15章 DCブランドの登場

1  『東京発DC』

 

 高島花子が取り上げた、「JI-JI」はまさにDCブランドの草分けであったし、その代表格になった。プテタポルテを扱う専門店は、品質はこだわったが、売れる商品を求めた。品揃え専門店に卸すアパレルは「売れるものは、何か」で物を作ってきた。ともすれば、それは無個性な服となった。そこに「売れるものではなく、ぼくたちのいいと考える服を作る」「デザイナー、私の主張する服を着て欲しい」と云う集団が現れ、主張ある服が登場したのである、これらを、デザイナーズブランド、キャラクターブランドと称し、併せてDCブランドと称した。主張は東京から始まった。世界的なデザイナーになった、コムデギャルソンの設立は1969年(昭和44年)であった。「JI-JI」はその翌年であった。


 コムデギャルソンを主宰する川久保玲は後年、ある雑誌とのインタビューでこう言っている。

《空気をデザインするというのは、形になっていないものにもデザイン性があるということです。いろいろなものが影響しあって、重なりあって、アクシデントがあって、そこから生まれる何かなんですね。それほどデザインは幅が広くて大きいものだと思いますし、それだけに人に与える影響力もあるんです。でも、形になっていないものは、往々にして、わかりにくい、価値がないと、みなされます。ですから、何か新しいことを探すのであれば、そういう見えないことに対して、価値を認めるというようなことが実行されないと、新しいものが作れる・・日本にならないですね》


 オーバーに云えば、服は哲学を持ち出したのだ。婦人服に限定すれば、男性から「美しい」と評価されるだけの世界から、もっと自由な世界に飛び出したと言える。コムデギャルソンのブランドの服作りにおける最も大きな特色の一つとして、服の表面に対し、ねじれや歪み、アシンメトリーといった大胆な手法を取り入れることにより、布の平面性を越えた表現を追求している点が挙げられる。初のパリ・コレクション(1982年)では生地をあえてぼろぼろにして使ったり、セーターに穴をあけるなど、前衛的な試みが多く見られ、「乞食ルック」と評されるほどショックを与えた。

 川久保玲とともに、服の既成概念を排した独特の表現手法で、世界のデザイナーに「衝撃」を与えたといわれているのが、同時期に設立したメンズのブランドY,S (ワィズ)の山本耀司である。ヨーロッパの伝統的な構築された服の世界に、着物に代表される東洋の布を巻き付ける発想を両者はヨーロッパのプレタポルテの世界に持ち込んだことが評価されたのであった。

 ファッションだけでなく、この時代はいろんな分野で既成概念の変革を求める運動がはげしい時代であった。ちなみに、川久保玲は慶応大学文学部哲学科卒で服に関しては全くの未経験であった。山本耀司は慶応大学法学部卒ながら、母親がプレタポルテをやっていて、耀司自身も文化服装学園で学び、在学中に新人賞を受賞している。


 彼らに続いて、デザイナーでは三宅一生*、コシノ3姉妹*、山本寛斎らの名が挙げられる。ブランドでは、ニコル、コムサ・デ・モードを始め、沢山のブランドがこの時期産声を上げた。「JI-JI」は、たて続けにブランドを出し、どれもヒットさせた。他のDCは殆どレディースであったが、「JI-JI」のメンズブランドT・KはVANなき後の神格化されたブランドになった。大庭のデザイナーズのプロデュース力は冴え渡った。

 DCブランドが表舞台に出たのは1978年(昭和53年)の〈ラホーレ原宿〉を抜きには語れない。表参道と明治通りの交差点(渋谷区神宮前一丁目)に、貸ビル業であった森ビルが若者向けのファッションビルとしてオープンとあるが、最初のアダルトなコンセプトが合わず、テントが抜け、困りきっていたことがる。当時、マンションメーカーと揶揄され、マイナーだった原宿周辺のデザイナーズ、キャラクターブランドのアパレルに目をつけ、保証金無し、歩合家賃制で彼らにショップスペースを提供し、それが成功した。デザイナーズ、キャラクターブランドの多くがここから育った。


