5章 出店ラッシュ
1 『阪急三番街は〈川の流れる街〉』
1970年(昭和45年)の万国博を控えた前年11月、阪急は駅の大改造を完成させた。駅改造と云うより梅田の一大ターミナル化(阪急村の創設)を考えていた。当時阪急電車は阪急百貨店の建物の1階に入ってきていた。これを国鉄の高架より後ろ(北側に移動)に駅舎を作る大構想であった。
これにより、京都線の充実、百貨店の増築を可能としたのである。3階が駅のプラットホームでその下、地上2階から地下2階にわたり270店舗が入るショッピングゾーンを作り、地下2階には人工の川を流し、『川の流れる街』と話題を提供した。屋上には700台の駐車スペースを持った。
連日の人の賑わいとなり、阪急、阪神の百貨店が、阪急、阪神、国鉄、地下鉄の4つの駅が地下で結ばれ、暗かった阪神、国鉄側の地下通路も明るくなった。梅田、大阪駅前の表情は一変したのである。
駅舎の大改造を終えた、阪急は周辺の開発に乗り出した。阪急百貨店東側にあったコマ劇場裏を、〈阪急ファイブ*〉(昭和46年)、映画館が入った建物を〈ナビオ阪急*〉(昭和55年)とファッションビルを作っていった。ファイブは若いトレンドを、ナビオは映画館、ホールを併設したハイファッションの高級感を売り物にした。〈阪急イングス〉を始め、阪急のホテル群を作り順次開発していった。
これによって、梅田は南、難波を凌ぐ大阪を代表するターミナルとなった。その三番街のファッションゾーンに、〈セリオカ〉〈茜屋〉は出店できた。大阪の都心出店を目論んでいた〈まき〉の社長、飯森保はがっくりした。自分のとこより格下と思っていた〈松屋〉が出店出来ていたから、なおさらであった。
思い当たる事があった。六甲駅前に阪急電鉄が小さなショッピングセンターを作り、〈まき〉に出店の要請が来た。「三宮と近いし・・」と考えて、即決で断った。そこに入ったのが〈松屋〉であった。三番街に入れなかったのはそれしか考えられなかった。
万博を控えた年、阪急百貨店は千里ニュータウンに初めて、郊外型の百貨店を作った。地下鉄御堂筋線は延伸し、北大阪急行となって千里中央駅に乗り入れていた。その駅から阪急百貨店までの地下通路をただの通路にしては寂しい、両サイドに8店のテナントスペースを作り、阪急から〈まき〉に出店要請が来た。三番街はまだ2期の拡張工事が控えていた。
飯森保は考えた。〈まき〉は都心店のノウハウはあっても、郊外店の経験はない。前年に大阪京橋にオープンした京阪電鉄の〈京阪モール〉に出店したばかりで、人材もない。困ったが、阪急電鉄との繋がりは切れない。「売れなくてもいい」と、三番街の2期拡張にかけた。と同時にこの千里のショッピングセンターは当時としては、格段の駐車スペースを持っていた。車の営業職にあった保はモータリゼーションの波がそこまで来ていることは知っていた。それにかすかな期待を持つことにした。
2 『千里阪急は万博に合わせてオープン』
「いつ、ここは出来上がりまんねん?」地下通路の本工事をやっている職人さんが、〈まき千里店〉の店長になった池野良太に訊いてきた。
「明日や」
「ええ?ほんまでっか。考えられんわ。上の人は怖いこと考えまんねんなぁー」と彼らは答えた。店舗内装工事が終り、商品が何とか納品になったが、良太にも店のオープンが明日とは考えられなかった。百貨店も、地上のロータリーもまだそこら中工事であった。でも、職人たちの言うように「上の人は偉い」、万博のオープンに見事に合わせたのである。
千里阪急を核とするショッピングセンターはオープン時間には、清掃も済まし、時間通りにオープンしたのである。それより、良太が驚いたのは、〈まき千里店〉のオープンであった。京阪モールのオープンの入れ込みとは違い、店舗造作には殆ど金をかけていないわ、商品は委託品と嵩上げに使った昨年の残品という有様であった。万博を見に来た父、鹿蔵が店を見に寄って、「親方、やる気のない店やなぁー、辞めて淡路に帰って来い!」と、怒って帰ったぐらいであった。
良太は鹿蔵の言葉にこれから先を考えて、オープン気分にもなれず、暗澹たる気持ちで〈まき千里店店長〉なる初めて持った名刺を見た。おまけに、万博が終わるまで、電車は中央駅には入ってこず、手前をカーブして万博会場に、閉幕までの6ヶ月乗り入れる。電車も入ってこない地下の駅は寂しく、勿論、前の通路を通る人はほとんどなかった。店長とは名ばかり、販売員の女性はアルバイトの一人。しかもおデブで、ハイセンスな店の販売員にはいかがかと思われた。応募は彼女一人だけであっては仕方がない。池野良太は「1年頑張ってあかなんだら、やめたるわ!」と、持って行き場のない感情を胸にしまった。
3 『時は高度大衆消費社会』
高島花子は〈サンプラザ〉のオープンで出店した〈セリオカ・サンプラザ店〉の店長になって、張り切っていた。〈セリオカ〉は2階の顔として、売り場スペースの坪数も大きく、部下の販売員も5名であった。〈まき〉もセンター街店が、大手銀行がセンター街東入口の一角に進出してきて、立ち退いていたので、サンプラザの2階の一角に出店した。人手を使い果たした〈まき〉は、店長を社長夫人飯森蕗子が兼ねるしかなかった。〈まき〉はわずかの間に「さんちか店」「京阪モール店」「京都藤井大丸店」「千里阪急店」「サンプラザ店」の5店になったのであった。
