2章 なつかしの神戸 


1 『希望の船出』


 春の日本列島は、桜前線の北上に伴って、人々の旅立ち、移動のシーズンとなる。転勤、卒業や、入学、新たな社会人としての出発など、様々な人の動きが見られる。

 昭和39年3月25日、おりしも、そのような一団が洲本港から神戸港に向かう船上にあった。洲本実業高校生5人と、洲本高校生1名であった。詰襟の学生服を着ているのが神戸大学経済学部に合格した野々村健太。白いブラウスにモスグリーンのフレアースカートの清楚な装いは、洋裁学校に行くことが決まった深見エミ、ブレザーにネクタイ姿の3人の男子は池野良太、竹野義行、平田佳祐である。制服から一夜で変身は無理、3人は何処かちぐはぐな感じはいなめない。

「見違えるわ、馬子にも衣装やなぁー」と先程から、高島花子に冷やかされて、3人は照れている。花子は白地に黒の水玉模様のワンピースで、同じ柄のスカーフで髪の後ろを束ねていた。大人っぽい花子の容姿は船上でも一際目を引いた。船上に吹く春風は潮の香りを含んで、未だ冷たかったが、希望に燃える彼らにはほどよく感じられたであろう。


 良太は神戸のセンター街にある婦人服飾店〈まき〉に、竹野は先輩島崎広敏が勤めるニットアパレル〈エンパイア〉に、佳祐はブラウスメーカー〈ロマン〉に、花子は叔母の婦人服飾店〈セリオカ〉に、それぞれの仕事先を決めていた。

 佳祐がアパレルメーカーに就職するのを決めたのは、竹野の強い勧めであった。竹野が決めた島崎の会社に誘ったのである。竹野の云う「アパレルの将来性」に関心があったが、同じ会社に勤めるのは躊躇した。島崎や竹野の下で学生時代のように後塵を拝したくなかった。それで、島崎が紹介してくれた、ブラウスメーカーに決めたのである。神戸でも最近、飛躍的に売上を伸ばし、社員数50名と島崎の会社より大きいのであった。皆も服飾関係に進むし、佳祐は仲間から外れるのはやはり嫌であった。野々村健太はこの日に皆が行くからと、花子に誘われ、日を合わしたまでであった。


 みなは船上のデッキのベンチに腰を下ろし、瀬戸内の陽光を浴びながら、これからの落ち着き先を話し合った。神戸大学に入った野々村健太は住吉にある大学の寮に住まうと云う。健太が良太に住むところを尋ねる。

「葺合区*の磯部や。公団の下駄履きで1、2階が事務所になっていて、そこに会社の事務所があるねん。その上の9階が寮扱いになっていて、先輩の男性と一緒で、一部屋貰える。賄いの小母さんも通いでつけてくれるそうや。せやけど、食費入れてなんぼ残るのやろう」

「給料はなんぼもらえるねん」と健太。

「まだ聞いてないねん。なんせ親父と社長が話ばっかりしてたから、訊けんなんだんや」

「そら心配や」

「健太は野球続けるんやろ」

「うん、関西大学6大学の京大と並んで万年ビリチームや」

「健太やったら、すぐレギュラーになれるわ」と話した良太は、少し寂しそうであった。それに気づいた健太が、

「良太やったら、関大に入っても1年もしたら活躍できるのに惜しいなぁー」「きっぱり、諦めたわ。1回戦の四球押し出しで、諦めがついたわ」と、良太は夏の大会の四球を語った。

「せや、一緒に甲子園に行こう、タイガースフアンやろぅ」と健太。

「行こう、お互い高校では行けなんだから、健太とこの先輩、名手セカンド鎌田実もいてるし」

 最後はこの二人の話は野球になる。学校は一緒ではなかったが、いいライバルとして認め合った仲である。こんなに言葉を交わしたのは初めてであった。


その隣のベンチでは佳祐と竹野が同じようなやりとりをしている。

「お前とこの給料はいくらや」と竹野。

「1万5千円や。竹野とこはなんぼや」

「俺とこは、1万3千円やけど、残業手当がごついらしいわ」

「住まいはどやねん」と佳祐

「会社の近くでアパート借りてもうてる。家賃はただやけど、食事をどうするかや、暫く外食してみるわ。佳祐とこは?」

「ええなぁー、家賃なんてみてくれへん。寮もないし、部屋は自分で探さんとあかん。阪急の六甲駅裏にええ下宿見つかって、2食付きで1万円や。暫く5千円ほど家から送って貰わんとやっていけんわ」

「食事付きやろ、贅沢云うてたらバチあたるで。落ち着いたら行ったるわ」

「駅のホームから見えてるから、方向音痴のお前でもわかるよ」


こちらは、女同士の会話。

「エミ、良かったなぁー。学校行けて」

「花ちゃんのおかげや。話したら、お母ぁーちゃん涙流して喜んで、仕送りはちゃんとするから心配いらん、しっかり勉強するんやでぇー、と云いはった」

「ウチは何にもしとらん、叔母ちゃんに話しただけや。学院長がエミのスタイル画見て、いっぺんに気に入ったみたいや。そない叔母ちゃん云うてたわ」

「花ちゃんは叔母ちゃんとこに住むねんね。北野のあの家に」

「うん、今まではただで食べさしてもらってたけど、これからは社会人やから、部屋代までは取らへんけど、食事代は取りまっせと云うことらしいわ」

「エミも、伯父さんのとこから通うねんやろ」

「伯父さんも、おばさんもええ人なんよ。それと三つ上の従兄がいるんよ」と云って、エミは思い出し笑いをした。

「何々、その従兄がどうしたん」花子が訊いてきたけど、エミは笑いながら「内緒」と答えた。「すかんわ」と花子、

「次、話してあげる。市場の中で家は狭いけど、何とか4畳半の部屋が貰えるねん。北野の家に又、遊ばして貰いに行ってもええか」

「来て、来て。叔母ちゃん、あんたのことえらく気に入って、『花子も、エミさんみたいにおとなしいしたら』と言われたわ」と、花子は髪を束ねていたスカーフが風に煩くなったのか、外しながら笑った。エミは洋裁学校の面接の時に花子と一緒に来て、北野の家に泊めて貰ったことがあった。

「花ちゃんはええなぁー、北野のあんな綺麗な家に住めて、憧れやわ」

「一杯部屋あるから、叔母ちゃんに頼んで一緒に住もか」

「あかん、あかん、これ以上甘えたら、お母ぁ―ちゃんに、怒られるわ。たまに遊びに行けたら十分」


 若い彼らの話は尽きなかったが、1時間もすれば船は神戸港に入って来た。北に紫色の山々が連なり、そこから碧い海の方へ一帯に広がっている斜面にある都市(まち)、それが神戸である。中突堤には赤いパイプ構造のポートタワーが完成近い優美な姿を見せていた。

 港から一段と高い山は摩耶山で、その横に再度山(ふたたびさん)があり、その前衛をなすのが、市章が入った堂徳山(市章山)、その西隣が錨のマークの碇山(いかりやま)である。

