1章 淡路の玉ネギ


1  『淡路島はびわ湖が陥没して出来た?』


 琵琶湖が陥没して出来たときに、隆起して出来たのが淡路島だと、島崎広敏は幼い頃、祖父からそんなことを聞かされたことがある。学校に行くようになって、地図帳を貰って真っ先に見たのが、近畿地方で、滋賀県にあるこの湖と、自分が住んでいる淡路島の形状であった。

 なるほど、ひょうたんをした形は、淡路島を切り取って裏返しに張り付ければ、そっくりそのまま埋まるだろうと思った。事の信憑は“まゆつば”ものだろうが、上手いことを言ったものだと感心したのを憶えている。では、洲本は琵琶湖のどの辺になるのか、引っ込み具合からして湖西の高島というところだろうかと思った。その町が親戚みたいに思えてきたのも不思議だった。

 祖父、孫市は淡路島の名前の由来を畿内より「阿波にゆく路の国」と、教えた。こちらの方は本当であるように思われた。小学校の地理の時間、古代、淡路島は『万葉集』で御食国(みけつくに)と詠まれ、天皇の食膳の料を貢納する国とされていたと習った。

「じゃー、そんときの天皇陛下は玉葱が好物だったんじゃ」と誰かが言って、クラス中が大笑いになったことがあった。当時、淡路島は玉葱畑*だらけであった。


 祖父、孫市は腕のいい漁師であった。父の弘義(ひろよし)も漁師として孫市と一緒に海に出ていたが、孫市が風邪で寝込んだ時、一人で海に出て帰らぬ人となった。母、梅子23才、広敏2才の時である。広敏は写真でしか父の顔は知らない。

 孫市は「俺らが、アホな風邪など引きくさって、大事な一人息子を亡くしちまった」と暫くは落ち込んでいたが、「そんも、してられん。広敏を一人前にせんと息子に叱られるけん」と云って、弘義の代わりに、母梅子を船に乗せた。広敏は孫市に育てられたようなものである。梅子は小柄でよく働き、舅によく尽くした。口さがない連中は、「弘義さんが生きていたら妬けることじゃろぅー」と噂をした。


 孫市も梅子を可愛がった。神戸に行った時、元町で買ってきたというショールに梅子が小躍りして喜んでいた。父親がいなくても孫市が父親代わりみたいなもので、広敏は別段淋しくも思わなかったし、豊かではなかったが貧しいとも感じなかった。

 そんな中で、孫市が「ほれ、広敏」と言って神戸に行ったとき、買ってきてくれたのが皮のグローブであった。皆が布製のグローブしか持っていなかった時代、広敏の自慢品であった。町内の連中と野球チームを作り、町内対抗に夢中になり、中学校、高校と野球部であった。高校は地元の洲本実業高校の商業科を選んだ。

 洲本実業は大正4年、洲本の町立商業学校として設立され、後に兵庫県立になった。そんな経緯から、洲本市民からは愛される存在であった。愛称は洲実(すじつ)と云われ、全島を校区にしているが、洲本では猫の子に当たるぐらい出身者は多い。普通科をもつ洲本高校(愛称、すこう)と広い淡路島に高校はこの2校だけであった。分校があったが、バスの発達で順次廃止されて、全島からバス通学や島電*でやってくるようになった。


注釈と資料

淡路島の玉葱:玉葱は現在食卓には欠かせないものであるが、玉葱の日本に入った歴史は意外に浅く、明治初期からで、入手経路は2つありとされる。ひとつは北海道からで、あの有名なクラーク博士の札幌農学校説。もうひとつは、神戸の外国人居留地に住むアメリカ人から手に入れた泉州の農業人が、栽培をはじめたという説である。泉州産のほうは、のちに大阪・神戸に次々に開店した西洋料理店を安定した得意先に拓き、地場産業として拡大の一途をたどり、明治末期には輸出をするまでになった。泉州産を導入した淡路島は昭和39年収穫面積は3千ヘクタールに到達し、日本一位の生産額を誇る特産地として、確固たる基盤を築き上げ、現在、淡路島の玉葱が歌に歌われるほど親しまれている。


島電:淡路交通は、もともと鉄道会社(淡路鉄道株式会社)として、大正11年に鉄道を開通させた。その後、昭和9年に淡路自動車(株)を買収し、淡鉄バスとして、洲本、三原方面の自動車輸送を始めた。洲本を起点として鉄道営業を開始した淡路鉄道は、1966年(昭和41年)9月にその役目を路線バスに引き継ぐまで、全国でも珍しい島の電車として永年にわたり幹線輸送に、また観光開発に重要な役割を果たしてきた。


