8 追憶

 さて、おれが今までやつを追いかけなければならなくなった理由を話しておこう。この世のたいていの事柄と同じように始まりは大した話ではない。 昔、おれがまだはなったれのがきんちょだったころに遡る。おれにだって子どものころはあったのだ。 おれは両親と父親の両親と一緒に住んでいた。

 家の近くには小さな祠があって、いつも花が供えられていた。供えられた花は白い花だったり黄色い花だったり赤い花だったり青い花だったりといろいろだったが、ひとつだけ、共通点があった。

 どの花も、おれの住んでいた家の庭に咲いている花だった。

 その理由も単純だ。おれのじいさんがお供えしていたのだ。

 じいさんはおれに言った。「あの祠にお参りすると、商売繁盛、家内安全なんじゃよ」 おれはそれを聞いても何も思わなかった。当然だ。ところがあるとき、事情ががらりと変わることになる。

 夏の暑い日だった。暦では晩夏だったと思うが、盛夏のように猛暑が続き、雨は長いこと降っておらず、埃っぽい乾いた空気はみなの喉を焼いていた。

 こんな暑い日でも子どもは外に出るもので、おれも外に遊びに出ていた。しかしあまりの暑さに夕方を待たずしておれは家に帰った。そんな折のことだ。

 玄関の外に客がいた。

 おれの父親は祖父から受け継いだ商売をしていた。店は家とは別に歩いて数分のところにあった。家を商売に使ったことはなく、そればかりか父や祖父は仕事とは無関係の知人友人に会うときでも店を使ったし、家に他人が来ることというのがまずなかったのだ。親類を除いて、の話だが。

 玄関の前で佇む男は、大男であった。しかしこれはおれが子どもだったからそう思っただけで、実際のところはそんなに大きくなかったかもしれない。あのときあれだけ大きく見えた男だが、今のおれより大きかったとは思えない。

 男は暑い中、陽射しも強いのに、じっと玄関の前に立っていた。帽子、麦わら帽子ではなかったと記憶するが、つばの広い帽子を目を隠すように目深にかぶっていた。比重の重そうな黒っぽい木を削っただけの、それでいて身の丈には合っている杖を右手に持ち、軽く体重を預けていた。上空には二羽のカラスが声もなく飛んでいたのをはっきり思い出せる。目眩を起こさせるには充分な陽射しの強さだった。 おれはその男の脇をすり抜けて玄関の前に出て、家に入ろうと引き戸に手をかけたとき、その男もおれに声をかけた。

「こんにちは」

 えらく嗄れた声だった。


***


「こんにちは」

 まだ子どもだったおれも挨拶を返した。えらく可愛い声だった。手前味噌か。ならば言い直そう。今と比べればおれの声としてはえらく可愛い声だった。

「ご尊父はご在宅ですかな」

 男はそう言ったのだと思う。しかし子どものおれは「ゴソンプワゴザイタクデスカナ」の意味がわからず首を傾げた。それを見て男は言い直した。

「お父、さん、は、おうち、に、いる、かな」

 低い威厳のこもった声には似つかわしくない台詞である。だがそれを意識してか、単語ごとに短く切った言葉だったので、おれはその意味を理解するのに少し時間がかかった。

「いません」

 おれはそう言って、引き戸にかけた手を引いた。本当はいるかどうかなんて知らなかった。がらがらと引き戸が開き、おれは中に入ろうとした。そのとき父の靴がないので本当にいないことがわかった。

「あ、待てぃ。お父、さんは、どこに、いる」

「たぶん、お店です」

 おれは振り向いてその男に向かって言った。

 そのとき、おれは見てしまった。

 それまで帽子の影に隠れていた男の顔を。

 もしかしたらその男も他人に自分の顔を見せまいとしていたのかもしれない。

 その男の顔は帽子の庇が作る影の続きであるかのように黒く見えていたが、そのときは光線の加減だろうか、白っぽく光ってはっきりと見えた。 顎は四角く、俗に下駄と呼ばれるだろう形をしていた。おれは今に至るまでこのとき見た顔ほどに下駄顔を見たことはない。

 口は、大きかった。大きい口、しか印象に残らない。下駄顔はそのバランスを取るため口が大きくなるものだとは思うが、そのことを割り引いて考えても相当大きかった。もしかしたら、今思えばだが、唇の端から頬にかけた傷があったのかもしれない。しかしおれには、人間とは思えぬほどに大きな口があるように見えたのだ。 鼻はへしゃげていて、もとは高かった鼻が何かの拍子で潰されていたように見えた。

