7章 〈まき千里阪急店〉は良太の学校

1  『EXPO70』


 1970年(昭和45年)の万国博覧会、EXPO70はある意味、日本民族の大移動であった。これ程、東の人が西の国に来たことはなかったろう。新幹線が通じた東京オリンピクだって、西の人はここまで東には行かなかった。

 予想入場者数:3000万人、総入場者数:約6421万人、1日の入場者:最高 83万5832人、迷い人:大人 12万7453人 子供 4万8190人であった(大人の方が迷い子?)。

 

千里ニュータウンは、千里丘陵を切り開いた人口10万の日本最初の大規模ニュータウンであった。良太はコンクリートの人工の都市を初めて見た。人工の街にはカラフルな色の服が映えた。千里中央には万博コンパニオンの宿舎があり、まるで外人美女の街の異空間であった。千里阪急の社員食堂では「ゆうべなぁー、ミス・ブラウン嬢となぁー」とか、男子厨房員の艶っぽい話を耳にした。


 その万博が行われている、千里ニュータウンの中心に出来たショッピングセンターで、池野良太は地上の異空間を楽しむことなく、地下で悪戦苦闘であった。駅に電車は入らず(万博期間中は手前で直接会場へ)、車で来た客には地下は地上からは見えず、たまに来るコンパニオンは英語で話し、良太はコンパニオンが来たら奥に引っ込んでいた。新たに来た女子販売員に「店長、大卒でしょう!」とけつを押されて、「お客や、なんぼか売らんと」と「アナザーカラー?イエス!オオー、グッド!」と頑張ってみた。

 寸法直しに4日かかるが言えなくて、「イフ、イフ・・?」、言いたかったのは「もし、4日という日が与えられるとするならば、ウイ、キャン、フィックス、イット」。通じない。汗が出てきた。すると客が「It takes four days」と云った。寮に持ってきていた中学校の英語テキストが役立った。あったではないか、学校まで10分かかる。「It takes ten minutes」。中学校のテキストで使えそうな英語は全部暗記した。それで十分通じた。場面は設定されている。「お店で、お客は、婦人服を、買う」別段、込み入ったおしゃべりはいらない。「ディスカウント」と云えば、「Oh- No」であり。最後は「Oh! beautiful」である。電車が駅に入ってこない万博期間中、コンパニオンによって辛うじて店は売上が立ったのである。


 万博の終わるまでの6ヶ月でよかったことは、社長が来たときに「池野君、英語いけるやん」と褒めてくれたことだった(だからと云って、給料が上がったわけではない)。淡路組メンバーが来たときと、淡路から父一家が来たときに、親しくなっていたコンパニオンに、顔で従業員口から入れて貰ったことぐらいであった。月の石も並ばずに見れた。

 かくて、千里丘陵での1970年3月14日から9月13日までの、183日間の祭典は終わった。


2  『電車は入って来たけれど』


 万博も終わり、千里中央駅には電車が入ってきた。北大阪急行は千里ニュータウンと日本万国博覧会の会場アクセスのために阪急電鉄と大阪府などが出資して設立された第三セクターで、走る電車は地下鉄である。これによってニュータウンと梅田は直結され、御堂筋線は中百舌鳥まで南進し、大阪を南北に貫く幹線になった。

 朝、千里中央駅のロータリーには路線バスが各方面から到着、通勤者は一斉に駅に向かう。帰り、兼業主婦が駅から千里阪急の食品売り場に急ぐ、この地下通路に面して、良太の〈まき千里阪急店〉はあった。この頃、百貨店の閉店時間は7時で、駅に賑わいは出来、前に人通りは出来たが、良太の〈まき千里店〉は、売上がそう上がったわけではなかった。


 電車が入るまでの半年、惨憺たるものであった。一人しか来なかったアルバイト店員も「私、色んなとこでアルバイトしてきましたが、こんな暇な店知りません。仕事をしたいので辞めます」と云われた時は情けなく、良太が店を辞めたくなった。

 事務所にニュー商品が入ってくる、売れている店順に取っていく、最後見ればパッキンケースの底を見るのが殆どであった。たまに良太が強引に手を出すと、〈さんちか〉の店長が「お前とこ、幾ら売ってんねん」と情け容赦がない。たまに奥さんの蕗子さんが新商品をこっそり呉れるが、それでは追いつかない。

 

昨年の残り物のケースから、比較的売れそうな商品にプレスを当てて持っていく日課であった。社長に言った。「昨年物でも結構な値段のものやのに、パッキンケースに入れて山積みでは、商品が皺くちゃで可哀想やないですか」。せめてもの腹いせであった。

 返事は、「この事務所の家賃知っとるか、綺麗にするにはそれなりのスペースがいる。家賃がかかる計算をせんといかん。積み上げて、バーゲンで叩き売ったほうがええとは思わんか」であった。プレスは当分続けんといかんと良太は覚悟した。


3  『閉店後の客は上客』


 親方のやる気薄の店と思えたが、良太はこの店で色々と学んだ。居たのは正味2年間であったが、彼が商人としてやっていけた原点は、全てここで作られたと言っても過言ではない。郊外店ということで自由に任されたというべきか、売れない店だから適当にやれと云うことだったのか、ミセス向きの商品の仕入れは任されたし、まず、社長も、蕗子さんもめったに来ない。お膝下の〈さんちか〉や〈サンプラザ〉ならこうはいかない。

 何も干渉されないと云うことは、自分で色んな試行を行い、工夫をするしかない。店はかまわれない分、良太が手を入れるしかない。手を入れれば店は何らかの答えを返す。店との会話のドッチボールが始まった。特に閉店後、販売員も帰った後、店の真ん中に10分ほど座る。すると店が「今日売れた、あの商品もっとあったら・・」「ウインドウもう少し華やかに演出したら」とか、喋り出す。


 店は社長がメーカーの展示会に行ってはただ同然で貰い受けてきた什器で構成された、キチッっとしたものではなかったので、如何ようにも組み合わせがきき、お蔭で閉店後、飾り替えの仕事に事欠かなかった。そんな時に閉店後に入って来る客があった。

「悪いわね、お店しまわんといかんのに」

「いいですよ。どっちみち飾り変えの残業ですよって、ゆっくり見ていってください」

「あらそうー、これの色違いあります?」

「右奥のハンガー見てください。有りましたか」いちいち構わない。営業時間外である。こちらは作業中である。

「これ試着していいですかぁー」

「仕事中でかまえませんが、遠慮はいりませんよって」

 他に客はなく、客は自分一人の店を堪能する。試着しては、出て来、出て来ては遠目に姿見に映す。まるでモデル気分だ。

「今、ちらっと見たんですが、それいいですねぇー」営業時間外である、無関心風に声を掛ける。

「そうー、明日PTAに来ていくもの探しているの」

 

良太の動かしていた手が止まった。遅がけに来た客は何らかの必要を持っているのである。沢山試着して、まず、「悪かったわねぇー」で帰る客は少ない。閉店間際や、閉店後のお客は売上に繋がることを知った。それも売れたら金額が大きくあくる日が楽しみであった。もうあくる日の売上が立っているのである。朝の出勤だって気分が違う。


4  『本日の売上目標は50万』


 郊外のショッピングセンターゆえ、日曜日は車でのお客で賑わった。今日は店長の池野良太は気合が入っていた。朝のミーティングで「今日の売上目標は50万円です。必ず達成しましょう」と云ったのである。

 販売員の浜野良子と水野恵子は朝から「どないなってるんやろ?」と話し合っていた。二人はパートで来ている。浜野良子は前のアルバイトが辞めた5月から、水野恵子は電車が入ってきた9月から来ている。どちらも短大卒の主婦で30才。二人は、パート感覚もなく、責任感も強く、何より落ち着いていて、良太は二人を気に入っていた。


