3章 神戸港

1 『この坂は移民坂』


 深見エミの通学は上沢通に出て、湊川公園西口から市電の山手線に乗って、県庁前を過ぎて、中山手4丁目の停留所で降りる。メリケン波止場から大丸、元町駅へと真っすぐ登ってきた道、鯉川筋だ。洋裁学校は看板の文字がなければ、運動場のない普通の学校という感じであった。教室の窓からは港が見え、エミは2年間通うことになるこの小さな学校が気に入った。校門がわりのバラのアーケードには『神戸ドレメ洋装学院』の青い文字の木の看板が架けられていた。

 坂を登りきったところに『移民センター』があった。エミは、第一回芥川賞受賞と書かれた本に興味を抱いて中学の時読んだ、石川達三『蒼氓』の中に出てきた所であった。ブラジル移民をテーマにした小説だが、移民とは名ばかりで、移民に名を借りた日本から切り捨てられた『棄民』、戦前の貧しい農民の姿がそこには書かれてあった。

 

この本の書き出しは、こう書いてある。


 一九三○年三月八日、

 神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞(かす)み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。

 三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車が駈け上って行く。それは殆んど絶え間もなく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの是(これ)が「国立海外移民収容所」である。

 濡れて光る自動車が次から次へと上って来ては停る。停るとぎしぎしに詰っていた車の中から親子一同ぞろりと細雨の中に降り立つ。途惑(とまど)いして、襟をかき合せて、あたりを見廻す。女房は顔をかしげて亭主の表情を見る。子供はしゅんと鼻水をすゝり上げる。やがて母は二人の子を促し、手を引き、父は大きな行李(こうり)や風呂敷包みを担(かつ)ぎあげて、天幕(テント)張りの受付にのっそりと近づいて、へッとおじぎをする。制服制帽の巡査のような所員は名簿を繰りながら訊ねる。

「誰だね?」


 〈三ノ宮駅と書かれているが、今の元町駅のことである〉


 エミはこんな近い所に本で読んだ場所があると思うと何故か不思議だった。弟と一緒にブラジルに渡る、残す思いを寄せる男に書いた手紙を出すことなく、主人公夏が旅立つ港に降りて行った道かと思うと、エミには通学途中の赤いポストが無情に見え、ロマンチックに語られる港だが、百のヒトや、モノの出入りがあれば百の物語があるのだと思った。エミは神戸の港のことをもっと知りたいと思った。


 思いを寄せる男とは、紡績工場の女工監督で、夏は求婚されていた。徴兵検査を逃れたい弟、孫市のために、一緒にブラジルへ旅立つのである。一年したら帰ってこよう。いや、三年になるかもしれない。それまで待っていてくれるだろうか…。手紙は短いもので、こう書かれていた。

《お手紙を読みました。私は一年たったら帰ります。弟が可愛そうですから行かねばなりません。をこらないで居てくださえ。おたっしゃで居てくださえ。私もたっしゃで居ります。きっと帰りますからをこらないで待って居てくださえ。さようなら。紡績の皆さまによろしく言ってくださえ。さようなら》

 主人公、佐藤夏…。求婚者堀川への手紙を海に投げ捨てるラストがエミは哀しく、読んで涙した。


 戦前の元町周辺には十数軒の移民宿があり、ブラジルやハワイへの移民が宿泊し、従業員が渡航手続きも代行した。衛生や料金の面で問題ある宿もあり、1928年に、鉄筋コンクリート5階建ての国立移民収容所が開設された。入所期間は10日以内、出港の日まで各種講話と予防接種に明け暮れるが、滞在費は無料であった。1971年 閉所。43年の歴史に幕を降ろした。その後、再整備して『海外移住と文化の交流センター』として2009年にオープンした。


 2  『兵庫の津か神戸港』


 学校は最初、基礎科目が多く、実習も課題もなくゆっくりしていた。出来るだけ要るものは持ってきたつもりだったが、買い整える物が結構あった。又、学校で指定された物を買い整えるにも時間が取られ、エミは結構慌ただしかった。そこに、従兄の勝治が部屋替えを言い出したのだ。