 彼らには、それらが「ようこそ、神戸へ」と言ってくれているように見えた。


注釈と資料

葺合区:1980年(昭和55年)に区域再編がなされ、生田区と統合され、中央区となった。


2  『中突堤は新婚航路』


 タラップを降り、中突堤に降り立った彼ら6人は別れを惜しみ、待合所にある喫茶店に入った。そこで、花子からこの3月25日を記念して、3ヶ月に一回会うことが提案された。野々村健太からは、毛色の違う者が入ってもと、遠慮する言葉があり、洲本実業の5人で『淡路5人組』が結成された。次回を約束してそれぞれの落ち着き先に向かって散会となった。

 花子はタクシーで北野まで行くと云う。良太、佳祐、竹野は三宮まで同乗させて貰うことになった。野々村健太は大丸百貨店で買う物があると云ったので、エミは元町駅まで健太と一緒に歩くことにした。健太はエミの荷物の一つを持って、

「これは重いや、何が入ってるねん?」と訊いた。

「健太君は身軽やね」

「寮にみな先に送といたから」

「それは青春の思い出・・それよりメリケン波止場ってどこ?」

「ほら、あそこ」と、健太は中突堤の東向かいを指さした。


 中突堤よりは短く真っすぐであった。中突堤は「くの字」になっている。ここは淡路島、小豆島、四国、北九州、奄美大島、沖縄と南西諸島などに向けて発着するターミナルである。丸い帽子にツーピース姿の可愛らしい新婚さんや、それを見送る人たちで賑わっていた。当時、別府航路は新婚航路であった。

「中突堤がメリケン波止場と思ってたわ。メリケン波止場に着くものとばかり思ってた」

「間違う人が多いらしいよ。メリケン波止場を指定した客が、別府行きは中突堤だと聞いて慌てて駆け込んで来る例が多いらしい」

「そうしたら、メリケン波止場はどんな役割を担っているの?」

「外国船が着岸するところと思っている人が多いが、それは東側の新港の第一から第4突堤からや、水深も10メートル近くあって、大型船が着岸出来るように作られているんや。メリケン波止場は昔に作られて水深もさほどなく、長くもないので、東側と先端は、沖止まりの船と波止場の間を、人を乗せて往来するランチ(交通艇)、遊覧船やタグボートの船着場なんや。中突堤に面した西側は艀(はしけ)の発着場であり、溜まり場なんや」

「タグボートってなんやの?」

「曳船と言われるもので、大型船の接岸、方向転換を手伝ったりするものなんや。もう少しいてたら、あの別府行きの船が方向転換するのを見られるのやけどなぁー」と、時間がないのを健太は残念がった。


「この波止場の近くにアメリカ領事館があったところから、アメリケンが『メリケン』になってこの名前になったのや。明治元年に明治政府が兵庫港第3波止場として開設。中突堤や新港突堤は大正時代出来たんや。外国航路のマドロスさんが神戸の夜を楽しむ為にランチ(通船)でやってくるのがメリケン波止場で、その時間帯になると、客引きの外人バーのホステスさんらでひときわ賑やかになるらしい」

「健太君は詳しいんやね」

 大丸までの道すがら、あれが、阪神パイロット組合(水先案内人の組合)、そしてあれが水上警察署と指差し、健太は神戸に帰って来た喜びを、エミに教えることで表現した。


 それらの建物の前を通り、メリケン波止場前を左に曲がると、鯉川筋で、山側に向かって歩くと左側に中華街(南京町)の玄関、長安門があり、その筋向いが大丸百貨店である。鯉川筋をものの1、2分も上ればそこに国鉄の元町駅がある。エミは健太と、試合の打ち合わせで話したことはあったが、このように長く話しをしたのは初めてであった。もう少し、話していたかったが、自分から言い出すのも気恥しく、大丸の玄関先で別れた。

 

 3年間、マネージャーとしてスコアブックをつけて来たのであるが、エミはあのスコアブックほど、その人間の性格や特徴を表しているものはないと思っている。池野良太と野々村健太は、見かけはよく似ていた。後ろからそのユニホーム姿を見ていたら、先行で投げていたピッチャーが後攻でも又、投げていると思うことだろう。良太は磊落そうに見えて神経質である。スピードボールで押し切ればいい時でも、尚且つコントロールを考えてしまう。それが、勝負どころでの押し出しになったりする。

 一方の野々村健太は寡黙で神経質そうだが、大胆不敵なところがある。コントロールが生命線の健太であるが、ピンチで困り果てたとき、ど真ん中に直球を投げ込むことがある。打者はまさかと見逃してしまうのだ。スピードをつけて投げ込んだ直球といっても良太の比ではない。

 竹野は大胆で用心深い、先輩島崎は二度と同じ失敗はしない、失敗から学んで大成をなすタイプと言ったら、マネージャーの予測の範囲を越しているだろうか。分からないのは平田佳祐である。一度もこのスコアブックには登場してないからだ。でも佳祐は練習をサボったことは一度もない。みな、このスコアブックの中にある。健太に持って貰っていた荷物はこれなのだ。「青春の詰まったノート」出がけに思いついて、エミがボストンバッグに入れたのであった。


3  『市役所のカレーはお肉がゴロゴロ』


 花子らの一団を乗せたタクシーは、三宮阪急会館*の前で止まった。男たちを降ろして、花子は車を北野までやるつもりだったが、「腹が減ったなぁー、飯くおう」と云う事になって、会館前でみな降りた。

 良太が安くて旨いとこを知っているという。良太はスタスタとガードをくぐって海岸の方に向かった。皆も取り残されまいと後を追う。ガードをくぐると、右角に工事中のビルがあり、市役所前までの道路は工事中であった。その上を市電が普段通りに走り、工事用のダンプがひっきりなしに出入りしていた。

 

 オリンピックに向けて、東京では高速道路、競技場、ホテルと最後の突貫工事が行われていた。新幹線の開通もそれに合わせて進められている。いわば、日本国中が工事だらけなのである。淡路だけが取り残されていると、皆は感じずにはいられなかった。それでなくても人通りの多いとこである。

「なんの工事してるねん?」佳祐と竹野。

「この下に、来年、地下街ができるねん。さっきの工事中は交通センタービル、1階は地下街の入口になるらしいわ」と花子が答える。

「地下に店、げんでないとこに作るねんなぁー」佳祐には理解できない様子であった。無理もない。都会で慣れてない者にとって、地下は死者を葬る所を意味する。


「楽しみやわ。三宮がころっと変わるわ。〈セリオカ〉かて出るんよ」

「ほな、花子が初代店長てわけや」と竹野が茶化す。

「そうや、ウチこっちの店の方にしてもらうねん」

「地下街の名前はなんて言うんや」と佳祐。

「確か、〈さんちかタウン〉て云うらしいわ」

「チカチカする名前やなぁ」

「それって、シャレ?」話しているうちに、花時計の前に来ていた。おりしも昼時ということもあって付近の女子事務員たちがお弁当を広げていた。

「腹が減ってたまらん、ハヨー、行こう」竹野が情けなそうに云った。


 4人は市役所の地下の中に飛び込んだ。「こんなとこに食堂あるんけ」と佳祐、「職員食堂」と書かれてあった。「職員でなくても入れるのか」と良太に訊いた。

「市民にも使って貰おうということらしい。超オススメはビーフカレー100円」皆、100円の食券を買って並んだ。「大盛り」と口で言うと、ご飯は大盛りにしてくれる。全員大盛り。

