4章 〈さんちか〉のオープン
1 『神戸には色んな顔があった』
昭和40年10月1日、神戸初の地下街がオープンした。大阪梅田の『川の流れる街・三番街』が万博を控えた前年であったことを思えば、全国でもそのモダンさと100近い店舗数のスケールは目を引いた。入口に当たる交通センタービルの1階からの2機のエスカレータを降りてくれば、メタリックなモニュメントがあり、若いカップルの待ち合わせの目印になった。
その前の一番目立つ所にはレディースタウン、市役所方向に向かう両サイドには、ファミリータウン、メンズタウン、スイーツタウン等の8つのタウンが展開されていた。その頃としては珍しいラジオ局のサテライトスタジオも設営されていた。三ノ宮駅から市役所にかけてのフラワーロードの下に8輪の花が咲いたのである。
これによって、阪急三宮、国鉄三ノ宮、阪神三宮、3つのターミナルと〈そごう百貨店〉〈センター街〉のショピング・ゾーンが地下で結ばれた。島崎広敏がいみじくも云った三宮の4つの区画の真ん中に、新しい区画が出現したのである。これからの神戸の主役は三宮が担うのだとのお披露目のように、神戸市民には映ったのに違いない。
それを現すがごとく、初日の人出は10万人を越し、地下街は一時、人の頭しか見えなかったと云う。人出は連日続いた。昭和40年、高度大衆消費社会に突入する年でもあった。クレージュ*がミニスカートを発表した年と重なるのは何か象徴的に思えた。
〈さんちか〉(当時は三地下の字を使った)が出来て、三宮がこのような形になるまでを少し振り返って見よう。
神戸は開国で港を開くまでは兵庫の津として発展してきた。開港が兵庫港でなく、新たに作られた神戸港であったことは、既に深見エミが学んだことである。開国に伴う外国人の居留地は、東西は鯉川筋と生田川(今のフラワーロード)間、南北は大丸前がある京町筋より海岸迄とされた。しかし、幕末の混乱期であり予定期限内に完成できなかったため、便宜の措置として、生田川以西、宇治川以東、山麓までを雑居地とした(横浜にはこの雑居地はない)。これが山本通りや、北野町に異人館が多く残った理由である。
1899年(明治32年)、居留地は神戸市に返還された。後は貿易商社や銀行やモダンな洋館の中に新しいビルディングも出来、外国人商人に混じって日本商人も負けまいと頑張った。特に関東大震災で打撃を受けた横浜の貿易商たちがここに事務所を移し、神戸は生糸を始め輸出、輸入のトップ港となった。神戸の顔は港であった。
大阪駅~神戸駅間を最初に結んだのは1874年(明治7年)官営の東海道線で、陸蒸気と云った時代である。神戸駅は東海道本線と山陽本線の分岐駅である。兵庫の津があった和田岬地区には運河がつくられ、川崎造船(明治29年)三菱造船(明治38年)と工業地帯となり、兵庫駅からの和田岬線*(明治23年)も出来、港を中心とした兵庫駅、神戸駅辺が栄えたのである。市役所は神戸駅近くに置かれていた。
兵庫・神戸駅の西が港の力とすれば、東、三宮は大阪の力と云ったらいいのだろうか、阪神間の交通の発達事情を抜きには語れない。大阪~神戸の2大都市間の間には、JRを挟んで、山手を走る阪急、浜側を走る阪神と、山と海の狭いあいだに3つの輸送機関が並行して走り、沿線の開発、乗客の獲得にしのぎを削って来た。それは現在も変わらない。
阪急電車は市電の終点があった上筒井(今の西灘駅付近)までであったが、1936年(昭和11年)高架化が認められ三宮に乗り入れた。阪神電車は神戸市街においては岩屋駅以西で併用軌道を用いて路線が敷設されていたが、路面を廃止し、地下で乗り入れ、昭和8年三宮阪神ビルを完成させ(そごうに賃貸)地下を終点神戸駅(今の三宮駅)とした。
昭和6年には東海道本線の高架化が完成、この時、元町にあった三ノ宮駅が現在地に移転した。跨橋であった市電は高架の下をくぐることになった。双方、電車を走らせながらの工事であったから、当時大変であったろうと推測される。慌てた元町店主たちは陳情し、元三ノ宮駅があった場所に元町駅が出来たのである。国鉄で最短600メートルの駅間が生まれたのはこのような理由による。こうして三宮に三つの三宮駅が出来たのである。
