第4話 空き缶のような男の話③
ギンガは、人生に絶望してしまったかのような、そんな表情を浮かべたていた。
道端に座り込んでしまった彼に、容赦なく冷たい雨は降り注ぐ。真上を見上げると、気持ちばかりの屋根はあるが、服には黒いシミがみるみるうちに広がっていった。
どうして彼がこんなことをしているかというと、勤務中に揉め事を起こした
ためだ。二年間積み上げてきたものを、わずか5分間の過ちにより、台無しにしてしまったのである。
まだ収まらないのだろうか、抱えこんだ怒りをぶつけるように、濡れたアスファルトに何度も何度も拳を叩きつける。どんなに彼が強大な力を持っていようと、それが壊れることは決して無い。壊れゆくのは彼ばかりで、ブクブクと水の中へ沈み、息苦しくなるのは目に見えていた。感覚が無くなるほどまでに叩き続けると、そこにはオレンジ色の血が滲んでいる。
「オレンジ......?」
これまでの不摂生な生活が一瞬頭をよぎったようだが、直ぐにそれを振り払う。視線の片隅には、誰が置いたのだろうか、パンクなデザインの缶が一つ転がっていた。”ジュース”という文字を見て、大体のことは察知できたのか、一段と深いため息を吐いた。
どの位こうして居たのだろうか。目の前を横切っていく人々は、まばらだったはずが、今はまるで軍勢のようにウジャウジャしている。彼らは訓練でも受けているのか、右から左へ、左から右へ。この二つの道筋でしか歩きはしない。
「社会ってこういうものなんだな」
社会とは、本当に規則正しい。列を乱してはいけない。列から遅れてはいけない。そんなものをまじまじと見せつけられては、自覚せずにはいられないだろう。立ち止まっている時点で、社会から弾かれたんだということを。
「うん?」
彼は一度目をこすり、通行人を見やる。目を凝らしてみると、行き来する人々の中に立ち止まっている一人の男がいた。全身真っ黒い服に身を包んだ男は、彼の方へと一歩一歩近づいているではないか。
そんなところを横切るのは、社会に反する行為のはずだ。しかし、人々はまるで男が見えていないかのように、規則的に歩みを進めるだけであった。
「死神が俺を迎えに来たのかな」
もう一度目をこすった。しかし、何度こすっても、一人の男が向かってくる映像が飛び込んでくるだけだ。
とうとう、男が彼の目の前まで辿りついてしまった。細い足が折れ曲がると、男の顔が目と鼻の先に現れる。よく見れば、まだ若くて、死神というのは、イケメンらしい。
「死神はやっぱり冷たい表情をしてるもんだな」
男の瞳を覗くと、確かに、目を腫らした自分の顔がこちらを覗き返している。しかし、男はというと、まるで彼が見えていないかのように、遥か遠くの方に焦点を合わせていた。男はおもむろに右手を上げると、彼の顔へとゆっくり近づける。
「早く連れて行ってくれ」
魔法をかけられて、一瞬にして塵となるような、つまらない結末でも想像しているのだろうか。彼はそう言って、ゆっくり目を閉じる。
案の定と言って良いのか、何かが起きた様子は無く、彼は仕方なく目を開いた。飛び込んで来た光景は、魔法の手の中に横たわる、オレンジジュースの缶カラだ。彼は肩を見下ろすようにして、オレンジのそれがあった場所を確認すると、やはり跡形も無く消えている。
「あれっ?」
次に振り返った時には、その男の姿はどこにも無かった。
「何だったんだ。今のは......」
うっすらと浮かべた苦笑い。時間が経てば経つほど、沸き起こってくるのは罪悪感。ファンタジーなことを考えてしまうほど、気が病んでいたのかとでも言うように、肩を落とした。
あの男の瞳に映っていたのは、たかが空き缶。現実に引き戻された彼の心は、沸々と煮えくり返る。行き場の無い怒りを放出するため、彼は怒り狂った叫び声を響かせた。
「ハハハ......。社会なんて、知らねえ。乱してやればいいんだ」
何もかもは雨にかき消され、彼は結局社会を乱すことも、何かを残すことも出来なかった。
彼は隠れるかのように、自身の足に顔をうずめていった。
人通りがすっかり無くなったころ、視界の中に、泥で汚れたスニーカーが映り込む。直ぐに折れてしまいそうな細い足、黒いコート。上へ上へと移動していくと、見覚えのある視線に行き当たる。
「何か......用ですか......」
彼はあくまで、平静を装っているが、服の上から胸を握りしめ、怒りを押さえつけようとしているのは明らかである。もはや、ファンタジーな設定を当てはめる余裕なんてどこにも無い。
「この空き缶、君の大切なものだったら、どうしようと思って」
男が彼に手渡したのは、先ほどの空き缶であった。
「ふざけんじゃねえ。ゴミなんて大切にする訳ないだろ!」
