あの曲は聞こえない

ぬかてぃ、

あの曲はもう聞こえない

 弥生の家から田んぼ道を歩いて五分ほどしたところに、小さな山があり、そこの神様を奉る神社はそこに住む子供たちの数少ない遊び場であった。鳥居を潜って百もない石段を上った後にうっそうとした木々に隠されるように小さな社がある。一応神主はいるのだが、いわゆる雇われみたいなもので、弥生も十年来通っていたが、見たのは数度あるかないかといった具合であったため、町内会の人に怒られないようにごみの片づけなどはするものの、ほとんど手の付けられていないくたびれたものであった。

 弥生は女ながら男勝りな性格であったから、周りの大人が放つ視線などなんのその、男児に混じって鬼ごっこやらかくれんぼやらしていたものである。髪もぼさぼさでスカートなど穿きもせず学校が終わればそこに男子数人と集まって泥だらけになって帰ってくる。元々子ども自体がそれほど多くない田舎であったから、女子同士で固まりあう事自体少ないのに、さらにそんな生活を送っていたのだから、知らぬ人からは男子とも間違えられる様であった。

 そういう有様について親はなんとも言わず、むしろ子供というものは神様の見える場所で成長しなければならない。我々親だけでなく神様にも我が子を見てもらっているのだ、という考え方なものだから誰も止めることができず、遂に十五までこのような生活をしていたのだ。

 流石に十五ともなると男子と女子では体つきが変わってくる。違うところは陰部だけだったものが、いつしか胸が出てきて、少しずつではあるがふくよかになってくる。隣の男はどんどん手が硬くなり、最初は勝っていた身長をいつしか追い越し始める。その頃になると、毎日のように来ていた神社にはかつての面々は姿を消しており、入れ替わるかのように他の、自分より背丈の小さい男子が集まって神社を所狭しと走り回っていた。やることもなくそぞろ神の物につきて心を狂わされたか、いないことを知りつつ神社に向かっては、ぼさぼさの髪を掻きながら弥生は小さくため息をついた。

 しかし、どの世代にもモノ好きというやつはいるもので、弥生以外にも神社に足を運んで時間を潰すやつがいた。勿論他の男子に混じって遊んでいるというわけでもなく、神社の脇にある木造のベンチに座って本を片手に座り込んでいる。弥生自身もそれが毎日という事に気付くには多少の時間を要した。というのも最初の段階ではいるのかいないのかすら気にならないくらい程の存在感のなさだったのだ。そもそも子供が駆け回っているような場所なので、声が大きい方に目がいくものが普通で、わざわざ神社の脇の、おおよそ誰のために作られたのかすらわかりかねるベンチなど気にすることなどないのだ。

 同じ学年の良田が学生帽子を隣に座らせている事を弥生が気付いたのは、もう秋も深くなり、やれ進路だのどうだのという言葉が学校で顔を出してきたころでもあった。このような片田舎では高校に行くのも一苦労で、必ず一時間に一本止まるかという電車に乗って一度麓まで降りて、各々の高校のある電車に乗り換えなければならないものだったため、小さな中学校の進路というものは非常に重いものであった。元々ただでさえ生徒の少ない中学校だから一人にかかる言葉の重さは麓の中学のそれではない。一応毎年十人ほどは卒業をさせることのできた中学校だったが、その半分くらいがとりたけ無計画のまま家業の農家を継ぐと言ったり、若気の至りかどこからかバイクを持ってきて麓まで走りに行ってその後数日、下手をしたら永遠に帰ってこないというような有様であったから、教員たちは今年こそどこでもいいから全員高校へ、と息巻いていたりするのだ。

 その中で良田というやつは教員の誰もが優良な高校に行かせたがる存在であった。それはテストの問題が他の十余人と唯一違うものであったことからも察することができるだろう。二年生の頃、一度だけ数学の木下がテストの答案返却の際、良田のテストの問題の中から一問出され、誰も答えることができずにその授業が終わってしまいかけ、模範解答の提示としてそれに良田が難なく答えられていた事からも、良田が教員のみならず我々同学年からも特別な存在として見られていた事は間違いないし、無論弥生もそう思っていた。

