第3話 ニートの達人

 パンドラのドアは全部屋違う色に色分けされていて、僕の部屋は黄色でした。そして今叩いている201号室は緑色のドアです。


 コンコンコン……。


「すみません。今日204号室に越してきた一之瀬と言いますが」


 ガサガサ、向こうで微かな音がする。確かに何かいます。次は何が出てくるのでしょうか?


「俵屋さんはいらっしゃいますか?」


 ガチャリ、応答も無く急にドアが開きました。

 目の前に立っていたのは長身でボサボサした黒髪の日本人でした。『人間がいた』というアホらしいくらい当たり前の事実に少し感動を覚えます。その人は背の低い僕を見下ろしたまま一言も喋りません。無口なのでしょうか?


「あの、ですね。今日から204号室でお世話になる一之……」


 その先をセリフは思わず飲み込んでしまいました。見下す様な目つきのその人は、急に僕の胸部をTシャツの上から鷲掴みにして、揉みしだいたのです。

 叫び声をあげてもいい局面で、僕は落ち着いていました。僕は落ち着いていたのに、俵屋さんと思しき男性は少し不満そうな顔で、第一声を発します。


「まな板……僕っ娘。ちょっと薄いけど、まあまあ悪くないね。及第点ってとこかな」


 『海よりも深く、山よりも高く、サハラ砂漠よりも広い心を持て』僕は祖父にそう教わりました。この程度で波立つ精神の持ち主じゃありません。とりあえず気持ち悪いのでその手を叩き落とします。


「初対面の人の胸にいきなり触るなんて、下手をしなくても法に訴えられますよ?」

「あれ? キャーって騒がないね。もしかしてそういうのオッケーな子?」


 イラっとするニートだな。


「男ですからね。いちいちそんな事で騒ぎませんよ」


 その時の俵屋さん(名前は聞いてないけどたぶん本人)の表情七変化は見物でした。一瞬ぼーっとして、不思議そうに首を傾げて、次に苦悶を浮かべてから、最後に青ざめました。そして怒りを抑え込む様に声を震わせます。


「俺を……世の中のありとあらゆる仕事に嫌われているかわいそうなこの俺を、まだ奈落に堕としれようってのか? そんなの認ないぞ」

「勝手に触っておいて失礼な人ですね。204号室に今日からお世話になるの一之瀬よだかです」

「いや待てよ……かわいいなら、別に男でも。というか騒がないし訴えられないし、むしろ好都合?」


 大丈夫かなこの人。前科何犯でしょうか?


「あの、俵屋さんですよね?」

「おぅ! 俺がパンドラで最もハンサムな男、俵屋孝一たわらやこういちだ。今後ともよろしくね」


 確かに背が高く、整った顔立ちの俵屋さんは、一歩前に出て手を差し出してくれました。ぼさぼさの髪と着古した寝間着姿、それに後ろにちらりと見える生活感ありすぎる部屋を綺麗にすれば、印象はもっとよくなるかもしれませんが、正直かなりだらしなさそうです。


「よろしくお願いします」

「それでどう? 今暇だったりしない? ちょっと部屋でお茶してかない?」

「そんな事してる間にハローワークに行って雪を降らせた方がいいんじゃないですか?」


 僕が笑顔で尋ねると、俵屋さんも笑顔を作って、空元気の返答をくれます。


「あれ? なんでそんな不都合な真実を君が知ってるのかな……今日誰かいた……ヒィッ!?」


 横を見た俵屋さんが上ずった悲鳴で顔を白くさせました。表情の豊かな人です。つられてその方向を見ると広間の方の物陰から古屋敷さんの頭と赤い眼光が覗いていました。家政婦は見た、的な感じです。


「古屋敷さん、どっから見てたんすか?」


 古屋敷さんが物陰から姿を現して、僕もかなりギョッとしました。古屋敷さんは細いコードで繋がれた丸い頭だけ宙に浮かせて二階に伸ばしていたのです。


「一部始終」


 たった一言それだけ残して、人型アンドロイドの頭部は笑いながらフェードアウトしました。

 古屋敷さんは俵屋さんがセクハラをした瞬間から目撃していた事になります。僕は別に気にしていないけど、顔面蒼白の俵屋さんを見ていると、何か罰があるのかと気の毒になってしまいます。