注釈と資料

三宅一生:(1938~)「ISSEY MIYAKE」のブランドを持つ。デザイナーへの志は、幼い日の被爆体験に根ざす。自らと同じく被爆した母親を放射能障害のため3年経たないうちに亡くした。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになったと後年述べている。高校卒業後、上京し多摩美術大学図案科に入学。その後、渡欧し、パリ洋裁組合学校「サンディカ」で学ぶ。日本に帰国後の1970年、「三宅デザイン事務所」を設立。翌年にはニューヨーク市内のデパートに「イッセイ・ミヤケ」のコーナーを開設する。衣服の原点である「一枚の布」で身体を包み、“西洋”でも“東洋”でもない衣服の本質と機能を問う“世界服”を創造。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。コンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする1993年に発表された代表作「プリーツ・プリーズ」はこれらの延長線上にある。


コシノ3姉妹:コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコ。母も同じくファッションデザイナーの小篠綾子である。NHKの朝ドラ『ひまわり』で皆さんの方がご存知かと。


2  『ミラノの次はニューヨークブランド』


 ラホーレ原宿の成功にファッションビルはデザイナーズブランドやキャラクターブランドの導入に走った。割賦販売で伸び悩んでいた、丸井は割賦のきく独自のカードとDCブランドを結びつけて、業態転換を果たし、成功した。

 1980年代に入って、この流れは加速し、若者層の導入に悩んでいた百貨店が追随し、今やDCにあらんずんば、ブランドにあらずの感を呈するようになっていった。そのトップランナーは、今やあのガレージで服を売っていた「JI-JI」であった。アパレルは次の「JI-JI」を目指し、小売店は次の「JI-JI」ブランド探しに躍起になった。そんなおり、一つのブランドが発足した。このブランドはニューヨークのライセンスブランドであった。ファッションの世界的な流れは、パリコレから、アルマーニ*やヴェルサーチ*に代表されるミラノ・コレクションに移って行き、ダナ・キャラン*のようなキャリアレディに焦点を絞ったニューヨークも注目され出していた。


 このライセンスブランドの名前は二人のデザイナーの名前を取って『N&C』と云った。Nはニコール、Cはキャサリン。このブランドを新宿の伊勢丹で見たエミは、岡本ガーデンズの店で扱いたいと思った。

 N&Cのブランドの特にCのイニシャルの方の服をエミは好んだ。一言で言って、キュートでセクシーであった。エミのような小柄な女性にもフィットした。オイルショック以降、肩幅で着るビッグシルエットの服が主流を占めていた。肩幅で着て、ベルトでギュート締めるのである。これでは、身長のある女性がどうしても似合うことになってしまう。キャサリンの服を見て、自分がデザインするならこんな服をデザインしたいと思ったのである。

 

 早速、エミは青山にある会社を尋ねた。小さなビルの1階玄関には、社名で『三光インターナショナル』と書かれ、そのブランドは4階にあった。2階、3階には同社の他のブラン名が書かれていたが、最近ヤングカジュアルでよく見る名前であった。ダブルのピンストライプのスーツを上手に着こなした30才ぐらいの男性担当者が出てきた。営業チーフ、山口幸喜と書かれた名刺を出した。エミは店の概要を話し、取引したい理由を述べた。

 彼は「スタートして間もないブランドで、幸い、伊勢丹のバイヤーの目に止まり取り上げて貰いましたが、大人の女性ブランドとして大事に育てて行きたいと思っています」と、誠実さが感じられる応対であった。「関西に出向く予定があるので早速にお店を拝見に伺います」と云って、3日後に来た。

 店を見て「いい環境ですね。こんなところで扱って頂いたら嬉しいです」と承諾をしたが、ブランドの顔が見えるように、スペースの30%を要求した。取り敢えず、次回展示会の案内状を送る旨を云って帰った。展示会に行ってエミは困ってしまった。そんなに買うものがないのである。


 今回はイニシャルNの方、ニコールがメインである。ニューヨークでは年2回しかコレクションが発表されない。それを日本では年4回の展示会に小出しにし、ニコールとキャサリンを交互にして出すというのである。ニコールは今風のビッグなスタイルであった。キャサリンのわずかな型数で30%はとても無理であった。取り敢えず、キャサリンの何型かを付けて帰って来たが、発注書が送り返されて来た。このような取り上げ方では当社は取引出来ないと云うのであった。

 良太に相談すると、エミがいいと見込んだのだったら、取り上げたらどうかと云う意見であった。その会社はカジュアルブランドだが、ライセンスブランドを上手に育てた実績を持つから、多分今のままではないだろうと云うのだ。