 店長池野は阪急との打ち合わせで出ている。二人は掃除しながら、

「水野さん、今日家族で出かける日やなかったん」

「そうやけど、昨夜、家に店長から電話かかってきて、『何とかなりませんか』と言われたらね、よくよくのことやと思ったの。普段なんにも言わん人やから」

「それで、ご主人良かったの」

「子供らは、ええー!と云ったけど主人は『仕事や、滅多にないねんやったら聞いたげ』といってくれてん」

「ええ、ご主人やなぁー。でも、この前、この店の月予算はいくらですか?と訊いたら、店長うすら笑いして、『立てても出来もんしゃないやろうー』言いはったばかりやよ」

浜野良子は上場会社で長年経理をやっていた。

「会社から、きつぅー言われはったのやろか」

水野恵子は専業主婦で務めた経験は2年ほど、面接のときに「どんなお仕事されてましたか?」と良太が尋ねたとき、「お茶汲み」と答えて、良太は笑った。「可愛い人やなぁ」で採用した。

「平日で4万、5万やよ。この間の日曜日でよう売れた日で20万よ。どないしはんねんやろぅ」浜野良子は数字に詳しい。

「わたし、店長に聞いいてみるわ。会社にきつぅー云われはったのやったら可哀相や。社長さんに電話して『無理なこと云いはったらあきません』ゆうたげるわ」

「店長思いやねんねぇー、水野さん男前に弱いんと違うの」

女は二人寄っても〈かしまし〉である。


「何で、50万ですか?」と二人は訊いた。

「50万売れたら、社員3人で阪急ホテルのフレンチコースを交渉したら、社長OKくれはったんやけど、有効期限は11月中やとの条件、11月やったら今日しか可能性あらへん、と云うわけです」

「店長、やりましょう!やってみんとわかりません!」二人は声を合わせた。目の色変えた二人にかかった今日の客はいい迷惑であった。普段と違って強引、強引。

「あんたら、今日はどないなってるのん、普段はおとなしいのに…」と言う客まであった。よく売れた。それでも「35万ぐらいやと思う」と浜野良子が予測した。レジ閉めを行なった。50万8千円と出た。当時、良太の給料は残業手当を入れて5万円であった。その換算でいうなら今にして、200万円になるだろうか。

「なんでぇー?」二人。

「実は、昨日レジ閉めてから一人で15万買ってくれはった宝塚のお客さんがあったんです。今日を逃しては50万売る日はないと思って、社長に約束させたわけです。そのお客さん何才やと思う。80才やで、80でウチの服着はるねん。元気なおばぁーちゃんやった」

「おばぁーちゃん、サマサマやね。次、来はったら教えてくださいね。店長、おめでとうございました」二人は拍手した。良太は深々と頭を下げた。目には少し・・、であった。

 二人の表情は満ち足りたものであった。店はお客のためにあるが、働く人のためにもある。売れたら何より嬉しい。この売上に、社長夫妻、いや〈まき〉の全社員が驚いたことは云うまでもない。一日といえ売上を抜かれた〈さんちか〉の店長は「お前とこ、どないなってんねん?」であった。

千里阪急ホテルのレストランでは、浜野良子、水野恵子、お店で買ったドレスでめかしこんでいる。良太が着席して、「カアンパーイ!」


 一度、一線を越すと不思議なもの、女性の話ではない。12月の日曜日はすべて50万越し、それにつれて平日の売上も10万は切らなくなった。何より「ウチは売れるのや」の自信、「千里店は売れる」とトップの意識が変わったのが大きかった。やはり数字で示すしかない。

 オープン時に内装に費用をかけていなかった事が逆に幸いし、2年目の春3月には改装オープンになった。「2年目にして改装か」と隣の店長に嫌味を言われたが、1月、2月は大大的な改装バーゲンセールを行なった。バーゲンでも一度買った店は買いやすくなる。お客は買い癖がつき、店は売れ癖がつくのであった。その年度、良太は〈さんちか〉に次ぐ優良店の実績を作った。