2  『洲本実業は宇山にあり海が見えた』


 島崎広敏は母校の野球部のグランドにいた。昭和38年の今年からこの宇山の広大な地に、学校は町中の汐見町から移って来たのである。ここからは洲本市内が見下ろせ、校舎からは海が望めた。全て鉄筋コンクリートの新築校舎が緑の中に白く映えている。登校時、生徒たちはなだらかとは云え、10分近い坂を毎日登ってこなければならない。毎日となると結構きつい。

 グランドでは洲本高校との試合が行われている。宇山移転を祝しての記念試合である。洲本高校は島で一番の伝統校で文武両道をうたい、進学校でありながら野球も強く、昭和28年には春の選抜で甲子園にも出場し、見事優勝している。洲本実業高校は県下予選でいいところまで行くのだが、甲子園出場はいまだ果たせていない。両校の対決は甲子園出場関係なしに、地元市民が関心を寄せる人気試合である。別名、洲本の早慶戦と言われている。


 宇山から市街地が見下ろせるが、洲本の町を知るには、川を隔てた南に見える洲本城がある三熊山に登れば、町を一望におさめることができる。はるか北西にそびえる淡路富士・先山が雄姿を見せる。その前を東流する洲本川と、西南からから流れてきた千草川と合流するあたりに、寺町の大屋根が立ち並んでいる。

 目を東に転じると、晴天の時には対岸大阪や和歌山が見える。海岸線に沿って岩屋へ通じる国道28号線が北へのび、手前には洲本港が見え、神戸や大阪に行く船が発着している。その南に大浜海岸の砂浜と松林がつづく。

 

 家並みは碁盤の目にそって並び、城下町のたたずまいを見せている。城下町の道幅はみな狭いが、広い通りが一本、町の真ん中を南北に走っている。この通りは堀端筋と呼ばれ、外町と内町を区切っている。内町、外町は城下時代からの旧町で、内町は堀端筋の東側、海までをさす。1966年(昭和41年)の住居表示の実施までは、城下町ゆかりの漁師町、汐見町、船場町、大工町、馬場町、細工町、紺屋町、下屋敷などの町名が使われていた。

 当時、洲本市は人口5万を数え、淡路島唯一の市であった。福良との間には電車も走り、市内には神戸地裁、家裁、検察の支部もおかれ、県の法務局の支局や、出先機関もおかれ、淡路島の中心をなし、島民は何かと洲本に足を運んだ。


3  『淡路の早慶戦』


 島崎広敏は神戸のニットアパレルに勤めていて、5月の連休を利用して島に帰ってきた。卒業以来である。実校の野球メンバーの内、3年生は一緒にプレイもして、名前は覚えている。投げているのは、池野良太、1年からエースとして活躍している。サードは竹野義行、彼も1年からのレギュラー組みである。ベンチにいる、平田佳祐(けいすけ)は万年補欠で3年になった今も試合には出られていないようだ。あとは2年生、1年生で、広敏が卒業してからの入部であるから、名前も顔も知らない。

 洲校のエースは野々村健太で、彼も1年から投げている。広敏も何回か対戦しているが、コントロールが抜群で、頭脳的ピッチングをする。速い球だろうと思っていたら、ゆるいカーブを投げられ、カーブを狙っていたら、ど真ん中に直球を投げられて、何回も悔しい思いをしたものだった。

 一方、池野良太は剛球ではないが、切れ味のあるスピードボールを得意としているのだが、突如、コントロールを乱し四球を連発して崩れることがある。選手の家族や町の人達、両校の生徒達と、応援団が試合の推移を、時には声を出し、手を叩いたりしながらのんびりと見ている。実際の早慶戦のような熱気とはいかない。


 広敏は皆から少し離れて、レフト寄りから眺めていた。タバコを1本取り出して深く吸った。煙を吐き出しながら、広敏が3年生の時の試合を思い出していた。夏の大会、この洲本高校にも勝ち、兵庫県の決勝大会まで出て、あと一歩で県代表と云うところまで行った。奇跡が起ころうとしていた。1年生ながら池野良太の活躍でここまで勝ち進んできたのだ。3回戦ぐらいまで進めればよしと、考えていたのが、意外や決勝まで来てしまった。