 一気に食べた。腹がくちた。水を一口のんで皆が言った、「これは大当たり!」

良太は神戸で唯一の親戚?(と言っていいのだろう)星垣麗おじさんに神戸に来たとき、初めて連れて来てもらっていたのだ。肉の塊がゴロゴロしていて、よく煮込まれている。


 花子は北野の叔母の所に歩いて行くと云い、竹野の会社は国鉄三の宮の駅裏すぐにあり、良太の会社のある磯部は、市役所の前のフラワーロードを横切って東にすぐであった。二人は会社に顔を出して、挨拶すると言う。佳祐の下宿の六甲駅は、三宮から阪急電車に乗って4駅目である。

 神戸に到着したメンバーは、それぞれの落ち着き先に向かった。


4  『なつかしの新開地―エミ』


 エミは神戸駅で降りた。ロータリー正面に湊川神社*が見える。今は昼時、大楠公は昼寝であるらしく、神社内は人影もなく森閑としていた。「楠公さん、これから神戸で暮らします。よろしく」と、エミは社殿に向かって一礼をした。

 神社前の多聞通りを、西に7、8分歩けば、多聞通りは大開通りと柳原筋に分かれる。その分岐点に新開地の三角公園があって、市電やバスの発着場になっている。そこから1分とかからない所に〈播政市場〉という小さな市場があり、その中に伯父の家はあった。この大開通りに沿って、かつて、ウエスト・キャンプと呼ばれる米軍キャンプがあった。

 エミは小学校の入りたての頃だったか、母に連れられて、初めて神戸に来たとき、蒲鉾兵舎の中から、黒いアメリカの兵隊さんが出てきたのにはびっくりした。須磨に母の姉になる伯母がいるので、神戸に出てくるときは、バスで岩屋まで出て、フェリーで明石に渡り、須磨に寄って神戸駅に来るのであって、今回のように船で神戸港に直接入ったのは初めてであった。

 2回目に神戸に来たときは、母と須磨から山陽電車に乗って兵庫駅前終点で降りた。その時にはキャンプは既に無くなっていた。

 

 3回目に神戸に来たのは中学校2年生のときであった。夏休みに入ったばかりの頃、花子らと泳ぎに行ったり、遊ぶのに忙しかった。

「お前は最近遊んでばかりで、弟の世話はしないわ、家の手伝いはしないわ」と何時にない、母がヒステリックになってエミを叱ったことがあった。弟と云っても小学校6年になっていて、自分たちの友だちと遊びたがったし、確かに家の手伝いは最近手抜きになってはいるが、父がいなくなってから、母のことを思って一生懸命、エミなりにはやって来たつもりだった。

 我慢強いエミが切れた。バスに乗り、フェリーに乗って明石に着いた。伯母のとこに行けば、すぐに連絡が入って、母が向かえにきそうに思えて、神戸駅まで来て、伯父に電話を入れたのだ。

「エミちゃんか、そこにおりや」と、伯父は車で直ぐに来てくれた。伯父は母に連絡を入れ、何かを言ったのだろう、「お母ぁ―ちゃんの許可もうたから、狭いけどゆっくりしていったらええ」と云ってくれ、その一夏をエミは神戸で過ごしたのだった。


注釈と資料

湊川神社:建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍、尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した楠正成公を祀っている。この地を訪れた水戸光圀がまともに祀られていない正成を偲び、「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てた。明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治5年神社が建立された。湊川神社、生田神社、長田神社を神戸の三神社と云う。


5  『新開地散歩』


 伯父の藤井司(つかさ)は淡路島で淡路交通のバスの運転手だった。エミも小学校の1、2年生のとき、学校帰りに見つけて、乗せて貰ったことが何回かあった。一緒に乗った友達には少し鼻高であった。淡路交通が神戸にタクシーの営業所を作ったので、伯父は昭和28年に神戸に出てきたのであった。

 藤井性は母の旧姓で、藤井家は淡路の西淡で小さな農家を営んでいた。跡を継いだ長男は南方戦線で戦死し、男手をなくした藤井家を支えたのは、この伯父であった。

 バスの運転手の傍ら、非番の日には田を手伝い、本当はいけないことなのだが、作った作物をバスのトランクに積んで、洲本に買い付けに来ている闇屋に売ってしのいで来た。戦時下の昭和18年に須磨の伯母が結婚し、20年には既にお腹に子供がいた母の婚礼が出来たのも全て、伯父のお陰であって、母も須磨の伯母もこの伯父には頭が上がらない。母も、須磨の伯母も伯父のことを「つかはん」と呼んでいた。エミもそれに習った。


 同じ家を持つなら市場で奥さんが小商いでも出来るところということで、須磨の伯母がだいぶ力になった。奥さんは良子さんと云い、蒲鉾や天ぷらの取り売をしていた。子供はエミより3学年上の高校2年生の勝治一人である。伯父は背がかなり低い。あんな小さいのに、あのような大きいバスをどうして運転できるのか、小さい頃、エミは不思議で仕方なかった。

 良子さんは一方、当時の女性としては大女の口だった。よく云う「蚤の夫婦」という奴である。2年の時、従兄の勝治(エミは当時お兄ちゃんと呼んでいたが)がこんな話をして、エミを笑わせたことがある。

「2階に二間あるやろぅ、夫婦は上やった。えらい2階で滅多にない口喧嘩や。そのうちバタバタ、ドターンと音がして、誰が階段を転がり落ちてきたと思う?親父や。それから親父ら夫婦は下の一間を使い、俺が2階の二間を使うことになったのや」

 お陰で、エミはこの夏、2階の一間、4畳半を使えたのである。この夏休みは、エミにとって忘れられないことだらけの休みだった。


 エミは〈つかはん〉の新開地散歩によくお供をした。新開地は天井川、湊川が付け替えられた跡に出来たものである。神戸は六甲山系から流れるこれらの川が作った扇状地の上に出来た街で、神戸の川は殆どが天井川で、このため、度々洪水に悩まされ(代表的なのが1932年の神戸大水害)、川を付け替えたり、最初、官営の鉄道を通すにも墜道を作ったりと、色々と苦労し、ある意味川との戦いの歴史でもあった。


 散歩コースは決まっていた。家から湊川トンネル横を越して、神有電車*の湊川駅の前を通り、馬に跨った楠公像のある湊川公園に出る。そこで、詰将棋の一団を覗いたあと新開地通りに入り、タワーそばの温泉劇場に行く。普段は風呂だけだが、たまに観たい映画がかかっている時は、映画券付きの入浴券を買う。映画代がただみたいに安いのだという。

 貸タオルがあって、エミも入ったが、天井が高く、浴槽が一杯あって、お湯もふんだんにあって、まるで温泉みたいだった。伯父が毎日ここに来る理由が分かった。温泉劇場を出て、春陽軒に立ち寄る。

