殿上人


 早春の季節風が肌を刺す今日日。


 蜂蜜色の木漏れ日を受けながら朔はナマケモノの緑を背負い、足下には小型犬の茶茶を従え、町中を歩いていた。


 朝は明け六ツに鳴る時の鐘を聞く前に起きた。その早起きのおかげで身じまいをすますころには明るくなり、その頃に厠へ行くふりをして外を歩いていた。


 これにて本日は家人の鷹爪を出し抜いた。


 いつも一緒にいるので希にある一人の時間は楽しいものだ。


 しかし、茶茶は出し抜けなかった。家の中にいるのを確認し、内緒だよと人さし指を口許に当てながら戸を閉めたのだが、なぜか路を歩いていると足にまとわりついてきたのだ。


 忍のような犬である。


 だが、不思議だと思いながらも護衛がいると思えば心強かった。


 それはさておき今日は早めに出たので昼間の時間を最大限に利用できるのだから無駄にはできない。

 古着屋や扇子屋の角を曲がって目当ての場所へ足を向けた。ちなみに扇の紙を売る行商人はなぜか色男と決まっているので一見の価値がある。時に目の保養として覗いてみるのもいいだろう。


 町には誰も見向きもしない庭がある。もとお公家さまの家なのだが、そこはお化けのような草の群生地だ。

 中には食べられる草も多数見受けられた。


(蕗の薹ふきのとうの天ぷらとか蕗味噌とか食べたいな)


 春陽の中に咲く蕗の薹を見つけた朔はお腹を押さえながら見ていた。頭の中に調理方法がめぐる。甘酢漬けや蕗味噌などにする場合は苦みが強いのでアク抜きをしたい。天ぷらはそのまま衣をつけて揚げる。どちらも捨てがたい。

 ちょっとほろ苦いのが早春の味を想像するだけだよだれが出てきそうになり、顔がにまにまとした。


 春の野遊びなどで食べられる嫁菜よめな土筆つくしまでもがあり魅力の塊に見えてくる。


 春そのものを楽しみ、食べたくなってきた。


 そろそろ目的を見失いそうだ。


 これはいかんと即座に持ってきた笊に欲望の蕗の薹や旬菜を乗せ、そそくさと目的地を急いだ。


「緑。もう少し待っていてね。そうしたら大好きな木に吊り下がれるからね」


 意外なほどに軽いナマケモノに声をかけた。長い爪のある手で頭を撫でるように叩かれる。


 何を示しているのかは分からない。


 だが、どうせならば良い方にとらえようと朔は笑みを浮かべた。


 露を打たれた野の草が、着物の裾に水を分けてくれる。それをくすぐったいと思いながら朔は草をかき分けた。奥へ奥へと踏み込む。


 そこは背の高い草が密集して生えている。かと思えば愛らしい花がほの青い花弁を開いているところもある。光の帯が差し込み、静かに揺れる緑の植物は金色の光を纏ってきらきらと輝いていた。


 お山の一部をここに埋めたかのように野生化した草花が生息する、お公家さまの庭である。


 たとえ無法地帯であっても勝手に入るのは、ちょいと町人としてはあるまじきことかもしれない。だが宝の山を前にした朔は止まらなかった。


 いわゆる不法進入である。


「今日はなにが見つかるかな?」


 馴れた手つきで打ち捨てられた家のそばにある木に緑をおろした。後は己の所用を実行するのみ。わくわくしながら朔は草に囲まれていた。植物が宝の山に見える。


「茶茶、甘い臭いのする野草を見つけたら教えてね」


 わかったと言わんばかりに茶茶は朔にすり寄ってきた。声が出せないからこその動作だが、猫のような甘えかたが可愛さをよぶ。大袈裟に頭を撫でてやった。


 今日は茶屋を始めるための準備に来た。


 抹茶も煎茶も庶民には高嶺の花。殿上人しか飲めないものだ。町人が入手するには難しい。


 なにせ茶葉の図録などはないので下民は姿も形も知らない。木を見ても見分けがつかないのだ。そして製造方法は貴族しか知り得ない上に、一級の茶葉が一種の社会的地位の象徴となっているところもあるので買い占めと製法の秘匿化が横行している。茶葉もてんでに高騰していた。製茶問屋は貴人のご用達がほとんどだ。