 そして、その男には、片目がなかった。右目がなかったのか左目がなかったのか今となっては記憶が定かではないが、なかったのは左目だったような気がする。あるほうの目は梟のように正面を向いて光っていた。もちろん光りゃしないが日照の都合でそう見えたということだ。ないほうの目は、描写に難しい。何も具体的な描写をできるほどの記憶は残っていない。にもかかわらず、恐ろしいものを見たという記憶だけが残っている。

 あるほうの目で片目の男はおれの頭の天辺から足の先まで視線を動かした。片方の目の視線はおれを突き刺し、もう一方の目はおれを吸い込んだ。そのコントラストは、おれをさらに怖がらせるのに充分だった。

「坊。お前の父のいるところに案内してくれぬか」

 もはや口ぶりも取り繕っていなかった。そのころのおれはえらく従順だったし、目玉のない目に怯えていたし、そういうことだった。おれは何ら反抗も見せずに黙って微かに頷くと、今来た道を引き返した。おれは、さっさと用事をすませてこの男と別れたかったのだろう。おれは案内して店まで歩いた。

 父親の店までの数分間、おれは生きた心地ではなかった。 途中、じいさんがお詣りしている祠の脇を通ったが、供えてあった花弁の多い白い花ははっきりと思い出せる。花の名前は知らない。調べる気もない。

 店に着くと、おれは店にいた父親に声をかけ、片目の男を引き合わせた。店と言っても、倉庫みたいなもので、一般の客はほとんど来ない商いだ。父親はその男と懇意にしているわけではないようだったが、わざわざ訪ねてきた人を追い返すのはしのびなかったのだろう、客間に通した。客間は店先のすぐ横で、店から見えるところにある。引き戸を閉じさえしなければ同じ空間である。だからこの男の用事をすませつつ店番をすることは可能であったが、父親はおれに店番をしていろと命じた。

 仕方がなく、おれは店の中の椅子に腰掛け、片目の男と父親のほうとを眺めた。怖いもの見たさなこともあったし、他に見るものがなかったこともあった。おれは視界に店の入口が入るように調整した。片目男はおれのほうに背を向けて座っていた。帽子はとっていて、椅子に立てかけた杖の上に掛けていたのが見えた。そして、肩を震わせながら喋るのだった。

 片目男が父親と何を話していたのか、覚えていない。あるいは、おれの耳には聞こえなかったのかもしれない。または、子どものころのおれには理解できない話だったのかもしれない。父親は聞き役に回り、相槌を打っていた。どういう会話がなされたのか、おれにはわからない。しかしいつになく父親が険しい表情を見せていた。そして、しばらくして、顔をあげておれを呼んだ。

 おれは返事をした。返事をしただけで父親のところにはいかなかった。

「三番の棚に、手のひらくらいの大きさの、木でできた箱がある。持ってきてくれ」

 父親はそうおれに命じた。三番の棚の扉を開けると、当時のおれがぎりぎり手の届くところに木の箱があった。他にも木の箱があったがなぜかおれはすぐそれだとわかった。おれは手を伸ばしてその箱を手にした。

 箱はずっしりと重かった。子どものおれはそう感じた。

 中に入っているもののせいではない。

 そのときその箱には中に何も入っていなかったのだ。箱自体が重かった。重たい木材でできていた。 おれは箱を持って父親のところに行き、箱を渡した。

「ありがとう」

 礼を言ったのは父親ではなく、片目の男のほうだった。おれは思わずびくんと体を震わせた。片目男に対する恐怖心は微塵も薄らいでいなかった。おれは何も言わずに、父親も何も言わなかったのだが、元いた席に戻った。

「これが、お前さんの言う箱だ」

 父親の声が聞こえた。

「見せてもらうよ」

 片目男の話し声も聞こえるようになった。先ほどまで全く聞こえなかったのに。おそらく、ラジオのチューニングが合うようなものなのだろう。さっきの礼を聞いたせいででおれの耳に片目男の声の周波数が合ったのだ。

「この箱にはまじないがかけてあるそうだよ」父親が喋っていた。「そう聞いた。嘘か本当かは知らんし、どういう呪いなのかもよく知らん」

「知ってる」

 さも興味なさそうな声が聞こえた。後ろ姿から推測する限りでは片目男は木箱をいろいろ弄っているところで、相槌を打ったのだ。

「知ってるのかね。どういうまじないだ」

 父親はそれとは逆に、興味を持ったようだ。

「あんたは知らんほうがいいだろう」

 同じ調子で片目男が答えた。しかしおれの父親は引き下がらなかった。教えてくれと繰り返した。

「この木箱は、私が懇意にしていた客から預かっていたものだ。しかしその客とは連絡が取れない。どういう次第なのかを聞くこともできんのだ」

 だから教えてくれ、とわが父は言った。

「そうだな」片目男が蛇のようにゆっくりとした動作で首を持ち上げたことが背後からでもわかった。見えはしないが蛇のように先が割れた舌を出し入れしている様子が目に浮かんだ。もちろん本当に見たわけでもない。そういう架空の記憶が残っているということだ。

