9章 花子とDC
1 神戸の奇跡
佳祐のブラウスメーカーは倒産した。一緒に仕事をしていたデザイナーは竹野の引きで「グローバル」に入社した。佳祐は皆の前から姿を消した。
傷心のエミは3ヶ月後、阪急を辞めて、淡路に帰った。
竹野の会社は、この年、春夏物に、ピューロンという合繊糸の投入があって、受注は倍増した。ニットメーカーはどうしてもセーターの動く秋冬物にウエイトが高く、春夏との対比は7:3であった。3月、島崎はヨーロッパに2週間の視察に旅立った。この年の9月、竹野は結婚した。社内結婚であった。
結婚した南野花子は、サンプラザ1階入口角の店に立っていた。店名〈婦人服ブルージュ〉を〈ブティック・フラワー〉に変えた。店名だけでなく、店の全てを変えた。前の店はオープンスタイルであったが、通りに面して大きなウインドウを、横はマーブルのベージュの大理石で囲み、2つの大きめの窓を取り、前から3分の1の位置に開きのドアーをつけ、クローズドスタイルの店に変えた。ハンガーラックは高い位置に、手を伸ばして取らねばならないが、この方が服はよく見えるし、横の窓からもよくみえた。
商品は「JI-JI」の商品オンリーに変えた。店のスタッフも思い切って入れ替えた。若いスタイルの良い、「JI-JI」の服の似合う子を採用した。それも販売経験のない子たちであった。よそで何かを教えられていない子。販売は後でいくらでも自分とこ流儀に教えられる。最初は苦戦であったが、「JI-JI」の商品のラインナップの充実とともに、三宮の既存の店に飽き足りない若い女の子たちのハートをつかんで行った。
手応えを感じていた。〈フラワー〉に切り換えた年度は6千万円であったが、48年オイルショックで世間は揺れたけど、1億5千万円。49年は花子の店は考えられない数字をたたき出した。店は15坪であったが、2億5千万円を売り上げたのである。坪効率100万円が優良店の基準であった。ちなみに、〈まき〉の〈さんちか店〉が13坪で1億8千万円、良太の千里店は(坪数は20坪)1億円の大台に乗せていた。花子のいた、サンプラザの〈セリオカ〉は25坪で1億5千万円であった。セリオカの〈さんちか店〉と〈センター街店〉の売上は、花子にも秘密にされていたが、3億円ぐらいと推定された
〈ブルージュ〉は花子の姑になった、瑞江(みずえ)の夫、南野勇太郎が、戦後高架下で生地の卸を始めたとこに始まる。他の店は卸も小売も両方をしたが、勇太郎は卸しかしなかった。
センター街(まだこの名前はなく、三宮本通りと言っていた)の東入口近くに洋品店があった。焼け出されたが、バラックを建て、ハギレを扱いだした。その店は南野商店から仕入れていた。ある日、その洋品店主が郷里の広島に帰らねばならなくなったから、店を買って欲しいと言ってきた。勇太郎は二つ返事で引き受けた。そして別会社にして、瑞江にその店で生地の小売をさせた。ハギレの小売をやっていたが、あるとき、瑞江が舶来品見本市会場で綺麗なレース生地を見て、感動し取り扱いだした。
阪神間のお屋敷の人たちがそれを競そって買ってくれ、徐々に舶来生地に移っていった。洋裁学校卒であった瑞江は生地を買ってくれた人で希望があれば誂もした。主人、勇太郎が昭和26年に亡くなり、高架下の店は番頭格であった男に悪いようにされ、嫌になった瑞江は高架下の店は権利を売り払ってしまった。舶来生地とブティックでは違うが、会社は〈ブルージュ〉1本で代表取締役は瑞江、茂樹は専務であった。瑞江は夫より株式会社の何たるかを教えられていた。ブティックの方には一切口出しはしてこなかったが、経営権、代表取締役は握ったままであった。
2 『花子の販売員研修』
今や、花子を縛る物はなにもなかった。夫、茂樹は、サンプラザの2階で撤退した小さな店舗跡で、趣味のプラモデル店を開いてもっぱらそちらに詰めた。花子は自分でも変わったと思った。商売の仕方も自分でも大胆すぎると呆れることがあった。
