6章 アパレルの独立
1 『独立はニットブランドで』
神戸は山と海に挟まれた細長い街である。縦の道は短く坂であり、横の道が市内幹線となる。海岸通り(国道2号線)から山手幹線(中山手・下山手)など横に4本の幹線が通る。最後は須磨で1本(国道2号線)に収斂する。
明石から来る国道線の舞子あたりと、平野の有馬口は増え出した車で、朝夕のラッシュ時の停滞、混雑は常態であった。六甲山をトンネルでぶちぬくことや、バイパス神明を作ってこれらを解消した。この2箇所を除ければ、縦に走る車は少なく、運転はし易い街である。ちょっとした用なら、神戸の人は、車を使わず縦は歩く。
下山手通りが県庁手前で2つに別れる角に栄光教会*がある。浜側で三宮に直接入る道を生田新道という。神戸赤十字病院下、下山手通5丁目の民家を借りて、〈エンパイア〉の木戸衛(まもる)、島崎広敏はニットアパレル〈グローバル〉を立ち上げていた。
木戸が社長で、島崎が主任で、唯一の平社員は竹野義行であった。資本金200万円、150万円は木戸が、50万円は島崎が出資していた。設立は昭和41年、5月、社長の木戸、28才、主任島崎23才、竹野21才であった。
「エンパイア」に入社して5年目、島崎の「独立せんと嘘や」は共同経営ではあったがスタートを切ったのであった。島崎は一通りのことは覚えてきたつもりであった。竹野はやっとアパレルとはどんなところかが分りかけたぐらいで、ともかく広敏を信じて「ついて行く」であった。これを花子は「あんたは島崎の金魚の糞や」と冷やかした。
独立の誘いは木戸部長の方からであった。
島崎は思った、「自分一人ではまだ大変だ。木戸さんは、工場さんにしても、得意先小売屋さんにしても、信望が厚い。温和で誠実で、約束は守る。揉めても纏める交渉力を持つ。やる時や」と・・。
アパレルと云っても、小売屋を始めるような店舗に多額の資金は要らず、得意先と引き受けてくれる工場を持てば僅かな資金でも、何年持つかを問わなければ独立できた。アパレルは雨後の筍のように出来ては、消えていった時代であった。
経理と生産は木戸、営業は島崎の分担と決めた。島崎のたった一つの条件は、竹野を社員に加えることであった。デザイナーもいないスタートであった。古い民家であったが、40坪の家は、在庫置き場に困らなかったし、なにより、台所もあれば、風呂もあり、島崎と竹野の住まいも兼ねられた。二人の共同生活が始まった。世帯を持っている木戸は須磨から通ってきていた。でも残業で遅くなったり、3人で酒盛りをやった時などは泊まって帰った。
家の玄関口には無理して買った〈ミゼット*〉が置かれてあった。ここからなら、元町は坂を下ればすぐだったし、元町駅と三ノ宮駅間は何せ600メートルである。家賃は安く、住まいも兼ねられて、駐車スペースもあって、繁華街はすぐにあり、見っけものだった。こんなところにも木戸の配慮は示されていた。「無駄を排し、有効にお金は使え、社員の生活が第一」であった。
〈エンパイア〉のある二宮町にも安い事務所の物件はあった。島崎も、竹野ももう一つ賛成しない風を見て、木戸が「せやな、元会社の近くではなぁー」と云って見つけて来た物件であった。二人が賛成しない理由は違った。「4つの死角」理論であったが、木戸部長は、いや社長は自説に固執しない、柔軟に対応出来る人であった。ただ、独立に際して一つの「自説」を述べた。
それは「元会社の得意先は頼らないこと。新規開拓の精神でかかること。頼っていては元会社以上には成れない」と云うことであった。独立の挨拶状は出すが、営業にはこちらから行くな、ただし、向こうから来られるのは拒まず。これは島崎には想定外であった。木戸が独立したら、木戸の得意先が使えると計算していたのだ。木戸のこの「自説」は変わりそうもない。頑固なとこは頑固なのである。
反対しても、云っても仕方がない。島崎はサンプルを持って、電車で商店街めぐりをした。竹野は会社で電話番兼雑用である。社長も工場回りや神戸都心の営業にも出る。会社を空けるわけにはいかない。
島崎は阪神間、大阪市内、私鉄沿線、一軒ずつ新規を歩いた。ここの商店街にはエンパイア時代に自分が担当した得意先があるのにと何回思ったかわからない。新規の店では名前すら知られず、見本すら見てくれる人は少なかった。たまに見てくれても、ウチでは若過ぎるだの、色が派手だとか、好きなことを「おっしゃいます」であった。
営業に自信があって、任された島崎であったがこれでは、半年もしたら会社は干上がってしまうと思った。潤沢な運転資金を持っての独立ではない。何とかしなければと思った。利益は薄くてもいい、ともかく作った商品を押し込めて、商品とお金を回転させることを考えた。