 県大会の決勝は当時、甲子園で行われていた。広敏は3番でサードを守っていた。あまり身長は高くはないが、パンチのある打撃で、僅かしか取れないチームの点数に貢献していた。その、僅かな点数を守り通してきたのが池野良太であった。竹野義行はこの時ライトを守っていた。その決勝戦1回の表、ツーアウトから、良太が突如コントロールを乱し、四球の連発で満塁になってしまった。相手の6番バッターの打った球はサードゴロ、広敏の前に跳んできた。「しめた!」と思ってァーストに投げた。

 ボールは一塁手のファーストミットのはるか上を無情にも飛んで行った。塁上のランナーは全て帰り、この回3点が入り、試合結果は3対1で負けた。甲子園出場の奇跡は起きなかった。全て自分の責任の様に思われ、広敏が20歳まで生きてきた中で最も苦い思い出となった。


 以降、広敏は野球に限らず、何事にも「絶対安全なんかはないものだ」と心に刻むことにした。宇山のグランドで行われている試合は、竹野義行のホームランもあって、2対0で実校が勝った。良太の速球は冴えたし、野々村健太の頭脳的なピッチングも相変わらずだった。試合が終わって、「先輩」と野球部員達が広敏の所に挨拶に寄ってきた。

 竹野が「島崎先輩です」と部員に紹介した。一年生部員だろう、今日の試合にも出ていなかった。まだ、どこかあどけなさも残る、「あのー甲子園で暴投した人かぁー」と言った。「こらぁー、そんなことゆうたらあかん」と声が飛んだ。一同爆笑、広敏も苦笑するしかなかった。

 

 応援団の高島花子が持ってきていたクーラーボックスを開けて、皆にコーラやジュースを配った。高島花子はアメリカではこのように応援していると、今でいうチアーガールスタイルで応援団を作り、団員は短いスカートから健康な脚を見せている。学校も渋い顔であるが、本人は気にもしていない。試合そっちのけで、この応援を楽しみにしている町の人は多い。

 花子は応援団長であるとともに、女子連の番を張っている。ミス洲実と云われている花子のファンは、相手側の洲校の生徒の中にも多い。

「俺の暴投の話し誰がしたんや。竹野か?」

「先輩、云わんでも、洲本の人やったら誰でも知っとります」と、竹野が平然と答えた。みなはもう一度爆笑した。


「先輩、神戸はどうです。仕事はどうですか」と良太が訊いた。

「忙しい。連休、休み貰うのがやっとやった」

「先輩、会社の話あとで聞かして下さい」竹野は広敏の会社に興味があるようだ。

「アパレルは面白いでぇー」

 広敏は答えながら、皆の元気そうな顔を見た。竹野は一回り大きくなっていたし、ピッチャーの良太はハンサムな顔に精悍さを備えていた。広敏の母、梅子が一度学校に来たとき、『青い山脈』の池部良に似ている、と云ったことがある。平田佳祐は相変わらずのチビ助であった。高島花子はもはや高校生とはいえない。ミス洲本実業は美貌の上にセクシーさを備えていた。マネージャーのショートカットが良く似合う深見エミは、まだ中学生らしいあどけなさをどこか残していた。


 広敏は深見エミが野球部に志願してきた時のことを思い出した。

「入部云うても、女は入れんのよ」

「そんなこと、誰が決めたんですかぁ」

「俺にきかれてもなぁー、高野連と違うんか。ともかく女は甲子園に出れんのよ」

「甲子園には出れんでも、練習試合やったら、ええのんと違います」と食い下がってきた。

「野球できんのか?」

「チョット、試してもらえます」

 仕方なしに、部員に云ってテストしてみた。守備はなるほど合格であったが、いかんせん打撃は非力であった。訊くと、中学校に入るまでは町内チームのセカンドを守り、良太なんかと一緒だったという。中学校ではソフトボール部に所属していたという。

「せやったら、ソフトボール部に入ったらええやないか」と勧めたが、どうしても硬式野球がしたいと云う。食い下がるエミに負けて、マネージャー兼、練習補助員として入部申し込みを認めた経緯があった。そんなエミに、父親がいない家庭環境が似ていたこともあって、広敏は好意を持ったこともあったが、エミの入部動機を知って、好意は後輩としての好意に止め置いた。


4  『二人はエースとマネージャー』


 竹野が広敏を誘い、それに花子がくっつく形で、3人で出かけた。平田佳祐は広敏の話を聞きたかったが、どのみち、3人はお酒が入るだろうと思って、「先輩、又…」と言って一人別に帰って行った。グランドに残されたのは、良太とエミの二人であった。

