第24話 ナイフを探せ②
ガンガンは喉の渇きを感じ、夜中に目を覚ます。灯りも点けずに、手を前に突き出して当てずっぽうで歩くと、指先にひんやりと冷たいものが当たる。何事も無くドアまで辿りついたことに安堵すると、音を立てぬようドアを開いた。
皆が寝静まっているはずの時間であるが、居間へ続くドアからは、ほのかな灯りがこぼれている。暗闇の不安を抱く心には心地の良い明かりであった。
吸い込まれるようにそこに近づきドアを開けると、沢山の光が彼女を包み込む。それは彼女からしたら眩ゆすぎたようで、思わず目を細めてしまうほどだ。やっと目が冴えて、真っ白な視界に色が飛び込んでくると、そこには、ソファーで居眠りをしているソーチョーがいた。
「ソーチョー。なんか久しぶりだな」
気まずかったのか、彼女はなるべく彼と顔を合わせぬよう生活していた。久方ぶりにまじまじと見た彼で心臓はうるさく鳴り響いていた。
その人は、この家の中では、誰よりも遠い存在である。五歳年上の彼。ジジなどに比べれば年齢が近いはずであるが、心は遠のくばかりである。
「こんなに近くにいるのにな」
ソファーに手を置くと、柔らかくそこだけが沈んでいく。ほんのりと軋むような音がしているが、彼は寝息を立てて気づいていないようだ。
彼女は彼の髪の毛に触れてみた。染めたこともなければ、ワックスも使われないそれは、座っているソファーなんかよりも心地良いのだろう。
男性にしては長い睫毛に覆われた瞳、色づく頬。眠っている彼はまるで幼い子どもよう。それを見て瞳をトロンとさせた彼女は、今度は頬にそっと触れてみた。それは触れるか触れないかくらいの微かなものだったが、頬を覆うように手を添えると、自分の顔を近づけていた。
「あれっ、起きてたんだ」
ドアの方から聞こえたその声で、彼女は勢いよくソファーから離れ、ソーチョーと距離をとる。手は両手とも後ろに仕舞い込み、まるで何かを隠しているようである。
「何、してたの......?」
いつから居たのであろうか、ドアノブに手を掛けたままの状態で、そこにはジジが立っていた。彼女が何をしようとしていたのか、大体の予想はついているようだが、嘘だと言ってくれというようなそんな表情を浮かべる。
顔を青くする彼女は何も言うことが出来ず、ただ彼の顔をぼんやり見つめていた。
「頼むから、何か言ってくれよ」
「うっ」
凍りつくような空気を遮るかのように、ソーチョーはまつ毛をピクリと動かしてから、少しずつ目を開く。
「ああ、こんなとこで寝ちゃってたんだ」
呑気に両手を大きく上げて伸びをしてから、ソーチョーは焦点を合わせるために目をこする。すると、目の前には床に座り込む女と、ドアの前で立ち尽くす男。何が起きているか検討もつかないようで、目をパチクリとさせた。
「寝るわ。おやすみ」
この雰囲気に耐え切れなかったのか、それとも、ただ眠気に襲われているのかは分からないが、彼はこの二人を置き去りにして行ってしまったのだった。
彼が階段を上る音が響き、その音は居間の真上にまで達した。ドアを閉めるような音が聞こえると、もう足音は聞こえなくなっていた。
「お前、何しようとしたんだよ」
未だにドアの前で動くことが出来ないジジは、ソーチョーの行く末を確認すると、時間にでも追われているように先ほどと同じような質問を投げかけた。
「別に関係ないじゃん」
そう言いながら、彼女の顔は涙でグシャグシャになっていた。
「あいつが好きなのかよ.....」
踏み入った質問だからか、それは遠慮しがちな言い方であった。それを聞いた彼女はみるみると目を吊り上げ、余計に涙をこぼし始めた。
「そんなことジジが一番分かってるくせに、聞かないでよ!」
「好きでも無い奴にあんなことする意味が分からない」
「私には、ここが全てなの! 彼がどんな人であってもそれでいい。ジジには分かんないよ!」
「だから、誘惑しようってのか、好きでも無い相手に」
「恋人でも無いくせに、こういう時だけずるいよ」
顔を覆いいながら癇癪を起すほどに泣いている彼女を見て、ジジは手をギュッと握りしめた。顔は燃えるように真っ赤になり、怒りが体中に表れているかのようだ。
「とにかく、ソーチョーに依存するのだけは止めろ。あいつは危険だから」
彼はそう言うと、廊下に飛び出し、ドアを勢いよく押し付けた。その衝撃でこの古びた屋敷は振動してしまうほどだ。彼はそのまま洗面所に行くと、剃刀のように冷えた水に顔をくぐらせた。
もう一分ほど経ったのだろうか、やっと平静を取り戻してきたようで、途切れ途切れに吐いていた息遣いも元の状態に戻りつつあった。
「何してんの?」
「はっ」
その声に身を震わせた彼が、急いで顔を上げると、水は勢いよく飛び散った。壁一面に飛んだそれは、声の主であるドアを閉めたばかりの男にもいくつか張り付いてしまった。主はそれを手で払うが、ジジは謝ることはしない。むしろ、地面や身体に水をいっぱいに垂らしながら、後ずさりをしていた。しかし、直ぐに背中は壁が触れてしまい、壁にまで水は乗り移る。それが下へと流れ落ちる光景は、まるで彼の血が滴っているかのようである。
「どうしたの? そんな怖い顔しちゃって」
男は一度鼻で笑うと、顔を隠すように下を向く。しかしながら、口からは笑いが漏れ出し、全く隠しきれてはいなかった。その光景に、ジジは余計に顔を強張らせ、行けるはずが無い後方へとさらに進もうとすることを止めなかった。
「ガンガンってホントよく分からない子だよね」
まだ笑いが抑えきれないとでも言うように、男は口を手で覆い隠しながら、徐々に彼に近づいた。そして、目と鼻の先にまで近づくと彼の顔の脇に両手をついた。
「彼女が俺にキスしようとしたから、焦ちゃったの?」
「なっ、ソーチョー、お前気づいてたのかよ......」
「介護っていうさ、ピッタリな仕事も見つけた訳だし、ある程度お金が溜まったら出て行くんだろ?」
「それがどうした......」
笑みを浮かべた余裕の表情を見せる男とは一変して、ジジの額からは汗が吹き出し、それが流れる度に血の気が引いていることは、一目瞭然であった。それでも彼は、なるべく声を押し殺し、川で水が流れるように穏やかでいようと努めているようだ。
「その時にさ、ガンガンも連れてってくんない? あいつ本当に邪魔なんだよね」
「ふざけんな。今まで追い出さなかった癖に。やばいことがばれそうになったから、出て行かせたいんだろ」
ジジの中にはフツフツと怒りが込み上げてくるが、喉につっかえて中々口から言葉は出ず、その代わりに、荒い息を何度も吐き出した。やっと出たはずの強気な言葉は、震えていたし、乱れた呼吸のせいで途切れ途切れになってしまい、なんの意味もなしてはいなかった。
「やばいことって?」
「そうだな。例えば、人を......殺したとか」
ジジは毒でも飲まされたように息苦しそうに吐き捨てた。しかし、視線はソーチョーの瞳を力強く見つめていた。ソーチョーはその熱い視線に答えるように、一段と口角を上げると、耳元に自分の口を近づけた。
「色々なことを想定しながら生きていく。やっぱりジジは素晴らしいね」
ソーチョーはそれだけ言い残して出て行ってしまった。
「何、今の.......」
彼が見えなくなった瞬間、ジジは糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます