16章 神戸発ブランド



1  『神戸北野は風見鶏からファッションストリートに』


 良太は次なる出店を神戸北野に決めていた。1977年(昭和52年)北野町で建築家、安藤忠雄による設計で、『ローズガーデン』や、80年に入っては『リンズギャラリー』等が出来、これらのスペースとDCブランドが結びついて、三宮に飽き足りない若い女性を徐々に惹きつける空間になりつつあった。良太はこの動きに注目していたのである。


 第2の「JI-JI」になり得るのはN&Cブランドを持つ三光インターナショナルしかないと良太は考えていた。それはブランド力もさることながら、会社の企業力も買っていたのである。三光インターナショナルはバックが大阪の生地問屋であった。アパレルの時代に、このDCブームから参入を考え、東京にアパレル部門を発足させた。生地問屋の社長は、アパレル分野は、ブランドマネージャーに統括させた。そのブランドマネージャーに会ったことはないが、取引を通じて、そのやり方を良太は評価していたのである。良太の狙いが外れていなければ、多分、彼は次なる「JI-JI」を目指しているはずであった。


 三光インターナショナルはカジュアルブランドには実績があったが、このN&Cブランドはまだデリバリーに不安を持っていた。N&Cブランドにエミの好きなニットブランドと靴のDCブランドと云えたモード・エ・ジャイナとのミキシングでの店を提案すれば、神戸の若い女性はどう反応するだろうか。それをテストする場所は北野しか考えられなかった。この北野の店を足がかりに是非とも、都心一等地での展開を計りたかった。都心で店を、これが良太の夢であった。夢は若者の特権であり、バイタリーの源泉である。パンひと切れでしのいでも歌手になった話を聞くが、ある程度の年齢を重ねるとそうは行かない。


 良太は北野の町を何回も歩いた。次なる物件を探してである。北野坂は既に三宮から真っ直ぐに登れる道がついていた。その北野坂と中山手通が交差する角に渋田商事なる不動産屋があって、何回も足を運んでいた。


「池野はん熱心やから、こっそり教えますけど、西村の会員制の喫茶店の下の角に空き地がありまっしゃろ、あそこは向かいの旅館が持ってますんや、どうやらテナントビルを建てるつもりらしい。最近、北野での物件の問い合わせが多いんですわ。もし話が入ったら真っ先に知らせます」と、渋田商事の社長は云ってくれていた。昭和52年NHKの朝の連続テレビ小説で、『風見鶏の館』が放送され、北野の名が全国ネットで知られ、異人館に観光客が訪れるようになっていたのだった。


 その余波は意外な所に波及した。神戸は坂の街である。海岸通りから栄町、京町筋にかけてのビジネスマンが、(市役所のお役人も忘れてはいけない)仕事を終えて、夏なら生ビールに冷奴、冬なら熱燗に湯豆腐、昔「ジャン市」、今高架下。それから懐に余裕がある連中は、生田筋、東門街のキャバレー、バー、スナックに繰り出す。そこで持てた男性だけが、坂を登って、中山手を越して、北野辺りのホテルにしけこむ。これを別名「サラリーマンの出世街道」と言った。「オレらはいつも高架下」「お金使っただけの生田筋」とか云って、涙を飲むのが大抵であったが・・。 


 北野町は外国人も住む住宅地であった。しかし一歩裏の路地を入るとラブホテルのネオン看板があった。『なんとかハイツ』には夕方になると着飾ってご出勤されるお姉様が住んでいた。一方、眺望を売りの高級マンションが建ちだした。そこに観光客がたくさん訪れるようになった。

 こう観光客が訪れ、表通り化されてはホテルはやっていけない。神戸には『神戸はじめ物語』があるが、「総鏡張り、回転ベッドもみな神戸や」と云う人もいる。山本通り、『異人館倶楽部*』筋向いにあるラブホテルが取り壊してテナントビルになるという情報を、良太は別の不動産屋から得ていた。


 渋田商事から一報が入ったが、良太は一瞬その物件と天秤をかけ躊躇した。返事は明日でも良かろうと一晩考えてみることにした。一番最初に出来た『異人館倶楽部』辺りに若い女性の集積が多かったのだったが、北野坂に面した角、三宮からも近い渋田商事の物件の方がやはり良いように思われた。あくる日早く、良太は渋田商事に出向いた。


「池野はん遅いわ、明日契約で決まったで」

「そんなー、他から口があったら知らせるということやったから・・」

「あきまへん、気に入った物件は即決です。でも変ですなぁー、何処で知ったんやろぅ。あのオーナーはええ加減な人やないから、ウチに話を持ってきたものを、他の業者に流す筈はないし。それが証拠に、翠柳はんに直接依頼があったけど、渋谷商事さんに任してますと、こっちに繋ぎはったぐらいや。ともかく決まりです」

「そんなぁー、せっかく決めたのに、こっちかて諦められませんわ。何とかならんですかぁ」

「後は、オーナー次第ですなぁー、ウチは手数料入ればどっちでもええんですわ」

「そない云わんと、なんとかなりませんやろか」

「一泊するから、悪いんでっせ。今、家に居るはずや」

それが、渋田商事の社長のギリギリの善意であった。こうなったら、「当たって砕けろ」やと良太は思った。


2  『あれから10年、花子と竹野』


その頃、ニシムラの会員制の喫茶ルームでは、珍しい二人が会っていた。〈フラワー〉の店主、南野花子、〈グローバル〉の専務、竹野義行、花子の結婚前夜祭以来である。花子は北野にマンションを買って住んでいる。北野では本格的な高級マンションが建ちつつあった。売りはやはり「港が見える」であった。同じ建物でも、見える位置とそうでない位置とでは、価格は3割も違った。勿論、花子の部屋は全て南向きで、海が見えた、天気のいい日は、はるか紀伊水道が見られ、目を西にやると何時も淡路島があった。


 会員制と言っても特別なものではない。入会会費年2000円払って、名刺を差し出すだけでよい。珈琲がいくら高くても単価は限られている。ここは最高級の豆が使われている。でも、本店も同じである。売りは私邸に使われていたインテリアと、一階に置かれているクラッシクな大きなオルゴールである。

 女主人がたまに居る時は、そのオルゴールの云われを語ってくれる。「普段入れない所でお茶を飲めた」がもてなしになる。花子は三宮の店に立っているとき以外は、ここを来客との応接場所としていた。そう考えれば、年2千円は安いものである。


 電話をかけてきたのは竹野の方からであった。〈グローバル〉はDCブランドの登場によって、この先苦戦を強いられるのではないかと、DCの波に乗り遅れまいと考えていたが、個性的なデザイナーなんて〈小麦畑〉の細野裕美を除ければ皆無であった。むしろ、個性を殺させてきたといえる。まず、ブランドコンセプトありき、商品企画といっても営業企画が優先される。デザイナーはそれを形にすればいいだけの存在だった。

 今、急に社内のデザイナーに個性的になれと言っても無理な話である。DCブランドの草分け的な存在である「JI-JI」は2百億の売上を上げ、今や、メジャーで、その成長神話には目を見張るものがあった。そのDCブームを先取りし、「JI-JI」で唯一3ブランドの品揃えを許されて、花子の〈フラワー〉は15坪で5億を売り上げている。花子にDCを教わろうと言う魂胆であった。


 商売のためには、気まずさは目に入ったゴミですらないのが、グローバル流儀であったが、竹野はともかく花子に会える名目が出来た事の方が嬉しかったのだ。一度、友情は回復させたいと思っていた。そのためには面子なんかどうでも良かった。「実際悪いのは自分だと思っていた」。あれから10年であった。


 3  『竹野、あんた私に借りがあるやろう』


 まず、竹野は謝罪からはじまり、〈グローバル〉の10年の経過をかい摘み、会社の現状を話した。花子は「JI-JI」ブランドとの出会いを話し、花子の見る「JI-JI」の会社を話し、店の現状を話した。そして「DCのブームは当分続き、誰にも止められないだろう」と結論づけた。そしてこうも付け加えた。「『JI-JI』とあんたとこは成り立ちも違えば、体質も違う。どだい、比べられへん会社やわ」と。

 話せばお互いこだわりをもたない性格、昔の雰囲気に帰れたが、お互いの立場や経歴は帰れない。そして、やはり仲間の消息の話題になった。


「あんたとこも、発展やね」

「花ちゃんとここそ、考えられん数字やなぁー」

「島崎さんは元気してはるの」

「社長は元気、元気、あの人から元気取ったら何も残りまへんや。デモ、偉くなってしまって、俺が会うのにも秘書のアポイントいるねん」

「良太とこのこと何か聞けへん」

「それやったらなぁー、実はこの下の角の空き地な、向かいの旅館の持ち物やけど、テナントビルになる予定や。うちのやるDCブランドの直営店に最適な場所やろぅ。そこに目をつけてご執心やったのが池野良太や。うちかて北野では物件探してたんやが、ひょんなことで情報掴んでな、旅館のご主人に早速会いに行ったら、『うちは、渋田商事さんに全て任してますから、そっちに行ってくれ』ということで、そらあの角の不動産屋や。早速行って、条件を聞いてこれは即決やと思って云うと、明日迄待って欲しい。先口があるといいよるねん。それが良太とこや。『そこがNOやったらどうしまんねん』と聞いたら、『そしたら、あんたとこにします』と返事や。『手付でももうたんですか』と聞いたら、それはないと云いよった。『じゃーうちが先行ですやろぅ、オーナーかて通してこうして来てます』云うて、『これは手付金です。契約の手付と別途で、渋田商事さんの内諾を得る手付です』と2百万円の小切手を相手のポケットにねじこんで渡して、正式契約は明日と云うことになった次第や」と竹野は話した。


 コーヒーを一口飲んで、花子はしばらく何かを考えていたようだったが、

「竹野さん、専務さん一つお願いがあるんやけど聞いて貰えます。花子一生のお願い」

「なんでんねん、急に改まって」

「あんなぁー、竹野、その話良太にやり。あんたとこは引き。なんぼでもこれから北野では物件出てくるわ、あんたとこやったら、土地から買って建物建てられるやろぅ。そこを拠点にデザイナー集めて別集団作るねん。本社の礒辺の今のところでは体質変わらんわ。なんぼええデザイナー採用しても、淡路組の玉葱の臭いに染まってしまうわ」

「そんなこと云うても、北野で直営店は早急な課題で、社長命令なんや。俺の一存ではいかんねん」

「竹野、あんた私に借りがあるやろう!手を引き。グローバルの専務云うてもその程度かいなぁー。せやから、島崎の金魚の糞と言うねん。云うこと聞かなんだら、これっきりやさかいな」

「分かった。花ちゃん、今日はまず謝りに来たんやから、聞かんとなぁ。俺かて、グロバールの天下の専務や」。竹野は胸をはった。

「チョット軽いけど、ええ男やなぁー」と花子は思った。


4  『オーナーはお昼寝中であった』


 こんな会話がつい横の建物の中でされているとは知らない良太が、菓子折りを持って旅館『翠柳』の玄関に立って、呼び鈴を押していた。出て来たのは、体格のよい60歳ぐらいの主人であった。名前を宇山柳平と云った。昼寝でもしていたのだろうか、目を瞬きながらラフな格好であった。明日契約の会社の人間が来たと思ったらしい。良太が不動産屋の社長との経緯を手短に話すと、断られるのかと思いきや、「まー、上がり」と応接間に通された。


