第21話 レアメタルの素質
「もう、今日のことは忘れよう。男との接触も絶対無しだ」
ギンガは最後に念を押すように、三人の中で取り決めを交わした。一つ目は、男が接触してきても、無視を決め込むこと。もちろん、彼らの方から連絡することも決して無い。二つ目は、ソーチョーに、何も尋ねないということだ。
「えっ。でも......」
今にも部屋を後にしようとしている二人。その背中にジジは手を伸ばすが、その手が二人に届くはずもなく、扉は閉められてしまった。
***
警察官が彼らの前に現れてから、ゴミ屋敷には異様な雰囲気が流れていた。しかし、誰もそのことには触れようとしない。いつも通りの生活をしようと皆がそればかりに集中してしまい、逆にいびつな日常が生み出されていることに、ここの住民は誰も気づいていない。
「ソーチョー。介護の件だけど、とりあえず、掛け持ちで働いてみようと思う」
「そうだな。やってみるに越したことはないからね」
ジジは仕事に行くため、リュックサックを片手に持ち、居間に居たソーチョーに声を掛けた。出掛けることを示すように、それを背中に背負った時、ソーチョーは思い出したかのように言葉を付け加える。
「介護士になれそうな目処がつけば、ここからも出て行けるもんな」
「ああ、そうだな......」
何かを言いたげにジジは口を開くが、それを押し込め、誤魔化すようにどうでもいいようなことを口走る。
「電気、取り替えなきゃね」
気まずい雰囲気に耐えられなかったのか、ジジは上を見上げた。二人を照らしている明かりは、チカチカと消えたり点いたりを繰り返している。ただでさえ暗い部屋なのに、いつもよりも余計にどんよりとした空気になってしまう。
「ストック無いから、買いに行かないと」
「ああ。早く明るくなるといいね」
「もう時間だろ? いってらっしゃい」
何かを言う暇を与えないかのように手を振るソーチョーに見送られ、ジジは唇を噛み締めながら、家を後にした。
「最近、ここに居ていいよって言わなくなったな。逆に、出て行けと言われているみたいだ」
薄汚れた地面を見つめながら、彼はゆったりと歩みを進めていた。
ソーチョーは、警察のことについては何も口にすることが無い。逆に「出て行ってもいい」という雰囲気をことあるごとに口にするようになっていた。
「やばいことがバレそうだから、出て行けってことか?」
地面を怖い顔で睨み付けていると、彼の後方で、何かが割れるような音が響き渡った。その音に反応した彼は、「うわっ」と声を上げながら、すぐさま後ろを振り向いた。そこには、仰向けに寝転んでいる中年男と、まるで血が張り付いたように壁をしたたる液体。その行き着く先には、ガラス瓶のようなものが転がっていた。
どうやら、男がそれを壁に叩きつけ、割れた音らしい。
「びっくりさせんなよ」
両手を小さく縮め、顔を強張らている彼は、変に怒りを示した。突然音が鳴ったのだから、驚く気持ちは充分分かる。しかし、この町では人が転がっているというのは当たり前の光景で、彼らが何か騒動を起こすのは日常茶飯事なのだ。それを理解しているはずの彼がビンが割れた程度でここまでの反応を見せるのは、過剰なことである。
「まあどっちにしろ、早く出ようとは思ってたし、深く考えることはないよな」
彼らと深く関わってはいけない。自分を落ち着かせるように、服の上から左胸のあたりをギュッと握り締めた。しかし、その手を離して、彼は突然立ち止まってしまう。
「はあ。家を出たいからといって、介護士になるのは、違うんだよな」
コンビにまでは、目の前の角を曲がれば直ぐといったところなのだが、彼は地面が沈んでしまいそうなほどの深いため息を叩きつけながら、力なくしゃがみこんでしまう。
「やる気おきないな」
腕時計を確認した彼は、立ち上がると、誰かに押されているかのように、嫌々ながら歩き始めた。そんな彼の気持ちを代弁するかのように、空は雨が降りそうな憂鬱な模様をしていた。