大阪の丼池は繊維の現金問屋街である。元々は生地、呉服の卸問屋街であったが、最近では洋品雑貨を扱う店が急増していた。現金問屋は小口でも分けてくれるため、商店街の小さな洋品店が買いに来ていた。ニットを扱うメーカーは少ない、広敏は仲間卸を考えたのである。現金卸問屋からサンプルで注文をもらい、納める。前は現金だから支払いも良いだろう、名案だと思った。
問屋街の一軒に飛び込んだ、「ええ商品や、セーターのメーカーは少ないのや、これとこれ、枚数出すでぇ。ところでいつ納期や?」。島崎の答えに「アホか1ヶ月先、顔洗って出直してこい、こちらは今、欲しいのや」であった。注文を受けてからの納品ではダメなのだ。見込みで作って持ち込む。リスクは大きいけれどそれしか手はないと考えた。それを木戸にぶっつけた。
「営業は、広ちゃんに任せたのやから、ええと思うように。生産はそれに合わせるから」と云ってくれた。
島崎広敏は〈さんちか〉の売り場にいた。この間からマークしている商品があった。〈まき〉のセーター売り場にあるケーブル柄のタートルセーターである。ジャケットやコートの下にタートルネックのセーターを着る女性が増えていた。当時どこでも白、黒、ベージュ、の基本色だけで、今のようにカラフルではなかった。
〈まき〉は基本3色の上に黄色、ピンク、グリーン、ターコイズブルー、焦げ茶とカラフルに揃え、前面に縄柄の模様が入っていて、ジャケットやコートの胸元を飾っていた。神戸ファッションを語るとき、この色の華やかさが挙げられる。海沿いの街、神戸を歩く女性を見たら、それがすぐ理解出来るであろう。
良太が売り場にいた。良太はワンピースやスーツの売り場ではなく、セーター、ブラウスの単品売り場のケースを任されていた。島崎は売れ具合を聞いてみた。
「あれば右から左です」と答えた。
「何色がトップや」
「黄色です。でも焦げ茶が面白い動きしています。ターコイズブルーはウチの奥さんの好きな色で、ウチでしか売れん色でしょう。上着を買った色に合わせて買いはるから、意外とまんべんなく売れています」
「黄色と、焦げ茶の2枚くれ、レシートいるで」
「島崎さんは、彼女に贈り物しはるのにレシート要りはるのですか?」
「先輩を、からかうな」
「お買い上げありがとうございました。グローバル様」
「売れたら、奢るよって」
「竹野は気張ってますか?」
「ああー、よう気張ってはりまっせ。電話の前に皆んなで六甲に行った時の写真貼ってなぁ、その中の誰を見てるのか知らんけど」
良太は商品をよく見ている。今売れているものは勿論知ってはいるが、何故、今、売れているかの分析が出来ている。その上、次の予測が出来ている。グローバルがもうーチョイ大きくなったら、商品企画で引き抜きたいと島崎は思った。
そのサンプルを木戸に見せ、希望販売価格を云った。
「その値段で作るのやったら、枚数が相当いるなぁー。あてはあるか?」
「あります」と答えた。大阪の丼池の鈴木商店が半分引き受けてくれるという。その代わり大阪では売るなと条件をつけられた。島崎はすぐ東京の横山町*に飛んだ。2枚の〈まき〉で買ったセーターを持って、現金問屋街を歩いた。
社長の木戸は2週間後に製品を上げてきた。現金問屋の利用は、利は薄くても商品とお金は回り、会社は活況を呈するようになった。内職のおばちゃん2名と若い女性の事務員1名を入れた。独立の挨拶を出した所の何軒かも、神戸まで来たからと寄ってくれた。「水臭いなぁー、葉書1枚の挨拶状や。来てくれたら、なんぼか買うのに」と云って、注文をつけて帰った。
順調に行ったかに思えた。現金問屋は値段に厳しい。将来を考えて商品の質は落としたくなかった。値段と生産量は比例する。大口の仲間卸の先が東京に出来た。引き受け量は半端でなかったが、決済は半年先の手形であった。手形でも、会社は回せるようにはなっていた。
順調に行って油断は無かったか・・その取引先が倒産し手形は不渡りとなった。欠損は2千万円である。資本金2百万円の会社の2千万円であった。島崎は「又、暴投やらかした」と思った。社長の木戸は「何とかする」と答えて、何とかした。そして、その件については何とも云わなかった。島崎は給料の半額を申し出たが、「稼いで返してくれと」云われた。竹野も営業に出た。
木戸も島崎もやはり専門店卸の王道を歩まんといかんと思った。木戸は車2台も思い切って購入した。ローンである。一度潰れる寸前の思い切りがついたのか、社長木戸は、借りられるものは借りてでも投資をした。一人で巡るのと、二人ではやはり違った。何とか次の年の秋冬物には展示会も開かれ、損を取り返す受注を得られて、グローバルは一息ついた。