 社名は言われなかったが話の内容より、明日契約の会社とは〈グローバル〉ではないかと良太は想像した。その会社は若い人向けの新ブランドの直営ショップを出す予定だと言う。良太は名刺を差し出し、店の概要を説明し、きちんとした路面店をするなら何処にも負けない事を話し、「おかもとガーデンズ」の写真を見せた。それには宇山氏はかなり興味を持った様子で、一、二、質問も良太は受けた。

「契約は、明日や。まだ契約したわけではあらへん。大きいとか小さいとかは問題でない。君かて、会社の代表取締役やないか。同列に並べて検討してあげる」と、意外な答えが帰って来た。それで、でっぷりとした旅館の主人、宇山氏にファッションやブランドの話しをしても、分かって貰えるのかと良太は思ったが、店のイメージや取り扱うブランドの話をした。


 しばらく話して打ち解けて来たのか、宇山氏は前の空き地にテナントビルを建てることになった経緯を話した。

「北野町は真珠屋さんが多く、真珠取引で、全国よりブローカーが集まるとこでした。それで旅館業が成り立ってきたんやが、円高で真珠屋さんも景気が悪い。家族経営で嫁さんに料理や何やかやと負担をかけてきたんやが、旅館業もボチボチ先を考えんといかん」と話し、

 また、「北野町がイメージある立地となってきているのに、前の空き地がごみ置き場同然になっていることに気が引けてきたんです。建てる限りは、小さくても、神戸らしい洒落たほんまものを造るつもりです」と云って、イメージ写真と使う石素材を良太に見せた。良太はそれを見て、益々店を出す気になった。「知人にゼネコンの会社の建築デザイナーが居り、普通ならこんな小さな物件はやらんのんやが・・」と自慢げに話し、「今夜、家族会議や、同列に並べて検討してあげる」と再度念を押した。


 渋田商事の社長から電話が入った。元気な声だった。「契約予定の会社が断ってきた、それを言いに翠柳に出向くと、私が話す前に『渋田さん、あの物件の1階は若い人の方にします』と云いはった。君の熱意を買ってはったで。良かったなぁー」こうして、物件は幸運にも(本当の幸運をもたらした経緯をこの主人公は知る由はないのであるが)良太の手に入ったのである。しかし、次なる問題が発生した。


5  『一難去ってまた一難』


 予定していたブランドN&Cが難題を持ちかけてきたのである。N&Cにはこの北野でのプランは事前に通してあり、3ブランドの組み合わせでも良いと言うことであった。「他の2ブランド(ニットと靴のブランド)を除けて、N&Cのオンリーショップにしろ」と言ってきたのである。


 東京のDCアパレルにとって、西に向けての神戸のポジションは特別なものであった。東京の原宿か、青山、代官山といった所で、直営ショップでイメージを立ち上げ、神戸で販売力のある専門店を通して、全国展開に入るのをパターンとしていた。神戸の若い女の子に人気だと云うと、『JJ』とか、『Can,Cam』とか、お姉系*のファション雑誌は必ず取り上げる。実際、神戸の女の子のファッションマインドは優れていた。


 いつの間にか、芦屋にかけて、山の手のお嬢様イメージ神話が出来上がっていた。事実、この若い女性に圧倒的な人気を持つJJ社の編集長は「新入社員の教育には、神戸に張り付けて、今何が流行っていているか、センスのよい女性をタウンウオッチさせて教育をするのが一番である」と或る講演会で言っていたぐらいである。良太は、この編集長の講演を聴きに行って、非常に参考になったことがあった。

「皆さんは、雑誌は情報を売るものと思っておられるでしょう。違うのです。雑誌はホンマ物を売るのです。そして皆さんのお店は、モノではなく情報を売るのです」。予感はしていたのだが、出店して良太は、北野はまさに情報を発信できる立地であることを知った。

  