「先輩、スーツなんか着て別人みたいやな。完全に社会人や」と良太が云い、

「せやね、ウチ最初見たとき誰かと思った」とエミは答えたが、話は後がつづかない。

 

 良太とエミは町内が一緒で、良太の家は洲本でも一番賑やかな外通町で大きな洋装店をやっていた。エミの家はその裏通りにあって、エミの母は良太の店の寸法直しを引き受けて生計を成り立たせていた。出来上がった商品をエミは届けにも行ったし、急ぎの物は良太が届けにも来た。二人は幼馴染みであって、物心ついた時から一緒に遊んだ仲だったし、町内野球にもエミも、エミの弟の義晴も一緒に入って、野球を楽しんだ。

 良太があまりエミと口を利かなくなったのは、中学校に通うようになってからである。良太は学校の成績も良く、洲本高校に通うものとエミは思っていたが、家業を継ぐためか洲本実業の商業科を選んだ。エミは一緒の高校に行けることを喜んだ。そして、高校でも部活を一緒にしたくて、マネージャーを志願したのであるが、良太のそんなことは知らない素振りが淋しかった。


 皆が去ったグランドで、二人はコーラの空瓶を手に持って、所在なげであった。夏の大会が始まる。夏が去れば、野球部は退部し卒業後の進路を具体化しなければならない。良太は父の勧めで、神戸の婦人服店に修行を兼ねて勤めに行くことが予定されている。内心、野々村健太が大学に行くように、大学に行って、野球を続けたい思いもあった。でも、多分父親は許さないだろうし、逆らってまで云う覚悟もなかった。良太はコーラの空き瓶の最後の一滴を飲んで、ビンを道具入れのバッグにしまった。

 エミは、母、敏江のミシンの仕事ぶりや、配達に行った良太の店に飾られている服を見て、洋服を作る仕事に興味があった。神戸のような都会に行って、洋裁学校に入って勉強して、デザイナーになれたらどんなにいいだろうと思った。しかし、家庭の事情を考えると、地元の銀行でも勤めて、母親を助けるのが筋だと思う。弟も洲本高校に入ったばかりだし、自分のことだけを考えていてはいけないと思っていた。こんな悩みを良太に打ち明けられたらどんなに楽だろうと思って、コーラの空瓶を眺めていたのである。

「良太君は卒業したらどうするん?」

「家の後を継がんといかんから、神戸の婦人服店に勤めるように言われているんや。せやけど、先に考えんといかんのは、夏の大会のこっちゃ。ちゃいまっか、マネージャーはん」と良太は茶化した。

「そうでんな、エースはん」とエミは答え、二人は腰を浮かした。


5  『淡路は人形浄瑠璃が盛ん』


 エミの母、敏江は良太の店の寸法直し以外にも、ミシン仕事があれば、近在の仕事も引き受け、一日中ミシンを踏んでいた。おのずから、夕飯支度や弟の世話はエミの仕事となった。父親、賢三は人形浄瑠璃の操りの名人で、桶屋の仕事を脇にしてそれに熱中していたが、あるとき、旅回りの一座が来て、そこの一座の女と出来て、淡路を出ていったなりであった。エミ、5才、弟義晴、3才の時であった。

 

 厳島神社の前で遊んでいたとき、エミは、賢三が見知らぬ綺麗な着物を着た女の人と連れ立って、堀端通りを歩いて、港の方に行くのをチラリと見た。それが、父を見た最後であった。エミは父親の顔はよく憶えていたが、弟、義晴は知らない。 大浜海岸に海水浴に父親に連れられてよく行ったが、義晴は記憶がないと云う。エミはそんな弟を可哀想に思って、幼い頃は記憶にある父の話をよくしてやった。しかし、大きくなるにつれ、弟もせがまなくなり、話さなくなってエミの記憶からも賢三は遠い人となった。

 良太の父、鹿蔵が一時、人形浄瑠璃に凝った時期があって、賢三とも親しかった。「人形を繰らせたら賢三さんは淡路でも3本の指に入ったろうよ」と、良太によく話した。そんなことで、良太の母、郁恵とエミの母、敏江は親しく、何かと良太の家はエミの家のことを気にかけていた。良太には中学2年生になる妹、秋子がおり、エミは一時、秋子を妹のように可愛がり、一緒に遊んだ時期があった。

