僅か9ヶ月の間に半値近くに急落した。バブル景気の崩壊がはっきりした。バブルは弾けたのである。

 本業を忘れ、不動産投機に放漫な経営を続けていた銀行も商社も、自らを守ることに必死になった。強気に出た失敗の過剰在庫と、このことが重なってしまった。繊維部長の北も、野々村健太も必死になって防波堤になってくれたが、上の戦線縮小の方針はいかんともし難かった。それでも個人資産の切り売りで3年持ち堪えたが、債務超過に陥り、商社金融も打ち切られ、サルパーレは倒産の事態に至った。


 アパレルと小売部門は別会社になっていたので、本来ならば、小売部門にまで波及させない方策もあったのであるが、代表者が夫婦であることが関係し、個人保証、相互保証がからみ、倒産は小売部門まで波及する最悪の結果となってしまった。強気が裏目に出た時期と、バブル経済の崩壊とが重なったことが原因とされるが、『SPA・サルパーレ』はある意味で、バブル後を睨んだ商品ではなかったのか?

 

 柳本正は池野良太のSPA事業を、興味と関心を持って見ていた。おそらく、国内では初めてSPAを名乗る本格的なものであった。広島のショップで商品を見て、「これはあかん」と思った。カジュアルテイストを加味されているとはいえ、『サルパーレ・プライベート』のセカンドブランドに過ぎないと思った。どだい、価格設定が高い。柳本はもっと安い価格帯を考えていた。それには一つ、アパレル事業には後発であった、商社日実の生産体制の弱さがあった。海外生産を云いながら、それが組めなかったのである。

 急ごしらえのスタッフの弱さがあったろうが、基本的にはトップ、池野のSPAの消化不良と見た。過剰在庫とはやはり、店頭の販売不振に原因がある。景気後退の局面であっても、真に消費者に支持される新しいものは、それらを乗り越えてあらねばならない。

 柳本はSPAについて真剣に考えないといけないと思った。どんなスタイルで、どんな価格帯で、生産体制は、サルパーレは百貨店を通してショップを展開したが、ショップ展開の方法も含めて、考えなければならない課題はいくつもあるように思われた。良太を思い、柳本は自分の危惧が外れて欲しいと願ったが、事態は彼の危惧する方向に進んだのだった。



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