11章 高架下・裏町酒場

1 『スナックの女は西田佐知子を歌った』 


 池野良太は店長職を阪急ファイブだけに願い出た、二つの職責を果たせるような精神状態ではなかった。一つに集中したかった。千里の店への執着もなくなった。所詮、人の店と思えた。エミのいなくなった、三宮や梅田はなんとなく他人の街のように思えた。花子のいるセンター街は通れなかった。竹野や佳祐を入れた飲み会もなくなった。良太の心にぽっかり穴が空いた。磯部の寮とファイブの店との間を往復し、夜は酒に溺れた。

「俺は最低な奴や、裏切り者や。みんなの仲を壊した。たった一言『NO』と言えなかった・・」。ふがいなさに自虐の谷に落ちた良太であった。外に出た花子と良太、残った者の中に飲み直しに出たと思うものは一人もいなかった。


 花子と良太は港近くのホテルにいた。

「抱いて、ずぅーと好きやった」。良太は花子の意外な二面を知った。健気なぐらいしおらしい女と、やけどをするぐらい熱い情熱の女であった。良太はその二つを抱いた。

 花子は、明日は花嫁。その思いが二人をさらに熱くした。


 エミは近所の普通の子だった。良太が好きだったエミの父親、賢三がいなくなって、エミは良太が守ってやるべき存在となった。良太は空想好きだった。特に字が読めるようになって本を読むようになって、自分で物語を作って楽しむようになった。小学校に上がる前頃だったろうか、父が取っている新聞の挿絵が入った連載、『少年ケニア』が大好きだった。アフリカのケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語であった。それを、覚えたての文字で読んだ。わからない文字は店の従業員に教えて貰った。

「アフリカってどんなとこやろう?ジャングルって森とは違うんや」。まだ見たこともない、象や虎やライオンやゴリラにワクワクした。いつしか良太はワタルになり、それらの動物に襲われるエミを危機一髪で助けるのだった。


 酷い夢だった。逃げるエミの衣服を剥いだ。嫌がるエミを辱めた。幼い日に作った物語は木っ端微塵に砕かれた。以後、 戦争ものの本や、映画の中で兵士が、女性を襲う所があると、「自分とは違う人間だ」とは、とっても言えなかった。良太は自分の中に潜む本性を思い知らされた夢と、受け取ったのである。たんに夢、軽い気持ちで流すものとは思えなかったのである。


 良太は深い孤独の中にあった。初めて寂しいと思った。そんな時に出会ったのが藤岡妙子であった。何時もの高架下の居酒屋で飲んで帰ろうと思って上を見た。『渚』と書いた看板があった。2階にも店があったのや、何年来と来ていても、人は関心のないことには気を払わない。横手の階段を上がった。

 早めの時間なのか、客は誰もいなかった。長いカウンターが一つ、コーナーを入れて8人は入れるだろうか、少し殺風景な感は歪めなかったが、余分な飾りがないのが逆に落ち着けた。ビールを注文した。

「何か飲みますか」と良太が云うと、「じゃー、遠慮なく」と云って、女はスコッチのロックを作った。グラスを合わせた。

 何かリクエストしますかと女は訊いてきた。有線放送のことだ。西田佐知子の『東京ブルース』を頼んだ。まだ、カラオケなんかなかった時代だ。暫くして歌が流れて来た。良太は2番の歌詞が好きだった。

