第4話 召喚の夜

 彼女に教えて貰った抜け道を通り、学校の敷地内に侵入する。見上げると、旧校舎の2階の一室に灯がともっていた。隠れるつもりもないらしい。


 息を切らせて第2音楽室に飛び込むと、いつか見たのと同じ様に、病院のパジャマを着たムジカが装置の前に座り込んでいた。


「はるとくん、みつけたよ。間にあったんだ!」


 甘い声でハミングしていた彼女が、喜声と共に振り返る。


 痛々しいほどやつれた姿。初めて出会ったときから、さらに一回り小さくなったような。それなのに、瞳だけが奇妙なほど熱を帯びているのに、言いようの無い不安を覚えた。


「みんな心配してるよ。さあ、帰ろう」


 曲が完成したのか、インスピレーションを得られたのか。どちらにせよ、身体を休めるのが先決で、血の繋がっていないらしい母親の説得はその後だ。成果を示せば、ムジカを煙たがっているらしい義母は、 日本での滞在を割とあっさり認めてくれるんじゃないか。


 微笑みながら差し出した右手は、微笑みながら小首をかしげた彼女に拒絶される。


「帰らないよ。これからはじまるんだから」


 ちりんと。どこかで小さな鈴が鳴り響いた。


 奇妙な装置は重い作動音を響かせながら動き続けている。

 プラグで装置に繋いだヘッドフォンを耳に掛けたムジカは、再びハミングを奏で始めた。


「lala――alhara――lalalah――ah――arh――llahara」


 彼女の甘い声に合わせ、ディナーベルのような、トーンチャイムのような音が重なり始める。


「lah――lahraha――llahr――ah――rarala――rhalla」


 装置からじゃない。スピーカーが見当たらない。重なり交じり合うチャイムの音が、次第に大きくなる。


 装置の上に青緑色のガラスが浮かんでいる。……いや、ガラスじゃない。液体のように表面が波打っている。チャイムの音で啼いていたそれの表面に、内側から湧き出るように黄色い眼球が浮かぶ。ヒトのものではないそれは落ち着きなく視線をさ迷わせていたが、ぼくを見付けるとしばし凝視した。


「――ひ……」


「rah――」


 彼女が声を掛けると眼球は視線を外した。代わりに不揃いな歯の並ぶ半開きの口や、昆虫の足にも、植物の茎にも見えるものを浮かべては引っ込めながら、徐々にその体積を増してゆく。


「ようこそアラーラ。しらない世界のはらぺこの神様」


 彼女の茫洋とした瞳には別のものが見えているのか。恐れも見せずムジカは異形の存在に語りかける。


「なにかかたちが見えるかもだけど、これの本質は音のあつまりなの。いつもお腹をすかせてて、なんでも食べちゃうんだけど、そのときたべものを音にかえる――」


 不意に緑色のガラス細工のリスモが砕けた時の音を思い出した。


 ――音?

 ――ぼくもムジカも触れなかったのに?


「いつか世界がほろんで、何もなくなっても。わたしが音を覚えていたら、そこからなんでも再現できる。それってステキなことじゃないかな?」

牛ほどの大きさになったそれが、細い足の先についたベルのような物を、涼しげな音と共に伸ばしてくる。


「ひぃやぁぁッ!!」


 本能的な恐怖から、みっともなく悲鳴をあげへたり込んだぼくにしかし、その足は届かなかった。


 彼女の手が、それ――アラーラ――の足を掴んでいる。

 傷付けられた、今にも泣き出しそうな顔。


「嫌だ! 嫌だッ!!」


 はっきり目にしたはずなのに、その時のぼくには彼女を気遣う余裕など欠片も無かった。


 ゆらゆらと引き戻されたベル状の器官は、仕方ないといった体で、足を掴む彼女の左腕に張り付いた。


「ミュー!!」


 彼女の顔が苦痛に歪むのを見ても、ぼくの身体はいう事を聞かない。自分の生き意地の汚さを罵る言葉と自己弁護だけが、呪いのようにただ脳内で繰り返される。


「……そうだね。怖いね。こんなに痛いもの……」


 何かを吹っ切るようにぼくに微笑んで見せると、ムジカはヴァイオリンのケースに手を伸ばす。


「じつはね、探し物のもう一つも見つけたんだよ」


 恐ろしいまでの早弾き。無数のチャイムの調べを掻き消すように、狂おしくヴァイオリンが泣き叫ぶ。


 やがてムジカの独奏に、何処からかか細いフルートの音色が重なり、合重奏になる。


「なんでも弾きこなせる、わたしじしんが楽器になる方法――」


 一瞬、チャイムの音が一斉に鳴り止んだ。困惑と焦燥。異形の存在のあるはずのない感情を、何故だかぼくはその時だけ理解できた。


「――もうここにいられなくなっちゃうけど……」


 窓の外の景色が一変している。

 真の闇の中、形の無い者達が踊り狂っている。

 直視してはいけない。本能的な警告に、思わず視線を下げる。


「ごめんね。やくそくやぶる事になるけど、そこはそんなに悪い所じゃないとおもうよ」


 異界の神に語りかけるムジカ。ベル状の器官に張り付かれた彼女の腕は、前腕部が緑色のガラスに変化してしまっている。


 ヴァイオリンの音色は、いつしか彼女の声のように甘やかなものに変わっている。か細いフルートの音色も、ぎこちなく彼女のリードに合わせてくる。


 再びけたたましく鳴り始めたチャイムの響きが伝えるのは、驚愕と恐怖。――戯れに指を伸ばしたアリにかみ殺される人間は、こんな気持ちを抱くのだろうか――


 暴力的な轟音に耐え切れずに耳を塞いだぼくには、彼女が最後に残した言葉は伝わらなかった。

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