 エミの宛てがわれた部屋は、中学校の2年の夏休み過ごしたあの4畳半の部屋で、市場のアーケードがあって、昼でも電気がいった。勝治の部屋は6疊あって、西に向いて窓があって明るい。物干しもある。

「俺は帰って来て寝るだけやし、エミちゃんはミシンを置いたら狭いやろぅ」と、替わってやるというのだ。良子さんによると、勝治は3才を過ぎたのに「あー」とか「うー」とか声を出すだけで言語を発しなかった。やっと4才で簡単な言葉を話したが、知恵遅れではないかと心配した両親は方々の病院に見てもらい、挙句には祈祷、占いにまでたよった。5才を過ぎてやっと人並みに話せるようになったと云う。

「話せなかったけど、その間、人の話は理解して、聞いてたんやね。あの子は人の気持ちが以外と察せられる子よ」と云うことだった。勝治は余り男前とは言えなかったが、陽気で誰からも好かれるタイプであった。


 勝治の本を運んでいて、『神戸港の歴史』なる本を見つけ、借りて読むことにした。本は、奈良時代から”大輪田の泊”と呼ばれる明石海峡の潮待ちの良港として栄えたところから書き出し、この良港の盛衰が記されていた。特に平安時代には平清盛は中国宋との貿易を考えて、兵庫、福原を都とし、大輪田の泊を大改修して、歴史上に重要な意味を持つようになる。鎌倉時代には源平の戦いで消失したが、東大寺の復興に重要な役割を担った僧、重源(ちょうげん)の大輪田泊の修築により、国内第一の港として"兵庫津"と呼ばれるようになった。

 南北朝時代には湊川合戦の戦場となって廃墟と化したが、江戸時代には朝鮮通信使や北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点として栄え、江戸末期には人口2万人を数えるまでになった。1868年日米修好通商条約により、神戸港が開港され、交易の拠点としての地位を神戸港に譲り、兵庫では新川運河や兵庫運河が開削され、川崎造船所や三菱造船所といった重工業をはじめとする工場が建設され、産業の拠点として発展して来たと記して終わっていた。


エミは一つ分からないことがあったので、隣室でギターを弾いていた勝治に話しかけた。

「教えて欲しいことがあるのですが、お聞きしていいでしょうか?」

「かしこまって、なんでっしやろ」と勝治がギターを抱えて、襖を開けてエミの部屋に入ってきた。

「何で、開港が、すでにあった兵庫港でなく、新たな神戸港の開港になったのでしょうか?」先生に教えを乞うのである。口調は普段と異なる。

「兵庫港、つまり兵庫の津は当時人口も2万人近くあって1級の重要な港で、それを外国に開放するということは攘夷をいう朝廷としては認める訳にいかず、反対したんや」

「それで、幕府はどうしたん?」慣れない口調は元に戻る。

「それはやね、外国と兵庫港開港を約束した幕府はやね、困ってしまって、近くに作って兵庫港や云うても分からんと思ったわけや。それと離して作らないと外人と厄介があったら困るやろう」

「嘘ついたわけやね」

「結果としてはそうや。25ヘクタール近くの居留地(外国人の自治区)を作らされたんやからそれで良かったわけや。後の発展も二つ合わせて神戸港となっていったし、神戸の発展は”嘘”にあったというわけや」

「勝治さん、それ嘘やないやろね」

「保証はせんけど、多分せやと思うでぇ・・」勝治の声は急に小さくなった。

「本より、一度港を案内したるわ。港から神戸を見てみ、神戸がようわかるわ。百聞は一見に如かずや」とエミに言った。

 勝治は神戸港の通船会社に就職してタグボートに乗り込んでいる。一人っ子の勝治は妹が出来たみたいで、嬉しくて仕方がない。襖の向こうにうら若き女性がいるかと思うと、従妹と云え、妙に落ち着かない。陰金田虫で団扇みたいな醜態は見せられない。バーミューダも3本も奮発して買った。


