春の草


 今日の足取りはいつもよりずっと重い。


 瓦版を食い入るように睨んでいる人込みを横目に朔は、ため息をついた。


 緑を背負い、笊を抱えて歩いていた。肺に入ってくる空気が灰色に濁っている気がする。わくわくとした気分はとうの昔に泥沼の下へと沈んでいた。


 なにか世界のありようが変わった。そんな気分で朔はせんと名乗った変人と別れたあとそのまま帰路へとついていた。


 早めの帰宅となり朝食をとった活気づく長屋へと足を向ける。そこは周囲の環境と呼吸を合わせ、見事にひとつの情景を作り上げている。


 皆、清々しい顔で何よりだ。

 

 表通りを曲がり井戸や芥溜ごみだめを横目にしがら歩く。長いどぶ板をたどるように歩き、見える棟割り長屋の一番奥が朔の住まいだ。


 すでに町人は活動しており一つ挨拶を向ければ三、四つは返ってくる。


 現実場馴れした人に会っていた朔は、ようやく平日を取り戻したような安心感があった。


 だが、どことなく人数が少ない気がした。


(もう皆、出稼ぎに出たのかな?)


 疑問を覚えて首を傾げてしまう。荷の重さを感じつつ朔は戸を目指した。


 早く茶を作る作業がしたかった。


 朝方にかき集めた茶葉や植物は微々たるもので、店を出すにはまだまだ足りない。それでも朝露の水気を拭いて摘んだ茶の葉を蒸したかった。この時の蒸しかげんが、お茶の味をきめる。気は抜けない。


 早く商品の在庫を作りたいと家の障子戸を開け、背負っていたナマケモノの緑を下ろした。


 笊を置いている間に茶茶が隙間からするりと家に入り込む。そして自身も家の敷居を跨ごうとしたところで呼び止められていた。鷹爪が帰宅した人を迎えるときの挨拶を向けていたが脇の間をすり抜けてしまったが、今さらである。


「ねえねえ、お朔ちゃんすごい話を聞いてよ」


 振り向けば、少し天を向いた小鼻の辺りにそばかすを散らした、短いお下げが可愛らしい少女が立っていた。上機嫌に息を弾ませて頬を赤らめている。


 長屋のお隣に住む町娘のなつめだ。


 達磨だるまのように肉付きのよい彼女はひときわ眩い笑顔を張りつけ朝の挨拶を向けてくる。


「なになに? その顔を見るととびっきりの良いことだよね?」


「そうなの。実は私お姫様になれるかもしれないの!」


 そう聞いた瞬間、朔は返事も忘れてぱちくりと瞬きをした。


 急にお隣の女の子がお姫様になると聞いても感動もなにもない。


 せめて傾城けいせいの美女が目の前にいたのならば共感ができただろうに、目の前にいるのは朔自身にも言えることだが、ありきたりな村娘。


 姫になると言われても話が見えてこない。


 朝餉あさげが美味しかったのか堂々と腹まで擦っている。たんと召し上がって来たのだろう。食いしん坊だ。体型にそれが現れている。日々を粛々と過ごすお姫様にはあるまじきことではなかろうか。


 色々な思いが朔の表情を歪ませようと波のように押し寄せる。必死に頬が波だたないように平生を保つのが大変だった。


「何があったの?」


「今朝、お役人さまからお達しが来たの。なんでも初代帝が何千代か末の孫に王位を渡したいって話になって血脈をたどったら私にたどり着いたんだって」


 夢しか見ていない話である。


 民を一身に背負うまつりごとや語学や教養を考えればやりたくはない官職だと朔は思わず口にしてしまいそうだ。だが、その言葉は憚られる。現実と空想から逃れるために目を反らした。