 どうせ私を だますなら/死ぬまでだまして 欲しかった/赤いルビーの 指輪に秘めた あの日の夢も ガラス玉/割れて砕けた 東京ブルース

 本当に割れて砕けてしまいたかった。


 西田佐知子が好きですかと聞いてきた。良太は「うん」と頷いた。

「歌ってもいいですか」と、女はマイクもなしに素で歌いだした。『裏町酒場』であった。3番を歌った。

 弱い女に 帰ってしまう/雨がしょぼつく こんな夜/酒にこころを しびれさせ/生きる裏町 灯も暗い

 良太は演歌の歌詞は上手く作られているものだと思った。


 2  『オイは長崎ばってん、と女は言った』


透き通るような声だった。

「お客さんのお仕事当てようか?」と、女は笑いながら云った。

「どうぞ」

「婦人服でしょう」

「どうして分かるの」

「この間〈さんちか〉に行ったときセーター買ったの、覚えていません。この服・・」

 そうだこの間休みの日、〈さんちか〉の店長に言付けものがあって店に寄ったとき、店が混んでいてセーター売り場を手伝ったのだった。女は2色の色をどちらにするか迷った。

「どうせ、私なんか覚えて貰えてないんだ・・」と女は笑った。

「お店と、こことでは雰囲気が違うから・・セーター素敵ですよ」

「遅い!」


 ショートカットにプレーンな若草色のカシミヤのセーターが品よく映っていた。この色を勧めて正解だったと良太は思った。

「そうやね、自分が売った服に真っ先に目がいかんとね」

「〈さんちか〉で見る私と、お店で見る私とどっちが素敵?」

「どっちも」

「どっちも、どっちの口ね」と女は云い、それから話が転がり出した。

「お客さん失礼だけれど幾つ」

「26、何で」

「弟と同じぐらいだと思ったから。弟は一つ上とね」

「「お姉さんは関西やないね」

「言葉でわかるわね。オイは長崎ばってん」と云って、藤岡妙子と書いた店の名刺を出した。

「僕は池野良太です。勤務先は」

「わかってるわよ。今日は暇ね。この時間なのにね。ゆっくりしていって・・ビール抜きます?」暫くして雨が降り出した。

「ああー、今日はダメだわ」女は諦めたように云った。

「お客さんもう一杯もらっていい」それをキッショウに、良太はボトルを貰って飲みだした。

「神戸はやっぱり大きな街ね。港があまり見えないもの。私の生まれた所からは港がよく見えたわ、ここと同じ三菱造船所も。お客さんはやはり神戸?」

「淡路、島育ち」、宇山の教室から海や港が見えたのを思い出した。

「いつからここをやってるの?」

「3年前から、お友達がやっていて手伝っていたの。そのお友達が、今、入院していて私が一人ってわけ。お客さんは初めてだわね。3年前のお客さんてことないわね」

「7年前からこの下には来てたのやけど、気がつかなんだ」

「森井さんね」

「うん、あそこばっかりや」適当な話が続いたのは覚えているのだが・・・。


 3  『船の動く音がしていた、ここは平野』


 気がついて、部屋を見た。寮の部屋でない。ベッドではない。畳の上だ。隣の布団に誰かが寝ている。気配に気づいたのか、隣の布団が起きて枕元のスタンドをつけた。藤岡妙子だった。

「ビックリしたわよ。椅子から立ち上がって急にぶ倒れるんだから、寮にいるって云ってたから、名刺にあった電話番号かけても、だぁ~れも出てこないし、その内、もうー、いびきかいて寝てしまうんだからぁー。仕方ないじゃない。タクシーで連れて来たってわけ」

「ここはどこ?」

「平野、わかる」

「神戸はわかるよ」

「そっち行っていい」妙子は良太の布団に入ってきた。浴衣の寝衣だった。

「あれは事務所の番号」

「どおりで出ないわけね。寮の電話番号、裏に書いときなさいよ。何があるかも分からないから」

「書いてなくてよかった」

「このー」と云って抱きついてきた。良太は抱き寄せた。


 部屋の窓の外が薄紫色になっていた。妙子はまだ寝ていた。そっと襖を開けた。隣は3疊の部屋で、小さい布団が敷いてあった。起こさぬように抜き足で枕元をよぎろうとしたとき、小さな目が開いて、「オッチャンまた来てな」と男の子の声がした。良太はなんと答えていいのやら・・、「うん、又な」と云ってアパートを出た。まだ、市電も動いていない。三宮まで歩こうと思った。港の方からはすでに船が動く音がしていた。