 勝治は20トンの小型専用のタグボートの甲板員であった。艀(はしけ)なら8隻をいっぺんに曳いた。4隻ずつ二列縦隊で、沖に停泊している貨物船まで引いて行くのである。艀というのは、港になくてはならないものだった。分かりやすく云えば、倉庫やトラックの役割をするものである。積み込みの場合だと、岩壁にある倉庫から荷物を出して艀に積み、沖の貨物船まで運んでいって船積みをする。積み下ろしの場合は、その逆になる。雨が降り続くときや、岸壁の倉庫がいっぱいのときには、艀に積み込んだまま待機する。ピーク時には千七百隻ものはしけがひしめき合っていたという。

 港と云えば、船脚深く貨物を積み入港する大型船が主役のように思われがちだが、角度を代えて観察すれば、あながちそうでもない。たとえば艀やタグボートやランチ(通船)パイロットボート(水先案内船)、貨物船が入出港の際、船からロープを渡す役の船、食料を積んだ「沖売り」の船等が隠れた主役とも云えた。 


 特に艀は、昭和30年代から40年代にかけて需要が高まった。港と瀬戸内の貨物輸送に不可欠になり、主役として表舞台に登場したのである。メリケン波止場の西側、兵庫突堤の奥の中之島、国産波止場と、海面を埋めるが如く無数の艀が群がっていた。その殆どは木造船で大きさも百トンから三百五十トンと小型で、機関はなく、曳船との間をロープで結んで曳かれていく。専門的には雑種船と呼ばれ、海運局の船体検査もなく、船員のむつかしい資格試験もなくて、比較的誰でも乗れると思われがちだが、船頭と呼ばれる艀の船員には、様々な操船術、積荷の勘がそれなりに必要とされた。当時、この艀で水上生活を送る家族も多かった。デッキで遊ぶ幼な児たち、満船飾のように張られた洗濯物、夜は石油ランプの薄明かりのもと、不便なりといえ、一家団欒があった。

 これらの雑多ではあったが、賑わいを持った港の景色を一変させたのは、摩耶埠頭に出来たコンテナーヤードや、後のポートアイランドのコンテナーターミナルであった。港の合理化や近代化のためには必要だったのであろうが、人けのないコンテナーが置かれたコンクリートの港は、人を遠ざけ、港を寂しいものとした。


3  『さくら咲く港めぐり』


 桜が綺麗に咲いている。まもなく学校が始まる。

「勝治さん、花見に連れて行って」とエミは言った。花見と言えば、近いところで会下山か諏訪山である。

「うん、雨が降ったあくる日にな」と勝治は返事を返した。

「なんで雨の日の翌日なんやろう…」桜が散ってしまわないかと、エミは心配した。


 勝治が勤める会社の『港めぐりの船』にエミを乗せて神戸港を案内してやろうと云うのだ。港めぐり船は中突堤から出ている。乗るのは一般船室ではなく、運転室の特等席であった。

「勝治が特別なお客さんやというから、どんな偉い人かと思っていたら、こんな可愛いべっぴんさんかいなぁー」と云って、船長の直々のお出迎えであった。

「お世話になります。従妹の深見エミです」とエミは礼を述べた。

「いとこか、はとこか知れんが、神戸港の春を楽しんで下さい」船長は笑顔で敬礼をした。

 

 遮るものはない。視界は180度のワイドである。後ろもガラス張りで、振り返れば360度のパノラマであった。エミはそこで感動的なものを見た。

 六甲の山並みに咲いた桜の花びらが、雨に流され、川や溝を伝って海へと流れ、しばらく海面に浮かんで漂うのである。特に中突堤付近は諏訪山公園*の桜が流れ込み、一面の花びらの中に船の通った航跡が残るのであった。勝治が「雨が降ったあくる日」と云った意味が分かった。