これらは、基本的には市の都市計画の一環で、この頃には現三宮駅周辺に新たな街を形成する指針が示されており、今日に至る三宮の下地が造られ始めていたのである。戦後も、「戦後復興都市計画」にこの都市計画の流れは受け継がれ、これに沿って市役所の三宮移転(昭和32年)も決められたのである。
述べたように、そもそも神戸は三宮より西に繁華街があった。かつて新開地には映画館や芝居小屋・寄席などがズラリと並び、神戸っ子を楽しませた地で、庶民的な味わいがあった。三越ができ、大丸ができると、人の流れは東へと移る。その頃は元町が中心地になり。すずらんの街灯をつけた元町通りがハイカラな港町らしく、活気にあふれた風情を醸し出していた。今、元町も南京町や大丸周辺の1丁目、2丁目辺りまでの賑わいで、三越は既になく、西の5丁目、6丁目は淋しい限りである。
市電が市内を結ぶ庶民の主要な足であった時代、時間がまだゆっくり流れていた頃、かつて神戸には、板宿、大正筋、長田、新開地、水道筋、春日野道、六甲道商店街の賑わいというローカルな顔もあった。私鉄相互乗り入れの神戸高速鉄道や地下鉄等の交通の発達により、スピードアップした今、ほとんどが三宮に集中し、ローカルな味も、庶民の味も、ハイカラな風情も、神戸の色んな顔が消えて、一つの顔だけになってしまった感は歪めない。
げに、日本の官僚の凄さである。一度決めたことは必ずやり遂げる。戦後のあの焼け野原の中で立てた計画をやってしまい、山を削り、人工島*を作り、空港島まで作ってしまった。それが、良かったのか悪かったのか今は問うまい。
注釈と資料
和田岬線:山陽本線の兵庫駅から分岐する全長2.7kmの支線である。三菱、川崎重工に通う労働者の通勤用であったので沿線の人々は「職工列車」と呼んだ。
人工島
ポートアイランド:人口1万7千人。第1期工事昭和41年着工、15年をかけて、高倉山を削り跡地にニュータウン、埋め立て地には海上都市を作った(神戸方式と言われた)
六甲アイランド:着工昭和47年、人口1万9千人である。
2 『デートの場所はレディースタウン』
三宮の成り立ちに話はそれたが、話は〈さんちか〉に戻る。
〈さんちか〉のレディースタウンは、勤めを終えた海岸通りや、栄町の会社勤めのオフィスレデイたちで混みあった。神戸の婦人服店の三羽烏と言われた、〈セリオカ〉〈茜屋〉〈まき〉のセンター街組、大阪の心斎橋組の出店と若い女性の人気店がズラーと揃い、最新流行を競った。神戸勢はセンター街店との差別化を図って、より若手を意識した品揃えをした。〈まき〉の良太も昼は事務所で在庫の仕事を、5時以降の夕方のラッシュには売り場に立った。
花子は叔母に〈さんちか〉店への配転を希望したが、「私の下でしばらく勉強しなさい」の一言で片付けられた。エミは学校が終わると、〈さんちか〉によく出かけた。服も買いたかったが、その都会的な雰囲気に触れていたかった。〈さんちか〉が出来てからは、新開地本通りにある洋品店が野暮ったく見えた。〈さんちか〉には当時の最新の流行があった。見ているだけでも楽しかったし、勿論、ファッションの勉強にもなった。何より池野良太に会えた。
「エミちゃんやないか、何か買ってくれるんか?」
「あら、お客様にそんな物言いしてええの」
「お客さんや、買っていただけるんや」
「今日は、見るだけ。そのセーター見せてくれる」
そんな会話が楽しめた。接客している良太と、淡路のグランドでボールを投げていた良太とがどうしても結びつかない。
そして、時間を潰して、たまに花子と逢う。食事をするときもあるし、お茶とケーキの時もある。3回に一度は出すと云ったけれど、エミが学生の間は社会人の私が出すと花子は云って聞かなかった。エミはありがたく甘えることにした。
「勤めてボーナス貰えるようになったら倍返しするよって」と云ったら、「ノートにつけとくよって、楽しみにしておく」と花子は笑った。3ヶ月に一回の集まりは続いているが、仕事の都合があったりで、全員揃うことは滅多になくなった。皆勤賞はエミと佳祐ぐらいであった。