〈セリオカ〉も「大丸前本店」「センター街店」「サンプラザ店」「三番街店」「京都藤井大丸店」「姫路店」の6店になっていた。千里阪急の入居保証金は1千万円で、〈セリオカ〉の三番街は2千5百万円であった。短期間の間に連続して出店出来たのは、阪急のような大手デベロッパーにはその保証金に質権設定がつけられ、担保扱いになったのである。保証金は普通、10年預り、10年分割で帰ることになっていた。
〈まき〉はドル箱の「さんちか店」と「京都藤井大丸店」を除き、出店した店が軒並み苦戦であった。特に一番期待した、「京阪モール店」の不振は社長の頭痛の種であった。京阪モールは京阪電鉄と環状線との乗換駅にある京橋にあり、梅田に次ぐ乗降客を誇っていた。京都藤井大丸店は売れたが、百貨店のインショップ展開で高い歩合を取られて、利益率の低い店であった。経営状態は悪化した。約束の4年が迫って来ていたが、良太は辞める気はなかった。何とか役に立ちたかったこともあるが、淡路には帰る決断がまだつかなかったのである。店の方は妹、秋子が戦力になって、家の方からは幸い急かしてこなかった。
一方、〈セリオカ〉は梅田の「三番街店」が「さんちか店」に並ぶ売上で、ドル箱二つで潤った。花子の「サンプラザ店」も健闘した。同じ〈セリオカ〉の「センター街店」と競合したが、仕入れを任された花子の若いセンスが物を云ったのである。
業績が上がるにつれ、叔母の商品についての干渉がきつくなった。派手で、若すぎると言うのである。「売れているのやから、ええやん」と花子は思ったが、叔母は「神戸エレガンス」を踏み外していると言うのである。あらためて、花子は「神戸エレガンス」とは何やと思った。
「エレガンス」、辞書を引いた。「上品な美しさ、優雅さ、気品」と書かれ、「エレガント」は「上品で優美なさま」であった。「ウチにはないということか、ウチは下品で優美でないということかぁ。上に神戸をつけたら何でも上品で優美なんか?」叔母にというより、意味不明、理解不能なこの得体の知れない言葉に反発を覚えた。平然と使っていた自分にも・・。
梅田の三番街オープンで話題になったのは、最高の場所の対角に、東京の専門店〈鈴屋〉と大阪心斎橋〈玉屋〉の対決であった。当時の婦人服専門店のトップの東西対決であったからである。「鈴屋!」「玉屋!」まるで、隅田川の花火大会のようである。鈴屋は呉服店、玉屋は笠、ショールの店の出である。かように婦人服の世界は業態の転換、新規参入の新しい世界であった。
センター街の三羽烏の一つ、〈茜屋〉は「三番街店」との2店だけであったが、効率のよい経営であった。後年になるが、銀座の出店で大きく飛躍することになる。〈茜屋〉の経営は盆栽経営といわれ、神戸センスを生かしたきめ細やかな品揃えは東京でも受けたのである。神戸の、〈セリオカ〉〈茜屋〉の三番街店は、その売上は本拠の「さんちか店」を超えた。やはり、大阪の胃袋は神戸よりも大きかったのである。
三番街に出店出来なかった、〈まき〉は昭和46年に出来ていた阪急ファイブの増設で、辛うじて梅田進出を果たした。かように、都心にはファッションスペースが出来、有力専門店は店舗数を増やした。平場の売り場で、演出、センス、商品力において、百貨店は専門店に及ぶべくもなかった。
西における地下街だけではない。東では昭和44年に、西武が経営する〈池袋パルコ〉がオープンする。日本におけるファッションビル第1号である。いきなりの大成功であった。パルコの中の店が売れたのではない。パルコそのものがユニークな広告、宣伝によって売れたのである。ネームバリュー、老舗、センス関係なし。パルコの中に入れさえしたら売れたのである。これをパルコ現象と人は呼んだ。
パルコの2号店は昭和48年渋谷に、そして順次全国展開をしていく。又、類似のファッションビルも出来ていく(東急109、ラホーレ原宿*等)。他方、郊外沿線では、スーパーマーケットが専門店ゾーンを併設したショッピングセンターを作っていった。この先鞭をつけたのはダイエーが大阪郊外に作った〈香里ショッパーズプラザ〉(昭和43年)であった。思えばダイエーの創業は神戸であった。当然、専門店を対象としたアパレルは、前のパイが広がることにより、急成長することになる。
注釈と資料
阪急ファイブとナビオ阪急:現在は二つ合わされ、『HEP』となり、街中に出来たという大観覧車とともに、若いカップルの人気スポットになっている。
ラホーレ原宿:1978年(昭和53年)表参道と明治通りの交差点(渋谷区神宮前一丁目)に、貸ビル業であった森ビルが若者向けのファッションビルとしてオープン。アダルトなコンセプトが合わず、テントが抜け、困っていたときに、原宿周辺のマンションメーカーと揶揄されていたデザイナーズ、キャラクターブランドのアパレルに目をつけ、保証金無し、歩合家賃制でスペースを提供し、成功した。デザイナーズ、キャラクターブランドの多くがここから育った。又、森ビルはファッションを手がけることにより、タウン開発の手法を学び、六本木ヒルズに代表されるような、今日の森トラストになった。
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