 エミは営業担当者あんなに喜んで承諾してくれたのにと珍しく怒ったが、北野でN&CブランドのFCをやっても良いという小売店(以降E社とする)が出て来て、天秤にかけてきたのである。N&Cブランドのオンリーショップ、西のフラッショップを作りたかったのである。それぐらい、イメージ的にも販売的にも良い立地と見たのであろう。他の2ブランドを除けることは簡単である。80%はN&Cを予定していたのだから・・。ただ、良太は父、鹿蔵から商売について、2つ教えられたことがあった。


 一つは「二度値切りはするな!」、少し値切る、気持ちよくまけてくれた。つい、もっとまけてくれるのではないかと思って、二度値切りをすると、相手に人間を見られると言うこと。もう一つは「商売は儲けなければならないが、何をしても良いと言う訳ではない、約束は何より大事、それが信用を作る」と、良太は父になにかと逆らった方であるが、この教えは守ってきたつもりであった。

 例えば、3人の女性と一緒に旅行をするとする。駅に来て一人の女性が他の2人を除けろと我儘を言い出す。本当はその女性と旅行をしたい。「さー、どうするか」である。


 メインに考えたブランドである。N&Cの為に用意した物件と言ってもよい。N&Cは、今はデリバリー的に力不足な面は否めないが、必ず充実させてくるだろう。ブランドマネージャーであり、別会社になった社長平田裕輔氏は、面識はないがやり手で、次の「JI-JI」になるのはここをおいてないと良太は思っていた。

 既に保証金の3千万は支払った。主力ブランドを抜いた店で、なをかつ、イメージを最も問われる立地で、どうやって売り上げを作っていく?半分心は向こうに流れ、父の言葉を聞かねば良かったと、良太はハムレットの心境であった。間際で無理難題を言ってくる、東京のアパレルに怒りを感じたのは良太もエミと同じであった。

 只、二人で愚痴っていても始まらない、良太とエミは社長平田裕輔氏に談判すべく東京に発った。


注釈と資料


お姉系:お姉系という言葉が誕生したのは2000年前後と言われている。それまでは「神戸系ファッション」と呼ばれたり、「OL系ファッション」と呼ばれた。起源を辿れば1970年代中盤にまで遡り、当時神戸を中心としたコンサバファッション、「ニュートラ」が流行する。上品かつ男性受けが高い着こなしから全国的なブームとなり、これに目をつけた雑誌女性自身が1975年より隔月刊の別巻としてJJを創刊した。JJは当時の女子大生やOLなど主に20代前半の女性をターゲットとし、日本の女性ファッション雑誌の中で最も発刊部数の多い雑誌となった。1981年にはCanCamが創刊され、1983年にViVi創刊、1988年にRay創刊と1980年代後半のバブル期までに、現代のお姉系の基幹となるファッション雑誌が挙って創刊されており、日本の女性ファッションで最も高いシェアを誇る人気となった。ギャルより上の意味でお姉系と呼ばれる。


6  『あんた、足ついているかぁー?』


 平田氏は営業担当の山口幸喜と共に現れた。

良太も、エミも座っていた椅子から転げ落ちそうなほど驚いて、しばし声が出なかった。N&Cの社長、平田裕輔氏はあの平田佳祐であった。

「お久しぶりです。何時もお取引有難うございます」と社長、平田は挨拶をし、頭を下げた。

 エミも、良太も頭は下げたが、その時の顔を見たものがあったら、何と腑抜けた顔であったろうと思ったであろう。ともかく挨拶をし、名刺の交換をして着席をした。女性社員がお茶を持って来て出した。二人はともかくそれを口にした。さて、良太もエミも何から話すべきか。


 その前に平田佳祐、いや、平田裕輔氏の方から話し出した。

「御社のことは営業担当者を通して存じていました。営業面は全面的に彼、山口に任しておるものですから、お取引先にお会いすることもなく、ご挨拶が今になったことをお許し下さい。又、お二人のご結婚おめでとうございます。御社のご発展を陰ながら応援していました。幸い当社とのお取引も順調で、この度は北野において、お取り上げを検討頂いて誠にありがとうございます」と話し、着席のまま再びおじぎをした。エミは二人きりで誰も傍に居なかったら、「あんた、足ついているかぁー?」と訊いたであろう。良太とて同じ言葉を発したであろう。