エミは来年春、卒業後の進路を考えなければならなかった。花子や良太からは小売屋情報が、竹野や佳祐からはアパレルの情報が聞けた。洋裁学校の理事長は大丸のオーダールームのデザイナーを薦めてくれていた。皆の意見は「プレタの時代に古い!」であった。エミは、でも、一度きちっとした服作りを習いたいと思っていた。「古くたっていい。1ミリ、2ミリのこだわりの世界を学びたい」と思った。皆の話を聞いていたら、アパレルのデザイナーの仕事は忙しく、使い捨てのように感じたのだ。
花子は叔母の目が段々、窮屈に感じるようになっていた。家では叔母は何も言わなかったが、店では口うるさかった。他の販売員なら注意されないことまで注意されているように思ったこともある。それと、扱う商品と自分の好みとが段々に違ってきた。親戚でなかったらさっさと辞められるのだが、親戚勤務も良し悪しと思った。何か新しいものを見に、一度東京に行って見ようと思った。
島崎広敏は夕方6時頃になると、必ず〈さんちか〉のレディースタウンにやって来て、1時間ほど時間を潰した。市場調査である。若い女性が今どんなものを着ているか、どんなものを手に取って買っているか、ショーケースの中のセーターの並びで売れ筋がわかる。毎日見ていればわかるのである。
良太を見つけると、「頑張ってるね!」と声を掛け、売れているものを聞く。店頭情報が一番だと思っている。〈さんちか〉を見て、日本は変わる。少なくとも神戸は変わると確信した。川崎重工、三菱重工、二つの重工が風邪を引いたら、神戸中が風邪を引くと言われた時代、重厚長大産業こそが産業と思われた時代、たかがファッションであるかもしれないが、神戸を担う時が来ると、〈さんちか〉タウンに来ている人たちの熱気が語っているように思われた。広敏は本や理論よりも見た実感を何より大切にした。勿論、冴えた実感を持つには、本や勉強は欠かせない。
3 『奮闘努力せよ新入社員』
良太の勤める〈まき〉は、元の出が御旅(おたび)市場である。兵庫駅前にあり、大正時代から店舗が集積し、戦前は港湾関係者や重工の工員さんらで賑わった。そこで先代は履物店をやっていた。付近一帯は神戸大空襲で焼け野原となり、戦後、湊川商店街に店を移し、下駄や草履を売っていても時代遅れになってきて、長男のお嫁さんが店を半分に仕切って洋品を扱った。それが婦人服の始まりであった。〈まき〉はこのお嫁さんの名前である。
長男の名前は守さんといったが、映画好きで、映画館の支配人をしていたが、洋品店が忙しくなって、映画館を辞め、店の経営に専念してセンター街の出店のチャンスを得た。センター街は当時『ジャン市』のある駅より東口の方が、立地が悪かった。そこにある8坪の店を借りられたのであった。まきさんが病気で亡くなり、虚しくなった守さんは、又、映画の世界に帰ってしまった。後を継いだのが弟の保さんという次第である。弟、保は日産自動者の優秀なセールスマンであった。
良太の父、鹿蔵は神戸時代に長男の守さんと知り合いになった。良太の就職は守さんの口利きであった。鹿蔵は3年の預かり修行を頼んだが、保社長は「3年で一人前になります。あと1年はお礼奉公してもらって、元が取れます。4年ということでどうでしょう」と言った。帰り道、「やんわり喋って見えてやけど、若いけどしっかりしてる。ええ勉強になるわ。さすが商大出や、お前もきばり!」と、鹿蔵は良太の肩を叩いた。父の励ましであった。
社長の飯森保は今度の〈さんちか〉出店は〈まき〉の将来を決めると、並々ならぬ意欲で、デベロッパーに当たる神戸地下街株式会社につてを求めたり、朝がけ夜がけの陳情をした。神戸の婦人服店の枠は4つで、3つはすでに決まっていた。〈セリオカ〉と〈茜屋〉は人気、実力からも外せない。もう一つは〈丸美屋〉で、人気や商品力より、センター街の会長職がものを言った。あと一つに神戸の有力店がしのぎを削った。
『神戸地下街株式会社』は神戸市が半分出資する半官半民の会社である。市役所から配属されてきたテナント担当の責任者が、社長の保が以前、車を売った人で、クレーム時の対応が非常に良かったと好感を持っていてくれ、これが有利に働いた。
センター街の店は8坪程の小さな店であったが、奥さん蕗子のカジュアルセンスの見立てと、独特なディスプレイで人気があった。ウインドウの中を全て、チェックのブレザースーツで飾ったりして、今神戸ではこれが流行っているのだと思わせたり、アーガイルチェックの靴下が若い女の子の間で流行っていると聞くと、アーガイル柄のセーターを別注したり、仕掛けを重視したやり方で、神戸の若い子の人気を得つつあった。