5  『残品在庫は反面教師』


 店を8時に終えて、ミニバンに直しの商品を積んで171号線で帰って来て、商品を下ろして、9階の寮で冷えた飯を食って、冷房の切られた事務所に降りてきて、何段にも積み重ねられたパッキンケースの中から適品を選び、プレスを当てて、商品を用意し、また元に戻す、たいてい11時を過ぎる。残業手当の対象にすらならない。汗だくの作業を社長は知らなくても、「俺の店」そうとでも思わないとやってられなかった。でも、この残品整理は良太に大事なことを教えてくれた。

 残り物、いわば仕入れの失敗品のオンパレードである。バイヤーの失敗例である。全てが最初から売れないものとは限らなかった。値段に惚れて買い過ぎたもの、「昨年売れたから」で不用意に買ったもの、よく売れたのだが追加のしすぎたもの、バイヤーの好みが出すぎたもの、これらはバイヤーの〈スケベー心〉のかたまりと言えた。上山鉄男に一度仕入れを同行したとき、それがなお一層よく分かり、良太の仕入れの時のバイブルになった。


 京阪モールは不振で撤退したが、上山は仕入の専任者になった。仕入れは誰もがしてみたい、小売店では憧れであって、利益の原泉を生み出す重要なポジションである。皆は上山を〈てっちゃん〉と呼ぶが、〈てっちゃん〉はムチャクチャ人がいい。良太が値付けを間違って、そのとばっちりを受けて叱られた時でも、良太を慰めてくれたぐらいである。それが仕入れでは欠点となる。

 大阪の営業は「まいどぅー、儲かってまっか」とのんびりしたところがあるが、東京の営業マンは〈しこたま〉である。上山は神戸ファションに一言を持つ。上山がある服を手にする。

「上山さん、それ神戸向きでしょう。神戸の女の子しか着こなせないですよ。その商品を分って売って貰えるのは〈まき〉さんを、おいてない!」と持ち上げる。なんのことない、単に売りづらい商品なだけである。上山が神戸エレガンスについて述べる。「これなんかまさに神戸向きの商品です。田舎の都市(まち)にはわからない。東京だって田舎ものの集まりです。そこへ行くと神戸は違う」と持ち上げる。気のいい〈てっちゃん〉は引っ込みがつかず渋々買うことがある。残品の中にはそのような商品が沢山あった。


 良太はそんな時は話を振るように言った。

「池ちゃんどう思う?」

「いい商品ですけど、デモ、僕らまだ未熟ですから、よう売りこなせませんわ」

「現場がそうゆうとるきにぃ」となり、上山は良太を仕入れに同行させるようになった。

〈てっちゃん〉〈池ちゃん〉コンビは呼吸も合って、仕入れは良くなり、それは会社の業績に反映した。


6  『デザイナーの力を思い知る』


 売上を安定させた商品にデザイナーの商品があった。社長夫婦に〈さんちか〉の店長を入れて定例のマージャン会の席上、半チャンが終わったとき、「池野君、千里でこんな服扱ったらどうやろぅ」と蕗子さんが云いながら、ハンドバッグの中からスルスルと何やら出した。服がハンドバッグから出てきたのには良太は驚いた。それは森英恵のバンロン(森英恵がテキスタイル会社と共同で開発したトリコット)のワンピースであった。デサインはシンプルな半袖。黒地にジャノメの籠模様が描かれていた。そう言えば同じもので、蝶々の柄を着ている人をお客さんで見たことがあった。

「皺になれへんから旅行なんかに行くとき便利なんや。夜の食事でラウンジに行く時でも着れるし。梅田や三宮では扱われへんのやけど、千里やったらええということや」と云うことだった。  


 森英恵はパリでオートクチュールを発表して蝶々の柄で有名であった。ブランド名は『VIVID』で、京都の〈藤井大丸店〉ではNO.1の売上のブランドであった。

京都は古都、古い家並み、おとなしい女性を想像するだろうが、京都の女性はトッポイ。派手好きである。当時京都の〈はしり〉の女性なら、必ず行ったであろうBAL(個性派の東京ブランドをいち早く揃えた)がそれを証明している。


森英恵のブランド名は『VIVID』であるが、小売部門は「日吉屋」であった。元々、ご主人が小売屋をやっていて、森英恵のブランドを作ったときに、『VIVID』のブランドだけを扱う店にしたのである。