 

「巡礼に御報謝」、「可愛らしい娘の子、定めて連れ衆は親御達、国はいづく」と尋ねられ、「ア~イ、国は阿波の徳島でござります~」「ア~イ、父様の名は十郎兵衛、母様はお弓と申します」。言わずと知れた傾城阿波の鳴門、巡礼姿の娘お鶴に母お弓が親子の名乗りができないで別れる、『巡礼唄の段』の名場面である。

 江戸時代に入って、淡路島は蜂須賀家、徳島藩の知行地になった。淡路で盛んだった人形浄瑠璃が藩主の保護もあって、阿波の農民たちが習得していったという。大阪の文楽と違うところは、農村舞台や小屋掛けによる屋外公演がほとんどであったため、文楽と比べて一回りも二回りも大きな光沢のある塗りの人形を使い、観客にアピールするよう前方に突き出し、大きな振りで演じるところである。かように淡路は人形浄瑠璃が盛んなところで、江戸時代には40座もあり、農閑期には島外まで巡業したという。テレビや映画が普及するまで、島民達の大きな娯楽の一部であった。


 淡路を任されたのが、城代家老の稲田家一族であった。最初、由良に城を構えたが、城下町ごと洲本に移ったのが洲本の城下の始まりである。淡路は徳島藩蜂須賀家から稲田家による半ば独立した存在であった。幕末期、徳島本藩側は佐幕派に対し、稲田側では尊王派であり、両者の確執が悲劇的な庚午事変(こうごじへん、稲田事件*ともいわれる)を生む。

 この事件がきっかけになって、明治に入って淡路島は一時、徳島と兵庫に2分割される事態になったことがある。廃藩置県によって明治4年以降、兵庫県になった。もしこの事件がなければ、淡路は徳島県であったかも知れない。一つの島の帰属をめぐっても、それなりの物語があるのである。


注釈と資料

稲田騒動:船山馨の長編小説『お登勢』や、2005年公開の映画・吉永小百合主演の『北の零年』でも描かれている。 なお、洲本市立淡路文化資料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示され、事件当時の事を綴った稲田氏の家臣の手記などが展示されている



6 『良太は桶屋に弟子入り志望』


 良太はエミの父親、賢三の記憶は鮮明に残っている。

賢三の器用な桶作りが珍しく飽きないで、よく見にいったものである。箍(たが)に用いる竹を割る鉈(なた)を竹銑(たけせん)といい、側板を合わせてから細く割った竹を何重にもねじ込みながら巻いて締めていく、このときに細い金属の金箆(かなべら)を使う。さらに、締め木(しめぎ)と才槌(さいづち)で叩いて箍を締める。箍は上部と下部の2箇所にかけるが、下部の方は底板をはめた後に締める。平たい木板から曲線の円が出来、竹のタガで絞めて出来上がる様子が、賢三の手さばきの妙と相まって、幼い良太には手品を見ているようで、いくら見ても見飽きないのであった。

「坊主、そんなに珍しいか」

「僕は坊主じゃないもん」

「じゃ、なんや」

「池野良太ゆうねん」

「坊主は大きゅうなったら桶屋をやるか」

「うん、教えてくれはるか」

「ええ弟子入りがでけてええわ」と賢三は笑った。

 そして、用意していた駄菓子をくれる。エミは女の子なのか、桶作りには興味がないようで、玄関脇にあった仕事場を覗くことはほとんどなかった。たいてい、裏路地で近所の女の子らとままごとに余念がなかった。


 良太は八幡様の祭りに賢三に肩車して連れて行って貰ったのを憶えている。この時はエミも朝顔模様の浴衣を着せてもらって一緒だった。良太は気難しい父親より、くだけて親しみを感じさせる賢三が好きであった。賢三は良太の中では忘れられない、懐かしい人であった。賢三がいなくなって、淋しい思いをしたのは何よりエミの家族であったろうが、それ以外にあったとしたら、それは誰より良太であったろう。

 幼き日、父を失った少女を少年は思いやった。その思いはやがて好きに繋がる?5才の子供である。単純に〈強いモノが弱いモノ〉を守ってやるで、いいのではないだろうか。池野良太は男の子であった。小学校に入って野球をやりだして、エミの弟、義晴に古いグローブをやり、野球を教え、町内のチームに入れたのも、良太のそんな気持ちからである。いつも弟について見に来ていたエミが、メンバーが足りなくなったとき、無理やり入れたのが、エミが野球をやるきっかけであった。エミは弟を入れた良太との野球を、楽しいものと感じた。「あんな楽しい野球はなかった」が、エミの実感であった。