〈セリオカ〉はどちらかというとミセス向きで高級品、〈茜屋〉はセンスは良かったが、OLは少しお値段を奮発しなければならなかった。その点、〈まき〉は自分のお給料で買えた。
あとの一つは、社長保の熱意が通じ〈まき〉に決定した。偶然、車を売ったユーザーが〈さんちか〉出店の責任者であったとは、何処で何があるやら、人は何処で見られているか知れたものではない。仕事はいい加減には出来ないものだと良太は思った。
事務所は営業マンも来るし、銀行の人も来る。社長の考え、動向もわかる。これ程情報の集まる場所はない。「勉強になる」と、良太は来客の言葉も聞き逃すまいと、値札つけの合間も聞き耳を立てていた。最早や原価を売価で値付けした良太ではなかった。
社長はメーカーの営業マンを〈さんちか〉店の店長に引き抜いた。社長の〈さんちか〉への入れ込みがそれで判断出来た。〈さんちか〉の店長で行くものばかりと思っていた、上山鉄男はガックリと落ち込んだ。寮の食事でも良太はどう声をかけていいのやら、普段、細かいことに気をかけない〈てっちゃん〉だけに、良太は悩ましかった。
仕入れを担当の奥さん、蕗子さんであるが、幼い子が二人あって毎日の様には会社に出て来れず、二日に一回の割であった。住まいは会下山で社長保の母と同居である。遠縁に当たる女性が女中さんがわりで来ているが、「気がつかない子でぇー」と来てはこぼしている。来て入荷商品を見て、これは返品、これは追加、これはセンター街の店、これは〈さんちか〉店と指示を良太に出す。
先輩、上山に忠告を一つ受けていた。〈まき〉では奥さんに嫌われたらおれないと云う。「一人、男の子が社員でいたが、『あんな暗い子』と、いけずされてやめたがや。気に入らん営業マンやったら相手先上司に電話を入れて、代えさせるきに」
どのように合わしたらいいのか、考えてもわからなかった。解らない時は変に考えないこと。嫌われたらその時に考えればいい。良太は神経質な面があるかと思うと、結構図太いとこもあった。結果はそれで正解。蕗子さんとは結構ウマが合ったのである。
後で、経理事務をやっている目木さんに聞くと、「あの営業マンは礼儀知らずの無礼者であり、男の社員は私でもあんな暗い子、店でも使いもんにはならんと思った」ということであった。確かに、蕗子さんは上山の云うわがままな節もあるにはあった。でも、良太は可愛いとこがある女性だと思っていた。
〈さんちか〉が出来てからは良太の仕事は倍以上になった。女性の新卒事務員の採用は決まったが、来春のことだ。たまに、社長や、蕗子さんが手伝ってくれるが、毎度とはいかない。おかげで、今ではあの商品は何処にあると訊かれたら直ぐ様に答えられる様になった。
「在庫の神様やなぁー」と蕗子さんは褒めるが、良太は素直に喜ぶことにしている。本当の意味は〈店ではよう売らんが、在庫だけはしっかり憶えている〉の意味だ。蕗子さんが褒めるには裏があるが、勘ぐらないことにしている。蕗子さんは良太のそんな伸び伸びしたところを好いたようであるし、良太は〈奥さん、奥さん〉していないところが、変に気を遣わなくて良く、好きだった。
よく売れる商品があると、「池野君、伝票見せてみ」と云う。「そこの引き出しに、入ってますから、自分で確認してください」と良太は答える。例の原価値付の失敗のことを言っているのである。嫌味と捉えるか、かまいたいだけと捉えるかの違いである。勿論、良太は後者であった。
竹野義行は先輩、広敏の車に同乗して、営業助手の役割をしていた。〈さんちか〉が出来たのを見て、広敏の街や時代を見る慧眼に恐れ入っていた。営業回りが終わっても、明日の地方送りの出荷や何やかやの残業の連続で、外食して、銭湯に行って、バターン・キューの毎日であった。広敏はそれから本を読むという。義行には信じられなかった。『淡路5人組』だけは出たかったが、それも会社の仕事が忙しくってたまには飛んだ。