 故にこの国の茶屋は自家製の番茶を出すのが通例だ。見よう見まねで自分の畑のあぜや庭先などに植えている木から茶葉らしきものを摘み自分たちなりの方法でお茶を作るのが通例だ。味に保証はない。


 それでも舌に多少の自信がある朔はそれに挑む。


 この庭にも本格的な茶と同じ味になる茶の木はあるので、朔は嬉々として持ってきた笊に手摘みの茶葉を入れる。


 茶屋は薬缶やかんと茶碗だけの商売だ。至極簡単なのだが大変な裏仕事のためにこの町では誰もやりたがらない。


 茶葉について空白の智識のままに加工などを考えると家でもなかなか飲む気は起こらないだろう。白湯を飲むものが多い。町人は茶にかんする店を開業することを敬遠する。比較的に楽に取り組めるのに勿体ないことだ。


 しかし、見かければ重宝する休憩場となる。人々は娯楽を見つけたかのように一服するのだ。


 店として悪い条件にはならない。


 そして朔は大の茶好きでもある。


 自分が料理をするときは、芋など野菜の煮物に煮出したお茶を使う。それが出汁の一種のように味わいを深めるので、周りにもおすすめしたいほどだ。

 また、お茶の消臭効果も兼ね、魚料理の隠し味にお茶を使う。魚をお茶の浸出液に浸けてから下ごしらえする、煮魚にお茶を加えるなどもする。もう、口に入れる空気でさえも茶の香りにしたいほどだ。


 どんな粗悪な茶葉からでも最高品質の茶を淹れる自信もある。


 草木の薬効を調べるために自らの体を使い、何度も毒にあたっては薬草の力で甦ったりもした。


 こうして自ら発見した薬の効能によって多くの茶の味を知っている。確信もあった。


 いつか茶のぬか袋や匂い袋を作るのが今のところ野望でもある。合わせ貝の中に茶の匂いを閉じ込めて売り出せたらいいなと密に計画を練っているところだ。


 そんな人種なのだ、満足する茶を提供できるだろう。面倒も苦ではない。


 では目指す立場茶屋を始めるのにあたって、必須なのはなにか。軽く考え出てきた問題は茶と茶菓子。


 だが、普通のものを集めるだけでは朔が納得できない。どこか自分の欲求を満たせない。


 そこで考えたのが特殊な茶葉を練り込んだ和菓子を作ろうというものだった。朔は自然からの頂き物を趣にした、個性的な商売をしたいのである。


(いつか工芸茶をしたいかな。時間ができたら作ってみようかな。今はまだ咲いてないけれども野苺の緑茶とか可愛いんだよね)


 工芸茶は乾燥した茶葉を一葉一葉集めて紐で縛り作るものだ。茶碗の中に入れお湯を注ぐと茶葉が花のように広がるお茶である。目に愉しい。飲んで美味しい。湯のなかで花咲くお茶は朔のおすすめだ。


 しかし、それは一つ一つを手で作る。大変な技術を要するので大量生産に向かないのが難点がある。


 ならばちょっと高値でおみやげ物として売るのが良いかも知れない。そう模索してゆくのがまた朔には楽しかった。


(こんど問屋に甘草かんぞうを依頼してみようかな。この庭に植えたら自生しそうだし、茶菓子に練り込んだら甘味が強いから美味しくなりそう。薬臭いが強いから困るかな?)