 その良田がさもつまらなそうな顔をして本を読んでいる事に気付いた時、弥生は少し彼をからかいたくなってきた。なにせあのがり勉が人に隠れるように本を読んでいるのである。図書館で読めばいいものを、わざわざこんなところで読むなど理由があるに他ならない。勉強はからっきしだが身体を動かすことだけが取り柄の弥生には格好の餌食であった。いい玩具を見つけた。あわよくば何か面白いものを抜き出して友達全員に晒してやろう。

 弥生は良田の隣にぶっきらぼうに座ると良田をまじまじと見つめ始めた。座ってきた時こそ驚いた顔をしたが、また涼しい顔をして本を読み始めた。

「良田あ。お前なにやってんだよ」

 弥生はニヤニヤしながら聞いたが返事はない。まるで聞こえていないかのように目線は本に向かっている。弥生はそれに少し苛立ちを覚えた。薄汚い魂胆を丸出しにしているのに反応する馬鹿もなし。そういう態度に見えて仕方なかった。

 弥生は身体を良田にぐっと寄せて本を覗き込もうとした。しかし、良田は横にそれてきた。その時ふと良田と目があう。それがあからさまなもので、弥生の沸点はすぐに上がり切ってしまった。

「なんだよお前」

「なんだよとはひどい言い草だね。そっちから押しかけてきたくせに」

 もう売り言葉に買い言葉であった。弥生は良田の手に持っていた本を奪うや否や、そのまま地面に叩きつけると、そのまま良田の胸倉を思い切り掴んだ。

「誰に向かって言ってんだよ根暗」

「手を離してくれないか」

 最初こそ詫びの一つでも入るかと思っていた弥生にはつっけんどんな言葉が響いた。良田の右頬に拳骨が思い切り飛んでくると、良田はなすすべもなく地面に投げ出されてしまった。砂埃の舞う中、右頬を撫でながら良田が立ち上がる。

「てめえ、何様だよ」

「君こそ何様だよ。勝手に擦り寄ってきて、次は頬を殴ってきて。なんなんだよ君は」

「そういう態度が気に食わねえって言ってんだよ!」

 良田の胸を思い切り叩いて地面に倒した後、馬乗りになって頬を何度も殴り始めた。次第に自分の拳が痛くなってくることに気付かずにはいられなかったが、もう弥生にはそれどころではなかった。こいつが泣きながら自分に詫びないと気が済まなかった。

 しかし女子が男子に馬乗りになって顔を殴り続けているという異常事態に、何も知らない子供が反応しないわけがなかった。かくれんぼを始めていた子供がそこに来た時に、あまりにも恐ろしい光景に大声を出して泣き始めたのだ。無垢な子供は我が事でもないのに人が殴りあっている、それもこの時に限っては一方的に殴っているような光景にさとかった。その泣き声に他の子がわらわらと集まってくる。その時に弥生は自分が熱に浮かされている事に気付いて手を止めた。すると良田が弥生の肩を思い切り押して身体をどけてくる。弥生は尻もちをついた形になった。すると良田がゆっくりと立ち上がっている。顔は真っ赤に腫れ、唇は切って血を出している。

 すると良田が弥生にずいっと近付くと、思い切りその頬を平手打ちした。あまりの事に弥生は唖然とした。しかし、その頬の痛みが現実になってきてやっと自分が叩かれた事に気付いた。

「君が女の子だからこれだけで済ませておく。男じゃこうはいかなかったぞ」

 先ほどよりもきつい良田の目線に弥生は恐怖を隠せずにいた。元々がさつ故、じゃれあい程度で男を叩いたり叩かれたりはしてきたものの、敵意をむき出しにして叩かれるという事などほとんどなかったのだ。広がる痛みの中と泣いている子供の声、それ以外の子供から発される冷たい目線に、ぽろぽろと涙がこぼれ始める。この涙は痛みから来るものか、叩かれたという事実から来るものか、それともそれ以外の何かか……。