「少年、俺ちょっと用事できたから、じゃ……じゃあこれで、またな!」


 足早にドアをしめてバタバタと物音を立て始めた。ま、一応の挨拶は済ませたのだからこれでいいでしょう。

 僕はいったん部屋に戻る事にしました。今いる201と僕の部屋204は反対側なので、帰り道は必然ロビーの吹き抜けを通る事になります。


「ちょっとちょっと」


 二階まで伸びた古屋敷さんの頭部に呼び止められます。ろくろ首みたいで、見ようによっては便利そうです。


「いいんですか? あんなされるがままで。あの人の事だから、そのうち歯止めが効かなくなって、いずれ刑務所のお世話になっちゃうかもしれませんよ」

「減るものじゃないし僕は別に構いませんが……たしかに同居人が警察のご厄介になるのは忍びないですね」

「お給金に三度のご飯が付くんですから、皮肉な事に彼の今の暮らしよりも豊かかもしれませんがね、ハッハッハッ!」


 だんだん黒くなっていくジョークに思わず苦笑い。


「彼はまだ小物だからいいようなものの、もしあれが吉永さんだったらと思うと……私いまからハラハラしてしまいます。襲われないように注意してくださいね」


 吉永さん……また新しい名前が出てきました。しかも要注意人物らしいです。聞く限り、すでにずいぶん個性的な方の様で、空恐ろしいです。


「その吉永さんというのは……」聴こうとしたその先を古屋敷さんは遮ります。

「まあまあそれは遠からず分かる事ですから、楽しみにとっておいてはいかがでしょうか?」


 なんだろう。この人の柔和な話し方の中に何故か逆らい難い凄みを感じます。


「そうですね」


 僕は相槌を打って部屋に戻り、ダンボールを一つ一つ開封しました。中身は服が多い。もちろんダンディーを目指す僕に相応しい男物。この革ジャンなんかすごく素敵です。古着屋で一目惚れした買ったのに、家でこんなの着てたら何言われるか、恐ろしくて眠らせていた物です……そうだ。今日はこれを着て近所の散策に行こう!

 そう思い、ドタバタ衣服をしまおうとすると、奇妙な事に気が付きました。六段あるタンスに下側二段に洋服が詰まっているのです。


「可愛い」


 ありとあらゆるレディースファションを着こなして(強要されて)きた僕にそう言わせしめるほどのセンスとユーティリティー溢れるコレクションが詰まっています。何気ないシャツからアオザイみたいな民族衣装まで、どれも洗練された外連味の無いものばかり、しかもなぜか僕のサイズにぴったり。


「昔住んでいた先輩の忘れ物……いや、贈り物かな?」


 書き置きこそなかったけれど、綺麗に畳んで敷き詰められた服たちが物語っています。窓を除けばもう空はオレンジ色、とりあえずタンスはそのままに急いで支度を済ませて玄関まで行くと、管理人さんに出くわしました。


「おう一之瀬君、伊達な格好して、どっかお出かけかい?」

「せっかく新しい街に来たのでちょっと散歩に行ってきます!」

「若いねぇ。あんまり遅くなるなよ」


 すれ違い様に聞いてみた。


「あの、管理人さん……」指先が少し平たい、カエルみたいな小さな手のひらが言葉を遮ります。

「ここじゃ誰もが島村さんって呼んでる。どっかのメゾンの未亡人みたいに呼ばれちゃあ歯がゆくてしょうがねぇぜ」

「じゃあ島村さん。僕の前に204に住んでた人ってどんな人でしたか? 洋服が少し置いてあったんですが」

「だとしたらそいつはあんたの物だ。使うも捨てるもあんたの自由。先代については個人情報だから……あとは分かるな?」

「分かりました。ありがとうございます」


 夕暮れに歩き出す瞬間、島村さんの無表情な顔が一瞬笑った気がしました。そして後ろ姿で何か呟いた気もしたんだけれど、よく聞こえませんでした。

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