 まだ見ぬ未来を想像するだけでも顔が笑いだして仕方がない。心を踊らせながら朔は山吹色の花を見下ろしていた。


「やった、鼓草つづみぐさ。ちょうど時期だと思っていたんだよね」


 飛び付くように朔は鼓草こと蒲公英たんぽぽを覗きこむ。

 蒲公英は若い葉を水にさらして生食にできる。また、花は天ぷらにして食べられる。葉を煎じて飲むと利尿剤として効く。

 根はお茶になる。


 飲んでおいしいお茶は、食べてもおいしい立派な食材だ。


 良い花だと朔の手は犬のように土を掘り返す。それを見た茶茶も同じく長すぎる根を掘り返していた。華やいだ未来を想像していても、現在は泥だらけ。現実はこんなものだ。


「茶茶、花や根に傷を着けたら駄目だからね」


『わんっ』と鳴きたいのか口を開閉していた。その健気さに頭を撫でてやりたくなるが今は土だらけの手なので諦める。


 黙々と蒲公英の根を掘り返した。


 その手は土の中から割れ銭を見つけたことで止められる。


「金子を見ると、その後の運気がなぜか悪い方へと運ばれちゃうのよね。茶茶、悪いけれどもびた銭をどこかへ移動してくれるかな?」


 隣で一緒に穴を掘っていた犬が朔に鼻先を押し付けた。割銭をくわえて移動する。


「さて、気を取り直して蒲公英を掘り出そうかな」


 また穴堀に精をだした。


 目の前に集中しすぎるのは朔の悪い癖のようだ。自分の上に割れ銭が呼んできたのであろう不幸の影が落とされたが気づくことができなかった。


 時々、茶茶が上の様子を伺っていても朔の目には蒲公英しか映らなかった。


 もし、何事もなければ問題はおのずと退いたかもしれない。だが、そうならないのが人生だ。


「予の庭で穴堀、楽しいか?」


 深いのにすがしく甘い男性の声が急須を傾け下りてきた茶の湯のように朔の頭にかけられた。


「予の庭なんて、またまたご冗談を。ここは……」


 顔を上げる朔は口をあんぐりと開いた。ありえない者を目の当たりにして目を剥く。


 流れるような輪郭と切れ長の双眸があった。大切に保存された髪。汚れていない皮膚に包まれた美しい外貌。


 よりにもよってやんごとなき身の上の人物がいたのだ。


 それが一目でわかるほどに高貴なお人だった。


 軽口など不遜な行為。もう窮地としか言えない。なぜか小さな自分を覗きこんでいる。あまりにも眩しい笑顔により目が潰れそうだ。そして、何よりも知らない者の顔とふれ合いそうなほどに近い。怖い。


 ここまで歩いてきたのならば女人が百や千ほど尻尾のように連なってきそうな殿方だった。


 しかし彼は一人きり。不思議な人である。


 息をのむほど美しいその人は、明らかに上級階級の気品があった。このままでは気分一つで朔の首が飛ばされる。対応はそつなくこなすべきだ。


 それが分かっていても、恐ろしくなりたじろいた。逃げようにも屈んでいる自分になにができるだろうか。


 いや、その前に平頭すべきと思い立ち大慌てで膝を地につけようとした。


 しかし、檻を作るかのように相手の流したままの長い髪の毛が落ち、朔を取り囲んでくる。怖くて固まる。荘厳さを感じさせるほどに見事な髪は黒と藍。目が引き寄せられるほどに艶やかで流水のようによく動き美しい。心を奪われたのも確か。


