第13話 俵屋孝一殺人事件 ー1ー
パンドラにはシェアハウスには珍しいくらい広めのバスルームが備え付けられています。その手前の脱衣所に正宗さんはいました。
「おっ。二人も帰っておったのか。どうじゃった? 初めての高校生は? 弁当は美味しかったか?」
「いや、それどころじゃねえだろ。穀潰しニートは……おおアレか」
「鍵がかかっとるようなのじゃ」
二人とも声は落ち着いて、もはや隣人がのっぴきならない状況下にあるとは思えない平素の調子です。しかしこの状況は寛大を信条とする僕でさえ叫んで、卒倒しそうな惨状かもしれません。正宗さんの呼びかけの意味がすんなり理解できる状況でした。
端的に言うと、人が死んでるかもしれません。
吉永さんがアレと呼んだ声の先、すりガラスの奥の洗い場には、肌色のモザイクが横たわり、付近にはおびただしい赤い何かが飛び散っています。
「早く助けなきゃ!」、駆け出そうとした僕を正宗さんが制します。
「まあ落ち着けよだか。こういう時は沈着たるが最良の一手、急いては事を仕損じるぞ」
そうは言っても本当に切羽詰まった時、心は頭と別々に急いたり走ったりするもので、どうにも心臓がバクバクして息が苦しくなるのです。それを見据えたのか、吉永さんが後ろから抱きしめてくれました。
「よだか、ぜったい大丈夫だ。奴は死なねぇ体なんだ。だからロビーに戻ってアタシと紅茶でも飲もうぜ、なっ?」
僕は黙ってその暖かい吉永さんの厚意に甘える事にしました。吉永さんは「カレンも戻るか?」と勧めたのですが、なぜか嬉しそうなカレンちゃんは大見得を張ってこう告げます。
「フッフッフ……ついにこの名探偵、月夜野かれんの頭脳が必要とされる瞬間が来てしまったようですね!」
「かれん、おぬしまさか……」
「ワトソン助手(たぶん正宗さん)! 一緒にこの忌まわしい事件の犯人を探し出しましょう!」
こうして、俵屋孝一(勝手に)殺人事件の発端は幕を開けたのでした。
「あ、ところで板長さん! 人間の女性に興味はありますか?」
「なんじゃ急に??」
緊急事態の現場でそれを聞けるカレンちゃんは、やっぱり本物のヴァンパイアかもしれません。
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さて、僕はロビーで吉永さんの淹れた紅茶を飲みながら、しばしの間待つ事になりました。
「吉永さん、さっき『俵屋さんが死なない体』って言ってましたよね」
「ああ、その通りだよ。あいつ不死身なんだ。だから安心しな」
エイリアン、ロボット、ガンマンに付喪神にニート……どうもニートだけキャラが弱い気がしてたのですが、そんな裏設定があったのですか。にわかには信じがたいですが。
「前にもこんな事があってよ。そん時はアタシたちもオタオタしてあわや警察に自はk……救急車呼ぼうかってとこまで行ったんだが、あいつしばらくしたらケロッと生き返りやがったんだ」
なぜすぐに救急車を呼ばなかったのか、それを聞くのは野暮というものです。『自白』って言いかけたのも空耳です、『事なかれ主義』万歳。僕は黙って優しい味の、ちょっと砂糖多めのレモンティーを啜りました。
「あん時は博士がいたからすぐに解決しちまったけど……今回はカレンの推理を楽しみながらあの歩くセクハラが蘇るのを気長に、安心して待とうぜ」
言葉の端々で元気付けて、吉永さんは僕に気を使ってくれます。優しいお姉さんです。ところで『博士』って誰でしょう? それを聞こうと思った矢先に二人が戻ってきました。
カレンちゃんはどこから持ってきたのか、チェックの帽子を目深に被っています。
「ワトソン君、報告を」
「おぉ……ええと、ガイシャは俵屋孝一、二十七歳無職。午後一時過ぎにバスルームの洗い場で倒れているのを発見。第一発見者は俺。頭部への打撲痕と骨折が見られ、直接の死因はそれと思われる。それから、殴打は前頭部と後頭部に二カ所、犯人の念入りな殺意が見てとれる」
ああ、限りなく殺人事件に近い事案です。ぎくしゃくした新米刑事さん役も堂に入ってます。
「また、鍵の掛かった浴室のドア付近からはいくつかの指紋が見られたが、最後は俵屋氏本人が開けたとみられ、中は密室であった事が可能性が高い」
しかも密室殺人です。さっき正宗さんが小麦粉を取りに来たのは指紋を取るためだったんですね。
「現場やガイシャの爪に争った形跡は無く、ガイシャは全裸で俯せの状態で倒れており、血の散乱状況から致命傷を受けた後に動き回ったと思われる。右手には血まみれのフェイスタオルを握っていた。理由は不明」
えぐいです。淡々と読み上げる正宗さんはさすが日本刀です。吉永さんが事務的な、手慣れた感じで聞きます。
「で、凶器は?」
「見つかっておらん……いません」