「知ってしまうと無事には済まぬ」 父親の表情を見て、ふ、と息が漏れるのが聞こえるような気がした。この距離で聞こえるはずがないが、彼が笑ったのは間違いないと思う。

「覚悟の上だよ」

 父親が芝居がかったせりふを吐いた。先ほどの笑いは自身が芝居調の発言をすることに対する照れ笑いだろう。見ている人にはあまりいい印象を与えない。しかし当の本人はそのことに気づいていない。

「この箱の歴史は古い」

 片目男は厳かな調子で話し始めた。

「あきつあかかがみ、という歴史書がある」

 片目男の発言が続いた。

「有名な大鏡や増鏡などとは違って、ギョーブショーユー家の私的な家伝である。だから一般的には知られていない。お主も知らんだろう」

 父親は、知らぬ、と答えた。

 このときのおれはギョーブショーユーなる言葉が何かの呪文のように聞こえた。今のおれにはギョーブショーユーには刑部少輔の字を当てるのだと分かっているが、しかし、敢えてギョーブショーユーと呼ぶことにしよう。

 客人はさらに続けた。

「あきつあかかがみ、この中身は、あまり広く受け入れられるものではない内容が多い。ギョーブショーユーの家中のどうでもいい日記に近い。それでも当時の歴史風土史料として使えるならまだいいのだがそんな史料でもないのだ」 客人は出されていたお茶に口をつけた。

「しかも作られた年代があやふやである。ギョーブショーユーは新しく創生したような家柄ではないことは確かである。氏も明らかにされていないが藤原か何かだと思う。少なくともギョーブショーユーを名乗る以上ギョーブショーユーに叙任した家柄だろうと思われる。室町末期の戦乱で西京に逃げ、大内の衰退とともに使用人を離散し、その後なぜか吉野宇陀に移ったことになっている。そんな記録があきつあきかがみにあるのだ。その一方で越中高岡に居住したという内容も書かれておる。また、但馬出石に匿われたとも書かれておる。言ってみればあやふやであるな。 当家の人間は長岡京の時代から続くと言いはっていたしそう書かれているのだが、あやしい。あやしいどころか、ほとんど嘘だと言われておる。おそらくだが、この史料はギョーブショーユーの家のものが売り払って手放し、たまたま手に入れた者が騙って付け加えたのだろう。ギョーブショーユーの本家はすでに途絶えていてもおかしくない。いま、ギョーブショーユー家を名乗る家柄はその出自が非常に怪しい。だが、あきつあきかがみに書かれていることが全編怪しいわけではない。正しい記述もある。この書物はギョーブショーユーの家の家宰が代々書き連ねていったもののようで、だから書いた人間によっていろいろ書きかたも異なるし、眉唾な内容も混じる、ということなのだろう。現存するのは写本だけだ。安政から文久の間に書き写されたと見られている」

 客人は滔々と述べた。

「さて、このあきつあきかがみの中に、うつきうつへくすたんたすくたしゆけんとの段という一節がある。細かいことは省くが、ある若い禅僧が秘宝とされるあるものを盗み出して逃走し、ギョーブショーユー家に逃げ込んだ。ギョーブショーユーはすぐに禅僧をその禅寺に突き出した」

「禅僧は本山に捕まったあとしばらくして死んだらしい。若い禅僧だったのだから自然死ではないだろうな。しかし、その禅僧の死後しばらくして、ギョーブショーユーの家に亡霊が出没するようになった。ギョーブショーユー家は禅僧のいた寺に除霊を頼んだ。果たして、除霊役の僧侶がやってきた。その僧侶がみたところ、死んだ禅僧であったらしい。生者の禅僧は死者の禅僧と相対した。ギョーブショーユー家の中の座敷である。そこで禅問答が始まった。なんでも生者と死者の禅問答は三日三晩続いたらしい。その間二人とも飲まず食わず、もちろん霊のほうは飲み食いの必要はないんだが、とにかく隙間風吹き込む家の隅で昼夜の別なく死者と生者の禅問答が続いた。問答と言っても会話ではない。禅問答であるから、問いを発する声がして、しばらく経って、もうしばらく経って、さらにしばらく経って、忘れたころに問に答える声が聞こえるといった体であったという。三日目の夜あるいは四日目の朝方に、生者のほうが、われ大悟せり、全てはこれにあり、と床に書き残して息絶えていたそうだ。屍の側にあったのがお前さんの持っている木の箱だ」