 そして、朔は思いがけず殿上人の髪に触れてしまった。絹のように滑らかな肌ざわりは飽きない質感だ。しかしその行為は斬首されてもおかしくはない重罪行為だ。


 身分違いだと、考えるだけで心の臓が萎縮する。


 逃げたい。


 しかし、審判は聞かねばならない。


 いたたまれないままに相手の言葉を待った。早くしないと朔の鼓動は爆発する。そう心配になりそうなほどに時間が長く感じられた。


 だが、目の前のご仁はそんなことにはいっさい気を回さず言葉を紡いでくる。


「小さい」


「ひ、卑賤の小妹には勿体なきお言葉にございます」


 心の中には色々な反論の言葉が浮かんだ。しかし、言わない。言えない。失礼のないように言葉を選びながら述べることが精一杯。だらだらと冷や汗が流れてゆく。


 中腰だった相手は腰を伸ばし見下ろしてくる。


「畏まった言葉はいらない」


 吐息が風に漂うだけでも絶叫したくなる。


 鑑賞に値する美しい顔なので見るのは楽しい。だが、身分違いの町娘に寄ってこられるとなると、迷惑の押し売りに他ならない。


「分をわきまえた言動をさせていただきたく存じます」


「予は朔の家族だ。気遣いはいらない」


「失礼を承知の上で、恐れながらご意見申し上げます。小妹の家族に御前様のような高貴な家族はおりませぬ」


 なぜ名を知っているのかを問いただしたい。しかし、それができないのが身分の差だ。


 こんな家族を朔は知らない。知っていたら出会った瞬間に声ぐらいはかけていた。それを声に出して訴えたいものである。


 しかし、丁寧に言ったところで否定は相手を不快にさせる言葉。天上の者には語れない。従って朔は必死に言葉を飲みこみ耐えていた。


「では、朔の飼っていた孔雀と名乗る」


 どうやら店をやっていた時のお客だったようだと憶測を立てた。しかし、客ならばなおさら壁を作りたい。


「名乗られましても……」


 また否定すると、お貴族さまはなんともいえない表情で長いまつげのがゆらし朔をじっと見てくる。不躾な視線が不快だが相手が高貴な方であるがために文句も言えない。こちらとしては地面に視線を落とすことしかできなかった。


「いえ、このびょう都……いえ、町人はみんな家族でございます」


 手のひらを返してみた。すると目の前の貴族はなんとも言えない表情で微笑んだ。神々しいのに禍々しくそれでいて美しい。


「予もそう思う」


 家族認定が嬉しいが、不満が残る。そんな感情が特別な表情を作らせているのかもしれない。


「では末の娘に物を贈るとしよう。儀礼用や親しい人への贈り物との意味があるらしい」


 断る間もなく頭に何かが挿さった。ぶちぶちと髪が反発しているのがよくわかる。痛いのに痛いとも言えなかった。


 ただ、常識のない人だとは思った。


 これでも朔は作業するにあたって邪魔との理由から髪の毛を半分、簪で結い上げていたのだが、よくわからない物を挿されて落ちてきた。目の前の貴族は気障な男にもなれず、女の髪をほどいてしまったようだ。


 今日ほど何もせずに後ろに垂らしただけの 垂髪すべしがみや、後ろで束ねているだけの 元結もっといや掛け垂髪にしなかったことを後悔した日はない。


 ちなみにこの国にはかぶと烏帽子えぼしもないので男性も頭が蒸れる心配をしなくてもよい。故に頭頂の髪を剃る丁髷ちょんまけは架空の髪形だ。


 そんなことばかりが思考のなかでうろうろと走る。現実逃避が激しくなりはじめた。もう適当に過ごせばいいのだと腹が据わる。


 乱れた頭に手をやり、何でも見せてみろとばかりに目をやった。その瞳が大きく見開かれる。


(なんで、これを頭に挿したの?)


 また、反発の言葉が頭の中にひしめいてくる。


「あの扇子は頭に挿すものでは……いえ、このような大層な物を頂きましてもお返しができません」


「愛情を返してくれ。それで十分だ」


 十分ではない。歪んだ愛情しか向けられない。自己満足は他所でやってほしいものだ。


「名がないと不便か……予はせん。覚えておいてほしい」


 何も聞いていないのに名乗られても困る。舌の上に音を乗せるつもりはない。二度と会う予定もない。


 なぜ名乗るのか気になっても反発しないほうが良いとそろそろ学習できてきた。黙って頷く。


「何やら町の人間は体内にある命の水が濁っている。気をつけたほうがいい」


「お心遣い痛み入ります」


 こうして肯定できる言葉には返事を返してゆく。今はこの殿上人、朔にとっては変人に早くお引き取り願おうと口は常に同意や肯定を紡ぐことにした。首は振りすぎで疲れるほどに縦に動かす。


 新舗開業のために弾んでいた気持ちは極寒の地へ下り立ったかのように冷えきっている。


 隣で蒲公英を次々と掘り返す茶茶を横目に、朔は究極の鉄面皮を収得しつつあった。

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