平田佳祐は何とか期限内に免許も取れ、営業車で阪神間、大阪と回った。今のように高速の無い時代、時間はかかったし、何より不案内な地図に困り果てた。会社に帰って来て、商品整理さえ終えれば残業はなかった。入ったとき50名の会社は既に70人を越していた。外食の毎日という義行の話しと比べて、あまりいい内容とは云えないが、帰って来て食事の用意が出来ている下宿はそれなりに有難かった。無愛想な主婦とニィーと笑う娘、そして全然喋らないもう一人の下宿人、静謐な食事風景であった。食事が終わると、その日営業で回ってきたところを思い出し、自分の地図を作った。
そんな佳祐が六甲山の山歩き以外に楽しみを見つけた。釣りである。須磨の海岸や垂水漁港に行って釣り糸を垂れる。海の香りはいい。故郷、淡路島も目の前だ。あの島の反対側に福良があるのだと思った。淡路には、最初の年のお盆と、今年の正月に帰ったきりだ。
正月、洲本の義行を訪ねた時、初詣に行くエミに出会った。着物姿のエミは別人に思えた。新年の挨拶を交わしただけで、別れたが、何故かその日の着物姿が佳祐には印象的であった。花子のような派手さはない。むしろ地味でひっそりといるが、気が付けばそこにいるという感じの静かな存在感があった。レギュラーになれなくても、何とか野球を続けたのは、ひょっとして、エミがいたからかも知れないと、佳祐は思った。
4 『ツイッギーがミニを運んできた』
島崎広敏がファッションンの黎明期と語った昭和38年、39年、〈さんちか〉が出来た昭和40年頃はどんな年であったろうか。東京の人口は1千万人を突破し、人々は都会の繁栄に雪崩をうつかのように移動していった。
『国民経済白書』では、高級化と多様化を指摘していた。東レや帝人の合繊メーカーが川下への普及を狙って、ファッション・ショウーが開催され、話題を提供した。バカンス・ルックなる言葉もこの年で、バカンスという言葉が巷の人たちの口に初めて上ったのである。
昭和39年、東海道新幹線が走り、東京オリンピックが開催され、カラーテレビが普及した年である。東京ではみゆき族が登場し、男性にメンズファッションが登場した。三ツボタンの上着、細身の裾に折り返しのあるズボン、ボタンダウンを着た若者たちが街に目立ち始め、『アイビールック』と呼ばれた。
アメリカ東海岸の有名私立大学のアイビーリーグ(アメリカンフットボール)より由来の名前であった。ここの大学生たちが好んだイングランド・トラッドの着こなしを、VANブランドを創業した石津健介がファションとして提案し、これが人気になり、男性はこのスタイルで、女性も独特なロングスカートスタイルで、『VAN』、『JUN』などのロゴマークの入った紙袋を持って、用もないのに銀座・みゆき通りを闊歩したところから、これらの若者達を『みゆき族』と称した。日本のタウンファッションの先駆けとなった現象であった。
折からの創刊された男性雑誌『平凡パンチ』がアイビールックを特集し、よそ行き、普段着しかなかった若い男性に、ファション、着こなしを提案し、若者たちに熱烈に受け入れられた。後に良太が東京に仕入れに行くようになったとき、出会ったマンションメーカーの創業社長たちはみな、この熱烈組であった。
同じ頃、パリではクレージュ*がパンタロンルックを発表し、続いて翌年(昭和40年)春夏向けのパリコレでミニスカートを発表した。初めて女性が膝上を見せたのである。これは画期的な出来事であった。昭和42年、スーパーモデル、ツイッギーの来日で、ミニスカートブームが日本でも起こり、猫も杓子も、ミニスカートかパンタロンという時代に入ったのである。海外からの情報はテレビの普及によって瞬く間に茶の間に入り、日本のアパレルビジネスは昭和40年代大きな飛躍期に入ったのであった。
〈まき〉は神戸の専門店の中でもいち早くミニスカートを取り上げ、〈さんちか店〉には若い女性が多く押しかけた。ローウエスト切り替えのミニワンピースも別注でよく売れた。ある有名な若手女優が来客で来て、良太は裾のピン打ちをした。もっと上げろと言われ、その露わな太腿にピンを刺さないかと手が震えたものであった。
昭和40年は名神高速道路が開通。日本は本格的にモータリゼーションの時代に突入した。翌41年には車の生産台数は、米、独に続いて世界3位になった。阪神高速神戸線も出来、昭和44年には東名高速が開通し東京~神戸間は高速道路で結ばれた。人々の暮らしや、世の中の出来事は一段とスピードアップしたものとなった。