 デザイナー森英恵の名前を付ければ商品のイメージと付加価値が上がるので、ライセンス商品が沢山あった。蝶々、蛇目籠、花札の藤の花柄、等はハンカチにも、スカーフにも、タオル、傘にもなった。石鹸に蝶々の柄を入れたものまであった。外国のデザイナー、ディオール、サンローラン、皆そうであった。極めつけはピエール・カルダンで、足拭きマットまで『カルダン』の名前がつかないものはないぐらいだった。進物に最適だったのである。

メーカーは高いライセンシーをデザイナーに払う。デザイナーにとってこれ程、楽でおいしいビジネスはない。ただし、名前が売れてである。名前を売るのはやはり服の世界での実力しかなかった。

 

 初めて森英恵の展示会に行ったとき、展示会の前にファションショーが行われた。良太は初めて見るものであった。ライトに照らされて、外人モデルの肩を振って歩くきらびやかな姿に圧倒された。最後に森英恵が登場し、花束、拍手。良太は、エミもこんな世界に憧れているのだろうかと思った。

 展示会で見ると、ショーの印象が消えない。モデルが着ていた服はすべて売れそうに思えてしまう。しばらく商品の姿を消したかったので、展示会場を離れて、外にお茶を飲みに出かけた。喫茶店の2階テラスから見る表参道の緑は初夏の色をして綺麗だった。

 エミはどんなデザイナーになろうと思っているのだろう。良太は表参道を流れる車を見ながら、エミと婦人服の世界で一緒に仕事をすることが、あるのだろうかと考えた。


 森英恵のその服は、店に持って行ったらその日の内に全て売れ、1ヶ月半売上に寄与した。発注品の入荷が終わった。「店長、もう入ってこないんですか」店の販売スタッフの声だった。思いは良太も同じであった。元の売上には帰りたくなかった。

 営業担当者に「納品はもう終わりですか、在庫はありませんか」と電話で訊いた。答えは「1枚もありません。発注が多かった貴店は、納品率はよかったはずです」。諦めきれなかった良太は「なんかありませんか?」と粘った。意外な答えが帰ってきた。昨年の秋冬物に残りがあるというのだ。良太はすぐに東京に飛んだ。倉庫にあったバンロン素材の長袖ワンピースは残らず買った。残り品であるから掛率も安くしてもらった。当然である。

 普通、色柄に秋冬と春夏の違いはあるのだが、森英恵の柄は地色が黒ベースでシーズン無関係の柄だった。シンプルなデザインは袖を切って半袖にして、そのシーズン中品切れしなかった。良太は改めてデザイナーの力を知った。


 池野良太は最初の店、千里店で実に色んなことを学び、努力もした。郊外店は分からないと幾分自由に任されたが、遂次、店であったことは、『千里日誌』と書いて蕗子さんの机の上に置いておいた。社長夫妻は目を通してくれていて、適格なアドバイスを貰えての千里店の実績であった。

 そんな折り、阪急ファイブの増設に伴う出店が決まり、2店舗の店長の兼任を言われ、〈まき〉における良太の立場は、取引先の営業マンも認めるものとなった。「社長の念願の梅田進出や、頑張らんと」と、良太は一段の気合を入れた。


7  『阪急ファイブ店は梅田番外地』


 阪急ファイブは服だけでなく、アクセサリー、靴や雑貨も、ファッションだけでなく飲食も若い女性にターゲットを絞り、個性的なブランドや店を集めて、オープンから人気があり、急遽地下2階の倉庫スペースを店舗に増設したのである。

〈まき〉の社長は念願の梅田進出と張り切って、店舗屋任せでなく、東京のインテリアデザイナーに設計を依頼する入れ込みようであった。長髪に後ろを紐でくくった、男性とアシスタントの女性が打ち合わせに来た。