 すると棗が下から人の顔を覗きこんでくる。


「もちろん他にも候補はいるらしいけれども、私、頑張るから応援してね」


「う、うん」


「良かった! それじゃあ可愛い簪を見繕うの手伝って。帰りにお菓子ごちそうするからね」


 朔には理解できないが、お姫様は着飾るものらしい。その形から棗は入りたいようだ。そのようにはしゃぐ彼女は、ちゃりと音を鳴らし一文銭の入った巾着を広げて見せてきた。


 懐が潤っているようでなによりだ。


 だが、友の気持ちを折るほど野暮なまねはしたくない。彼女はものすごく未来を楽しみにし手を叩いている。見ている方も楽しくなるものだ。


 そしてお菓子の視察ができるのはありがたい。


 故に良い返事を返すと少女は花が咲くような満開の笑顔を見せてきた。


 そんな棗のこめかみから顎にかけて汗が流れ落ちている。


 興奮して流れたにしては少しおかしい。


「棗? 汗が流れるほどに熱いの?」


「お腹が、痛い……かも」


 意識した途端になにか調子が急変したのか棗の顔から血の気が引いて行く。急激な一転にお互い驚きを隠せない。


「顔色が悪いね。家まで歩ける? 無理なら鷹爪に運んでもらう?」


「大丈……」


 よほど苦しいのか声が消えて行く。皺が顔の中央に集まりより深く刻まれた。


 それでも無理に歩こうとするので、そっと棗に手を貸し数歩を促してみる。振動を与えないようにゆっくりと歩かせようとしたが、今はそれさえしんどいようだ。


 一歩を踏み出した途端だった。


 少女から冷や汗がどっと吹き出して呼吸が浅くなった。顔面蒼白のままふらふらと座り込む。腹痛から多量の冷や汗が出たようだった。


 少女の顔は嗚咽の前触れのように歪む。いや、それは本当に前触れだった。生唾をこみ上げさせ、その後低いえずき声が響く。


「大丈夫……じゃないよね」


「ご……ごめ。胃の中がかき回されるみたいに痛くて」


「気にしなくていいよ」


 自分に何ができるのか分からぬままに朔は棗の背を撫でていた。


 少し大きめの背中は時折は小さく波打ってる。そして彼女は涙目だ。今にも大粒の涙が目元に揺れている。口から激しく色々と飛び出した。とうとう上体を起こしていることができなくなり、朔にしがみついてくる。

  

「鷹爪! すぐに医療に詳しい人を読んできて」


「はい」


 異変に気づいていたのか、返事はすぐだった。


 足に草履をつかけた鷹爪が長屋から飛び出した。そのまま表通りへと駆ける。


 その合間に心配そうな顔をした御近所さんに、棗と同じような症状が起きた。


 吐いたら気分がすっきりする場合は心配ないのだが、激しい症状が続く。目眩にくわえてて頭痛を訴える者も出てきた。その症状が続く時点で自己判断はできない。


 分かることは一だけだ。


 これはただ事ではない。


(野次馬がいない……もしかして長屋のほとんどが棗みたいになっているの? だとするとこれは吐逆とぎゃく)


 はっとして朔は、様子を伺っている小型犬を見た。


「茶茶、家にある茄子の臭いがするお茶を持ってきて!」


 吐逆は食あたりで吐き戻すことだ。周りもとなると集団食中毒となる。


(そう考えると症状が曼荼羅華まんだらげを食べた時に似ている気が……)


 曼荼羅華は、毒にも薬にもなる。ときに異国では秘術の薬として使用される花だ。


 この国では、飢饉ききんに備えて田んぼのあぜ道に植えている。


 使い道が多く、なによりも鼠や土竜もぐら、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避けてくれるので虫除けになる優れた花だ。


 しかし、それは彼岸ごろに咲く花であり春には枯れる。


 今の時期手に入らない。


 長屋にいるのは十世帯。それが全部中毒なるなどどうして起こりえたのか。


 考えていると茶茶が必死に薬缶をくわえて持ってきた。やはり賢く器用な犬だ。茶のなかに湯呑みが中に沈んでいる。


 受けとった朔は茶碗に薬缶の中身を移し、青い顔をした棗に向けた。毒物を吐かせるためには嘔吐剤なり水なり飲ませなければならない。


「私の作った茄子のヘタ茶なの。飲めたら飲んで。無理でも食べた物を吐き出すのに役立てて」


 茄子のヘタ茶は、三から五個の茄子のヘタに水をいれ弱火で四半刻(約三十分)の半分の時間、煎じたものだ。半分に煮詰まった頃に火を止める。


 今日の朝茶にと朔が作り置きしておいたものである。


 腹痛、下痢、食中毒に効く。蕁麻疹じんましんがでているときに飲めばただちにおさまる。いいお茶だ。なお、できるだけ熱いうちに飲むのが良いのだが、贅沢は言っていられない。