7  『宇山の坂で独り言』


 一人先に帰った平田佳祐は宇山の坂を下りながら帰り道、なにやらブツブツと独り言を云っていた。独り言は佳祐の癖であった。はたに友達がいても〈ブツブツ〉言って、「お前、何云うてんねん」とよく言われた。

「俺はいつも一人や。俺が帰ると言っても、良太も、エミも一緒に帰ろうとは云わなんだ。俺が先に帰りますと言っても、ええやないかと竹野も花子も引き止めなんだ。万年補欠の俺は、いつも孤独なんや。くそったれ・・」

 佳祐は洲本市内ではなかった。洲本から淡路交通の島電と言われている電車で鳴門海峡を望む終点、福良まで帰えらなければならなかった。福良で父親は漁師をやっていて、鯛の一本釣りの名人であった。昔は電車に乗って洲本まで母親は行商に来ていた。淡路島にも最近観光客も増えだし、新しく出来た料理旅館に活作りの天然鯛を卸すようになって、生活はグット楽になり、母親はその旅館の魚の捌きで調理場に勤めるようになった。佳祐は家庭の経済状態を通して、淡路島の変化に誰より気づいていた。


 船に乗るのもいい稼ぎになるのだったが、佳祐は父親のような体力もなかったし、船にも弱かった。小さいとき一度船に乗って懲りた。父親は何回か乗ったら慣れるとは言ったが、佳祐はあんな苦しい目をするのは金輪際ごめん被りたいと思った。

 神戸に行きたかった。神戸でどんな仕事につくかはまだ考えていなかったが、ともかく、卒業したら神戸に行くことだけは決めていた。佳祐の島外経験は一度、徳島市に父と行ったきりだ。皆が云う島外は神戸であったり、大阪であったりする。親戚のどこそこに行ってきたとか、親とどこそこに行ってきたとか、佳祐はそんなことでも皆の会話に入れなかった。

 それより、目下の課題は、レギュラーの二人ほどが怪我をしてくれないか、そうしたら、「夏の大会に試合に出れる」であった。まさか誰かを殴って怪我をさせる訳にもいかない。第一、佳祐に殴られて怪我するような奴は、部員には一人もいない。怪我するのは佳祐自身がオチである。


8  『花子の家はスナック』


「お母ぁ―さん、お客さん連れてきたでぇ」。花子の母親、藤子は、昼は喫茶店、夜はスナックをやっている。花子の父親は造り酒屋を洲本でやっているが、家にはいない。父親の名前は山田長兵衛、人は屋号で「山長」と呼ぶ。花子の母はこの山長のお妾さんであったが、正妻が亡くなってその後釜になった。正妻といっても、旧家で縁戚・親族の多い山長の家には入れず、入籍だけである。

 山長は背が高く、体格はがっしりとしていて、地元相撲の大関を張る。たまに、忘れた頃にやって来た。来たときに高校生にしては十二分な小遣いをくれるが、花子は余りこの義父には関心がない。よくしたもので向の方もそのようであった。花子は藤子が神戸でカフエの女給していたとき大学生と同棲していて出来た子であった。藤子もそれ以上のことを話さない。 

 2階から表に行くにはどうしても、店中を通らねばならない。花子とたいして歳の違わない若い子が夜はアルバイトでやってきている。酔客と笑いあっている母親を見るのは好きでなかった。卒業したら、長兵衛の妹、茂子が嫁いでいる三宮の婦人服店に働きに行くことが決まっている。中学校になって、一人で神戸に行けるようになってからは、学校の長期休はほとんどこの叔母の家に行っている。母親は何も言わない。叔母の店は三宮の一番賑やかなセンター街にあり、住居は北野町にあった。

 叔母は女の子がないせいか、妾の子とかの差別もなく花子を可愛がった。花子は神戸の街も、叔母も、叔母の店も好きであった。何より服が大好きで、将来、神戸で婦人服の店を持つのが花子の夢となった。


 母親は「おこしやす」と言ったきり、着替えを済ました花子に店をまかせ、2階に上がった。花子は「準備中」と書かれた札を表のドアーにかけて、そして、冷蔵庫からハムや適当なものをつまみとして、ビールを取り出し、カウンターに並べた。