 弥生にはそれを答えられる程年齢を重ねていなかった。


 翌日、弥生は担任の木下に呼び出された。十人もいない職員室に一人立たされて面白くもない説教を淡々と聞かされていた。元々授業を真面目に聞くたちでもなかったから、この説教も馬の耳に念仏、というものなのだが時間を取られるのも気持ちのいいものではない。首を傾けながら木下の前に立ち尽くしていた。

 木下も齢六十は行こうかというベテランで比較的お大人しい性格であった。しかしながら弥生には人一倍厳しく接していて、この光景は最早日常茶飯事と言われてすらいた。それが親心のようなものであったと気付くのは彼女が結婚した際に死の床に就きかけながらも、その身体を文字通り引きずりながら駆けつけてくれた時にわかるのだが、その時の彼女にはそれを知る由もなかった。

 木下の目も見ず適当に相槌を重ねていく。遂に木下が折れたのか、長い息をつくと彼女を追い返すように帰宅を命じた。長いお話が終わった。職員室から出た弥生がため息をつきながら首を鳴らした。暗くなった空を見ると、またため息が出る。何もすることがないとはいえ、自分の時間を、しかも面白くもない事に使われると気も落ち込むものだ。軽くならない足取りのまま門を目指す。その時不思議な事に気付いた。ピアノの音が聞こえる。

 こんな片田舎の学校では授業以外で音楽室を使われる事など稀である。しばらく耳を傾けていたが、次第に気になって正門に進めていた足の行き先を変えた。自分の時間を奪われたのだからせめてなにか代わりになる物でも手に入らないと気がおさまらない。流れている音に逆らうかのようなアップテンポの足取りが音楽室のドアへ近付いていった。

 窓から顔を乗り出してみると弥生の顔が曇った。ピアノの先に今最も見たくない人間の顔があったからだ。頭には包帯が巻かれ、顔のあちこちに絆創膏が貼ってあった。この姿こそ朝から見てはいたが、決して気分のいいものではなかった。見ないふりをしながらその日を過ごしたが、ここで改めて見てしまうとそれが顔に露骨に出てしまう。目線を切ろうと足の向きを変える。その時、ピアノの音が止まった。

 こういう時面白いもので、一つの時間の中で連続していたものが切れるとそれにつぶさに反応してしまう。弥生もまさにそれで、切ろうとした目線が切れなかったのだ。目線が絡み合う。すると彼は立ち上がり、ドアまで歩いてき始めた。居てもたってもいられなくなって、弥生はそのまま逃げるように走って正門まで行った。

 荒くなる息の中、弥生の頭の中は混乱で一杯になっていた。頭の中には包帯を巻かれた散切り頭が何度も横切っては消えた。そのまま正門に出た時上履きのままだったことにやっと気付いてやっと冷静さを取り戻し始めた。思い出したかのようにどっと汗が噴き出る。

 つまらない。非常につまらない。

 弥生は唾を吐き出すと、上履きである事など気にせずそこを踏みにじった。

 結局その日は学校に戻る事なく上履きのまま家に帰っていった。


 それからというものの、神社に近付く回数が大きく減っていった。最初はどこにいればいいかわからずあちらこちらを歩き回っていたのだが、結局居場所らしい場所もなく、仕方なさそうに自分の部屋に籠っていくことになった。最初こそ両親は心配こそしたものの、数日した後酒瓶も煙草も見受けられなかった部屋を母が確認すると、それっきりであった。

 とはいえ、部屋に籠って何かするわけでもなく、ただ徒に時間を浪費していくだけであった。最初は読み耽っていた漫画も数度読み返せば飽きてしまう。勉強なんかするたちでもなかったため、次第に暇が溢れ返ってしまった。仕方なく父の部屋にあったラジオを部屋に持ってきてただ呆然と聞き流しているだけであった。

 最初は熱心にラジオドラマを聞いていたのだが、同じような事を繰り返している主人公に嫌気がさして聞く事を辞めてしまう。次は最近の音楽番組であったが、番付などすぐ変わるわけでもない。すぐに飽きてしまって別のものを聞く。最終的にはクラシック番組などという、普段の弥生では到底縁のない世界のものを流し始めるようになっていた。