女性も免許を取る時代となっていた。良太と上山の〈池ちゃん、てっちゃんコンビ〉は厚いオーバーコートから軽快なバーバリー生地のコートに切り替えて仕入れを成功させた。ライフスタイルの先取りであった。
注釈と資料
アンドレ・クレージュ:若い頃に土木建築学を学び、1961年にクレベール通りにサロンを開設して独立。64年の「ローブ・ド・パンタロン」では、夜会用の服にパンタロンを提案し、スポーティで機能的な傾向を強調、65年春には「ミニ・ルック」とよばれるミニスカートを発表。ミニスカートの元祖はイギリスのデザイナー、マリークワントとされる。両者の違いは、クレージュはハイファッションの世界に身を置き、高級な服を着る層の顧客が、清楚に着こなすことができるミニスカートだったといえる。一方、マリークワントはロンドンのタウンファッションの立場でミニスカートを創作した。
5 『みなで六甲山・思惑外れた竹野君』
竹野義行は、免許は取れたけど、車は買えない。木戸部長のブルーバードを借りる事にした。それで、花子を六甲山に誘った。約束の場所、阪急会館前に行くと、そこには花子だけでなく、エミ、良太、佳祐もいた。「みんな行くって訊いたら、行くって!スペシャルサンドイッチ作って来たからええやろぅー」。
義行は表六甲ドライブウエイを先週、営業車で運転テストしておいた。昼はあそこで食べて、夕方の灯りが街につく頃の見晴らしのいい所はここで、そして初キッスは・・義行の夢のプランは一瞬にして吹っ飛んだ。
でも、みんなの嬉そうな顔を見れば、これもいいかと割り切った。花子とは次がある。次は幾らでもあるのだ。宇山の試合だってそうだった。三振、ゲッツー、また三振だった。第4打席、ホームランで、2対0で勝った。応援の花子がホームベースまで走ってきて、抱きついてくれた。あのときの感激、あのかぐわしい匂い。次がある。義行のモットーとなった。
皆で見た百万ドルの夜景は最高だった。佳祐が言った。「百万ドルの夜景は夕方から暮れる寸前までが一番きれいなんや。紀州、淡路、四国の山並みが紫色に浮き、西を向けば、陽は播州の雲に沈み、うすぼんやり見える海岸線が街の灯を一層引き立てるんや」
その通りに一同びっくりした。「神戸の花は紫陽花で、あじさいは六甲山では自生し、ひと夏中咲き続け、ドライフラワーになる。雨の6月の六甲は綺麗なんや」
みなは詩人佳祐の意外な一面に最敬礼をした。帰り、暗がりの義行の運転では怖いからと、みなはロープウエイで帰った。義行は皆の冷たい友情に心から感謝した。ヘッドライトを頼りのカーブ走行は、新米ドライバーにはヒア汗ものだった。もし、後ろから一言でも変な言葉が出たらどうなっていたか・・。
六甲ドライブウエイは戦前からあったが、昭和13年の大水害以来使えなくなっていた。戦後神戸市は復興を考えたが、いかんせん、財政難であった。これを助けたのが阪急、小林一二三であった。阪急は六甲ロープウエイで阪神に先を越されていた。来るべき時代は車と読み、六甲山の開発による利益を計算したのは当然であった。
六甲山の開発といえば英国人、アーサー・H・グルームの名前が浮かぶ。お茶を扱う貿易商として来日し、日本人の妻を持ち、六甲山に初めて会員制のゴルフ場を作ったり、自らも別荘を建て、別荘地として外人たちに売り出し六甲山開発の祖とされている。『神戸ゴルフ倶楽部』は日本で初めてのゴルフ場で、〈まき〉の社長はここの会員であることを何よりの誇りとしていた。又、グルームは神戸を代表するホテル、オリエンタルホテル*を始めたことでも知られる。
注釈と資料
オリエンタルホテル:神戸にはオリエンタルと名前のつくホテルが、いくつかある。日本で最初のホテルであるオリエンタルホテルが創業したのは1870年(明治3年)旧居留地79番においてであった。その後、旧居留地内を移転し、持ち主が変わり、オリエンタルホテルの直系としてのオリエンタルホテルは2007年にその歴史を閉じた。現在オリエンタルホテルの名前のホテルは旧居留地にあるオリエンタルホテル、新神戸オリエンタルホテル、メリケンパークオリエンタルホテルの3つである。
6 『雌滝、雄滝の布引の滝』