「海で花見ですね」とエミが船長に云うと、船長は舵を切りながら、頷いて「最高な時の港めぐりやね。勝治君の恋の花も咲きますように」と云った。勝治は「船長、いとこです」と云ったが、船長はかまわず、「昨日の雨で今日は格別な恋花見ができるなぁー、勝治」と続けた。エミの頬がピンク色に染まったのはあながち、海の桜の反映だけではなかった。船長は汽笛を高らかに2度鳴らした。


 船はまず南に舵を切り、〈兵庫の津〉といわれた兵庫港に向う。まず目に入ったのは川崎重工の大きなガントリークレーンであった。3つの兵庫突堤が見え、さらに和田岬の三菱重工神戸造船所のドックを望むところに来る。この付近から見る神戸の市街地は大変素晴しいのだと船長は説明した。紫色の六甲の連山を背後に、白い街並みが東西に美しい広がりを見せていた。

 向きを東に変え、船は新港第4突堤を目指す。税関の真下にある突堤で外国の大型船が接岸出来る所だ。新港第7突堤沖を折り返し、ポートタワーの中突堤に戻るのがコースであった。

 エミは今度、清盛塚とか兵庫運河や大輪田の泊まり跡、兵庫の陸を歩いて見たいと勝治に云った。勝治は「洋裁そっちのけで、歴史にはまるエミちゃんやなぁー」と笑った。


注釈と資料

諏訪山公園:神戸の中心市街地を見渡せる最も近いところと三宮で聞かれたら、迷わず諏訪山公園と答えるだろう。神戸の中心市街地から非常に近く、市街地を見渡せるスポットとして市民の憩いの場所になっている。諏訪山山頂の近くには、ビーナスブリッジやレストラン・展望広場・駐車場などあり、アベックの人気ポイントである。(標高約160m) 山麓から徒歩で登ったところに位置する中腹の金星台(標高約90m)は、眺望やサクラの花見が楽しめるスポットとなっている。戦前ここに動物園があり、戦中動物たちは悲しい運命にあった。戦後、今の王子動物園に移転した。



4  『戦後を残す神戸』


 すき焼きパーテイのあくる日、仕事を終えた広敏と竹野義行は三ノ宮駅中央口玄関に立っていた。広敏が「神戸の戦後と今を見せてやる。4つの区画を歩けば一発で分かる」と云うのだ。

 4つの区画とは縦は山から海へ向かうメイン通りのフラワーロード*である。この道の浜側、西沿いに市役所や税関がある。横を区切るのは国鉄の高架である。駅前に立つと正面にそごう百貨店の〈そごう〉が見える。それに隣接して浜側に『国際会館』がある。

 広敏は駅の東側傍にある神戸新聞の建物を指差して、「あの裏に面白い所があるから行こう」と言った。広敏が最初に連れて行ってくれた所は『国際マーケット』と云い、通路が狭く、天井の低い店が迷路のように並んでいた。扱われているものは靴や雑貨が多く、問屋、卸も兼ねているようであった。飲食店も点在していた。

「昔は銃声が轟いたと云うんや。神戸は港町や、ええもんばかりが入ってくるとは限らん。薬、ハジキなんかも裏で売られていたそうや。そごう横が米軍のイーストキャンプやったから、そこからの横流し品に丁度場所が良かったという訳や」と、広敏は『国際マーケット』を説明した。ヤバイ所の長居は無用といわんばかりに、広敏は足早に迷路を通り過ぎた。義行は置いて行かれないように後に従った。


 再び駅前ロータリーに戻り、広敏が反対方向の西角を指差して、この方向に旧居留地や港があって、大丸百貨店、元町商店街、そしてセンター街があって、神戸の中心をなす、と説明した。その一角の灯りを指さして、「あれが神戸名物『じゃんじゃん市場』や。戦後、じゃんじゃん儲かったとこからの名前やと誰かが云ってたけど、ほんまかいなぁーの口や。あそこに行きつけのホルモン屋があるねん」と、広敏は信号を足早に横切った。義行は慌てて後を追った。