 しかし、所詮流しているだけであった。とにかく時間と、そこから発生する自分の中の空洞を何かで詰め込みたかったのだ。なにより人の声を出来るだけ聞きたくなかった。それがクラシック番組と妙にマッチした。聞くのはせいぜい流す曲の名前と作曲者位なものであったから、それが弥生にとっては良い方向に作用したのだ。

 それと一方でもう一つ聞いている理由があった。それはエンディングに流れる曲であった。その曲が良田の弾いていたそれだったのだ。それを聞く度に良田の顔が横切る。最初は苛立ちを覚えていた弥生も、この番組に会う頃にはそれもなりを潜め、最近ではあの時の一件を謝りたいとすら思っていた。しかし弥生のプライドがそれを中々許さなかった。ガキ大将の意地っ張りみたいなものであったが、それが弥生の素直さにこんがらがり、面倒な事になっていた事が災いとなっていた。

 結局、彼女にとっての謝罪の気持ちを繋ぐものであった。

 あくる日弥生はこの曲の間苗を知らない事に気付く。毎日懺悔するための曲のように扱っていたのだが、人間よほど信心がなければ何日も真面目に悔いる事など出来ないもの。ふと良田に対して謝罪のエーメンを切ることを怠った時にその曲自体への疑問が浮かび上がってきたのだ。しかしラジオは答えてくれない。いつも通り、オルゴールのそれが流れて次の番組に向かってしまう。

 当たり前の事に弥生はかっかしていたが、すぐに冷静になり、ため息をついた。ラジオに怒りをぶちまけたところで自分の欲する答えは帰ってこないからだ。憤りを溜め込みながら夕食を呼ぶ母の声に反応して居間に向かう。しかし夕食の味などよくわからない。頭に詰め込まれた疑問が味覚を邪魔している。なんとなくご飯と芋の煮付けを頬張っている事だけは理解できているのだが、それ以外の事は上の空のまま、箸を動かしていた。

 いつの間にか弥生は良田への謝罪の事など忘れ、あの曲の題名を知る事に必死になっていった。


 何気なしに神社の階段を踏んだのはもう冬になっていた。米を育てていた田畑が麦に変わっていた。なんとなくではあったが、あの男はあそこに座っているのではないか、という気持ちが弥生を突き動かした。

 勿論学校では何度も顔を突き合わせた。しかし、そこに会話は生まれなかった。あくまで同じクラスだからであって、それ以上のものを発生するには、彼女の取り巻く環境が許さなかった。弥生と良田のクラスにおける社会的分布図には、あまりにも距離が離れすぎていたのだ。

 それ故に弥生が彼に話しかけるのはここでしかない、と思っていた。ここではクラスのそれに巻き込まれる事はない。一個人同士として腹を割る事が出来る。それが弥生の足を速めた。驚いた事に階段が短くなっている事に気付いた。勿論階段が減ったわけではない。それでも弥生にとってはあの長い階段が我が家の一階から二階に上る程度に感じられたのだ。

 寒くなると流石に境内にはあのやかましい声は聞こえなかった。慌てるようにベンチの方へ目線を向ける。すると弥生の胸が高鳴った。彼は静かな境内なぞ意に介さぬようにそこで本を読み耽っていたのだ。

 最初は急ぎ早に彼の元へ向かっていた。しかし、段々とではあるが足が重くなり始めていた。それは数カ月程前の自分の姿がくっきりと見えたからだ。馬乗りになって獣のように良田を襲っている自分の姿が目に入った時、それが自分である事を信じたくなかった。あまりにも幼く醜かった。そして社に続く石畳を出る前にはもう足が止まっていた。馬乗りにされていた男が今そのベンチに、出会った時と変わらぬまま座っているのだから。当初の予定などどこかにすっ飛んでしまった。

 心臓の音がやたら響く。喉が鳴る。飲んだ唾のなんと温かい事か。顔ばかり熱くなって身体は段々冷えてくる。じっとしていても埒が明かない事くらいは重々承知であったが、理屈で身体が動いてくれたら弥生の気持ちはもっと楽であっただろう。そこに固まったまま時間が流れ始めた。