正宗さんはカレンちゃんにセリフ回しを矯正されているんでしょうか? 当のカレンちゃんはずっと黙って、腕を組んで目を閉じています。
「死亡時刻は?」
「まだ温かいため死亡間もないと思われるが……なにせガイシャが俵屋氏なため詳しい時刻は不明」
突如、カレンちゃんは目をカッと見開いて叫びました。
「これは密室殺人です! パンドラのみなさんをここに呼んでください!」
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そんでもってロビーに集まったのは6人、僕、カレンちゃん、吉永さん、正宗さん、島村さん、古屋敷さん……つまりこの6人の中に犯人がいる……とは限らないのです。
「いいえよだかさん! どれだけ犯人が細工しようとも、カレンの鼻だけはごまかせません! 浴室および近隣から他の匂いはいっさいしませんでした! これはつまりッ!」
「つまりパンドラ内部に犯人がいる、そう言いたいんだね? 嬢ちゃん」
今しがた惨状を確認した島村さんも落ち着いた様子でした。ちなみに島村さんは火のついていない葉巻を手にしています。カレンちゃんは島村さんに借りたパイプを振り回しました。
「ああ! その台詞カレンが言いたかったのにぃー!」
島村さんと一緒にバスルームを見て来た古屋敷さんも声のトーンはいつも通り。
「この事件を解くカギは凶器かもしれませんね。密室と消えた凶器……ありがちな推理物なら『氷』がベターですが」
死なないとは言え、俵屋さんが辛辣な境遇に陥ったこの状況下で、誰一人混乱や絶叫するどころか、僕以外眉一つ動かさ無いのはどういう事でしょうか?
「ノンノン! 湯船にお湯は張っていませんでした。俵屋氏はかなり重く大きな鈍器でやられています! 死後一、二時間で消える様な氷のサイズではありません!」
次に吉永さんが提案します……僕の推理が正しければ、全員ちょっと楽しそうです。
「じゃあ天井の照明か換気扇の鉄格子だ。照明は分厚いガラスだし、十分だろ。もしくはどこかへ持ってちまったんだ」
「カレンもそう考えました。そうなると次は犯人がどうやってバルルームを逃げ出したのか、という疑問が湧いてきます。それに照明のガラスも鉄格子もピカピカでした……犯人は凶器を隠す必要があったのか……」
正宗さんはみんなに緑茶を配ってくれています。
「そもそもなんで密室にする必要があるんじゃ? 古屋敷殿なら小説好きだし、何か分からんのか?」
「はっきり言って、近年の密室殺人事件物なんてのは、もはや様式美に近いものがありまして……実践的な話なら、自殺に見せたり、現場の発見を遅らせるというのが犯人の心理じゃないでしょうか? 一手間かけて『そこで殺された様に見せかける』なんてのも乙ですが」
「あのニートに限って自殺の線はねぇな」
「発見を遅らせたいなら、まず血を拭いて死体を洗い場なんかじゃやなく浴槽に入れるはずじゃ。俵屋はすりガラスでも見やすい位置に血まみれで倒れておったぞ」
シャーロック・月夜野がその意味深な目でロビーを見渡して、両手を後ろに組んで部屋を歩き回ります。めっちゃノリノリです。
「そう、つまり! 犯人は俵屋氏を別の場所で殺害した後に浴室へと運び、遺棄したのです!」
「確かに、血が垂れないように俵屋さんの頭にフェイスタオルを巻いて浴室まで運んだとなれば、話はわかりやすいですが……犯人はどうやって密室を抜け出したのでしょうか?」
古屋敷さんの素朴な疑問で名探偵は沈黙して俯いてしまいます。ふいに僕を見つめる大きな目、島村さんの瞳の無い眼と行き合ってしまいました。
「君なら何か分かるんじゃないか? 一之瀬君?」
「それ、どっちが言ってました?」
「ご両親ともその話になると舞い上がってたよ。家族ってのはいいもんじゃねえか」
ああ……どっちか知らないけど、親と言うのはどうしてこうもベラベラと息子の自慢をしてしまうのでしょうか。実家に帰ったら説教してやりたいけど、親の子煩悩というのは説教しようが何しようが改善されないという点において、最もありがた迷惑なのです。
「よだかさん? もしかしてよだかさんもやっぱり超人類的な能力を持ってるんですか? サイコメトラーですか!?」
「いや、そんな能力は無いけど」
古屋敷さんがワイヤーの腕をウネウネさせて詰め寄ってきます。
「私も島村さんからちょっとだけ聞いていますよ。その慧眼、仏眼、千里眼をちょっと披露してください!」
先に言い訳をさせてもらいますが、そんな大それたものじゃありません。昔ちょっとした盗難事件の真犯人がカラスだった事を突き止めただけです。
それがどこまで誇張されて吹聴されたのか知りませんが、僕は当たり前の事項を整理して、事件を明確にしてみました。
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