閉店後、店を使ってフラワーの新人研修会が行われていた。
花子は販売については、「売ろうと思わなくていい」と言った。
「あなたたちが、服を買いに行って『嫌だなぁー』と思ったことを云ってみて」出た!色々と。
「後ろから探偵みたいにくっつかれること」「店での行動をジィーとみられること」「やたら、似合ってますの連発」一同笑う。
「尋ねている以外の商品知識をやたら聞かされること」「聞きたいことがあるのに、販売員同士が私語して気がつかないこと」最低やねと声あり。他一杯。
「最低、お客様の嫌がることはしないこと。それでまず十分」
「質問していいですかぁ?」
「なぁーに」
「ジィーと見ていけないんだったら、ほっといていいのですかぁー」
「店は、まず見てもらう所、気楽に見てもらう雰囲気を作りなさい。セーターをたたむとか、ハンガーラックを直すとか、マネでいいのよ。以前、たたむことに熱中して、お客様を忘れてしまう子があったわね。作業はお客様に背を見せてしないでね。それとお店には鏡があるわね。どの位置ならどこが見えるか知っていてね」これはセリオカで教えられた事だ。
「お似合い連発って出ましたけど。私、云ってしまいそう」一同笑い。
「お客を褒めないで商品を褒めてください。ハンガーを手に取られたお客様があるわね、『いいワンピースでしょう。試着してみて下さい』。試着して出てこられました。『如何ですか、ラインの綺麗な服でしょう』。お客様の方が『似合っています?』ここで、間一髪、考えて間を置いてはダメよ、『トッテモ、お似合いです!』を入れるのよ」。セリオカはまず客を褒めろであった。その逆が花子の考えだ。
「私でも、売れそう」誰か、一同「ふんふん」。
「お客様は素敵な商品を買いに来られているの。何もお世辞を聞きに来てるわけでないでしょう。必要以上の笑顔もいらないわ。でも怒った顔はダメよ」一同笑い。
「お客様ですか、お客さんではいけませんか」
「私は、セリオカにいてましたから、様で教えて貰いました。舌を咬みそうだったら、さんでも失礼に当たらないわよ。絶対ダメは『なになにちゃん』」
「そんなん言いませんよ」誰か。
「それがやっちゃうのね。お友達、妹さんが来たとき、〈花ちゃん〉とか〈ミヨちゃん〉とか。ほかのお客様はお友達だか、妹さんだか知らないわよね。「この店、何と馴れ馴れしいのだ」と思ってしまうわね。妹さんといえどお店ではお客様です。わかりましたか」「はーーい!」一同。
「最後に、普通禁止用語『いらしゃいませ』。『毎度、ありがとうございます』の常套句。毎度はいりません。絶対禁止用語、お客様の悪口。帰られたあとでも、お店の外で同僚同士でも言ってはいけません。お腹の中で何思おうと自由です。蹴飛ばしたっていいです。口には出さないこと。悪口が常態になった店は云っていなくても、云われているように、背中でお客様は感じるものなのよ。それと・・」
「綺麗になりなさい、心も磨きなさい。そして床も・・ね。わたし、セリオカに1ヶ月いて辞めました」
「その通り、正解です。あなた履歴書に書いてなかったけど、今の自己申告で許します」
3 『花子の発注』
東京「JI-JI」のハウス。変わった人達の集団。花子がサンプルを見て、発注をつけている。発注書を出した。見た大庭氏が返してきた。
「少ないのですか」
「いや逆です。多過ぎます」
「多すぎていけませんか?」
「スイマセン。生地を買うお金がありません。零細な僕たちは現金でしか取引してくれません」
「では、先にお金を払いますから、この通り作ってください。商品が無くては、売上は作れません。取り扱うのは御社だけなのですから」
先に支払う件は、主人、茂樹の承諾がいることで、事後ではあるが話した。「花子にあの店は任したのやから。思うように」との返事であった。改めて茂樹の度量の広さを思った。