「ぼくたち、お店でレジが見えるの嫌いなのね。いかにもお商売してますって感じでね」

 良太は「何を云ってやがんねん、お店して悪いか、レジが見えて悪いか」と、思った。玄関に可愛いドアーもあって、店は女の子が好む、お部屋のような仕上げであった。レジは衝立てがあって、その向こうに隠された。


 面接も社長がこだわって、美人を揃えた。「あの子は浅丘ルリ子に似てるやろ。あの子は昔の誰々や」。蕗子さんが云った、「あの2番目に採用した子、保の以前の恋人にそっくりや」と。実際、大阪の担当営業マンは用もないのに、よく店に顔出しした。ファイブは、営業時間は9時迄(飲食に合わせた)であったので2交代制で、早出、遅出が揃った時間帯は壮観であった。美人だけでは売れない。京都藤井大丸店のベテラン渡部さんを主任格で社長に頼んだ。「あいつか、あいつは給料にうるさいからなぁー」

 既に渡部さんには「渡部さんを引くから、給料は十分に上げて貰え」と云っておいた。こんな時しか大幅に給料は増えないものだ。「どうでした」と訊いた。社長は渋い顔をして、「通勤が大変ですが、会社のため頑張りますと云いよった」と云った。良太は店長兼任になったが店長手当はそのままであった。「しまった、先に交渉しといたら良かった」と唇を噛んだが、時遅しであった。


 B2Fのフロアーはオープンしたのだが、三番街や阪急百貨店と繋がっているのは、B1Fまでで、当初は「ここは梅田番外地」と云って、店長連長は喫茶〈伊達〉で油を売ったのであるが、知られるに連れて売上は上がっていった。やはり、大阪の胃袋は大きいことを良太は知った。

 それと、何よりビックリしたのが、グレーのコンクリート打ちっぱなしの店舗が出来て、黒ばっかりの服が並んだことであった。販売員もそこの黒い服を着ていた。「わー!カラスの行水や」と良太は思わず口走った。それがコムデギャルソンのショップであった。良太には理解不能であったが、何か次の時代が始まっているような予感は受けたのである。


 深見エミが阪急百貨店の閉店後、〈まき阪急ファイブ店〉に買いに立ち寄り、「これ、皆さんで」とケーキを差し入れた。「あの人、店長の彼女?」とスタッフ同士が話すのを後ろに聞いたが、エミを隣の珈琲ハウス〈伊達〉に連れて行った。暇な時のフロアーの店長連中の溜まり場であったが、幸い他店の店長はいなかった。

 阪急で洗練されたのか、洋裁学校を出てからのエミは見違えるほどファッショナブルになっていった。ニットのパンタロンスーツが、華奢な身体にフイットして、髪がブロンドであれば、フランスの女優?は言い過ぎであるが、雰囲気はあった。

「綺麗な店やね。入ったら落ち着くし、きっと人気がでるわ」と、エミは店の印象を話した。

「エミちゃんこそ綺麗になって、俺、集まりに3回ぐらい飛んだやろ。見違えたで」

「おおきに、でもお店の人には負けるわ。良太君鼻の下長なったよ」

「一回、京都に行けへんか。何かお寺観たくなって・・。一人やったらつまらんやろぅ」

「嬉しいわぁー。どんな風の吹き回し」

「千里の店も軌道に乗ったし、この店もスタッフも揃ったし、チョット余裕かな」

「せやね、一時千里が売れん云うて落ち込んでたもんね」

「あの時は、社長のやる気疑って、やめたろか思ってた」

「あのねぇー、良太君に相談あるんやけど、時間ええのん」

「渡部さんがいたら大丈夫や」

「実は、阪急辞めよう思ってるの。相談しょうと思ったけど良太君、会に来なんだし。花子にはチョト話したんやけど、オーダーはもう時代遅れや。いずれ百貨店から無くなる運命やと思うわ。売上かて落ちてるし、百貨店のメンツだけで持たしてるみたいやわ」

「せやなぁー、今どき誂えるなんて相当の人やないとな。辞めてどないするねん」

「竹野君が前から辞めるようなことあったら、ウチに来てんかと言われてるねんけど、あそこはニットやろ。うちニットはよう知らんし、アパレルに行こうと考えてるねんけど、良太君が一番知ってると思うねん。花ちゃんも良太に聞きいたら、エミに一番合うとこ探してくれると言われたん」