「エミちゃんここの豚まんは有名なんやで」といって、生ビールの中ジョッキーを伯父は一杯注文する。エミは豚まんより、店頭にあるコーンに渦巻きになったソフトクリームが楽しみであった。


 帰りは、店を出て、聚楽館*の前を通って、家に着くというコースであった。聚楽館の前を通るときは、この建物のいきさつを伯父はいつも話した。

「こんな歌があるのや『ええとこ、ええとこ、聚楽館。悪いとこ、悪いとこ、松本座』悪いとこの意味は安いとこという意味や、出来たての時は東の帝国劇場に負けへん建物やゆうて、かかるのも歌舞伎や一流のもんばっかりで、庶民はいけなんだ。庶民は安い松本座で我慢という羨望の歌や。聚楽館が華やかりし頃が新開地も全盛やったなぁー」と、戦前の新開地を懐かしげに語った。

 母の話によると、伯父は若いときに活動写真の弁士になりたくて神戸に出てきていたが、そんな極道な仕事はダメと父親に島に連れ戻されたそうだ。

 

 演芸場や映画館が一杯あって、今でも華やかで賑やかしいのに、戦前はどれだけ華やかだったろうかと、エミには想像出来なかった。今の聚楽館は上にアイススケート場があって入れた。勝治が連れて来てくれたのである。淡路にはアイススケート場なんてなかった。最初は怖かったが、勝治に手を引っ張ってもらって滑って、何回か尻餅をついて、やっと滑れるようになった。

「エミちゃんは運動神経抜群やなぁー、一日で滑れるようになる子はそういてへんで」と褒められて、「今度はウチがお金払うから」とその後、二回連れて来て貰った。お金があったら毎日来たいほどに思われた。映画も良子さんに、この聚楽館に一回連れて来てもらった。エミにはもはや聚楽館は敷居の高い所ではなかった。


 伯父といつもの新開地散歩に出かけた。その伯父が何時もの店で生中を注文し、エミがソフトクリームを舐めていたとき、いつにない2杯目を注文して、「エミちゃんよ、お父さんを恨んでるかい?」と訊いてきた。

 エミは不意を突かれた格好だったが、ソフトクリームを舐めながら、頷いた。

「そうかい、せやろな。で、お父さんのことは思い出すかい?」

「うん、思い出すけど、最近忘れている時の方が多いねん」と、エミは申し訳なさそうに答えた。

「それでええ。100%忘れられたら寂しいけどなぁー。あのな、3年程前にな、新開地でバッタリお父ちゃんに会ったのや。女の人も一緒やった。この近くの大衆演劇の木屋に出ていると云ってな、身なりも綺麗やったし、木屋を見にくるかと誘われたけど、女の人に別段興味があったわけでなし、それであくる日、新開地の居酒屋で会うことにしたのや」

 突然の話にエミは手にしていたソフトクリームを落としてしまい、伯父は豚まんを注文した。一言でも聞き逃すまいとエミは伯父の話に聴き入った。

「お父ちゃんは、久しぶりの神戸やと云ったあと、『家のもんは元気しとりますか』と訊いてきた。『敏江さんも、エミも、義晴も元気でやってます。親はのうても子は育つですなぁー』と、皮肉も交えて答えたんや。賢三さん、それを聞いて『耳の痛い話しどす』ゆうて、涙をポロと流して、会うたことは内緒にしといて下さいと頼みはった。『エミは確か今小学校5年か6年の筈なんですが・・』と訊いてきはった。賢三さんは一日も子供のことが忘れられへんねんやと思った。エミちゃん、分かっていてもどうにもならんことがこの世にはあるねん。大きいなったら分かる時があるやろぅけど・・」と云ってから、伯父は伝票を持って立ち上がった。

 エミの皿の上にはまだ齧りかけの饅頭が残っていたが、水を一口飲んで、伯父に続いて立ち上がった。帰り道、「お母ぁーちゃんには絶対内緒やで、顔には出さんけど、あれかて淋しいて、それをどこに持って行ってええのか分からん時かてある。そう思ってやってくれんか」と伯父は言った。

 エミは恥ずかしかったけど、娘のように〈つかはん〉の腕に手を回した。

「えらい、若うて綺麗なべっぴさんと腕を組むなんて、何十年振りやろぅー」と〈つかはん〉は照れ臭そうに笑った。


注釈と資料

神有電車:神戸電鉄、1928年(昭和3年)湊川~有馬温泉で開業。同年三田まで開通。現在、新開地駅で神戸高速鉄道につながる。


聚楽館:1913年(大正2年)帝国劇場をモデルに建てられた。昭和2年から映画の常設館となり、昭和53年閉館となった。新開地のシンボル的存在であった。


6  『遠矢浜に海水浴』


 昼間、部屋で所在なげにしていたら、勝治が「エミちゃん泳ぎに行けへんか」とふすま越しに声がした。隔てるものは襖1枚である。勝治は開けるときは「エミちゃんええか」と声をかけてから開けるが、エミは声もかけず、一度「お兄ちゃん」と襖を開けたことがある。勝治は大事な所をおっぴろげて、団扇で扇いでいる最中であった。「ごめん」と云って直ぐに閉めたが、恥ずかしさと、いけないものを見てしまった思いで、エミの心臓は激しく波打った。

「エミちゃんごめんな、陰金田虫知ってるか、あれやねん。そのチンキが効くけど、やたら沁みるねん。すまん、ごめん」と、しばらくして勝治が襖越しに声をかけて来た。

「悪いのはウチや、声もかけんと、大事なもの見てしもうて」と答えると、

「ギャハハ、大事なもんか。ギャハハ、せやなぁー」と勝治の笑いで、エミは救われた。それからは暑いけど、襖は開けずに話しをすることになった。扇風機が1台、不要の出費となった。


「須磨まで行くんか」

「いや、近くに泳げるとこがあるねん」

行ったところが、遠矢浜であった。兵庫区内の三菱電気裏にあって、自転車の二人乗りで出かけた。太平記の本間孫四郎遠射の浜からついた名前だそうだが、そんな人をエミは知らない。まだ砂浜を残した浜だった。家から水着をつけて来ていたが、裸になった勝治は青年らしくなった筋肉をしていて眩しかった。それに比べて、エミはまだいくらも膨らんでいない水着姿が少し恥ずかしかったが、最初だけで、水の中に入ると、淡路の大浜のように遠慮がなくなった。

 追いかけっこや、持って来たタイヤ浮き輪で遊んだ。勝治は砂浜で休憩し、持ってきたジュースを飲みながら将来の夢を語った。「親父は陸(おか)の運転手やろぅ、俺は海の運転手、小さい船でもええ、船長になって運転するんや。神戸の海が大好きやねん」と。