「JI-JI」は昨年、売ってみて手応えを感じていた。それとここのところ創刊されたファッション雑誌、『an-an』『non-no』*がマイナーなブランドの服を取り上げ出したのだった。その中でも「JI-JI」は一番掲載されていた。
大庭は多くは語らないが、彼は専門店に売り込むより雑誌社に売り込んだのだと花子は思った。広告の撮影をしていたカメラマンだ。最高の広告媒体が出来たと思ったはずだ。そのことにも花子は手応えを感じていた。雑誌の切リ抜きを持った客を店で何人も見るようになっていた。この2誌は今、部数をやたら伸ばしている。「JI-JI」がまともに取り上げて売られているのは花子の神戸のブティックだけで、東京ではなかった。雑誌を見て問い合わせの電話が「JI-JI」に入ったら、大庭は全て花子の店に振った。名古屋からも東京からも神戸に客は来た。
大庭は花子の尋常でない発注の仕方に驚いた。お金は先に入るとして、生産、納期はどうする。一旦広げた生産体制はそう簡単に縮小出来ない。「JI-JI」に取っても重大な問題であった。何より花子の店が売れることだ。「僕たちにできること」が5人で話し合われた。2誌に花子の店を売り込むことであった。「JI-JI」の商品を扱う神戸の素敵なブティックの紹介特集を組むことであった。「JI-JI」の服を着たモデルの背景は全て神戸の街として、最後に花子のブティック〈フラワー〉を取り上げるプランであった。撮影の指揮は大庭が取ってもいいという提案であった。
一社が乗ってきた。別冊、挟み込み、『神戸・ファッション特集』であった。「JI-JI」のブランドも、花子の〈フラワー〉も表舞台に出た。それほど雑誌の媒体効果は絶大であった。その年の飛躍で「JI-JI」はスタッフを増員し、翌年、3ブランド体制とした。
花子の発注台帳はユニークであった。品番の上にスタイル画を書くスペースを取り、横に四角の升目を取り、入荷してくれば斜線を入れ、売れたら売れた日付を上に書き、下半分を塗り潰す。売れ行きは一目瞭然であった。この単品管理は良太から教えられた手法であった。下段には商品の説明と花子のコメントが書かれ、シーズン末には集計結果と販売スタッフの感想が書かれるようになっていた。デザイン画を描けない花子はデザイナーに絵をもらってコピー縮小して貼った。
それと、売れた品番明細を毎日「JI-JI」に日報としてFAXした。大庭はこれを期中の追加生産の資料とした。と同時に販売戦略の考え方を変えた。品揃え店への卸し方式であったが、FC(フランチャイズ)によるオンリーショップ、直営店方式に切り替えることであった。それもブランドごとにであった。これらは花子の〈フラワー〉の販売ノウハウを使えば出来ると読んだのである。婦人服におけるFCのショップ展開は既に『JUN』が始めていた。3ブランドのミキシングを許されたのは花子の〈フラワー〉のみであった。オイルショックの翌年、昭和49年、婦人服店は前年対比割れを起こし、アパレルは店頭売れ行きの不振で返品や過剰在庫で倒産の危機があった中で、〈フラワー〉の2億5千万円の売上は『神戸の奇跡』と業界の話題の的となった。
注釈と説明
『an-an』『non-no』:女性ファッション誌の老舗として長らくトレンドを発信してきた。1970年代には両誌ともに旅行特集を掲載し、アンノン族を生み出した。アンノン族とはこれらのファッション雑誌を片手に一人旅や少人数で旅行する若い女性を指した。旅行の主役として女性客が重視される最初の契機となった現象。1980年のDCブームはこれらのファッション誌を抜きには語れない。この2誌に続いて、立て続けにファッション雑誌が創刊される。古い順よりJ.J、モア、ウィズ、キャンキャン等