エミは、花子から良太を誘って、布引の滝にハイキングに行こうと誘われた。エミは山道が苦手であった。長く歩くと息切れがする方である。そのことを言うと、「心配いらん、市街地から15分も歩けばええねん」と言ったが、前日になって、花子から用事が出来たので行けなくなったと電話が入った。「延ばそう」とエミが言うと、「良太もそう休みが取れへんから、二人で行ったら」と花子は電話を切った。
神戸に来てから、二人きりで出かけるのは初めてであった。阪急会館前で待ち合わせ、生田川沿いを登って行くと、私学の円形校舎(この跡地に新幹線新神戸駅が出来た)があった。その裏手を登って行くと突然、市街の建物が隠れ、色つきだした木々の森になり、細い登り道を行くと雌滝があり、その上に雄滝があった。花子の云ったように、ものの15分もかからなかった。こんな所に霊厳なる静寂があるなんて信じられなかった。雄滝は40メートルもの落差があり、黒い岩肌に白い線を描き、滝つぼに音を轟かせていた。ときおり、船が汽笛を鳴らし、神戸という街がついそこにあることを知らした。
雄滝の上から市街地を見下ろせる所があって、座るのに適当な石があったのでそこに二人は腰を下ろした。真下は街並み、エミは見下ろすと恐いほどであった。滝の静寂とは一変して街は賑やかに活動していた。沖合に大きな船の行き来が見え、西に目をやると紫に霞む淡路島が見えた。
来る途中に閉まっていた茶屋があった。石に腰を下ろした良太は遠くを見やりながら、こんな話をしだした。
「あの茶屋ではないが、布引の滝は朝の運動を兼ねた散歩道として丁度よく、昔、一服入れる茶屋があった。三人の美人姉妹が茶屋を手伝っていた。滝より、その姉妹目当ての人もあったそうだ。真ん中のお福という娘に惚れた外人さんがいた。しかし、しばらくしてお福さんは他に縁談が決まった。そのお福さんは1年後に病気になって亡くなったそうだ。その後、その外人さんは大阪の芸妓に出ていた〈おヨネ〉という女性を身受けした。おヨネはお福さんに似ていたらしい。おヨネをこよなく愛したが、2年ほどで病気で亡くした。悲観した外人さんは、おヨネの故郷徳島に隠遁し、おヨネの姪であるコハルと一緒に暮らしたが、そのコハルも亡くなってしまった。二人の墓守のように暮らして、徳島で孤独な生涯を終えたそうだ。ポルトガルの領事館長で、名前をヴェンセスラウ・デ・モラエスといい、『おヨネとコハル』という本がある。小泉八雲と同じように日本をヨーロッパに紹介したことで知られている」と・・。
スポーツマン良太と違う一面をエミは見た思いがした。
「なんか可哀想な外人さんやね」とエミが云うと、「顔を見たかったら、市役所下の東公園に行けばええ。胸像があるよって」と良太は云った。先ほどの茶店を見ていたので、興味のある話しではあったが、何故、突然良太がそのような話をしたのか、その真意がエミにはもう一つ分からなかった。良太が言ったその外人さんの本を読んでみようと思った。
もっと他の話をしたかった。エミは大丸のオーダールームではなく、大阪の阪急百貨店のオーダールームのデザイナーを受けようと考えていた。東京までは無理でも、広い、知らないところで自分を試して見たかった。そんなことを話したら、良太はどう答えるだろうと、市街地を見下ろしながら思った。
「良太君は淡路に帰って、お店を継ぐの?」と訊いてみた。
「うん、淡路には帰らん積りや。神戸でやっていく」
何を、どうやっていくのかは語らなかった。エミは持ってきたオレンジジュースの瓶を良太に手渡した。二人は淡路の宇山のコーラの瓶から一歩も進んでいないようである。
7 『須磨は謡曲・松風』
それから、1ヶ月した頃、良太はエミに偶然遭った。良太は午前中の仕事は寸法直し商品の配達であった。須磨に3軒内職をしてくれているところを回ってくるのである。帰り道は国道を走って、離宮道*を上がり、離宮公園*を突き当たり、右折して山手通りの道を取る。車が一番混まないコースなのだ。
離宮道を下って来るエミを見かけたのだ。ショートカットの髪型、スケッチブックを小脇に抱えているが、1ヶ月前と同じ装いだ。間違いない。車を脇に止めて、ウインドウを開けて大声で名前を呼んだ。エミは一瞬きょとんとしたが立ち止まって、横断して車にやって来た。
「びっくりしたわ。こんなとこで、『エミちゃーん!』って呼ぶ人あるんやから・・」
「こっちこそや、こんなとこで見るなんて、着てる服が違ってたらわからなんだわ」
「すいませんねぇ。着たきり雀で」
「どこに行くの?」
「離宮公園のスケッチに来たんやけど、上手く描かれへんから、松風村雨堂が近くにあるらしいから、見て帰ろうと思ってたの」
「ついそこや、案内したるわ。公園の駐車場に車入れてくるから、ちょっとここで待っといてんか」
淡路では学生服だった良太の、ジーンズにスニーカーの後ろ姿をエミは見やった。
謡曲『松風』で知られる松風・村雨(まつかぜ・むらさめ)とは、平安時代、須磨に暮らしていたという伝承上の姉妹で、姉が松風、妹が村雨と云った。須磨に伝わる土地の伝説によれば、姉妹は多井畑の村長(むらおさ)の娘たちで本来の名は「もしほ」と「こふじ」、須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流されていた在原行平*と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて愛されたという。のちに行平は赦されて都に帰る際、松の木に形見の烏帽子・狩衣を掛けて残した。松風・村雨姉妹は行平が都に戻る際、二人はこのお堂で行平の無事を祈ったのだと言われている。知らないと見逃してしまいそうな小堂である。須磨のこの近辺には村雨町・松風町・行平町・衣掛町と名付けられた町名がある。
「えらいクラッシクやねんなぁー。洋裁学校生エミちゃんが知ってるとはなぁー」
「うち、神戸の歴史にはまってるねん。この間の布引の三人姉妹の話は知らなんだけど、それより良太君の方こそ何で知ってるのん」
「ウチの両親が初めて世帯持ったのがここらへん、月見山や。親父はようこれを謠ってたわ。そんなんで須磨に仕事に来たとき、まっ先に来たんや」
「須磨で仕事?」
「寸法直しの集配や。午前中の仕事はこれや」
「あんまり道草してられへんね」
「新開地やろ、送ったるわ」
この間は皆で六甲にドライブに行ったけど、車に二人きりで乗るのは初めてだった。
「わからへんわ。一人の男の人に女の人が二人。それも姉妹で」
「昔は恋愛におおらかやったのや。一夫一婦制ってキリスト教の影響やろぅ」
「焼餅妬かなんだやろか、行平ってよっぽど優しい人やってんね。二人に何時までも慕われて・・」
「羨ましいわ。行平はんが」
「あら、良太君はダブルがお好き」
「ダブルでも、トリプルでも、割り切れたらええなぁーと思うだけや」
エミは思い切って、阪急百貨店のオーダールームに勤めようと思ってることを話した。
「早いなぁー、もう卒業か。こないだ船で来たばっかりやと思ってたのに、僕は賛成や。神戸より大阪、大丸より阪急、一流のとこで腕磨き。僕にお金があったら、エミをパリに留学させたるのやけど・・」
「けど?」
「10年待ってくれたら、行かしたる」
「楽しみに待ってるわ。『おばあさんパリ留学す』やね」
「30はまだ、おばあさんとは言わんでぇ」
エミは良太の言ってくれた言葉がたとえ冗談でも、嬉しかった。でも、これだけの言葉で良太の胸の底までを察するのは無理というものであった。
昭和40年、〈さんちか〉オープンの年は、12月25日忘年会で全員揃った。この年は島崎広敏も参加した。場所は「学生さんも突っついています」の北野の〈いろりや〉であった。広敏が乾杯の音頭を取った。「我らの未来に栄光あれ!我ら洲本実業野球部は頑張るぞー!」、一同「カンパ~イ」グラスを合わした。
注釈と資料
離宮道:離宮公園に行くには海沿いに続く国道2号線から山側に離宮道という道を上る。離宮公園は山裾に作られている公園なのでまさに海から山へと続く道である。中央が高く今は車道になっているところが、昔天皇陛下が通られた道で、一般人は左右の低くなった道(人民道)を通る。車道と歩道の間には見事な老松が綺麗に植えられている。
離宮公園:ベルサイユ宮殿を思わせる整形式の噴水庭園が最大の特徴。庭園の向こうに広がる大阪湾のパノラマ眺望は素晴らしいものである。
在原行平:「たち別れ 因幡の山の峰に生ふる まつとし聞かば今かへりこむ」(古今集)はこのときの別れを詠んだとされている。
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