 エミには浮き輪に浮かんで海から見る白い神戸の街は、まるでおもちゃの街のように見えた。この浜も昭和40年、臨界工業地帯計画で埋め立てられ、砂浜を失った。


 エミは花子に手紙を書いた。花子からすぐに返事が来た。

《お手紙ありがとう。神戸の楽しい様子がわかり安心しました。おばさんが「知りませんか?」と聞きに来たときは本当、びっくりした。大人しいエミもやるときはやるんや、と思いました。私でもようせんことをね。伯父さんとこやと聞いて安心しました。私も直ぐに神戸に行こうと思いましたが、こんなときに限って、いけずママが夏風邪こじらして入院で、店は長いこと休むわけにもいかず、若いわがまま娘が臨時ママで私はその下で、女中となってこき使われて、散々な夏休みを送っています。エミと一緒の色々と楽しい遊びを考えていたのにぃー、エミのいない淡路は私にとって火の消えた島で、こんな寂しくつまらないことはありません。早く帰ってこー。泣いている花子より》と大粒の涙を流し、口をへの字にした漫画の絵が添えられていた。花子の友情が素直に嬉しかった。


 須磨の伯母も心配して来てくれて、滅多にない金額のお小遣いを置いていってくれた。夏休みもお終り近い日、母が迎えに来た。母の顔を見たとたん、エミはしがみついて泣いた。まるで幼稚園児のように、あたりはばからず大声を上げて、泣いた。

「なんやろね、この子はええ歳して」と云った母も泣いていた。その晩、母と一つ布団で寝て、あくる日、須磨の伯母の所に挨拶を入れて、明石からフェリーで岩屋に渡った。こうしてエミの夏休みは終わったのだった。


 あの夏休みから思うと、エミは自分がずいぶんと大人に近くなったのだと思った。あれ以来である。三角公園のとこまで来て、播政市場の入口が見えたとき、これから暮らす神戸に胸がときめいた。〈つかはん〉は元気やろか、良子おばさんの蒲鉾屋さんは繁盛しているやろか、既に学校を出ている勝治兄さんは、船に乗ってるのやろか、5年ぶりの神戸の思いがエミの胸を熱くした。


7  『なつかしの北野町―花子』


 皆と別れて、花子は阪急会館*前から加納町を市電道に沿って上がって行った。坂道ではないが、山(北)の方へ行くことを神戸では上るという。加納町3丁目の交差点、(市電山手線と石屋川行きの合流するところ)に出て、左に折れて、一番目の坂を登る、それが北野坂である。今のように三宮から真っ直ぐになったのはもっと後のことである。

 雨樋を作っている「とゆ」屋さんがある。その上が、夜、ジャズ演奏をやっている『曽根』、その上が『中山手カトリック教会』。道を隔てた右手に真珠のバイヤーがよく利用するという旅館がある。にしむら喫茶店主の私邸があって、『三星堂』の薬問屋がある。左に曲がると山本通り、この角に「学生さんもつっついています」で有名なすき焼きと、うどんすきが名物の『いろりや』がある。一番上の通りが北野通りで、突き当たって小道を登ると、異人館『ウロコの館』とか『風見鶏の館』とかになる。


 花子は中山手カトリック教会の方に折れた。この通りは真珠屋さんのビルが多い。ハンター坂を横切り、回教寺院*の手前の細い道を山側に上がる。山本通りの裏手になる。ここに〈セリオカ〉の当主は、当時としては珍しいマンションを建て、3階は別階段をしつらえて貸していた。裏は洋館が二つ並んでいて段差はあったがその洋館の裏庭に面していた。ブランコや滑り台があって、外人の幼い女の子たちが遊ぶ姿が見られた。

 北野は、観光地ではなく生活の町であった。教会と並んだ通りにラブホテルがあったりして、なんと神戸はおおらかな町と花子は思った。『なんとか星ハイツ』は、ほとんどの人が夕方着飾って出勤する人達であったりした。教会の横のテニスコートでは、日本の男の子とデニムのズボンに赤いTシャツ姿の外国の少年が、なにやら喋りながらボール投げをしている。

 三日月をつけた塔がある回教寺院の前を紫色のサリーをまとうた少女が、サンダルをはいて通る。普通の暮らしの中に異国情緒が垣間見える町であった。異人館を見に来るアベックはたまにいたが、観光客なんてほとんどなかった。


 叔母、茂子は勿論お店で留守。家のことは全て任されている滝さんが笑顔で花子を迎えてくれた。

「花子さん、水玉のワンピースがよう似合って、まるで女優みたい」

「滝おばさん、本格的にお世話になります。よろしく。出演映画は『玉ねぎ畑の花嫁』1本です」の挨拶に、滝さんは笑って、「お昼は?」と尋ね、花子が「三宮でみなと食べてきたよって」と答えると、「ハヨ、部屋で着替えて休んで頂戴。後で冷たい物持って行きますよって」と云った。

 滝さんは女中ではない、物を届けに来た人が「あー、女中さん、奥さんから頼まれたもの」と言ったとき、届けものを突っ返して、「この家には女中はいません」と言ったという。当主、豊成の遠縁にあたる人だとかで、叔母が嫁いで来る前から居て、「私よりいばってるのよ」と叔母は言うけれど、しっかり者で料理上手な滝さんがお気に入りの様子で、家のことは全部任せきりにしている。「その方が、お店に集中できて、家はくつろげるからね」と云うことらしい。

 

 息子、吉成が一人いるが、東京の慶応大学に行っていて、滅多に帰ってこなくて、お商売に興味がないらしい。「それが悩みと言えば悩みね」と叔母は贅沢を言っている。花子に充てがわれている部屋からは、港が見える。風も通って夏でも涼しく、クーラーをかけるのは凪ぎで風が止まるときぐらいである。

 中学になってからは夏休み、冬休み、春休みとほとんど来ている。花子にとって神戸は第2の故郷で、ほとんどこの家の娘と云ってよかった。高校生になった夏休みからは、お店も手伝うようになった。8月はバーゲンで猫の手も借りたい時らしい。猫の手以上の評価を貰えたのか、僅かだがアルバイト代も貰えた。お店は7時閉店で後片付けがあって、叔母は8時頃まで店にいる。花子は6時頃先に帰ることが許されていた。

〈セリオカ〉は神戸で一番の繁華街であるセンター街の西端の方にあって、すこし西に行くとトーア・ロードに突き当たる。高架を越えて坂を上る。花子は店の手伝いを終えて、夏の夕方のこの道を帰るのが大好きだった。


 この坂を登りつめた所に、赤い円錐屋根をつけ、蔦の塔を四隅に配し洒落た『トア・ホテル』があったが、戦災で焼失してしまった。「トア」とは「東亞」であり、呼びづらいのか神戸の人たちは「トーア・ロード」と呼んだ。三宮神社*横、大丸東角の通りの入口を表示すアーケードのサインには『TOR・ROAD』と書かれてある。

 この通りに面した家々は、中国人の商社や、輸出向きの陶磁器や織物の店、外国製の酒類やココア、コーヒー、バター等々の品物を売る店があるかと思うと、オーダールームの洋装店、婦人ものの帽子店が、舶来レースの専門店が、そして、昔ながらのテーラーのお店が、センター街と違う趣で在る。そのウインドウを一つ一つ見ながら歩く、毎日見ても見飽きることはない。