会社、いや島崎、竹野二人に取っては宿舎であった。展示会の受注を終えて、酒盛りの最中である。
「先輩、仕事もええけど、彼女はどうですねん。女嫌いですか」
「女嫌いな奴がいるか!でも今は前に来たゴロを受けて、ファーストの木戸さんに投げ返すので精一杯や。その内、ゴロが上手く取れるようになったら、ゲット、ツウーや。竹野、セカンドで上手く捕ってや。それよりお前どうなってるんや。告白せんのか」
「言わんとって下さい。先輩がゲッツー、ハヨやってください。その時にします。会社の先が見えんのに、どない告白しますねん」
「せやなぁー、京阪神はだいぶ固まったので、中国、九州を次は営業してみようと思っている。地方にかて、有力な専門店はできとる。ニットファッションはこれからや」
注釈と資料
横山町:横山町馬喰町問屋街、日本最大の現金問屋街。服飾、雑貨を扱う。東京の初期のアパレルはここに近い浅草橋周辺に起業した。それから、マンションが出来出した時代、イメージのよい青山、原宿周辺に移っていった。あなたの買った服のネーミングに「馬喰町」と書いてあるか、「AOYAMA」と書かれているかの違いである。
栄光教会:旧兵庫県県庁本館の直ぐ北にある神戸を代表する教会堂(プロテスタント)。阪神・淡路大震災で倒壊したが、2004年(平成16年)に再建された。平成17年度の県の景観形成重要建造物に指定された。よく絵に描かれ、スケッチに訪れる人が見られる。
ミゼット:ダイハツ工業が生産したオート三輪車である。低下価格と小回りがきく利便性が受け、零細事業者たちにも手の届く、町の運搬車になった。映画『3丁目の夕日』の鈴木オートでは主役を演じた。
2 『佳祐の独立はブラウスメーカー』
島崎が一早く独立したことは、皆の刺激になった。一番刺激を受けたのは良太ではなかったろうか。自分もアパレルで独立したいと思うようになっていた。淡路に帰っていい店をやっても、神戸や大阪の都心立地に店は出せないと思った。お金ではない、老舗か、有名店かのネームバリューが決定する。〈淡路のイケノ〉ではいけない。
島崎に続いて独立したのが、以外や以外、平田佳祐であった。勤めていたブラウスメーカー〈ロマン〉のデザイナーとブラウスのアパレルを旗揚げしたのである。島崎広敏に遅れること2年、昭和43年、3億円事件が世間を驚かしたが、彼らの淡路組ではそれ以上の驚きであった。若干23才である。ブランド名が1964年ヒットした映画『シェルブールの雨傘』より名前を取って、『シェルブール』であった。「島崎先輩かて23やった。なんも驚くことあらへん」と本人は至って冷静に答えた。又、それが上手くいったのである。
デザイナーの作るブラウスは可愛くて、人気を博した。特に、襟にピコミシンを走らせたブラウスはどこも作ることが出来ず、小売店の引き合いは多く、すぐに軌道に乗った。男子の営業も〈ロマン〉から2名加わり、佳祐はその年発売されたトヨタの高級車・マークツーを乗り回した。
「背が小さいのに、あんな大きなのに乗って、前が見えるのかぁー。シェルブール?その内雨傘がいるようになるわ」と、やっかんだのは竹野であった。
デザイナーと佳祐の関係は?どこから資金が出たのか?佳祐の実家はそこまで豊かではない。二つは謎であった。ひとつはっきりしているのは、そのピコピコと可愛く縫い上げるミシンは舶来品で、ドイツからの船で眠っていたのを、佳祐が見つけて押さえた。そのミシンが独立に寄与したということであった。
良太は在庫室の旧品にプレスをあてながら、「こんなことしてて、俺はええねんやろか」と思って、焦った。
3 『エミのデザイナー・デビユーは食品売り場』
昭和41年4月、ここは大阪、阪急梅田百貨店の地下食料品売り場である。大阪の人の出は神戸の比ではない。どこから、これだけの人が湧いてくるのか、深見エミは不思議であった。出社した当日、三角頭巾とエプロンの付いた制服を渡され、食料品売り場に立たされた。エミは色んな売り場を経験し、まず、百貨店を学びなさいかと思っていた。
京漬け物の売り場であった。「漬け物云うても、種類がいっぱいあるんやなぁー」名前覚えるのに一日目が消えた。二日目、「いらっしゃいませ」が云えた。三日目「毎度、おおきに」といくらか売れるようになった。売れてお金を貰えたときは素直に嬉しかった。