「御社とお取引させていただいて、その発展ぶりに目を奪われています。御社のお力をお借りして、新しいタイプの店を展開していきたいと思っています。その時に、同郷の平田佳祐氏が社長とは嬉しい限りです」

 良太はどう言うのだろうと思っていたエミは、さすがな話し方だと思ったが、本当なら、「佳祐か、元気やったんか」「良太、エミ久しぶり」でいいのに何か不自然であった。それも致し方ないのが10年という時間であったろうと、傍にいてエミは思った。


「今日、わざわざ東京迄お越し願った趣旨はおおよそ推察されますが・・」

「そのことで、是非、社長にお会いして、申し上げたいことがありまして、お伺いした次第です」と云って、良太はN&Cの今回の変節について次のような点において、納得いかないので再考願いたい旨を述べた。


 第1点は「やってよいでしょう」の返事で保証金の手金を打ったこと。第2点は良太の考え方の力点の中心をなすものであるが、「私は、郊外のさして立地の良いと云われない所で貴社の商品を販売し、実績を作り、評価もし、都心立地での展開を何処よりも早く考えました。私のところが北野で御社のN&Cブランドをメインとしたショプを知ってFCに名乗りを上げたお店があると聞きましたが、云わば後出しジャンケンであります。商売は最初にリスクを張ったほうに権利があるのではありませんか」と云うことであった。当時4店舗であったが、既存の店にとってもN&Cは実績も上がり、今や、大事な取引先であった。喧嘩は出来ない。最初の約束通りにやってもらうしかないのであった。


7  『西の発信基地は神戸』


平田裕輔氏はこれに対して、

「私たちは、このN&Cのブランドをとっても大事に考えています。当社の成長を左右するブランドだと考えています。そのことは、〈サルパーレ〉さんが、一番ご存知だと思います。ですから北野での取り上げになったのだと思っています。もしFCの話がなければ、問題はなくお互いに喜べた話でした。N&Cブランドに関しては、FCか直営が当社の今後の基本路線です。ただ、今までお世話になった品揃え店様には、強制的なFCを言うつもりはありません。神戸は特に大事に考えています。西の拠点は神戸しかありません。神戸で失敗すればそのブランドは失敗したことを意味します。青山でDCは直営店を構えていますが、見せかけです。ほとんど売れていません。西において私たちは今、直営する販売方法を持ちません。販売力をお持ちの専門店さんと、手を組んでやって行くのが一番の方法だと考えています。御社はそういう意味では、最高な先だと思っています。ただ、基本線がそこにある以上、社内的にはE社のFCの申し出を取り上げない訳にもいきません。誤解しないでください、2ブランドを除けて100%私たちの商品で展開して欲しいと申しているだけで、今でも優先権は貴店にあるのです。E社のお申し出があった時点で状況は変化していることをご理解願いたいのです」と話した上で、営業担当の山口チーフを席から外させた。


 女子社員に珈琲を持って来させ、二人に勧めた上で、自らも口にした。


「さー、横には誰もいてません。本当にお久しぶりです。心配かけましたが、佳祐はこの通り元気です。足もついていますよ。最初の良太さん、エミさんの顔たらなかったですよ」

やっと、肩のはった雰囲気が取れた。

「良太さん、一緒にやりましょう。関西は御社に任します。こちらの要望を是非聞いて下さい」

「ようわかりました。野球で云ったら、ツーアウト満塁ツースリーみたいなモンです。僕にはもう1球残っています。今日は佳祐君の元気なん見れて何よりでした」と、立ちあがって平田佳祐に手を差し伸べた。平田佳祐、いや平田裕輔は何とも複雑な顔で良太の握手に応じた。