「先輩の、ご帰還を祝して!」竹野が音頭を取って、「カンパ~イ!」となった。

竹野は敬愛する先輩広敏の「銀行落ちてガックリしてたけど、今はよかったと思っている。今、ファッションは黎明期にある。銀行業では独立できんやろぅ。これからはファッションと車の時代や!ハヨー、仕事覚えて独立せんと嘘や」と云う熱い語りに聞き惚れていた。特に「独立せんと嘘や」と云う言葉に打たれた。同時に、花子のセーターに着替えた胸元にも胸を打たれた。


 竹野義行の家は海岸通りで魚屋をやっている。最初こんなところで魚屋がはやるのか?と思われたが、折からのモータリゼーションの波で、車が増え出し、島外からもフェリーで来る客も多くなり、観光客や釣り客で繁盛した。大きな駐車場を持った店など当時なかった。「先見の明、これ商いの鉄則なり」父、幸太郎の哲学である。兄弟は長男の幸次郎、中学校2年生の菊子。母、朋子は幸太郎より2つ上の姉さん女房である。母も兄もゴム長、ゴムエプロンで店に立つ。店は長男が継ぐことになっている。

 父、幸太郎は「店はもっと大きくなるし、お前も手伝えばいいんや」と云っているが、兄、幸次郎の人使いの荒さには、義行はとってもついていけないと思っている。神戸か、大阪に出て別の道で一家をなしたいと思っていた。家は海岸通りから少し入った汐見町にあり、花子とは同じ町内になる。海岸通りから、真っ直ぐ西に向かって道がある。突き当たった通りが堀端通りで、良太も、エミも、花子も、義行も通った『洲本第二小学校』はこの通り中程に、八幡様と並んである。


9  『エミと花子は親友』


 淡路島は大阪湾に面した方を東浦といい、洲本市はそれになる。島の反対側、播磨灘に面した方を西浦という。温暖な瀬戸内海に面しているから、淡路島の冬は過ごしやすいと思われがちだが、これが意外と寒い。大阪湾に面した東浦は、それでも島を縦断している山脈に守られて比較的穏やかであるが、西浦は北西の季節風をまともに受けて底冷えのする日が一冬つづく。広敏が住む一宮町は西浦にあり、高校時代はバス通学であった。


 洲本高校のエース、野々村健太は洲本高校に道具を置きに帰る途中であった。洲本校は洲本川を挟んで宇山の対岸、街中に存在する。洲本高校からはいつも小高い洲本実業の白い校舎が見えている。

「良太のスピードボールは相変わらずだ。味方打線は全然打てなかった。何とか攻略法を考えておかないと、夏の大会予選で出会った時が大変だ。良太のチームも打線がもう少しよかったら、かなり上位に食い込め、神戸勢の強敵にも互角に戦えるのに」と思った。

 健太は神戸大学の経済学部を志望している。夏の大会が終われば、受験勉強の追い込みにかからねばならない。今日の試合でスコアブックをつけていた、深見エミのショートカットが浮かんだ。健太の父は兵庫県庁の役人で、出先機関に出張してきている。健太は中学校までは神戸に住んでいた。父は当分こちらでの勤務だから、合格すれば大学の寮に入ろうと考えている。そして、帰りがけに、高島花子からこっそりと手渡された紙切れをポケットから取り出し、目をやって、「困ったな・・」と思った。


 エミと花子は親しい。小学校も中学校も一緒だった。小学校の5年生のとき、エミが花子のクラスの男子生徒3人から、タチの悪いいじめを受けていたとき、花子が助けてくれたのが親しくなるきっかけだった。

 花子はともかく目立った。中学校になってからは、男子生徒で花子の名前を知らない者はなかった。中学2年の時、一度クラスが一緒になったことがある。花子と一緒のクラスは楽しかった。花子は、運動は抜群で、ソフトボール、バレーボール、リレー、マラソンと全てクラスの花形で、クラブ活動は体操部に属し、そのレオタード姿は、同性であるエミすらも憧れた。中学校3年でクラスが別になってしまったときは淋しい思いをした。3年では花子は良太と同じクラスになった。


 高校に進んでエミは花子と3年間同じクラスであった。エミは花子にはなんでも話せた。花子は、女友達は多かったが、エミのことは特別に考えてくれているようであった。花子は成績の方は出来不出来が科目によって極端であった。数学は出来るが、理科はダメ、国語は出来るが、英語が苦手。社会は全然興味がないという具合であった。