 ここも狭い間口のバラック建ての店がぎっしり詰まって、一角をなしていた。

『国際マーケット』との違いは飲食店が多いことと、少し明るいこと。女性客こそなかったが、どこもサラリーマン、学生、港湾労働者らで込み合っていた。

 

 広敏の入った店は暖簾に『台湾ホルモン』と紺地に黄色で書かれてあった。店はここにある他の店より広いほうであった。カウンター席が8席、テーブルが3つで12席。カウンターの中では20才前ぐらいの青年と女将が忙しく立ち働き、店には中学校生ぐらいの兄妹と見える男の子と女の子が、料理や飲み物を運んでいた。広敏はカウンターの奥の席2つを何とかキープした。

「お兄さん、今日はお友達連れかい?」広敏は馴染みらしい。

「云うてたやろ、郷里の後輩で今度会社に入った奴や」

「淡路玉葱が一人増えたわけや。こっちのほうが大きくてうまそうやなぁー」

「かなんなぁー、又、オバチャンの冗談が始まった」

「オバチャンと違うやろぅー、御姐さんつかまえて・・」

30少し越したぐらいだろうか、化粧でもすれば引き立つ顔立ちだが、素顔に髪がほつれ、年齢よりは老けて見える。

「ところで、何します」

「僕はわからんよって、先輩まかします」

「よっしゃ、オバチャでなかった、御姐さん。ホルモン鉄板焼き2つ、味噌煮込み2つ、それと瓶ビール2本。ここのホルモン焼き食べたら、他のん食べられへんでぇ」

 御姐さんと呼ばれる女将は鉄板でホルモンを焼き出した。いいー匂いが義行の食欲をそそった。

「先輩、白ごはん頼んでよろしいか」

「ええけど、飲むのに早よないか」

「僕はごはんつまみに酒飲めますねん、あの匂い嗅いだらご飯です」

「ライス1つ」とオーダーが通った。同時に料理とビールが出てきた。ここはやることが早い。狭いのに段取り良く整頓され、カウンターの中の二人の動きに無駄がなかった。店の中の仕事がないときは、下の女の子は店頭に立って「いらっしゃい。美味しいよ」と、客引きしている。そんな店は他にはない。二人は乾杯をした。


「ホルモン焼きの名前の由来は知ってるか?」と広敏が訊いてきたので、

「学校で習った人体の調節を司るあのホルモンと違うんですか」と義行は答えた。

「それもある。もう一つは肉を取って、昔は捨てていた臓物を戦後焼いたりして食べるようになった、それで〈放るもん〉から来たとう説もあるんや」

「放るもんにしては、これは中々うまいですなぁー。こないして、ネギを混ぜて炒めたら匂いも臭ないし」

「それと、タレや。どこも自分とこ独特のタレを持ってる。ここのは、余りしつこうなくて俺は好きなんや。さっきの『国際マーケット』や、この『じゃんじゃん市場』はな、戦後の闇市からの発生や。三宮駅から元町駅を経て神戸駅までの高架下は戦後、日本一長い闇市やと言われた。高架下に行ったら揃わんもんはないと言われたぐらいや」

「先輩、そんな時代生きてはったんですか」と義行が冷やかした。

「いや、ここの御姐さんに教えて貰った話や」と、コップのビールを空けて、義行に注ぎながら、

「御姐さん、続き話してやってくれへんですか。三宮のこんな一等場所に終戦後みたいなモンがなんであるのか、こいつは分からんと云うわけです」

「新しい方の兄さん、神戸は川崎重工、三菱重工で、戦艦、飛行機、戦車、作ってた。葺合では神戸製鋼所もあったし。徹底して、120回も空襲でやられ、見事に焼け野原になってしもうた。戦争終わっても、あくる日から人間は食べんならん。露天で1個5円の揚げ饅頭を売り出した。でも屋根があって雨露がしのげる格好の場所があった。高架下や。おまけに上は省線が走っていて、駅もあって交通の便もええ、さらに米軍のイースト、ウェストキャンプが両サイドにあって、横流し物資には事欠かん。こんなええとこあるか?闇商人は集まるわな。大阪の取締を逃れた連中も来た。高架下からはみ出した連中はガード下、路上、焼け跡の不在者の不法占拠と所かまわず広がったのよ」