8  『良太は怒り、エミは駿潤し、佳祐は覚悟する』


 会社を出ると、良太は青山通りをスタスタと無言で、5分ほど早足で歩いて表参道と交差する位置に出て、同潤会アパート*の方に曲がり、急に足を止め、エミを振り返って言った。


「エミ、服を作れ、作ってないから舐められるんや。何時もメーカーの気ままばっかりや。何が一緒にやりましょうや。彼奴の子分にならんでも、俺はやっていけてる。エミ、俺たちのブランド作ろう」こんなに、興奮して怒っている良太をエミは初めて見た。

「ええ格好で物言いやがったが、約束破ったのはあいつの方や。その俺に約束破りをせいと言いやがる。他の2軒をのけろ?俺がすると思ってやがんのかぁ。一緒にするな。彼奴は立派になったかもしれんが、下衆野郎になり下がった。万年補欠でもチャント来てた佳祐の方がなんぼか立派や」。良太の目は泣いていた。エミは良太が、最後の1球といった意味を知った。エミは大変なことになったと思った。

「あのチビ、ええ加減なことしょってぇー、お鉢がウチに巡ってきたわ」


 二人を見送った、平田佳祐の心中は複雑な思いであった。「やー、懐かしいですねと、一緒にやれたらどんなにいいだろう」。会社のトップである以上、社員たちに喋った基本方針は変えられない。「JI-JI」に追いつくのは並大抵ではない。

《1年生でいきなりエースだ。男前で成績もいい。性格も明るく人気者だ。エミが好意を寄せるのは無理もない。おまけに家は金持ちと来ている。それが、池野良太だ。一方俺は、親父は漁師で、船にこそ乗せなんだが、浜での手伝いは全てさせられた。手伝わなくていいのは学校に行っているときだけだ。補欠でも野球部におれる方がズートよかった。それが、3年間補欠で続けた最大の理由だ。その野球部でも親父はいい顔をしなかった。母親は洲本の街に魚の行商に来ていて、街でたまに顔を合わすと恥ずかしかった》


 倒産の後の苦労を佳祐は思った。

《女はついてこなかった。当たり前だ。借金から逃げる男に誰がついてこよう。釜ヶ崎で暫く身を隠し、生地屋に入った。営業がなく、表にでなくていい仕事だったからだ。ただ、小柄な俺には大きく巻いた反物は大変だった。東京にアパレル部門出来ると聞いたとき、これを逃してはいけないと、社長に土下座して行かして欲しいと頼み込んだ。人の2倍も、3倍も働いた。休みの日はファッションビルや、百貨店、銀座に、青山、六本木。横山町に浅草橋。服のあるところみな見て歩いた。服が嫌になるぐらい。女、そんなものは俺には関係ないと思っていたが、会社の事務員で目立たない子だったが、向こうから声かけられて結婚した。『遊びに見向きもせず、仕事をするあんたを応援したくなった』と云ってくれた。子供も二人できた。こうして家庭を持つまで、淡路組がなくなって、ブラウスメーカーもなくし、本当に俺は孤独やった》


 平田佳祐は「私情は断つ!」と覚悟した。「恵まれた奴になんかわかってたまるか」と思った。


9  『これは会社命令や!』


 エミは確かにデザイナー志望であった。百貨店のオーダー、服作りの勉強はした。良太と店を一緒にするようになって、小売のこと、仕入れのことを先生みたいに教わった。特に、仕入れを任された当初の指導は厳しかった。

「ええ商品、悪い商品の見極め。それが仕入やと勘違いしている奴がいるが、作品買うてんのんと違う。売れる商品にどれだけリスク張れるかや。それを商品を見極めると言うんや」が持論であった。入荷する商品の良し悪しに口出しはしなかったが、「バイヤーさん、ビビっていては儲かりまへんでぇー」と、嫌味はよく聞かされた。