気持ちが乗らなくとも、責任感のある彼は、当然ながら仕事はきちんとこなした。二時間早く出勤していたギンガと終了時間は同じであったため、二人は更衣室で着替えを済まし、真夜中のように暗くなってしまった夕方に帰宅の途につく。
「雨かー」
更衣室にある小さな窓には、線上になった雫がいくつか張り付いていた。
一旦店の中を横切り、出口に向かうと、前を歩いていたジジが突然立ち止まる。後ろを歩いていたギンガは勢いよく衝突してしまった。ジジが眺めていた先には、会計を済ましたばかりの常連のおばあちゃんが居た。ジジを見つけたおばあちゃんは、「まあ」と言って太陽のような笑顔を浮かべ、心地の良い声で軽く挨拶をしてくる。彼はその人から自然に袋を取り上げると、「仕事終わったから一緒に帰ろう」と言って、一つの傘に二人で入り、仲良くデートに出かけてしまった。
「ああ。寒い。帰ろう」
存在を忘れられてしまった男は、ガラス張りのドアからその様子を眺めていたが、同僚の笑い声で我に帰り、なるべく静かに闇に紛れ込んでいくのであった。
「悪いねー」
「全然。俺も家に帰るだけだよ」
何か暖かいものに包まれているようなそんな声を耳にしているからか、彼はいつになく晴れやかで、幸せを噛みしめているようであった。
「最近の若い子にしては本当に珍しい子だね。本当にいい人だよ。きっと、あんたは幸せになるね」
「俺が、幸せに......?」
彼は突然身体を両手で抱え始めた。先ほどの表情が嘘のように、何かに怯えるような表情で身体を震わせていた。そして、力なく握られていた傘は、地面へと落ちてしまう。
「どうかしたのかい」
その異変に気付いたおばあちゃんは、心配そうに顔を覗き込んだ。すると彼は左胸を押さえ、険しい表情を見せる。
「大丈夫かい? どこか苦しいのかい?」
「自分が醜くて、苦しい」
彼は涙を垂らした。抱えているものを全て吐き出すように、目をきつく閉めて涙を絞り出すが、雨に同化してしまったそれは、どれが涙でどれが雨なのかは分からなかった。
おばあちゃんは地面に落ちてしまった傘を拾い上げると、彼の上へと被せようとするが、彼はそれを手でつき返してしまう。
「人助けをすると、まるで自分の過去を制裁出来たみたいで良い気分になれるから、だから、今もこうしてるんです」
彼は地面を見つめた。まるで、そこに涙で出来た沼があって、そこに醜い彼の顔が映し出されているかのように、怯えていた。
「いい人なんかじゃない。だから、俺に優しくしないで下さい」
「何があったか知らないけど、あんたの気持ちはどうあれ、私は今、凄く助けられているんだよ」
おばあちゃんというものは、尊大な人だ。突然泣き出す若者を前にしても、こんなにも穏やかで居られるのだから。その人は、彼の背中をポンポンと二回叩いた。
「荷物を持ってくれたことだけじゃない。歩幅を合わせてくれていること。楽しくおしゃべりをしてくれたこと。そして、私なんかに弱みを見せてくれたこと」
その人は少しだけ寂しいような表情を見せた。彼女もまた下を向いたものだから、彼の水たまりには、その表情も写りこんでいる。
「あんたの行動でね、予想以上に多くの人が救われている。きっと、一緒に働いている人たちや、一緒に住んでいる人だってそうに決まっている。それなのに、あんたは人助けを止めてしまうっていうのかい」
「うん。そうだよね。ありがとう」
「あら、雨も止んだみたいね」
その人は、傘を持ってもらうという役割を彼に与えてくれた。
彼の頬には再び涙が流れだした。遠吠えのように声を上げることを出し惜しみせずに、気が済むまでそうしていた。その人にも彼の涙ははっきりと見えている。空には満月が浮かんでいて、その光に照らされてか、涙はつやつやと輝いていた。
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