「それは、光栄やなぁー。急がんやろぅ、よう考えて見るわ。それより京都大丈夫やろなぁ」

「うち、前のアパートからここに変わってん」と、エミは自分の名刺の裏に電話番号を書いた。

「ああそれから、花ちゃん結婚決めるみたい」

「ええー、半年欠席したら、えらい変わるねんなぁー」

「みな、年頃よ、歳は云わんでもわかるやろぅ。女と男は同じ歳でも違うもんよ」

 良太は少しショックな様子で黙り込んだ。エミはコーヒーを飲んだ。ここのブレンドは口に合った。


8  『哲学の道は恋の道』


 永観堂から南禅寺にかけての哲学の道、春の桜のときエミは花子と歩いたが、紅葉の季節も味わいがあって素敵だった。南禅寺の疏水のほとりで、流れ来るもみじを二人は見つめていた。

 疎水を流れる紅葉を見て、エミは笹舟を思い出した。父、賢三がいなくなっても良太はしばらく賢三の仕事場を見に来ていた。仕事場でしょんぼりしていたエミを良太は川遊びに誘った。そこで笹舟の作りかたを教えて、何艘も川に流した。

「海に出て行ってどこに行くねんやろぅね」と云うと、「神戸と違うか、港の船も神戸に行くよって」と良太は答えた。日が暮れるまで船を流して遊び続けた。

エミは、布引の滝に行った時よりは、良太との距離が近づいて思えた。そっと手を伸ばした。良太の手が握り返してきた。幼い日、川から手をつないで帰ったことが思い出された。


 エミは洋裁学校の2年間は、まず勉強があった。淡路組の集まりが楽しかった。勝治がよく世話をしてくれた。卒業して夢野にアパートを借りた。勝治が「エミちゃん、あんまり遠くにいかんとってや」と云ったので、何とか歩ける距離で見つけた。夢野は湊川から会下山方向に少し坂を登らねばならなかった。バスで神戸駅まで行って、梅田まで急行で直通で行けて便利だった。特別、良太のことを意識しなくても寂しくはなかった。


 阪急百貨店に勤めるようになって、淡路組の会もお互いがテレコで欠席したりで、良太とは年に2回程しか会えなくなっていた。布引、離宮道で会ったが、それから特別な連絡も無く、良太の方も店を任され大変なのだろうと思ってはいたが、もう一つ良太の気持ちがわからなかった。

 百貨店には、エミを誘う男性社員もいた。真面目に考えてそれなりの人もいた。でも、エミは百貨店の男性社員がもう一つ好きになれなかった。サラリーマンなのか商売人なのかはっきりしなかったからだ。


 百貨店で勤めてよかったこと。一流のものを見たり、買えたりしたこと。百貨店は顔として、売れなくても海外の有名ブランドを取り扱った。例えば、ソニアリキエル*のニット、その頃洋雑誌でしか見れなかった。それらを見れたし、大抵は高すぎたので、売れず、社員販売の特別販売で安く買えた。ソニアで気に入って売れないことを願っていたセーターが半額の25000円で買えた。その時のエミのお給料が5万円であって、毎月淡路の母に5千円送っていたがその月は止めた。エミがいいものを見極める目ができたとしたら、それは阪急百貨店にいたおかげ以外にない。


注釈と説明

ソニアリキエル:(1930年)はフランス・パリ出身のファッションデザイナー。普段着だったニットをファッショナブルに変貌させた「ニットの女王」と云われている。1983年にフランス文化省から芸術文化勲章を受勲した。自らの名前と同名のブランドを持つ。着たいようなマタニティ・ウェアがなかったので、自分で作ったのがデザイナーになったきっかけだという。1968年に第1号店を開いてから、子供服、化粧品、紳士服と次々と事業を拡大していった。80歳の現在も現役である。娘のナタリーもアートディレクターとして参加している。

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