 色んなブランドの服を見、デザイナーの服を見てきた。何とかバイングについては良太の及第点はもらえるようになったが、本当、デザイナーという仕事は大変な仕事だと思うようになっていた。それとバイヤーは逃げる言葉が一つあった。

「だってぇー、作ってないねんもん」。これが今後、使えなくなるのだ。作った、他人の店で売るのはまだ良い、それを自分の店で売る、売れない時、逃げ道はない。それは本当にきついことに思われた。


 服の傾向は変わりつつあった。ビッグからフィットした服に・・、N&Cもそれに乗って急に人気を博してきたのだが、同じ傾向のブランドに『ジュンコ島田』があった。彼女は単身パリに渡り、メゾンで勉強し、辛苦を経験したデザイナーであった。近年のDCブランドブームで、日本のテキスタイル会社がバックついたブランドで人気急上昇中であった。N&Cといい、島田順子といい、エミは知れば知るほどむつかしく思えた。

「こんなんやったら、オーダーにいかんと、プレタに行っとけばよかった」と思いもし、良太に、「わたし、自信ないわ。あんな服は作られへん。あの二分の一やったら作られるけど」と断りを入れた。


「これは、会社命令や!二分の一で結構。デザイナーの押し付けがましい服にもチョット飽きが来てるかも知れん。エミは店に立って、お客さんのことようわかってるのやから、後の二分の一、お客さんに助けて貰ったら、いい服作れるかも知れん」

エミは、「この人は何が何でも私に服を作らしたいんや」と思った。佳祐との商談を横で聞いていただけに、これは逃げられないと覚悟を決めた。


「わかったわ、ウチやってみる。それについて、一つお願いがあるんよ。聞いてくれる」

「何や、何か買うんか?」

「あのなぁー、成功したら、別会社作ってウチ社長にしてくれへん」この別会社が後で、どういう意味を持つのか、この時は知るよしもなかった。

「藪から棒に、なんや」

「今まで、良太は私の先生みたいやったやろぅ。良太より偉くなりたいんと違うんよ。並びたいだけ。マネージャー卒業して、ウチもエースで投げたいの。やる限りはそれぐらいの夢持ってやりたいねん」


 かくてアパレル『サルパーレ・プライベート』は錨をあげた。ブランドのお披露目は『神戸外国倶楽部*』でのショーであった。このクラブはメンバーの紹介がないと使えなかった。宇山氏を通しての紹介で使えることになった。店の顧客と有名百貨店のバイヤーを招いて催された。クラッシックな雰囲気の中で行われたショーは大好評であった。全国主要都市、7店の百貨店にインショップ展開が決まった。


注釈と資料


同潤会(どうじゅんかい)アパート:財団法人同潤会が大正時代末期から昭和時代初期にかけて東京・横浜の各地に建設した集合住宅の総称である。同潤会は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体であり、同潤会アパートは耐久性を高めるべく鉄筋コンクリート構造で建設され、当時としては先進的な設計や装備がなされていた。特に蔦のからまる青山アパートは表参道のシンボル的存在であった。老朽化のため取り壊されたが、跡地は2006年(平成18年)に『表参道ヒルズ』(安藤忠雄設計)として再開発された。


神戸外国倶楽部:1869年(明治2年)に、神戸外国人居留地に居留するアメリカ人とイギリス人が中心となって設立された社交クラブ、ユニオンクラブを前身とする。居留地内東遊園地の施設を購入し、神戸倶楽部という名称で活動するようになった。この施設にはボウリング場やビリヤード場などが備わっていた。1923年(大正12年)に関東大震災が発生すると、外国企業の多くが関西に本拠を移し、クラブの会員数は大幅に増加した。太平洋戦争が開戦するとクラブ施設は日本海軍に接収され、空襲により焼失した。1950年(昭和25年)に施設が再建されたが、東遊園地にアメリカ領事館が建てられることになり、トーア・ロードのトア・ホテル跡地に移転。今日に至る。

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