 エミはどれもが一生懸命頑張って、普通、真ん中がやっとであった。数学は試験前、花子によく助けてもらった。「ここ出るよ」はことごとく当たった。おかげで苦手なはずの数学だけが評価4であった。

 お弁当の時間が何より楽しかった。花子の周りは自然、人が集まる。女の子も男の子も。花子の大得意は先生の〈物真似〉であった。チョットした仕草を盗んで、少しオーバーに演じる。生活指導の駒形ヨシエ先生のマネは天下一品で、皆は拍手喝采、エミはお腹が捻じれて痛い経験を一杯した。 

 エミは花子に、洋裁学校に行く件を話してみた。

「絶対、そうしたら!エミは絵も上手いし。向いてると思うわ。一緒に神戸で遊べるしね」と賛成してくれた。

「経済的なことを心配している」と云ったら、

「なんか力になれへんかなぁー、アルバイトしながら行くとか」

「洋裁学校は課題も多くとってもそんな暇ないと云うことみたいやわ」

「そーか、夏休み神戸に行くから、叔母さんにも相談してみて、いい知恵考えて見る」と言ってくれているが、どんな知恵があるのか・・。


10  『花子はチアーガール』


 花子の応援団は野球部専属ではない。対抗試合となると授業に差支え無い限り、どのクラブの試合にも出ていく。チアーガールと称する、太腿露なあのスタイル集団を見ただけで、敵の戦意は浮ついたものとなり、味方に取っては勇気千人力となる。あの服装だって、アメリカの雑誌を持ち込んで来てエミの母、敏江に無理矢理頼み込んで何とか、らしきモノが出来上がったのであった。

 花子の言うことを何時も「はい、はい」と聞いていた女子連も、これには躊躇した。「これ着れんような子は、組から出て行って!」と、花子の一喝で応援団は何とか出来上がったが、学校との間にはひと悶着も、ふた悶着も起きた。


 猛烈に反対したのが、生活指導主任の駒方ヨシエ先生で、校長が許可するようなら、退職すると泣いて訴えた。校長はクラブ活動の停滞、特に運動部員の減少を気にしていた。校長は、野球部顧問の橋下先生が一定期間やらしてみて、評判が悪いようだったら解散させると、折衷案で駒方先生の説得にかからせた。橋下先生は妻帯者であるが、オールドミスの駒方先生は橋下先生に〈ほ〉の字である。校長も憎い手を使ったものである。

 応援団の行くところ、連戦連勝となって、黙認という公認を得たのであった。ただし、活動範囲は島内に限るとされた。もし、夏の大会で甲子園に出るようなことが起きたらどうするのだろう。マネージャーのエミには気になるところであった。


 花子がエミをいいと思っているところは、優しい気遣いは出来るが、その芯の強さであった。一旦こうと思った時の健気なさは、到底花子は叶わないと思っている。エミは身長も高くない、花子は髪をロングにしている。何かと対照的な二人であるが、お互いを認め合っている。エミに気になることがあるとすれば、良太が花子を見る目であった。


 池野良太は中学一年の時、夢を見た。夢から覚めたらパンツが濡れていた。夢を見た翌日から、何故かエミには以前のような口の利き方が出来なくなってしまった。そして、花子を見る目が変わった。そんな自分が嫌で疎ましかった。良太は野球の中に諸々の感情を封じ込めた。

 夏の大会、洲本実業高校は1回戦で簡単に敗退した。2死満塁9回裏、良太の出した四球押し出し、1対0のサヨナラ負けであった。一方、野々村健太の洲本高校は県大会の準々決勝にまで進む健闘を見せた。良太は大学に進んで野球を続ける夢はきれいに捨てた。

 野々村健太は神戸大学の受験勉強に集中した。花子が指定した場所には健太は現れなかった。花子は神戸の叔母にエミの事を話した。叔母は友達で神戸ドレメ洋装学院の理事長に特待生としての話をつけ、奨学金が支給されるように計らってくれた。友人関係とはいえ、何がしかの寄付金が物を言っているのは確かである。それを花子はエミに伝えた。


 他のメンバーにもさしたる事件もなく、卒業式を迎えたのである。事件らしいことと云えば、卒業式当日、厳しい生活指導振りで、生徒の仕返しを恐れていた駒方ヨシエ先生が、職員室でビクビクしていたが、そこに花子が挨拶に訪れ、椅子から滑り落ちたと云うぐらいであった。花子の駒方先生への挨拶は「よくぞ、応援団を黙認してくれた」と云うお礼であった。



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