 しかし、しかしの順々巡りをしている内に後ろから肩を叩かれた。声にならない声が喉を伝って出てきた。慌てて振り向くといつぶりに見たかわからない神主が眼鏡を弄りながらにこにこして立っている。片手には箒を持っており、声なき声がその意味を弥生に悟らせた。声でもかけてくれたらいいのにと怒りを覚えずにいたものの、それより先にベンチが気になって仕方なかった。目線をもとに戻すと、後悔ともなんともつかない唸り声が喉で鳴った。

 やはり気付かれていた。良田の目線ははっきりとこちらを向いている。全身の毛が逆立つ事に気付く。しかし身体は金縛りにあったかのように全く動かない。頭の中は色々な感情でごちゃ混ぜになっている。

 するとごほん、と神主がわざとらしく咳払いをした。動かなければならない。膝が曲がっているのかそうでないのか分からぬまま、もう一つの目線の先へと足を動かしていた。

 良田が怪訝な顔で見つめてくる。行きたくはないのだが、ここで足を止めたところで私は何をしに来たのか。ぎこちない足取りのまま、弥生は良田の前に立った。あからさまな敵意が向けられている事くらいは弥生にも充分理解できた。

「何しに来たんだい」

 あまりにも唐突の事で弥生はだんまりを決め込んだ。良田もそれに応答することもなく、黙ったまま本に目を通し始めた。弥生は借りてきた猫のようにどうすることも出来ずただ良田の前でじっと立ったまま俯いていた。良田の視線が何度かこちらを向いてくる事が伝わってくる。

「隣」

「えっ」

「座ったら」

 あまりにもぶっきらぼうな言葉に弥生の顔が上がった。瞳孔が開いていく。開いた毛穴から季節違いの汗が出てくる。肌は寒いのに顔だけは熱い。吸い込まれるように弥生は隣の席に座るのだが、座り心地が悪く感じずにはいられなかった。

 沈黙だけが語りかけてきた。しかしそれは誰も返答できなかった。

 結局、一言も言葉を交わすこともなく夕日は沈んでいった。


 その後良田と二人になるという事はなかった。というのも良田が神社に来なくなったからである。最初こそ足しげく通っていた弥生だったが、次第に興味をなくしたかのように神社に立ち寄る事はなかった。むしろ以前より一層部屋に籠る事が多くなってきた。

 弥生は遮二無二受験勉強を始めた。朧げであったが、高校に行けば良田に会えると考えたからである。今まで高校などどうでもいいと思っていた弥生にとっては些細ながら大きな変化であった。

 勿論めきめき力がつくわけではなかった。教科書を開いてもちんぷんかんぷんという有様で、受験の問題などという状態ではなかったのだ。しかし、不思議と勉強はできたのだ。水の一念岩をも通す。年が明ける頃には何とか問題集を解くのに苦労しない程度の力をつけ始めていた。

 しかし、それは弥生にとって過酷な現実を叩きつけるための下準備でもあった。然る一月、木下の元で高校の相談をしていた時であった。少しずつながらめきめきと力をつけている弥生に木下は今までのいかり肩はどこへやら、すっかり年相応の温和な喋り方で弥生に語り掛けていた。

 風に窓が鳴る職員室であった。

「大内、最近めざましいじゃないか。なにかあったのか」

 弥生は黙ったまま首を振った。

「お前も高校に行きたいと言って一時はどうなるかと思ったが、それなりの高校には間に合いそうだな」

 その言葉に弥生は怪訝な顔をした。

「みんな同じ学校に行くんじゃないんですか」

「行くわけないだろう。茶化すな茶化すな」

 その時弥生の背筋に氷のようなものが横切っていった。考えるよりも先に言葉が出た。

「じゃあ、良田と高校に行けないんですか?」

 木下は素っ頓狂な顔をした。しかし、何かに気付いたように「そうか。そういう事か」とつぶやくと顔を柔らかくした。

「いいか大内。厳しい事を言う事になるが、お前の付け焼刃じゃ、良田には追いつくことはない」

 その言葉に弥生の顔が紅くなる。しかし木下は気にせず続けた。

「お前にとって良田は星なんだ。美しく輝く星。お前にとっては手の届きそうなものなのかもしれない。だが、実際は手が届くことはないんだ。近付く事が出来るかどうか。できない事はないと思う。しかしな。人間が月に行くのにも相当の時間がかかったんだ」