 

 褐色の肌の船員が2、3人連れで坂を上って行く、お洒落な日陰帽子を被った母と娘が楽しげに坂を下ってくる。行き交う人を見るのもまた楽しい。かなり上がって来たら、右側にアンティークな家具を扱う店がある。ここの横の小道を入ると叔母の家になる。

 花子はこの店の前から振り返って見る黄昏の神戸港が大好きだった。港は西日にシルエットを浮き立たせたマストの林立である。ため息が出るほど見惚れてしまう一時である。海からの風が止み、しばしの夕凪の時でもある。暫くすると山からの陸風が神戸の夜の街を涼しくする。


注釈と資料

三宮阪急会館:阪急三宮駅東口に位置する。昭和11年の建築でビルの北東部に尖塔を持ち、館内には映画館が3館あり、1階と地階には三宮阪急の売り場、中2階が阪急電車の改札口と、いつも賑わいのある、山手側、三宮駅前のランドマーク的な建物であった。アーチ型のビルの出口から阪急電車が出てくるのを懐かしく思う人は多い。阪神淡路大震災で崩壊し、現在はこの形ではない。


回教寺院:神戸ムスリム・モスクが正式名称。1935年(昭和10年)日本で最初に建てられた回教寺院。神戸空襲でも焼けず、震災にも倒壊せず、エキゾチックな容姿を見せている。


三宮神社:大丸百貨店東角にある。神戸事件で有名でその碑がある。今は小さい境内であるが、かつては芝居小屋、映画館、飲食店が存在した盛り場的な場所であった。神戸事件とは1868年(慶応4年)兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の家老日置氏の軍勢約450名及び大砲方を率いた一軍は、11日午後2時ごろ、一行が神戸の三宮神社に差しかかったとき事件は起こった。備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったことに端を発した紛争で、一時、外国軍隊が神戸中心部を占拠するまでに発展した事件である。


8  『叔母の自慢は・神戸エレガンス』


〈セリオカ〉の本店は大丸前にある。本店と云っても昔からの上客で成り立っていて、ドル箱の店は叔母のいるセンター街の店の方である。本店の2階は経理事務専門になっていて、ここに伯父、豊成はいる。古くからの男性事務員と若い女性事務員の二人が常駐している。

 豊成がいるのは午前中だけで、午後からはゴルフの練習に行ったり、大丸の支店長と会ったり、元町の誂店に行っては喋り込んだり、お気に入りの喫茶店で新聞を読んだり優雅である。お店の商品や、販売員のことには一切口出ししない。家でも、めったに早くは帰って来ないが、家にいるときは、滝さんや叔母に任せて、書斎に閉じこもっている。休みの日は、ゴルフ以外は家にいて、趣味の絵を描いている。花子も一度モデルになって描いてもらったのがある。大事に部屋に飾っている。


〈セリオカ〉の先代は本店のあるところで美術商として創業している。婦人服を扱い出したのは戦後になってからである。叔母が神戸に出てきて洋裁学校に通っていたとき、神戸商大生であった豊成と恋愛関係になった。その時の洋裁学校の同級生がエミの通う学校の理事長である。

『ローマの休日』のヘップパーンの着ているディオールの服に感動して、きっと洋装の時代が来ると確信した叔母は、豊成の美術品を2階に上げ、1階をプレタポルテの店にしたのである。交際範囲の広い豊成はセンター街の貸し物件を手に入れ、センター街進出となった次第である。セリオカ家における叔母の権限は絶大である。


 セリオカ家のダイニングルームである。伯父の豊成は早朝からゴルフに出かけていない。

「叔母さん、婦人服店の主人って優雅ですね。伯父さんはいつ仕事をなさってるんですか」

「その方がいいじゃない。ほれ、言うじゃない。髪結いの亭主」

「叔母さんはそれでいいんですね。あんなに遊んでいる亭主で」

「遊んでいる亭主はよかったわね。デモ、あれで数字はきっちり見ているのよ。けっこうケチで計算高いの。一度こんなことがあったわ。店の従業員の子が荷造りしていて、紐を無造作に切って、捨てたの。見ていた豊成が『君、セリオカを潰す気か!』って怒ったの。私が『いいじゃないの、紐の1メートルや2メートル』と云ったら、『馬鹿云っちゃいけないよ。それが積み重なったら地球1周にもなるんだ。俺は親父にそう教えて貰った。どこの家にも成り立ちや、家訓というものがある。それを馬鹿にする奴はいずれ泣きを見るんだ』と偉い剣幕なの。お坊っちゃんと思っていた豊成を見直したわ。その時、経営はこの人に任せておけば大丈夫と思ったのよ」

「分かりました。もう、遊んでいる亭主なんて言いません」

「デモ、ちょっと遊びすぎね。変な遊びにいかないように、注意しとかないとね」

 叔母とそんな会話を交わしたのは去年の夏だった。


 叔母の前では花子の言葉使いも変わる。何しろ『神戸エレガンス』である。朝の朝礼の訓示は「服を売るだけではありません。身だしなみ、言葉使いに気を配ってください。セリオカのお客様は服だけでなく、そんなところも見てられるのですよ。自分を磨いてくださいね。そして・・」「床もしっかりですよね」と、ベテラン販売員の相の手が入る。叔母はクスリともせず「はい、そうです」で掃除が行われる。ほぼ、これが毎日のように繰り返される。

 思えば叔母も偉いが、これを聞く販売員も偉いと花子は思った。セリオカの販売員は辛抱が良いと定評である。1メートルの紐である。創業の精神は幾ら語られても可笑しくない。

 

この『神戸エレガンス』と云う言葉は、叔母の発案であるらしい。神戸エレガンスと言えばセリオカ、セリオカと言えば神戸エレガンス。叔母のご自慢である。実際そのようにお客様にも浸透しているのは凄いことだと花子は思っている。滝さんのお料理のいい匂いがしてくる。そろそろ、叔母の帰って来る時間のようだ。


9 『なつかしの本山―良太』


 良太は磯辺の寮にボストンバッグを置いて、星おじさんのところに行ってみようと思った。市役所で食べたカレーが思い出させたのだ。早速に電話を入れた。


 良太は父親の膝の上に乗ったり、肩車をしてもらったりのスキンシップの記憶はない。父、鹿蔵はいわゆる子煩悩ではなかった。といって無関心でもなかった。よく良太を見ていて、注意するところは厳しかった。時には手も出た。褒めてくれるときは、通知表がよかったときや、運動会の徒競走で一番になったときであった。無関心といえば、むしろ母、郁恵の方であった。

 そんな父が「坊主、神戸に行こか」と、2回程連れて来てくれたことがあった。一回目は小学校1年生のとき、王子動物園であった。「猿にキャラメルを投げてみ」と言われて投げた。木に止まっていた猿が上手にキャッチして、両手で上手に剥くのであった。面白くて、2個、3個と投げていると、「お前の食べる分がなくなるぞ」と笑われた。阪急電車に乗って、岡本で降りて連れて行ってくれたのが、星おじさんのところであった。

