第3話 繋いだその手

 ムジカが病院に運び込まれた。

 旧校舎の廊下で倒れている所を発見されたらしい。


 じっとりと重く灼け付く罪悪感と焦燥感を抱えたまま、苦役のような永い授業を終えたぼくは、噂好きの女子から聞きだした病院へ自転車を走らせた。


 受付でクラスの保健委員だとか、先生に連絡事項を伝えるよう頼まれたとか、もっともらしい事を説明すると、すんなり病室を教えてもらえた。

 過労と栄養失調が原因のようで、いまは点滴を受けているという。

 大事じゃないようで、少しだけ安心した。


 女の子の寝顔を覗くような真似は失礼じゃないだろうかとか、見舞いの品を何も持って来ていないとか、それでも謝っておくべきだろうとか。埒もなく考えを巡らせながら病室に辿り着く。


 ベットに横たえられ、彼女は眠っていた。

 小枝のように細い腕に刺さった点滴針が痛々しい。目の下の青黒い隈が、疲労の深さを物語っている。


 それでも、寝顔は穏やかで。少しだけ開かれた窓から吹き込むそよ風が、細い栗色の前髪を揺らす。


 彼女に触れたい気持ちを抑え、病室を去ろうと踵を返したぼくの手を、点滴をしたままの彼女の手が繋ぎとめた。


 道に迷った、幼子のような。

 彼女の瞳に揺らめく物に、さっきまでの焦りや不安がぶり返しそうになるが、全てを飲み込んでぼくは微笑んで見せた。


 がんばったね。

 もう少しなのかい。

 でも、今はゆっくり休んだほうが良い。


 言葉には出さず、穏やかに彼女の手を叩きながら。

 再びムジカが眠るまでの短い時間を、ぼくは病室で過ごした。


 翌日、ずいぶん迷った挙句、りんごと比べ剥かなくて良いという理由で買ったいちごを手に、ムジカの病室へ急いだぼくは、ちょうど病室から出る所だった一人の女性と鉢合わせした。

 訝しげな顔をされたのでクラスメートだと説明する――正確には違うのだが、話をあえて難しくする事も無い――と、


「あなたなの? ムジカと一緒になって壁に落書きしたり、音楽室に寝泊りしてるのは!」


 誰から何が伝えられていたのか。苛立たしげな反応が返された。

 誤解もあるが、間違っていない部分もある。ぼくが説明しかねていると、女性は腰に手を当て、聞こえよがしに溜め息を吐いて見せた。


「どれだけ程度の低い学校なのかしら。夏までの子守りも任せられないなんて……」


 ムジカの面影がないので気付かなかったが、どうやら彼女の母親らしい。夫の演奏旅行中、わざわざ日本くんだりに呼び出された事がご不満のようだが、倒れた娘の心配どころか、託児所代わりに留学させたかのような物言いで、赤の他人であるぼくに対して、厄介払いだった事を隠す気も無いらしい。

 正直憤りを感じたが、続く一言に頭が真っ白になった。


「仕方ない。連れ帰るしかなさそうね」


 結局ぼくはひとことも言い返せず、彼女にも会えぬまま病院を後にした。


 家に帰り、味もわからない夕食を済ませ、何も考えられないままベッドに突っ伏していたぼくの耳元で、携帯の着信音が鳴り響いた。

 一瞬、ムジカからかと淡い期待が頭を掠めたが、彼女に番号を教えた事はないし、ぼくも彼女のものを知らない。


「――淡音、ムジカ・ツァンと一緒じゃないか?」


「いえ……寝てました。何かあったんですか?」


 担任教師からの質問の意図を理解しかね、間の抜けた答えを返したぼくに、先生は見かけたら連絡するようにと伝え、慌しく通話を終えた。


 ムジカが病院を抜け出したらしい。


 そう理解したぼくは、直ぐに家を飛び出し、旧校舎の第2音楽室へ向かった。

 隠した訳じゃない。聞かれなかっただけだ。それに、先生達もすぐに思い当たるはず。


 もう彼女と会えなくなるかもしれない。その前に、もう一度話がしたい。

 ただそれだけを想い、ぼくは夜の道を急いだ。

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