屈辱的な対応をされたあげくに、それを見せ占めるような行為をしたこの男に対して、彼の怒りはピークに達する。
立ち上がると、物凄い剣幕で胸倉に掴み掛かった。
「喧嘩売ってんのか?」
大声で喚き散らすと、拳を振りかざした。
「俺は大切にするけど」
「はっ?」
「ゴミは生まれ変われるんだ。ただ、それは捨てる人次第だけど」
ギンガは突然、静電気にでも触ったように、男の服から手を離してしまった。その様子を不思議そうに眺める男の視線は、彼を突き刺すような真っ直ぐなものであった。
「俺は大切にするよ。生まれ変われるなら、生まれ変わらせてやりたいだろ?」
ゴミについて話しているのか、それとも別のことを言っているのだろうか。遠回しな言い方に、心がムカムカとする感覚を覚えたが、決して手が出ることは無かった。なぜなら、この男が誰かと重なっているからだ。
「お、お前は、俺がゴミって言いたいのか」
ギンガの声は震えていた。
「ふっ」
男は視線を足元に向けると息を漏らして、再びギンガに向き直る。
「ゴミだなんて思ってない」
男は笑いながら手を広げた。その言葉にギンガは安堵するが、直ぐに状況は一変する。
「俺はお前を、ゴミ以下だと思っているよ」
相変わらず、笑いを浮かべていた。ああ、まさしく死神の笑いのようだ。
ギンガはその場に崩れ落ちると、首を横に振り続けた。
昔から喧嘩が強く、年上にも決して負けたことがない。そんな彼が恐れる人物など誰も居なかった。しかし、彼は初めてその感情を覚えた。一発のパンチで倒れてしまいそうな、細身の身体つきの男が、恐ろしくて仕方ないのである。
「お前、一体何様なんだよ! どっか行けよ!」
あがいてはいるが、本当に死神でも見ているかのように、顔は蒼白していた。「このままずっとこうしているつもり? 自分から何かしないと一生ゴミ以下だよ」
「お前には関係ねえ」
耐えきれなくなったのか、男から逃げるように、ギンガはその場を立ち去ってしまった。
***
「あいつさえ、守れていれば」
彼は息を切らしながらがむしゃらに走ると、小さな公園にたどり着いた。ベンチに倒れるように座ると、握っていた空き缶を握りつぶす。そのまま、雨の止んだ空に向かって拳を突きつけると、「もう一度チャンスを下さい、もう一度でいいから」と願いを捧げた。
一度手を引くと、持っているものを放り投げてしまった。4メートルほど離れた位置にあるゴミ箱へとそれは向かうが、淵にはじかれて、暗くて地面か空かも分からないような所に転がりこんでしまう。
「やっぱり俺は、ゴミ以下ってことか......」
彼は大口を開けて笑い始めた。雨はもう降っていない。今なら、叫びも嘆きも届く。そのはずなのに、葉を揺らす風すら吹いてはくれない。そんな静寂に包まれる。
はずだった……
「やっと自覚したんだ」
唐突に降ってきた言葉で、ギンガはベンチから少し体を浮かせた。ゴミ箱の横に立ち尽くしていたのは、またもや、先ほどの男だった。
「ああ、もう......。ほっといてくれよ」
「きっと、やり直せるよ」
男はぼそりとつぶやくと、地面に転がった空き缶を彼に投げ返した。
それを反射的に受けとると、その男を睨むような目つきで見つめる。男の視線は遠くを見るようなあの目つきに戻っていた。やはり、先ほど重なった人物とは似ても似つかない。それを悟った彼は、嬉しいような、悲しいような、様々な感情が入り混じった複雑な表情を浮かべる。
「簡単に言ってんじゃねえよ。まさか、お前が助ける訳でもなかろうし」
「もう一回挑戦してみろ」
「はあ? 何をだよ」
「挑戦してみろ」
男は顎でゴミ箱を指した。
「分かったよ」
右手でしっかり空き缶を握ると、顔の前で構えをとった。
空き缶をゴミ箱に入れる。そんなバカげたことをなぜするのだろう。見知らぬ男の言うことをなぜ聞くのだろうか。
それはきっと、与えられたチャンスを、決して逃したくはないから。
彼は空き缶を放り投げた。それは弧を描きながら宙を舞う。再びそれは淵に当たり、はじき返されてしまった。
「ダメか......」
「いや、まだだ」
淵の上で必死に留まると、小さくバウンドをしたそれは、吸い込まれるように中へと収まった。
「よっしゃ!」
ギンガは、両手の拳を握りしめてガッツポーズを作る。男は拍手をしながら彼に歩み寄ると、顔の前まで両手を上げる。
「何それ?」
その言葉を聞くと、男の頬はほんのり赤くなった気がする。
「何って......ハイタッチ」
ギンガは目を丸くして、恐る恐る手を差し出した。
パチンという高い音が響き渡る。ギンガとソーチョー。二人の手はこの時重なった。
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