 熱が入ってきたのか女将は、青年に料理を任せ、広敏、義行の前に来て語りだした。広敏が一杯ビールをついだ。それの半分を美味しそうに飲んでから、首から懸けたタオルで口を拭って、話を続けた。

「軍政部、県警の取締もきつくなったけど、闇商人たちも食べていかんならん、買出しに来た連中も食べていかんならん、いたちごっこよ。中国人、台湾人、朝鮮人、日本人たちはグループごとに組合みたいな自警団を作り出した。それらの間の抗争もあったりで、確かに物騒な時代もあったよ。何となく警察の黙認や自粛みたいなものもあって、分散して高架下周辺が整理されてきたのよ。最後に残ったのがここや、国際マーケットってわけ。ここも都市計画で取り壊しが決まったわ。何れ国際マーケットもそうなるわね。何時までも戦後が許されるわけやないけど、そうして皆は生き延びてきたのよ。一個5円の揚げ饅頭を最初に売ったのは私の母よ。私はそのお金で中学校に行けた。別に一人前の補償をくれと云ってるわけやないよ。ただ、汚ちゃないものを追い出すようなやり方が許されんのよ。都市(まち)には綺麗なとこもあれば、そうでない部分もある。そんなもんと違うんかね、お兄さん。あの2人は私の子よ。義務教育の者を店で使うなと、学校が言ってきやがった。家の手伝いをしてどこが悪いかね。私の親は台湾から無理矢理連れてこられた。戦争終わって、台湾に帰る旅費、日本の国は出してくれたかね。立ち退いてどうする?ここでは無理やけど、なんぼか稼いで貯めたお金もあるから、何処か手に合うところで店出すよ。あの暖簾どっかで見たらお兄さん寄ってやっておくれ」

 女将は喋るだけ喋って、残りのグラスを空けて、又、鉄板の前に立った。


 昭和41年『ジャンジャン市場』は姿を消し、万博に合わせて跡地には都市計画に沿って、『サンプラザ』が、その後、『センタープラザ』等が出来、センター街は近代的に一新され、高架下も繊維街になり、若者のジーンズやカジュアルな服もおかれ、お洒落になった。戦後を偲ぶものは何もなくなった。


注釈と資料

フラワーロード: 三ノ宮駅から市役所・税関前にかけてのメイン道路である。

港までつづいている/このメインストリートは/川である

むかしむかし/ふたりのおとこに求愛された女の/かなしみが流れた/川だった

と詩人は歌っている。(詩集:神戸市街図 たかはら おさむ 『ある川の歴史』より)。

かつては生田川であったが、居留地造成のため付け替えられた。戦前までは滝道と呼ばれていた。生田川の名は「大和物語」に登場する。物語の中では2人の男が1人の女をめぐって争い、これに悩んだ女が「すみわびぬ わが身なげてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」と詠んで生田川に入水自殺するという話が登場する。森鴎外が大和物語をもとにした戯曲「生田川」を発表している。


5  『淡路5人組の会』


 池野良太は婦人服飾〈まき〉の事務所で商品の値段付けに忙しかった。午前中に運送屋から商品が送られてくる。伝票と商品と付き合わせをする。発注台帳と照合、そして部門コード、品番、価格と印字する。家の仕事を手伝ったことはあるが、入荷数が桁違いに多かった。それをかぎ針で商品によって指定された所に付けていく。夕方4時には社長がセンター街の店に車で納品する。それまでに捌いておかねばならない。あけてもくれても追い捲られる日々であった。


 一度、良太は大失敗をやらかした。よく売れる商品がある、入荷は度々だ。検数だけ照合して、印字は憶えてしまった。その商品の伝票の価格は見ないようになっていた。社長が仕事場に来て、