 少しずつ棗の口に含ませる。


 すぐに口から出してくれればいい。体内の異物など早く無くなってしまえばいいのだから。


 しかし、薬膳茶をゆっくりと嚥下えんげさせようと棗の唇を湿らせるが、なかなか上手くはいかない。棗は歯を食い縛り、胃の辺りをかきむしっている。


 命を失うような手遅れになる前に何とかしたいが朔が焦っても仕方がない。


「私、お姫様なのに……お姫様なのに」


 困難な呼吸を繰り返し、棗は浮かされたように呟いていた。


「大丈夫だよ、お姫様だって人間だからね。それに人の痛みを知らないと政は難しいよ」


「私よりも、妾のほうが似合うかな? どう思われますか」


 会話が繋がらない。本当に他の者と比べて症状が酷い。幻覚でも見ているのか言動が変だ。


 激しい焦りを抑え込みながら、朔は相槌を打ちながら隙を見ては棗の口にお茶を流し込む。


 子どもは大人よりも体力がない。抵抗力もない。このままでは危険だ。


「朔さま。籠代を浮かせるために……いえ、早々たる事態と思い薬師をお担ぎしてお連れしました」


「鷹爪……」


 朔は情けない顔で生活を共にする青年を見上げていた。息を切らせた鷹爪の肩には初老の男。横にはその弟子なのか薬箱を背負った子どもがいる。


 ようやっと医の技術者と薬が届いたようだった。


 医者は一番症状の酷い、棗の診断を始める。弟子に水を指示していた。


 そんな彼に少女を預け朔は立ち上がっていた。まだ、肩の力を抜けない。原因を判明させたいのだ。


 それが的確な治療につながる。


「鷹爪、長屋の皆に似たような症状が現れているよね」


「はい。おそらくは吐逆、または水あたりかと」


「お水は私も朝飲んだけれども体に変調はないかな。……そこで吐逆と仮定して聞くね。長屋の皆が食べたものはなんだと思う?」


「皆が食べた物ですか……米とあつもの蕗の薹ふきのとうですかね。今朝、棒手振りの者が天ぷらにしたものを破格の値段で売りに来ましたので」


「蕗の薹……ね」


 蕗の薹は町のもの全てが好む春の草だ。それが持つ苦味成分が胃腸を整え、食欲を増進させ、新陳代謝をうながしてくれる。煎じて飲むとせき止めや痰切りの薬にもなることから、春に見かければ皆がこぞって食べる。


 町では新芽を食べると若返るといういわれがあり、特に蕗の薹は好まれている。若返りの妙薬とも言われるとぼだ。


 蕗の薹を食べるのはおかしなことではない。


 だが、朔は立ち止まっていた。効能を考えていると少しだけ、頭につっかえるものがある。


 ふと、朔は考えている鷹爪を見上げていた。


「鷹爪は大丈夫なの?」


「はい。朔さまがお帰りになるまで待とうと朝は何も口にしておりませんでしたので」


 それは何よりと小さく息を吐いた。絶対に確認したかった事項だが、話の腰が折れたのは大失態だ。


「食べてないと言うことは蕗の薹は家にあるよね?」


「はい」


 こうなれば家に突撃する思いで、件の蕗の薹を見るしかない。それを行うべく朔は我が家の土間へと滑り込んだ。


 件の植物は少し油の回り始めた天ぷらとなり、皿にのっている。


「たしかに蕗の薹の天ぷらだよね……」


 しかし、それは最後の一個。


 ナマケモノの緑がのんびりとほとんどの天ぷらを口にいれていた。


「緑、食べちゃ駄目! 倒れちゃうよ」


 最後の一個だけでも食べる数を減らしたい。大慌てで手を伸ばす。


 すると今度は茶茶に噛みつかれた。軽く足に歯形がつく。


 どうやら危険な物と判断されたらしい。


「茶茶、私は食べないから大丈夫だよ。少し中を確認したいだけなの。鷹爪、茶茶をしばらくお願い」


「承知いたしました」


 お願いすると、青年が小型犬を抱えあげていた。これでゆっくりと調べる事ができる。


 天ぷらの衣を剥がすと、まだ苦味があまりでない蕾の状態の新芽が顔を出した。


 それを揉みほぐすと黄色い花弁のようなものがわずかに見える。普通の蕗の薹ならば光沢がなく、黄色い花部分は中身まで緑色が普通だ。


 だが、手に持つ天ぷらは間違いなく黄色。


 朔は己が摘んできた蕗の薹とも見比べ、答えをだした。


「これは福寿草だね」


「福寿草……毒草ですね」


 朔も鷹爪も唸っていた。福寿草はよく新芽が蕗の薹と似ていることから誤食しやすい春の花だ。


 食べると嘔吐や呼吸困難や心臓麻痺などの症状が引き起こしてしまう。酷いものは症例に不安を伴う興奮が見られる。錯乱性の迷妄、幻覚があらわれ、頭痛、筋肉痛、脱力感などの症状が現れる。


 心筋の種々の部位で障害が起こり、その部位が刺激伝導路上で、下方に位置するほど危険なのものだ。


 間違いなく棗の症状である。


 命を落とす事例も多々あるので気が抜けない。


 ちなみに毒草ならば緑の方は大丈夫と、朔はわずかに安堵する。彼のなかには毒素を分解する酵素があり、長い時間をかけて消化し解毒できるようになっているため、毒性の影響を受けない。そこだけが唯一の救いだ。


 すぐに表にいる医者に福寿草の報告する。


 返事は弾かれるように返され的確な処置が開始された。


 朔たちもそれに混ざり、必死に長屋の者たちの世話に没頭した。




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