10章 グローバルの発展と危機

1  『トータルなコーディネートという考え方』


 島崎広敏は外国から帰って来て、一つのことを考えていた。パリで見た女性たちのさり気ないお洒落、シンプルな物を上手に組み合わせて着ていることだった。日本では一点ずつに見場や、デザインが要求され、装飾過剰になっていないか、大切なのはバランスではないか。トータルなコーディネートを提案するブランドを開発する必要を感じていた。ただ、カラーコーディネートを提案するには原糸の段階から大きなロットが必要であり、リスクが大きくなることが懸念された。

 幸い会社は順調である。創業して7年、売上も50億を超えた。やるのは今ではないか。木戸社長にも竹野にもそのことを話した。二人も、もう一段の飛躍の必要性を云った。今のままでは単なるセーターメーカーで終わってしまう危機感を語った。ブランドの開発の必要では一致した。


 それをトータルで見せられる売り場が欲しいと思った。そこで目をつけたのが〈さんちか〉の〈丸美屋〉であった。〈セリオカ〉〈茜屋〉〈まき〉にいいメーカーを抑えられ苦戦している。〈グローバル〉は〈さんちか〉ではこの〈丸美屋〉と〈まき〉にニット製品を卸していた。〈まき〉はセーター単品の取引が殆どであった。

〈丸美屋〉は商品力を評価されての入店ではなかった。センター街会長の役職のおかげでしかない。センター街店との差別化にも苦心しているようであった。脈はあった。島崎は〈丸美屋〉の社長に新ブランドのプランを話し、オンリーショップの提案を行なった。納入掛率50%、期末に残った在庫は40%に再値引きのいう破格の条件であった。島崎は〈さんちか〉に店を出すことを思えば安いと考えた。丸美屋の社長はこの話に乗ってきた。


 秋冬物から新ブランドの開発にかかった。企画室のデザイナー、スタッフにブランドコンセプトを話し込んだ。原糸の手当には大手商社と接点を持った。銀行とも増産体制の資金手当の賛同を得ていた。〈グローバル〉は神戸のアパレルの中で一番に100億企業になるだろうと期待されていた。

 カラーテーマを作った。神戸の海岸通りからイメージした〈海岸通りの葡萄色〉として、ワイン系統の色をこの秋冬のメインカラーとした。ブランド名を『グローバル・コーディネート』とし、思い切ってテレビコマーシャルを流した。ファッションメーカーのコマーシャルソングと言えば『レナウン*』の〈ワンサカ娘〉が有名だった。弘田三枝子のパンチの効いた歌が一躍レナウンの知名度を上げた。この中で「イェイ イェイ」という歌詞はレナウンのセーターブランドの『イエ・イエ』のことである。

 グローバルのコマーシャルソングは短いながら、フランスの女性歌手の鼻にかかった甘い歌声が印象に残るものであった。勿論、レナウンのようにはいかない。でも、当時、テレビでコマーシャルが流れると云うことは、一流企業を意味した。少なくとも『グローバル・コーディネート』は一流の商品であるイメージは植え付けられた。


 この秋冬物の受注会は盛況であった。営業部長竹野は先頭を切って部下を叱咤激励し、自らも専門店にコーディネートの意味と必要性を説いて回った。この秋の〈さんちか〉の〈丸美屋〉の売上も前年対比120%で社長は喜んだ。地方の専門店には〈さんちか〉の店を直営店のごとく見てもらった。

 島崎は直営店の必要を感じていた。それにはニットだけでなく、布帛物の充実の必要性を痛感していた。竹野が佳祐のブラウスメーカーのデザイナーをしていた細野裕美を、布帛ブランドのチーフに抜擢することを提案してきた。細野裕美と佳祐はやはり、一時恋愛関係にあった。出資は彼女の親元であった。

 彼女の話によると、佳祐の会社は関西地区だけの営業のときは順調にいっていたが、一挙に売上を上げるべく、関東地区を任す代理店を作った。その代理店に騙されたということであった。島崎も仲間卸しで、似たような経験をしていて、おおよその推定はついた。佳祐も焦らなければよかったのにと思いやった。

 

 細野裕美の才能は意外な所で開いた。グレイッシュなトーンで纏められた、少女っぽい服はまるでコーディネートのブランドとはあわなかったが、〈丸美屋〉の社長が気に入って〈さんちか〉の店を割いて5坪程のコーナーを作った。これが、〈さんちか〉に来る〈おとなしめ〉の女性のハートを掴み、意外な売上を上げた。当時、横文字が殆どだった時代、『小麦畑』というブランド名も新鮮だった。


注釈と資料

レナウン: 1969年(昭和44年)より傘のマークの「アーノルド・パーマー」ブランドを日本に投入しワンポイントブームを起こした。当初はヤング・レディース、続いてファミリー向けに商品展開を行い、1980年代まで基幹ブランドとなり同社の営業を支えた。「ダーバン」ブランドは1970年代にフランスの俳優アラン・ドロンをTVCMに起用し人気を博した。アパレルの売上としては当時トップクラスの売上であったが、近年経営不振によって、中国系企業の傘下に入った。


2  『倒産回避はなりふり構わぬバーゲンで』


 昭和48年、オイルショックで戦後初めてのマイナス成長を示したが、百貨店や専門店の物販は意外にもよく売れた。折からの狂乱物価で買いだめに消費者は動いたのだった。製造分野は生産の縮小に向かったが、物販分野、特に婦人服は好調なだけにこの年のオイルショックを舐めた。

 49年抑えたとはいえ、昨年比を下回って、仕入れ計画、生産計画を立てた専門店、アパレルは一社もなかったであろう。秋冬物の受注も順調についた。秋冬のシーズンに入ると共に消費者は一転して買い控えに入った。生産現場では残業はなくなり、家計の収入は減った。そしてこれが一時的なものでなく当分続くことがはっきりしたのだった。


 店頭で売れなくなった小売屋は、受注のキャンセルや何かと理由をつけて返品をしてきた。〈グローバル〉は昨年70億を達成し100億が目標となっていた。受注も腹一杯取った。そこに納期遅れが重なってしまった。在庫の山に一番苦しんだのは神戸のアパレルの中では〈グローバル〉であった。

 既存の特に京阪神の専門店からは、文句が相次いだが、背に腹は変えられない、招待セール(普通は社員、関係取引先の家族に限定して招待)を大々的にやり、直接消費者にバーゲンセールを行い、何とか在庫を処分した。一時は「グローバル」倒産の声が巷では囁かれたほどであった。今までの堅実経営による財務内容と、やはり将来性を評価しての銀行の支援があったのも事実であった。


 島崎はワンブランド(コーディネート)に寄りかかる経営リスクを認識した。以降、多ブランド政策に切り替える。その第一番手が細野裕美をチーフにした布帛ブランド『小麦畑』であった。サブデザイナーに布帛に合うニットをつけて充実させ、おりから引き合いのあった百貨店のコーナー販売に踏み切った。それまでは専門店オンリーとして百貨店営業はしていなかった。自社の販売員をつけて、小売のノウハウの習得の必要性を感じたのだった。

「コーディネート」ブランドが核ではあるが、それに少し年代を若くしたトータルブランドを二番手につけた。そうしてようやく危機を乗り越え、昭和51年木戸は会長職に、島崎は社長に竹野は専務になった新体制で、〈グローバル〉の2期目の創業が始まった。木戸37才、島崎33才、竹野31才の時であった。創業して10年、売上は120億であった。



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