「池野君、慣れたかね」

「はーい、なんとか・・」

「今、一番売れてる商品は何かね?」

「これです。これは毎日追加ですわ」

 シルックというシルキー素材のセーターである。仕入れを担当する奥さんのお気に入りの商品であった。社長は手にとってみて、値段を見て、「これは安いや、売れるはずや」と云った。良太は自分が仕入れたかのように自慢げであった。暫くして、社長が引き返してきて「池野君、伝票を見せたまえ」と云った。「何事?」と伝票を見せると、「池野君、これは売値と原価が逆になっているでぇー」。


 良太の顔は真っ青になった。普通、伝票は売価、原価の順で並ぶ。そこは並びが逆だったのだ。どこかで間違ったのだが、あと入荷数だけの照合で済ませたので、ノーチェックだったのだ。1ヶ月間この状態で売られていた事になる。追加、追加も入れて、「売れるわけや」と思ったが、時すでに遅し、商品から離れて経理事務に忙しくなったとはいえ、さすが社長だ、見るとこは見ている。叱られたのはセンター街店の店長だった。女子販売員を入れての朝の訓示があった。

「池野君は学校気分がまだ抜けていない新米さんだ。君たちはプロの販売員だろう、売値と原価が間違って付けられているのに気付かないなんて、店長、たるんどるのと違うかー!」。一斉に皆は良太の方をチラリと見た。良太は直に叱られる方がどれだけ楽かと思った。この件で、良太の学生気分が吹っ飛んだ。

 

 社長の名前は飯森保(たもつ)、奥さんの名前は蕗子(ふきこ)、そして経理事務の目木さんが事務所のスタッフで、センター街の店長は上山鉄男、通称〈てっちゃん〉寮の先輩である。

 救いだったのは寮の夕食時、とばっちりで怒られた〈てっちゃん〉がシュンとしている良太に「池ちゃん、気にせんとき。元は取れとるきにぃ。広告宣伝料やと思ったら安いもんや」と慰めてくれたことだ。〈てっちゃん〉は奥さんの遠縁に当たり、同郷の高知の出身である。良太はたかが値付けと舐めた自分が情けなかった。


 平田佳祐は自動車学校で悪戦苦闘の連続であった。どうしても車庫入れが上手くいかない。何回やっても上手くいかない。最初はやんわり注意していた指導員だったが、「何回言ったらわかるねん!外輪差と内輪差や。家に帰ってもう一回本読んどけ!」とボロカスであった。

 営業は車の運転が出来ないと始まらない。出社当日に自動車学校の入学を言われた。費用は会社持ち。ただし、所定期限迄に取れないときは自己負担になる。車の運転がこんなに大変とは思わなかった。野球もそうだったが、佳祐は余り器用な方でなかった。デモ、音をあげないのが平田流であった。自己負担になったら大変と、教習本を何回も読み、おもちゃの自動車を買って来てまで研究した。夢にまで見た。外輪と内輪の間に轢かれて目が覚めた。


 竹野義行は先輩、島崎広敏の指導よろしく、パッキンケースの作り方、紐の結わえ方、出荷作業を一通り覚えた。仕事は早めに引けて自動車学校の夜間に通った。早く免許を取って、花子をドライブに誘うのが夢だった。


 かくて、6月25日が来て、最初の例会、名づけて『淡路5人組の会』が開かれた。滅多に自己主張しない佳祐がこの名前を云ったのだ。皆は賛成した。場所は北野のイタリアンレストラン、この店は楽器を弾く楽団サービスがあって、人気があった。花子の設定であった。叔母の行きつけの店とかで、特別価格にしてもらったのだ。

 白いテーブルクロスに花が添えられ、卓上にはワインがあった。未成年、硬いことを言うまい。彼らはもはや社会人である。勿論、各人の席にはウーロン茶も置いてあった。ワインは最初の乾杯用であった。

「カンパ~イ!」、皆の愚痴大会が開かれた。愚痴る、愚痴る。5人組は愚痴るであった。彼らが楽団にしたリクエスト曲は『ケ・セラ・セラ』であった。「なるように・・なるでしょう」皆で歌った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る