4 『売上は作るものです』
大庭が何より感心したことがあった。発注数の極端な強弱であった。〈フラワー〉は、売れているのではなく売っているのだと思った。1枚のものもあれば100枚のものもあるという具合である。こんな専門店は今までなかった。売上の違いはあるとしても、どうしても万遍なくになってしまう。作る方としてはこちらの方が有難いのである。
「JI-JI」のロングセラーになったスタジアムジャンパーがあった。オール皮で作れば値段も高くなるし、実際着れば重たい。袖に皮を使い、身頃をフランネルにし、ワッペンを貼り付けたもので、背中に「JI-JI」のロゴを入れた。
人気の秘密はこの貼り付けワッペンが豪華な刺繍を使ったほんまものであったことだ。普通、付属の物は安く上げられる。その逆手を行ったものである。自社のブランド名をロゴに使うことに異論もあったが、そもそもスタジアムジャンパーはユニホームの上に着る防寒着であって、チーム名をロゴとした。我がチーム「JI-JI」でよかろうとなった。売価はワッペンの刺繍に手間ひまがかかって3万8千円であった。当時大卒の初任給が5万円の時代である。
このスタジャンの〈フラワー〉の1年目の発注は50枚であった。2年目500枚の発注数である。大庭は目を疑った。このアイテムだけで2千万円、店の売上の一ヶ月分に匹敵する。思わず間違いではないかの確認の電話を大庭は入れた。
「500枚です」「多すぎませんか」「売上は売れるもので作らんと出来ませんわ」の返事が帰ってきた。腹をくくって大庭は作って、500枚完納した。店頭でも1枚も残さず「売れた」の報告をもらった。それだけではない。数年売れ続け、飽きも来ているからもうやめようの声がスタッフの間から出て、展示会に出さなかった。花子からクレームがついた。「売れているものは勝手にやめるな」であった。それからその商品は5年売れ続けた。
それにしても〈フラワー〉の売る数字が尋常でないので、大庭は神戸の店を見に行った。通りに面したウインドウに3点のスタジアムジャンパーがディスプレイスされていた。黒、茶、赤の3色のジャンパーの前が開けられて、中にアンゴラのセーター、下は薄手のプリントのスカートが色あわせして、独特なコーディネートがされていた。見ているとスタジアムジャンパーを買う客の殆どが3点セットで買っている。ということは、ジャンパーの発注数に合わせて、セーターもスカートも発注されているということである。
「花子さんはデザイナーではないが、優れたスタイリストだ」と大庭は思った。そして売れる仕掛けがなされているのである。ゆめ、自分とこの商品がいいだけで売れていると思ってはいけないと思った。客は店を外から見るのであって、店の見せ方の大切さを学んだ。大庭はカメラマンだ。ファインダーを通して店を考えて見ようと思った。
「あの組み合わせはどうして考えたのですか?」と訊いたら、花子が1枚の雑誌の切り抜きを見せた。それは戦後のガード下の歩道の仕切りの石柱に腰掛けタバコを咥えた〈街の女〉の写真であった。戦後のひとコマを映したいい写真だった。大庭は絶句した。
花子の大胆な商売の方法は本人の個性もあるだろうが、良太には徹底した単品管理の必要さと、リスクの張り方を聞かされていたし、アパレルの物づくりの過程や苦労は、竹野や佳祐から耳にタコで聞いていたし、アパレルの出方は大体読めた。
そして何より、エレガンスとカジュアルのコンビネーションの発想はエミよりヒントを貰った。思うと、反発の対象であった叔母より、接客の基本は教えられていた。
「みんなから、教えられていたんや」。花子は結婚式の前夜を思うと、後悔の念で一杯になった。デモ、割り切って仕事に生きている。
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