 父に、「兄さん、泊まって行きはったらどうですか、掃除は出来てませんが、部屋ならいっぱいありますから」と宿泊を勧めたが、「今日中に帰って済まさんといかんことがあるさかい」と父は断って家を出た。「兄さん?叔父さんやろか」と思いながら、「親戚の人かぁ?」と訊くと「みたいなもんや」と父はぶすっと答えた。

 2回目のときは中学年生の時で、父は所用があると言って出掛けた。このときおじさんが連れて行ってくれたのが、市役所のカレーだったのだ。


 3回目は高校1年の時、県大会の決勝で甲子園に来たときであった。負けて、皆で淡路に帰る予定だったが、親戚に急用が出来たとか言って、星おじさんの屋敷に泊めて貰った。手料理とワインを出してくれて一緒に食べた。おじさんの料理はホテルの料理人が出来るぐらい上手だと、辛口の父が褒めていた。その日の料理は淡路ではめったに食べられない、ビーフシチュウであった。

 

ともかく変わったおじさんだ。おじさんから言わせると世間の方が変わっているらしい。

「飯が食えまへんと言う人ほど米の汁をよく飲み、『儲かりまっか』『あきまへんなー、サッパリですわ』という人ほど儲けている」と云うことだ。

 おじさんは詩人だ。詩集も出している。〈星垣麗〉はペンネームだ。本名は星岩男という。この岩男が好きでないらしい。当時流行っていた〈月がとっても綺麗から・・〉という歌詞から取ったという、「違う、月がとっても青いから・・」だと思ったが、云っちゃー悪いと良太はやめた。

「いい名前だろう」と、おじさんは云うが、皆は「干し柿、れい」と聞き違えるようだ。


「僕と君のお父さんは原田の森*にあった旧制中学校に通っていた。その学校は上に専門部もあって広いキャンパスで立派なグランドを持っていた。野球がさかんで、強かった。お父さんは5年生で野球部のエースやった。僕は入りたての1年生。僕のユニホーム姿を見んものと、大阪のチームとの対抗試合に母と叔母がやってきた。僕の口から言うのもなんだけど、二人はよく似ていて、美人姉妹で有名だった。試合は僕の学校がかろうじて勝ったのだが、この試合でお父さんは、球を相手チームの選手の顔面にあててしまい、その選手が片目を失明するという事故が起きてしまった。責任を感じたお父さんは野球をやめてしまった。母と叔母はお父さんを可愛そうに思い、家に招いてご馳走で慰めた。お父さんは年上だったが、叔母を好きになってしまった。お父さんはその後、学校を出てから叔母と結婚したのだけれど、年上ということで実家の反対を受けた。反対を押し切ったお父さんは、造り酒屋の実家の跡を弟さんに譲った。結婚して2年、叔母はコレラにかかってあっけなく亡くなってしまった。悲嘆にくれるお父さんを母はこの家に呼んだ。お父さんが戦争に行くまで3年、僕とお父さんは一緒に暮らしたのだ。お父さんが戦争から帰ってきたとき、母は神戸空襲で亡くなっていた。僕は、お父さんが好きだったのは、実際は僕の母の方ではなかったかと推測している時期があった。お父さんは君と野球の話をしないだろう。でも気にかけている。今日の試合はどうだったと電話があった。負けたと話したら、慰めてやってくれと言われたのだよ」

 良太の知らない父を星おじさんは語った。


 戦争から帰って来た父は、三菱重工に就職し、月見山で所帯を持って良太が生まれ、戦後の食糧難で子供のお乳も出ないと、母の実家の淡路に帰ったと良太は聞かされていた。母は自分が最初の結婚相手だと思っているはずだ。

 その日、思いがけず、良太の知らない父を知って、良太は気難しいばかりの父と思っていたが、人には色んな人生があって、初めて父を一人の男と考えるようになった。その日、島崎先輩が甲子園で投げた暴投が何処か遠い日のように思われた。理解し、父を語ってくれる人が近くにあることは、幸せなことである。


注釈と資料

原田の森:関西学院大学(1889年)が西宮、上ケ原に移転するまでの40年間この地にあった。摩耶山を背景に、赤煉瓦と緑の芝生のコントラストが美しいキャンパスは神戸市民にも親しまれ、関西学院の催す行事(運動会、講演会、音楽会等)には多くの市民が集まった。日本人が経営する学校では、これほど行き届いたキャンパスの管理・運営は望めなかったであろうと言われている。現在、その跡地に兵庫県立美術館王子分館、神戸記念文学館、王子動物園がある。


 10 『神戸はメルヘンが生まれる街』


 おじさんは「売れない詩人だ」と父は云うが、神戸のことを書いたメルヘンチックな本を3冊も出している。あれは作品が評価されたのではなく、母親が残した遺産で作って出した本に過ぎんと、父の評価は辛い。星おじさんは東灘区本山町、六甲の中腹にある洋館に住んでいる。洋館と言っても北野にあるコロニアル様式のような瀟洒なモノではない。ドイツ式の本格建築でちょっとしたお城であったという。戦災で焼かれ、荒れ果てていたのを、おじさんが母屋を復元して住んでいる。昔の面影はないのだとおじさんは言う。


 だれも気が付かないが、おじさんにはドイツ人の血が流れている。この家を作ったのがお父さんでドイツ人だった。彼はドイツ商社の駐在社員で、西日本の支配人の立場にあった。日本の海軍相手に船や武器を商っていたが、戦争が始まる前、海軍の高官を巻き込んだ事件で日本に居られなくなったということで、このお屋敷で発砲事件があったとも噂されている。

 昔を知る地元の人達は、きっと良くないことが起きると言っている。曰くつきの洋館に一人で住むのは大変で、少しいいお給金で女中を募集しても、誰も応募なんかしてこない。仕方なしに週1回だけ、近所の老夫婦に頼み込んで掃除に来てもらっている。週1回では部屋は掃除が行き届かず埃っぽい。それに比べて、台所はピカピカに綺麗だ。食すところに埃は天敵ということらしい。おじさんの料理の先生はお父さんで、料理の基礎は動きだと教えられたという。おじさんの厨房での仕事ぶりを見ていたらその事が理解できた。


 ガラリ付きの窓を開け放ち見える六甲山上の星も、地上にキラメク金平糖のようなカラフルな街の灯も、星に見えて、神戸で一番、星が綺麗に見える所なのかもしれない。おじさんの出した3冊の本の2冊にこんな物語がある。

 題は、『星を作る船・星降る山』である。アメリカに負けて悔しい若い船員が、8月15日の夜、紙の星条旗の小旗をマストからマストに繋いで、火をつけて燃やした。その時の星が天空高く舞い上がり六甲の山に振りそそいだという変わった物語だ。あとの1冊は『神戸坂物語』といい、その中の一節が良太は好きだ。「坂の街」という題で、


