17章 大庭祐二の憂鬱
1 『俺は会社の奴隷か』
1970年創業、1974年TD6*にチーフデザイナーが参加、1977年ラホーレ原宿で直営店を持つ。続いてパルコ。1980年に入ってのDCブーム。全てが上手く行き過ぎた。20年前、5人で始めた会社だった。それが今や5百億に手が届こうとしている。マイナーがメジャーもいいところ。東の「JI-JI」、西の「グローバル」、どちらが早く1千億企業になるかと書いた本まで現れた。「JI-JI」の大庭祐二はこれだけの成功にも、憂鬱を感じていた。
企業や、会社というものは、不思議なものだと思う。一定の規模までは、大庭の言うとおりになった。左を向かそうと思えば出来た。今は会社が大庭に命令を下す存在となった。大庭が右を向きたいことがあっても、それを許さない。逆らうと会社は瓦解するぞと、大庭を脅す。俺は会社の奴隷だなと苦笑する。
奴隷から抜ける方法は一つあった。やめることだ。今だったら解散してもたっぷり分配出来る。デザイナーはその資金で自分のブランドの会社を起こせばいい。スタッフは好きなブランド、デザイナーについて行くもよし、ファッション以外の世界に飛び立つのもいい。じっくりと考える時間を持てるだけの資金は与えられる。大庭個人は、一生遊んで暮らしても使い切れない資産を築いていた。
東京の目で地方を見てみると分かることがよくある。地方は必ず遅れて東京化する。アパレルで儲けた資金で青山、六本木、代官山とイメージ立地に本社を建て、次の土地に本社を移し、先の建物を他のアパレルに貸した。好業績を背景に、土地を買うと云えば銀行はいくらでも金を貸した。
東京の目で見れば地方都市の地価は安すぎて見える。そこで大庭はブランドビジネスを始めた。地方都市のメイン通りとその裏の通りを繋ぐ路地の道に「JI-JI」の5ブランド程の直営店を出す。すると、他のDCアパレルが続いて直営店を出す。そこはDC通りとなって、若者たちが集まり、カフェやレストランも出来て街となる。頃を見計らって、店を売って、ブランドを地方百貨店のショップに移す。何といっても百貨店の中はよく売れる。
そのうち、「JI-JI」の手が入ったというだけで、その通り付近の地価は上がり出す。不動産屋の上を行く不動産屋だと、街の不動産屋は口にした。その街に行く。カメラを構えてファインダーを覗く、次はどこかは見えてくる。そこに仕掛けとして、自社のブランドショップを置いて仕掛けて見る。こうして会社も大庭個人も資産を作っていった。大庭にとって、そのブランドの服がどうとかは、デザイナーが考えればいいことで、大庭はそれらのブランドを使って会社を発展させるのがブランドビジネスなのだと思っている。
社内では「こんなやり方でいいのか」との異論があるのは知っている。いまでも5人のメンバーの会は、紅茶とクッキーで開かれている。最も異論のきついのがメンズブランドのチーフデザイナー・菊池武史であった。「創業期の精神を忘れていないか」であった。あえて反論はしなかった。「戻れるならそれも良かろう。ガレージで服を売り、小さなハウスをアトリエにしたあの頃に帰れるなら・・。プール付きのお邸に、外車、子供の有名私学、全て棄てる覚悟があるなら・・」と大庭は思う。
菊池武史は結局出ていった。どこに?グローバル・インターナショナルに役員待遇で。妻である元モデルデザイナーは「JI-JI」に残った。一時格好の話題になったが、ファッションの世界では噂が百日続いたためしがない。思えば、広告宣伝の写真を撮っていたときに、そのモデルが着ている服が気にいったのがアパレルを始めるきっかけだった。
そのことが大庭を憂鬱にしているのではない。チーフデザイナーの後釜は育っている。若いセンスは彼の方が上であろう。直ぐに花が咲くだろう。出ていった菊池は、最初は影響力を発揮するだろうが、そのうち彼は忘れられ、ブランドの上にだけ彼の名前は残るだろう。名を残せたデザイナーは幸せだと大庭は思っている。
注釈と資料
TD6(シックス):六本木、表参道、外苑と近くて仲の良いデザイナーが集まって遊んでいたなか、ふと或る時、「同じ時期(約1週間)にショーを開こうよ」のひと言で、後に東京コレクションの礎となるTD6が結成された。当時、オーダーサロンのデザイナーが集まった団体があったものの、プレタポルテのデザイナーがグループを結成することは、日本で初めての出来事だった。
2 『全てはノーサイドだ』
‘80年半ばを過ぎてDCの退潮が始まっていると見ていた。粗製濫造のブランド、それに容易に売り場を提供している百貨店、ファッションビル、小売業。高い価格にプアー嗜好の服、どだい合っていない。押し付けがましいデザイナーの主張。主張にすらなっていない主張、物作りの厳しさと基本を忘れてしまったデザイナー、そんなデザイナーにブランドを安易に与える会社側、いつまでも続くはずがない。土地の値上がりだって手を引くべき時が来ているようだ。今までの調子で行くはずがない。大庭はもう一度店に帰ることだと思った。
ワンブランド、ワンショップにこだわってきた。そのブランドが最も美しく見える売り場にこだわってきた。これからの売り場は、楽しいものでなければならない。大庭はセンター街の、花子の〈フラワー〉の店を訪ねた時のことが忘れられなかった。3ブランドの品揃えで、バイヤーのセレクションとコーディネートの楽しさが店にはあった。ブランド数も増えた。これらのブランドを使って品揃え店を次の手として大庭は考えていた。180度の大転換である。ことは順調な内に、次の一手を打っておくのが経営学の鉄則である。
デザイナーの次は、花子のような個性あるバイヤーを育ててみたい。同じブランドのミキシングでもバイヤーの個性によって違った店に見えるだろう。「JI-JI」の全ブランドをミキシングした売り場は最低百坪はいるだろうと考えた。それを、百貨店に打診したところ、既存のブランドスペースの上に、さらにそれは厳しいという答えだった。又、同一地区の複数の百貨店には、ブランドを振り分けて対処してきた、品揃えとはいえ、自店のブランドが他店に出ることになる。その面からも反発があった。
そこに、神戸そごうから百坪割いていいという提案があった。神戸そうごには、花子の〈フラワー〉があるので「JI-JI」のブランドは入れてこなかったのだ。元町の大丸百貨店には〈フラワー〉が扱わないブランドに限り、何ブランドかを展開していた。今回のそごうのショップの主力ブランドはまさに〈フラワー〉の主力ブランドが主をなす。花子からヒントを得たショップを、目と鼻の先でやろうというのだ。その了承の話に出向くことが、大庭を欝の気分にしていたのだ。花子とは長い付き合いだ、言われる言葉はわかっていた。
初めてまともな店で真剣に売ってくれた人。5人で創業と言っているが本当は6人の創業ではなかったのか。そごう、大丸と神戸地区の百貨店からは猛烈なアプローチがあったが、〈フラワー〉を優先してきた。花子が、ガレージにフラーとやってきた日、僕たちのファションを語った日が思い出された。
「あれから相当な時間が過ぎている、全てはノーサイドだ。生き残って行くためには仕方がない」と大庭は腹を決めた。
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