5日目、お迎えが来た。配属は手違いであった。だのに、「デザイナーで来たんでしょう!どうして言ってこない」と人事の責任者に叱られた。かくて、1週間遅れてではあるが、エミのデザイナー・デビユーが無事果たされたのである。気付かれなかったら、1ヶ月、2ヶ月、いや、エミのことなら1年でも漬け物売り場で頑張っていたかも知れない。
夢にまで見たデザイナーである。卵デビユーであったとしても・・である。今、阪急百貨店のオーダールームに立っている。淡路の長屋のミシンを踏む母親のそばで、ハギレの着せ替え人形をした自分と結びつかなかった。ついた先生が山内順子。売り場の課長でも「先生」と云って頭を下げていた。オーダールームのチーフである。
阪急のオーダールームの顧客は、阪神間の草々たる会社の、会長、社長の奥様、お嬢様たちである。出来上がりの品を持って、寸法合せに行って、エミは度胆を抜かれた。こちらの丘から家や庭が見えた。「なんや、思いの外小さい家なんや」と思った。近づいてみた。玄関前は観光バスが何台も止まれたし、池にボートが浮かび、近づいて見上げたお邸の大きさに絶句した。貧乏人の娘が勝手な判断すべきでないと思った。全てがこのようなお邸ではなかったが、それ相当に立派なお邸であった。人間には二種類あるのだと認識した。「お金持ち」と「庶民」。
***
阪急百貨店に高島花子が突然やってきた。エミが生地にチャコで寸法の印を入れている時であった。
「えらい真剣なんやなぁー。さっきから10分も見てたのに気がつけへん。もうすぐ仕事終わるやろぅ、チョット話があるねん。ここに来て」と店のカードを置いて出ていった。
エミにも溜まっていることがあった。阪急に来て、5年が過ぎていた。エミも花子も26才になっていた。
「あのなぁー、エレガンスて何やのん。神戸エレガンスて何や!」
花子のいきなりの質問であった。こんな時の花子は感情が高ぶっている時だ。花子は感情が隠せない。
「何があったん」
「セリオカやめようか思ってるねん。ウチの仕入れる商品は下品で、優美でないねんてぇー。叔母にそない云われてん」
「ひどいことを・・、ほんまにおばちゃんそない、云いはったんか?」
「いや、正確には神戸エレガンスやないと云われたんやけど、おんなじことと違う?」
エミはその違いをこのように述べた。
「業界用語やろ。エレガンスの代表格と言われているシャネルの服かて、最初はスポーティや、野卑やと言われたんや。乗馬ズボンをアレンジして、ニッカポッカを発表した時なんかどうやったか。あのキューと縛り付けたコルセットから女性を開放したのはシャネルや。シャネルスーツ、今やコンサバの代表格やね。近代のファッションを語るときには、二つの方向性があると思うねん。一つは、上流階級から降りてくる流れ。これが、主に〈エレガンス・スタイル〉となるねん。二つ目は、労働階級から上がってくる流れ。これが、主に〈カジュアル・スタイル〉となる。ジーンズや、ツィードなんかも、カジュアルになるわね。紳士でもスーツはエレガンス、ジャケットはカジュアルになる。前者にあるのは伝統や品格、後者にあるのは圧倒的なパワーと自由や。庶民はお金持ちや、上流に憧れる振りをしたいのや。ウチ、誂で阪神のお邸に出入りするやろ、ようわかるねん。そらあんな生活憧れるわ。神戸の子が全部山の手のお嬢さんにはなられへん。でもそれらしい装いをして、その気分を味わうのは別に悪いことやないやろぅ。お金持ちや、上流階級の人が、ジーンズやジャケットを着ないわけでない。うちが着て行ったカジュアルの安い服にそこのお嬢さん、何処に売ってますか?と興味しめしはった。どちがええとか、上品とかやないと思う。この二つは当分消えへんし、融合してくるやろぅーね。現代の生活スタイルからするとカジュアル嗜好になるのは避けられへんと思う。でも、下品なものは流行ってもすぐ廃れると、私は思ってる」
さすが、阪急で鍛えられて5年、エミの服飾理論に花子は感嘆し、目からウロコの理解になった。
「おおきに、決断がついたわ。今考えている事があるねん。多分セリオカは近いうち辞めるやろぅ。ひょっとして、ウチ結婚するかもしれん」
「ええーー、誰なん?教えて、ウチの知ってる人?」
「池野良太や、そらびっくりした顔。冗談よ、次、会ったとき言うわ」
「花ちゃん、冗談でもひどい!ウチも言うわ」
「エミも結婚か?」
「ちがう。阪急辞めようと考えてるねん」
「やめてどうするん」
「それを、今考えてるねん。オーダーの時代は終わったわ」
時代は変わり、それぞれに、転機が訪れて来ていたのである。
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