《わたしたちの街では、道を歩くということは、坂を登ること、坂を下ることを意味します。異人さんの名前がついた坂があるのは神戸ぐらいです。E・H・ハンター*邸はこの坂の登り詰めた所にありました。英国生まれの彼はこよなく日本を愛し、日本人の妻を貰い、日本に帰化しました。彼を愛した神戸の人たちはこの坂に彼の名前をつけました。彼の趣味はハンティングで熊打ちの名手でありました。『ハンター坂』出来すぎた名前ではありませんか。

 神戸では油断していると、坂を転がり落ちてしまいます。坂を下って海まで転げ落ちた例は山ほど、あります。オランダ人の赤ちゃんを載せた乳母車が港まで転がってインド人の赤ちゃんになった話。

 自転車のブレーキが効かなくなって、メリケン波止場を突っ切ってアメリカ行きの汽船に乗った少年の話し。この話には後があって、帰って来た青年がアップルパイの店を出したところ「こんなおいしいお菓子をたべたことがない」と評判になったという。嘘だと思うなら行ってみなさい、今でもあるはずだから。間違ってはいけませんよ、メリケン波止場をまっすぐ山に、道を4つ横切った右側の角、確か戦争中もありました。

 赤いローラースケート靴を履いた赤毛の少女は、南京町に紛れ込んで、行方不明になった悲しい話し。売られて香港にいるとも、南京町に帰ってきて、〈小さな豚まん〉の名物の店をやっているとも説は定かでありません。小さな豚まんの塩味はあの子の涙だと言う人もありました。

 さて、行こうか、もどろか、どちらへ曲ろか。神戸は坂の街なのです》


 神戸は坂の街で、じっさいこんな物語がありそうに思えてしまう。

阪急の岡本で降りた。甲南大学のキャヤンパスを横切って、坂を上れば、裏の小高い山の中腹に星おじさんの館は見えるはずだ。さて今夜はどんな手料理が出てくるか、良太のお腹の虫が先程から音を立てている。


注釈と資料

E・H・ハンター:( 1843年~1917年)は、イギリス人実業家で造船業を中心に産業育成を通じて日本の近代化に尽力した。ハンター商会の造船部門は、その後受け継がれて、後に日立造船と名前を変え日本の大企業のひとつになった。ハンターは大阪の薬問屋の娘、平野愛子と結婚し15人もの子供をなした。氏は大変な日本贔屓で、子供達にも日本国籍を取らせ、その育成は椅子を使わせず、着物の着用という日本スタイルであったという。北野にあった自邸は現在王子動物園内にある。その自宅までの坂を〈ハンター坂〉と神戸の人々は呼んだ。外国人の名前がついた坂は珍しい。74歳でその生涯を閉じ、氏が愛した神戸背山の再度山修法ヶ原外人墓地で永遠の眠りについている。


12  『三ノ宮駅裏二宮町―竹野義行』


 国鉄の三ノ宮駅からすぐと聞いていたのに、いくら駅裏とはいえ、寂しいところだった。ものの5分と行かないところに島崎広敏の勤めるニットアパレル〈エンパイア〉はあった。建物は2階建ての古い建物だったが、表は出荷用のパッキンケースが山高く積まれ、活気があった。昨年新入りの二人を使って荷出しを指揮しているのは広敏であった。


 広敏が応接に通してくれ、応接室と云ってもパッキンケースが積まれ、在庫室同然であった。社長夫妻は外出中ということで、直属の上司になる木戸部長が挨拶に応じてくれた。木戸部長は思ったより若い人で意外だった。

「島崎、あとは俺がやっておくから、今日は引けて、竹野君の荷物を手伝ってやれ」と広敏に命じた。

 義行は木戸部長に土産物を渡し、広敏とともにアパートに向かった。アパートは会社から歩いて5分、二宮町というとこで、会社の借り上げで家賃を見てくれるのは何よりだった。水道、ガス、電気全てオッケーであった。一人でこの手続きをしなくてよいだけでも助かった。広敏は道を隔てたアパートの1階にいる。義行のアパートは古いが2階で、6疊の部屋は南向きで日当たりも良く気持ちがよかった。玄関口を兼ねて流しの付いた台所2疊ほどと、トイレがついていた。


 広敏に手伝って貰ったせいか、着いていた荷物は思いの外早く片付いた。義行は土産がわりですと、そごう百貨店で買ってきた洋酒のケースを差し出した。

それで就職祝いをやろうということになった。

「あのですね、先輩訊いてもええですか?」

「何やねん。藪から棒に」

「三ノ宮駅のこんなに近いのに、なんや寂しい町ですなぁー。向こう側は百貨店があると云うのに」

「全国、何ぼいい場所でも4つとも栄えることはまずないらしい。何処かに死角が出来る。三宮の4つの角は面白いでぇ、百聞は一見にしかず、明日見せたる。それより早よー食べよぅ、肉が煮えてるでぇ」

「ええ匂いですなぁー!」

「たまらんわ。久しぶりの匂いや、カンパ~イ!」

「カンパ~イ!」

男二人の夜はまだ長い。食い、かつ語る。若者の特権である。


13  『阪急六甲駅裏―佳祐』


 皆は待ってくれている人があったが、平田佳祐を待ってくれている人はいなかった。就職の面接で来たとき、その時同時に下宿を見つけておいた。不動産屋の紹介やそんなものでなかった。神戸と云ったら六甲山が浮かんできて、六甲駅で降りてホームから見たら、「下宿2食付き1万円」の下げ札を見つけたのだ。駅に近いと言ったらこんな近いことはない、即決した。

 六甲の駅前のロータリーからは色んな方面行きのバスが出ている。六甲山頂行きも出ている。休みの日には六甲山に登ってみたいと佳祐は思った。淡路には登るような高い山はなかった。それもここを決めた理由である。40代の未亡人と、小学校高学年の女の子と二人暮らしである。主人を交通事故で亡くした未亡人は、昼間は六甲駅前にある食料品店でパートをしていると云う。下宿人はもう一人いるらしい。

 

 土産の鯛の味噌漬けを手渡した。飛びっきりの上物である。活作りして食べれば最高だが、淡路からではそうはいかない。味噌漬けにするのが一番保存も効いて美味いのだと、佳祐の父は云った。駅前の食料品店に寄って、家を開けて貰った。未亡人は又、店に戻らねばならない。気ぜわしげに「大きに、気を遣わして」と云って、土産を冷蔵庫に無造作に放り込んだ。

 夕食には、もう一人の下宿人はいなかった。無愛想な未亡人と、少し陰気な小学校の娘との3人の食事であった。おかずはと見れば、二人には鯛の切り身はあったが、佳祐の皿にはなかった。メンチカツと、添えられたポテトサラダと味噌汁だけであった。別に持参した土産物を食べたいとは思わなかったが、会話もなく侘しい食事であった。

 小学校の娘が、「お母さん、このお魚美味しいね」と云って、佳祐の方を見てニィーと笑ってくれたのが、歓迎の挨拶らしい。出社は4月1日でよい。早速、佳祐は明日六甲山に登って見ようと思った。下宿に一人いたってつまらない。


 野々村健太は大学の入寮は4月1日であったので、それまで御影の伯父の家に世話になることになっていた。こうして、洲本を船で出てきた3月25日はそれぞれに過ぎたのであった。


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