12章 ミシンの音
1 『カタコトと、母と娘の踏む音がする』
エミは毎日ミシンを踏んでいた。2台の足踏みミシンは「カタコト、カタコト」と、長屋の狭い部屋に協和音を奏でていた。
「エミ、ご飯にするかね。冷奴でいいかね」と、母の敏江はミシンを踏むのを止めた。
「お母さん、私がするから、休んでいて」と、エミも手を止めて、台所に立った。
敏江は「疲れた」と云って、卓袱台の前に座って、片手で肩を叩きながら、
「最近、肩がこってねぇー」
「結構、肩がこるものねぇ」
「ああ、1回は腕が上がらんようになる」
「義晴から手紙くるの?」。義晴は東京の大学を出て、東京で就職している。農業土木を出てヒューム管を作っている会社らしい。
「お前は、盆と正月には帰ってくるし、神戸ならこっちからも行けるけんど、東京ではなぁー。帰ってこんし、手紙もめったにこん。男の子は精がないもんよ。でも去年、夏のボーナス出たからなんぼか送ると書いてあって、書留来ら2万円よ。期待が大きすぎたのやね・・」
「気持ちだけでいいじゃない」
母親との毎日は単調だったが、今はエミにはそれが何より落ち着けた。エミは、かけがえのない大事な二人を一瞬にしてなくしたのだったが、気がつけば、大事な人母がいた。今まではいて普通の人だったのに・・。つくづくと子供は勝手だと思った。
自分の仕事は新規で取ってきた。自転車で集配もやっている。良太の店にも行く。良太の母、郁恵は顔を合わすと声をかけてくる。「都会の百貨店のデザイナーさんが、こったら島で寸法直しして・・、でもお母さんは喜んではるわね」と云う。顔を合わせると良太のことを聞きたがるので、なるべく、店に居ない時を見計らって入るのだが、声をどこかで聞きつけるのだろう。店の奥から出て来て、「良太はいっこも帰ってこんし。家は継がんと云っとるし、なーに考えてるんだか?エミさん、なんか聞いとらんかね」と訊く。
「元気で、頑張ってはるよって。成績もええから、社長さんもよう放しはれへんと違います」と云うが、
「何ぼ評価されても、勤めではなあー。ぼちぼち、身もかためんといかんし・・」
良太はどうしているのだろう。これからどうするのだろう?とエミは思った。
2 『星のブローチ』
星おじさんの館は住吉川沿いを登り、白鶴美術館の対岸向かいの高台にある。住吉川沿いの道は魚屋道(ととや道)といわれ、古くから六甲山を越えて深江浜の取れたての魚介類を有馬温泉に運んだ生活の道だ。玄関を開けて迎えてくれたのは和服の似合う、エミぐらいの年格好の女性だった。良太はおじさんの再婚相手の女性の娘さんかと思った。ダイニングには既に料理は整って、おじさんは椅子に座っていた。
「久しぶりやなぁー、良太君。阪急電車で出会ってからやから3年になるか。話があるからと電話があったけど、なくても来てや」おじさんは不思議な人だ。全然歳を取らないように見える。窓は開け放たれ、本山界隈の街の灯が見える。先程の女性が飲み物を持って入って来た。おじさんは、妻だと紹介した。「つや」ですとおじぎをして、彼女は部屋を出て行った。
「一緒に食事されないのですか」と訊くと、「食事しながら話を聞こう。妻がいてもいい話かい」と言われて、良太は返事に困ってしまった。
「後でお茶の時に一緒にすればいいや」とおじさんは云った。
「これ、遅くなりましたが、結婚のお祝いです」と、東京に仕入れに行ったとき、星の形をしたいいブローチがあったので、それを渡した。
「星か、いいデザインだね。後で見せよう、喜ぶよ」
おじさんはワインを、良太はビールを飲んだ。おじさんの料理は、今日はチャイニーズであった。良太は夢の話から始まって、花子の結婚式前夜を語り、藤岡妙子までの話をした。話してみて気持ちは決まっていたし、今更、深刻な相談でもないと思った。人は、迷っている最中にする相談と。迷いが取れて、決まりかけた時にする相談がある。後者の相談は一つの儀礼であり、出発に向けた儀式であるのだ。
「良太君、僕も中学のとき、君と同じような夢を見た。僕の場合は、花子さんのような女性は存在しなかったが、エミさんは存在した。名前を葛城啓子といった。君と同じように悩んだ。そこに母と君のお父さんとのことが重なった。僕は、母も君のお父さんも好きだったから、問題はないと言えばそうなのだが、性の捉え方はそんなものではない。よけいに二人のことを妄想したよ。そんな自分が嫌だったのも君と同じだ。結局、葛城啓子には告白できずじまいだった。最初の妻を貰って2年で別れたのかな。何で結婚したのかも、別れたのかもはっきりしないのだ。相手に失礼やね。3年前になるか、阪急電車の夙川から今の妻が乗ってきた。お茶か、お花の稽古の帰りだろうか、和服姿だった。その姿が余りにもそっくりだったので、思わず名前を聞いてしまった。彼女は葛城つやと云った。母親の名前は啓子だった。『母は夫を亡くし旧姓に戻っていましたが、その母も昨年亡くなりました』とつやは答えたよ。僕は運命を思った。もっと早く・・いや。今でよかったのだよ。性の問題は深遠なものだと思う。フロイトが深層心理を全て性に結びつけていると批判があるが、僕はそれに組みしないね。神も違う、言葉も文化も違うとしたら、何を共通項とするかね。性は極めて文化を越える共通の言語なのだと思う。良太君、今、君は言葉を持っただろう。悩んで得た言葉だ。これは貴重なことなのだよ。解き放たれたのだよ。高島花子さんにも、藤岡妙子さんにも感謝せんといかんね」