 事実が整然と並べられていくたびに弥生の顔は青く沈んでいった。

「お前が月に行きたいと祈っても、もう良田は星の彼方なんだ。……こればっかりは先生もどうにもできん」

 弥生の顔の変化に木下が気付かないわけがなかった。しかし、半端な夢を見せ続けて最後の最後で裏切るよりも、気付ける時に伝えた方がよいと判断したのだ。勿論それが弥生にとって憎まれる事であったとしても。木下は、自らの意志で学び始めた今の弥生だからこそ、彼女に対して誠実でありたいと思っていたのだ。

 しかし弥生にとってはその誠実さがあまりにも残酷なものであった。その後は終始無言にも近い状態で、とりあえず木下の言葉に相槌はうてるものの、口から出てくる音は右から左に抜けていったまま、時間だけが過ぎていった。

結局そこから先の事は覚えておらず、心は浮いたまま帰路に就いた。

ふと空を見ると満面の星空であった。弥生はそっと手を空に伸ばしながら瞳から涙を零した。


 風の香りが少しだけ温かくなりはじめた頃に二人もまた学び舎を去る事になった。梅の花が美しく咲き乱れる中、十人にも満たない卒業生が体育館で証書を授与されていく。主席はやはりというか良田で、弥生はそれを羨ましそうな目で眺め、唇をゆがめた。

 最後の最後まで弥生は良田と話すことがなかった。良田はどうだったか知らないが、弥生はもうそれどころではなかった。あの後がむしゃらな勉強がさらに増し、本を持たない日が増えていった。結局弥生の三年の成績では優秀すぎるくらいの高校に合格することになるのだが、その生活が変わる事はなかった。

 これが良田に対するあてつけであったと弥生が気付くのは彼女が結婚する頃になる。勿論弥生自身はあてつけのつもりでもないし、良田と何かあったわけではないのだからお門違いである。

 しかし、届かない星に対して、届かないと気付きながらも手を伸ばし続けた結果がその生活だったのだ。それをあてつけと言わずして何と言おうか。彼を得られなかった事に対する代償行為と言われるかもしれないが、弥生にはそれで十分だった。本人が意識していないつもりであったが、どこかに良田の姿があったのだから。

 ぼさぼさの髪がいつしか整えられ、男ばかりであった友人は消え、代わりに本と音楽が増えていった。何とか星に近付きたかったのだ。

 しかし、木下の言葉は正しかったようで、結局星に手は届かなかった。卒業の頃には諦めもつき、あの夜の涙もなんだったのか、と苦笑できる程度にはなっていた。しかし、良田を見る度に心のどこかが抉られたような気持になってしまう。まだ弥生は若かった。

 式辞を読み終えた良田が壇上から降りてくる。まばらな拍手が響き渡った。


 卒業式が終わった後、弥生はそっと一人で歩いて帰った。勿論両親とも来ていたのだが、今日ばかりは自分の記憶を踏みしめながら帰りたい、などとかっこをつけて、一人家を目指した。

 あっという間でもあった。しかし、特にここ数カ月はなにか凝縮されたような毎日であったような気がした。勉強が全てというわけではないが、徒に過ごしてきた二年半を取り戻していくかのような気持であった。

 最後の角を曲がる時、ふと神社の鳥居が目に入った。恐らく用もなければくる事はないであろうそこに、弥生は懐かしい気持ちになった。相変わらずうっそうとした緑が神社を包んでいる。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。

「良田ーー!」

 弥生は突然力一杯神社に向かって声を上げた。誰もいない、小春日和の道の真ん中で。反応もないのにも関わらず。

「良田ー! あの曲の名前は――」

 弥生は続けた。神社に声が飛んでいく。

 声は春風とともに消えていった。

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あの曲は聞こえない ぬかてぃ、 @nukaty

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