「マネージャーさん、まずは相手の手にも乗らないとね」と良太は笑った。

 そんな経緯から始めたのであるが、良太の見込み通り、ライセンスのエッセンスだけを取り込んで、日本企画で始め、商品アイテムを充実させ、岡本ガーデンズの店の主力ブランドに育ち、取り扱い高も50%を越すようになっていた。それにはエミのバイングの苦労があってのことであったが、「私、あそこの展示会楽しみやけど、頭痛がする」と、何時も展示会前には云った。


注釈と資料

アルマーニ:(1934~)イタリアミラノコレクションを代表するデザイナー。彼と、ジャンフランコ・フェッレ 、ジャンニ・ヴェルサーチの3人を「ミラノの3G」という。アルマーニの特徴は、スーツに代表される。彼が余分だと考えるものを除いてゆく「脱構築的」な考え方と、曲線を多用したパターンで、これが体の線を活かした独特なラインを生む。1980年、ハリウッド映画『アメリカン・ジゴロ』でリチャード・ギアが着たことで世界的に知られるようになり、世界のセレブ・ブランドになった。


ジャンニ・ヴェルサーチ:(1946~1997)彼のデザインは派手で官能的でかつ現代的だが、ヨーロッパのデザイナーならではの古典的な物を非常にモダンな解釈で提案した。1997年マイアミでゲイの高級男娼で連続殺人犯によって射殺される悲劇的な死にかたをした。


ダナ・キャラン:(1948年~)ニューヨーク・クイーンズのフォレストヒルにて、ユダヤ人家庭に生まれるが、仕立て屋の継父とモデルの母と共に過ごしたロングアイランドで成長。地元で、14歳で服を売り始める。1966年高校卒業と同時にパーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学するも、アン・クラインのアトリエで働くために2年で中退する。1974年、クラインの死去に伴い、ヘッドデザイナーに抜擢される。1985年、夫のワイスと共に、日本のテキスタイル会社タキヒヨーの資本によって「ダナ・キャラン・ニューヨーク」社を設立し独立する。同年、デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。ニューヨークのキャリアイメージの服を得意とする


3  『バブルはディスコで弾けた』


 いち早く「JI-JI」でDCの先取りをし、実績を上げて来た花子の〈フラワー〉は今や、15坪の店で年商5億の売上を上げ、神戸の奇跡どころではなかった。エミはオーダーの世界にいたのだが、同じバイヤーの仕事についてみて、今更ながらに、花子のセンスとその技量に驚嘆した。「花ちゃんは、天才やね」と言ったら、良太は何とも複雑な顔をして、何も言わなかった。


 このDCブームはバブルの終焉の時代まで続くことになる。

『グローバル・インターナショナル』は1980年には目標を達成したが、このDCブームに乗り遅れ、停滞を余儀なくされた。

 ファッションではDCブームであったが、‘80年代はどんな年代だったのだろうか。流行歌の世界で云えば‘80年は、いきなり山口百恵の引退、翌‘81年はピンクレディーの引退で始まったのは、この年代の何か波乱を予告して印象的であった。

 一番この時代を象徴している数字を上げてみる。’81年7681、‘84年11542、’87年21544、’89年38915、何の数字であろうか・・日経平均株価である。現在2011年8455円である。‘87年の2万円を越した年から ’89年迄をバブル絶頂期と呼んでいる。

 

‘80年代は1985年のプラザ合意を持って前半と後半に分けることが出来る。前半はドル高円安で、輸出産業の競争力が強く、経常収支の黒字が拡大した。これは世界でも突出していた。プラザ合意でドル高が是正され、円高が進行して、2年間程は製造業において円高不況で景気後退の局面があったが、円高に対応して6回も公定歩合が下げられ、内需中心の景気が拡大した。一方この極端な公定歩合の切り下げは、過剰流動性を生み資産バブルを引き起こし、地価と株価の高騰を招き、この高騰した地価と株価がさらに資産バブルを生み、末期にはボディコンで、ディスコ・マハラジャで代表されるような現象バブルとなった。

 前半では雇用の拡大に伴い若者の賃金アップになり、DCブランドの高い服を買えることにつながり、後半では円高メリットで海外旅行の急増につながる現象を生むことになる。又、円高メリットはファッションの世界ではインポートブームを呼び、若者がアルマーニやヴェルサーチを着て高級外車を乗り回す現象にもつながった。


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