 週に一回は妙子の店に行ったし、良太の休みの日、遊びに行って昼飯や、早めの夕食を呼ばれたりした。店に出る時は入院しているという友達の母親が子供の世話をしてくれている。母親の家は近くだといった。男の子は4才で健介といい、人見知りをしなかった。〈おっちゃん〉はアパートに行くときは「ヒロタ」のシュウクリームを土産とした。健介の好物で、安くて助かった。

 昼を3人で済ますと、お弁当を作って近くの諏訪山公園に出かけたりもした。軟式のテニスボールでキャッチボールの真似事をした。健介はまだしっかりとは捕れず、後ろに逃がすのがほとんどだった。王子動物園にも行ったりして、たいそう健介は喜んだ。

ある日「健介のおとうさんは?」と妙子に聞いてみた。

「長崎にいるの。三菱の造船所に勤めていて、神戸は転勤で来たの」

「ご主人だけ帰ったの?」

「そうなるわね」とだけ妙子は答えた。


 妙子の数少ない本棚に星おじさんの本があった。

「こんな本読むんだ」

「神戸に来たとき、神戸のこと少し知ろうと思って買ったの。中を少し見たら変わってたから・・。私、シリアスな本ダメなの。でもこの物語も変わっているけど、この人変わってるわね」

 良太が僕の叔父さんだと言ったら、びっくりして、「変わってるって云ったの取り消すぅ」と云ったが「もう遅い!」と良太は答えた。

 おじさんとこに行って見ようと思った。長いこと行っていない。三宮で一度会って食事をおごってもらったのと、この時はカレーではなく、ステーキだった。阪急電車の中で一度ばったり会った。どちらも、仕事の近況を話しただけで当たり障りのない話だった。おじさんの方は岡本で降りる時、「僕は、お嫁さんを貰ったよ。一度遊びに来たまえ」と云ったのに、お祝いも贈らず無作法のしっぱなしを良太は恥じた。

 

 良太は妙子に対して、何処か姉が出来て甘えている感がした。妹と二人、長男で育った良太は、母親があまり構ってくれないこともあって、姉が欲しいと思った時期があった。妙子を抱くことによって、良太の身体も、心もほぐれていった。エミの夢を見たあのときから長い、長い時間がかかったのだ。

 そんなことと思うかしれないが、人によっては、チョットした風邪でも一晩で治ることもあれば、それをこじらせて長引くこともある。まま、命を失うこともあるのだ。自分の中に起きた男の変化に、良太はどう対応していいのか判らなかった。エミへの性の気持ちを拒絶すればするほど、関心は高島花子に向った。花子が良太を好いていることは中学3年でクラスを一緒にして知った。ともかく、こういうことは時間もいるが、ほぐす名医がいるものだ。

 

 エミのことを、花子のことを、妙子に話してみようかと思った。

付き合って半年もしたころだろうか、店に行くと、知らない女性がカウンターの中にいた。

「妙子さんは」と聞くと、

「池野さんね。妙子から聞いているわよ。彼女は長崎に帰ったわ。急だけど帰らんといかん理由ができたの。おかげで私も何とか退院出来たし・・。何か飲みますか」ビールを注文した。のどが渇いていた。

「決して、悪いことで帰ったのではないのよ、少なくとも健ちゃんにとってはね。これ手紙」と手渡された。その場で開けて読んだ。

「急に挨拶もなしに帰る不義理を許して下さい。良くしてもらってありがとう。大切な人を大事にするように、女は抱かれていてもわかるのですよ」と結ばれた簡潔なものだった。「彼女の住所知る」と女が聞いたが、首を振って、連絡することがあるなら「ありがとう、元気で」と伝えてくださいと言って、店をあとにした。

 淡路に行こうと思った。花子の結婚前夜、あの日から7ヶ月が過ぎている。


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