おじさんは詩人だが、何より良太に取っては、一番近い哲学者でもあった。泊まって行くように言われたが、良太は辞退した。おじさんはタクシーを呼んでくれた。玄関までおじさんと一緒に送ってくれたおじさんの若い妻は、着物から洋服に着替え、胸には良太が贈った星が輝いていた。
3 『港にはまだ汽笛の音がしていた』
エミが直しの品を届けに表に出ようとしたとき、玄関先に良太が立っていた。エミは一瞬月並みではあるが、心臓が止まりそうに思ったのである。エミには心の奥では密かに期待することであっても、有りうることとは思われなかったのだ。あれから7箇月が過ぎ、エミが淡路に帰ってきてから4箇月が過ぎていた。
「元気そうやなぁ。話があるんやけど、用事みたいやね」
「今日中に届けたらいいんやから、いいわよ。入る?」
「外の方がええ。これ」エミの母が好きだという、高砂屋の金ツバの包であった。
「自転車持っていくけどいい」と云って、荷物カゴに商品とその包を入れた。エミは自転車を押しながら、良太は歩いて、二人は港の方に向った。朝夕は少し涼しくなったとはいえ、日中の日差しはまだ強い。エミは日陰帽を被って来たけれど、何も日をよけるものがない良太にエミはハンカチを貸した。良太のハンカチは既に汗で濡れていた。良太は借りたハンケチを頭にかざし、「まだ、暑いなぁー」と云った。
港の松並木の木陰に入って、腰を落として一息ついた。
「冷たいもの買って来たらよかった。売店で買ってくる」と云って、エミは自転車を船の待合所に走らせた。その後ろ姿を見て、「梅田の時と違うなぁー、田舎の子になりよった」と思い、良太はエミがいじらしく思えた。
二人でコーラを飲みながら、
「3回目やね」とエミが云った。
「何が?3回目や」
「何でもない・・わからなんだらええ」と笑った。
「この前は悪かったなぁー。謝らんとなぁ」
「・・・・・・そんな話」
「実はな、店はじめようと思ってるんや」
「神戸で?」
「三宮で出来たらええねんけど、岡本や、最近駅前が賑わって来てるんや。親爺も賛成してくれて、金も出すゆうてくれたんや」
「ええお父さんやないの、良太君はあんまりええように云うたの聞いたことないよ」
「せやなぁー、子供の時と、大人になってでは考えや、気持ちが違うもんやなぁーと思う」と喋って、良太はエミの父、賢三のことを思った。
「何話してるんやろ。店を持つ顛末を話に帰ってきたんと違うねん」
「店持つって大事な話と違うん?」
良太は暫く黙って、沖の方を見ていたが、
「エミに一緒にやって欲しいんや。結婚して欲しいんや。大事な人やと今頃気がついてん。あほやろ」話していて、良太は涙が滲んできた。
「アパレルか小売りかで迷ってたけど、ようよう決心がついたのや。エミの夢、デザイナーの夢は叶えられんへんけど、一緒にやってほしいのや」
「わたし、その夢捨てて、帰ってきたんよ」
良太には出せる言葉はなかった。
「直し届けて来るから。夕飯終わったら、大浜の海岸に来て、その時に返事するから」と答えて、エミは自転車を走らせた。こぐ後ろ姿は見る見る小さくなって行った。おりしも洲本港から神戸か大阪に出ていく船が出船の汽笛を鳴らした。
大浜の海岸は白砂と松林の綺麗な海岸で、夏、関西からの海水浴客で混む。日帰りの客もあるが、近くの温泉街や旅館は賑わう。9月半ばの夏が去った浜は賑わった後だけに、寂しげであった。松林の根っこに腰をかけて、賢三や、エミと泳いだ幼い日、花子や義行らと泳いだ中学時代、野球が終わったあと、皆で泳いだ高校時代、良太は感傷的にそれらのことを思い出していた。
後ろから突然柔らかい手が目隠しをした。良太は立ち上がってその手を解こうとしたとき、エミが体を投げ出してきて、「キスして、これが答え」と言った。
式も披露宴も淡路で行われた。式は八幡神社で、披露宴は海そばのこじんまりした旅館を借り切って行われた。〈まき〉の方からは保、蕗子夫妻と上山鉄男、エミの阪急の方からは先生であった山内順子、そして阪急時代の友人が4名、〈つかはん〉の一家、船が出ないことを考えて、大阪、神戸組は前夜から泊まって貰えるように、鹿蔵の配慮であった。
地元同士ということもあり、鹿蔵の商店街での役職ということもあって、式は賑やかしく盛大であった。エミの弟、義晴も結婚予定の彼女を連れて帰って来ていたし、竹野の一家はむろん、野球部の何人かも来ていた。橋下先生も、何故か駒形ヨシエ先生も。
誰か少しお酒が入りすぎたのか、「花子が来とらん、佳祐もや。お前ら5人は一緒の船でこの島を出ていったはずや。俺は見送りの手を振ったぜ」と云ったのを、竹野が隣室に連れ出した。
淡路の宴会は夜通し続く。疲れた人は勿論、自室に戻って休むことは許される。当然花婿も、花嫁もである。離れに部屋が取られていた。波の音と、宴会場から聞こえて来るざわめきを聴きながら、二人の胸に去来したのは、何であったろうか。
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