第3話 空き缶のような男の話②

 「結局、大切なモノは守れなかった」

 そう言って、彼は冷たいアスファルトに拳を打ち付けた。


*** 

 

 降り注ぐ男の拳、女の罵声。ギンガは物心ついた頃から、家庭内暴力を受けていた。「痛い」と子どもながらに声を発したが、彼が住む小さな箱の中でのその叫びは、古びた冷蔵庫が唸り声を上げていることと同じに過ぎなかった。

 

 学校にいる時間。小さな箱から飛び出しているその時間は、彼にとって唯一自由な時間であった。檻にとらわれた鳥は羽を広げ、思うままに飛び回る。その時間くらいは、何からも縛られたくない。縛らせなんかしない。次第にその心の叫びは、モノの破壊行動を引き起こし、遂には人までも傷つけ始めた。

 もちろん、教師や警察は、彼の保護者へ指導の矛先を向ける。しかし、社会から弾かれたようにひっそりと生きていた彼の両親は、外からの評価なんてどうでも良かった。彼らはむしろそれを逆手に取り、幼き子どもに暴力を振るう口実に仕立て上げてしまったのだから。一方、外部の人間でさえも彼を制御する者は直にいなくなった。注意しました、親にも指導しました。彼らさえも、その事実だけが欲しかっただけの、出来損ないの人々に過ぎなかったのだ。

 行き当たりのないストレスを外で解放し、家に帰れば、以前にも増した当たりが彼を襲う。彼は、負のサイクルに囚われ続けていた。


 中学を卒業後、フリーターとなると、彼は一人暮らしを始めた。やっと檻を壊すことが出来た彼は、どこまででも飛んでいけそうな開放的な気分を味わったことだろう。

 しかし、性格はそう簡単に変わるものではない。最初に働き始めたコンビニエンスストアでは、仕事のミスを注意されたことに対して激怒し、わずか三日で辞めてしまった。その後も、絡んできた酔っ払らいや、クレームをつけてきた客に殴りかかるなど、様々な惨事を引き起こしてきた。

 気に入らないことがあれば、直ぐ頭に血が上り、同僚や客と揉め事を起こし、クビになる。新たな仕事を見つけても結局同じことだ。せっかく檻から抜け出したものの、彼は、その周りをグルグルと回り続けることしか出来なかったのだ。


 花はどんなに美しく咲こうとも、いつかは枯れてしまう。仕事も同じで辞めることが当たり前。そんな考えが植えついた彼は、あるホストクラブで働き始めた。

「どうせ直ぐ辞めるんだろう」

 そう思っていた彼であるが、

広井利佳ひろいりかです。君と同じ20歳。よろしくね」

 中性的な名前を名乗った同い年の青年が、彼の運命を変えることとなった。


 利佳は小柄で華奢な身体つきで、思わず触れたくなるような艶やかな黒髪には、いつも二つのヘアピンをあしらっていた。名前だけでなく、男から見ても「可愛い」という声が漏れてしまいそうな外見を持つその青年は、その店では弟のような存在であった。

 一方ギンガは、金髪にピアス。おまけに、顔も獲物を狙う鷹のように厳つい表情をしているため、如何にも近づきがたい印象を人に与えてしまう。そのため、彼の記憶の中では、同じような風貌を被る輩以外は、自発的に彼に寄り付こうとした者はいなかった。

 ましてや、利佳は全てが彼とは正反対。目を合わせたその瞬間から、相容れない関係であると決めつけてしまっていたようだ。しかし、そんな想像は全く意味を成さず、利佳はなんの躊躇もせずに、彼に近づき、まるで子どものような無邪気な笑顔で話しかけたのである。

「どうしたらそんなにムキムキになれるの?」

 沢山の同僚に囲まれ、自己紹介を終えた後に、すぐさま彼の元にやって来た利佳はそう言ったのであった。思わぬ相手からの思わぬ質問に彼はいらついたのか、噛み付くような目つきを向けた。しかし、それを見つめ返す利佳の視線が、突き刺さすように彼の瞳を捉えていて、思わず目をそらしてしまった。その瞳は、とても印象的なものとして、彼の心に焼き付いたようだ。

 利佳はことあるごとに、ギンガのことを褒めちぎった。髪型や服装はもちろんであるが、耳の形や、ほくろの位置まで、傍からみると褒めているかすら分からないような些細なことでも、賞賛を示した。ギンガは、煙たがるばかりであったが、利佳は笑顔を振りまきながら、離れようとはしなかった。


 利佳は、従業員や客を問わず誰からも好かれていた。礼儀正しく、気が利くという出来過ぎた部分だけではなく、おっちょこちょいで目が離せないというマイナス面も持ち合わせていたからであろう。最初は相手にもしなかったギンガであるが、どこか放っておけない青年と、親しい関係になるまでにはそう時間はかからなかった。


「お客さんの服にドリンクこぼしちゃった記念おめでとう!!」

 ギンガにとって喜ばしい時でも、気分が暗い時でも、利佳は何かにつけてハイタッチを求めた。

「何なんだよ。その記念日は」

 そう言いながら、差し出された両手に手を合わせるこの瞬間に、彼は体の奥がくすぐったくなる感覚を覚えた。



 しかし、誰からも好かれる彼が、どうして自分を選んだのだろうかと、ギンガはいつも疑問を抱いていたようだ。ある日のこと、営業が始まる前のわずかな時間に、ギンガは思いきってそれを尋ねてみる。

「だって、お前は男らしくて誰よりもカッコいいよ。俺も鍛えて強くなりたいな」

 利佳はボクシングの真似をしながら、あの視線をギンガに向けたが、またもや彼は、その目を見てはいられなかった。

「強くても何の役にも立たないよ」

 つい最近までこんな風には思っていなかっただろう。しかし、利佳と出会ったその時の彼にとっては、強さは邪魔以外の何ものでもなかった。

「役に立つよ! だって、強くなきゃ大切なモノは守れないよ」

 発言した当の本人は、へらへらと笑いを浮かべているが、ギンガは顔を赤くした。よくそんな恥ずかしいことが言えたもんだとでも言いたげな表情である。そのまま、開店時間を迎え、その話は終わってしまったが、彼は安堵のため息を吐いた。それ以上続けたなら、きっと彼の顔からは火が出てしまっていただろう。


 強さは、恐れられ、争いを招く。どうしてそんなものを手にしてしまったのだろうかと、彼は過去の自分を責めていた。しかし、目の前の人はその強さを称えてくれた。それまで邪魔だと思っていたものが、受け入れられたことが、彼にとってはこの上の無いほどの喜びであったのだろう。

 彼はそれからというもの、まるで別人になったように、感情が激しく動くことが無くなった。強さを、この人を裏切るような方法で使いたくは無いと、心に刻んだのかもしれない。


 

 しかし、火山は再び活動を開始するものだ。ホストクラブで働き始めて約二年が経った頃、とうとうそれは始まってしまった。

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