 そう聞いて父は木箱をしげしげと見つめた。

「本山からもっと偉い僧侶がやってきて調べた挙句、いろいろ解釈が行われた。最終的な本山の見解は生者死者二人とも大悟なり、全てを毀形した僧の念が箱に表れておる、その箱こそしるしであるとのこと。この箱はいっとき解脱匣としてその宗派の中では話題になった。そういう曰くがあったのだ」

 客は思わせぶりに言葉を切った。

「なんだか、見当もつかんな。仏の教えには疎い。禅宗はなおさら」

 父はそう言った。

「箱の中を見るのにはある作法がいる。そもそも大悟せし僧が示したものであるから中には観念的なものしかない、言うなれば虚があると言われていたわけで、中を見ることは叶わなかった。見ようとしたものは多数いる。しかしみな半年を経ずして変死を遂げてしもうた。馬に跳ねられて死んだもの、高熱が出て死んだもの、とつぜん怪鳥のようなけたたましい声を出して外に飛び出して首を吊ったもの、今なら飛べるに違いないと言うて屋根から飛び降りたもの、穴を掘って地面に潜って飲まず食わずで息絶えたもの、強盗に斬られたもの。酒も飲んでいないのに酔っ払ったような状態になって川に浮かんだもの。そういうことが続いたために呪いがかかっていると言われたのだ。しかもその効果は人の貴賎を選ばない。どんな人でも平等である。死んだものの中には仏教とは全く関係のないものも多数いるのだ。貴族もいるし、禰宜もいる。つまり、別に大悟や解脱を目的とせすとも、中に入っているものを見ようとしただけで半年以内に死ぬ」

「中には何が入っているのだ」

 父は臆せず尋ねた。

「今言うただろう、中には虚ないし空が入っているとされている。俗世を棄てることで悟りを開けるのだ」

「そう言われると中を覗いて見たくなるな」

「おいおい、死にたいのか」

 片目の客人は冷たく言い放った。

「さっき、見るための作法があると言った」

「耳ざといな。そうだ。ある天文博士が偶然見つけたのだ。決まった作法を使って見ることにより、寿命を縮めることがなくなる。この作法を使わずに見てしまうと、やはり半年以内に死ぬらしい。理由はわからんがそういうことらしいのだ」

「その作法とはどういうものだ」

「ギョーブショーユー家の門外不出の巻物に記されておる」

「箱自体は門外に出ているな。でなければ私が所有しているはずがない。巻物はどうなのだ」

 父は少し体を乗り出した。

「考えている通りだ。巻物も門外に出ている」

「どこにある」

「わしは知らぬ。しかし大して広くないこの業界のこと、お前さんが本気で探せば程なく見つかるだろう。巻物本体ではなく写本でもよいのならばさらに簡単だ」

「ふうむ」

 父は心当たりを探っているようだった。

「そんなに中を見たいのか」

 少し間をおいて客人が問うた。

「見たいわけじゃない」

 父はそう答えたが、子供のおれにも嘘だとわかった。子供でもわかる嘘をついた照れ隠しに、父は言葉を継いだ。

「だが、気になるではないか。本当に半年以内に死ぬのか。例外はないのか。たまたまそうだということはないのか」

 片目の男はゆっくりと首を横に振った。

「聞きたいことはわかる。だが、作法に則らずに箱の中身を見ておきながら、半年後に生き残ったことがあるとは伝わっていない」

「伝わっていない、と。誰が誰に伝えたのだ」

「ギョーブショーユーの家のものだ」

「では、ギョーブショーユーの家からこの箱が出て行ったのはいつだ」

「はっきりとした時期はわからんな」

「ギョーブショーユー家のもとから箱が出て行った後、その内容を伝えるものはあったのか」

「それも」片目の客人は片目を閉じた「わからんな」

「だいたい、どうやって伝わっているのだ。口伝か、それとも文書があったのか。さきほどのあきつあきかがみとやらは箱がギョーブショーユー家から出た後の箱についても追いかけて記しているのか」

「ふむ」

 思わぬ質問を受けて客人はうろたえた。しかし落ち着いて受け答えした。

「あきつあきかがみにはギョーブショーユー家のことしか記されておらぬ。箱のその後のことは特に記されておらぬ」

「では、箱がギョーブショーユーの家から出た後、呪いについては誰が伝えているのだ」

「誰も伝えておらぬな」

「つまり、その情報はだいぶ古いということだ」

 父は勝ち誇ったように言った。しかし客人はこう言ったのだ。

「だがな、古い情報が間違っているということもあるまいて。不確かかもしれんが正しくないということもない。そこまでして否定するのはなにか理由があるのか」

 父は答えなかった。

「もしや、箱の中を見たのか」

「いや」

 父は否定した。しかしそれは弱々しい否定だった。

「本当に見ていないか」

「見ていない」返事はさらに弱くなった。

「何が見えたのだ」

「何も」

「本当にそうなら問題ない。だが、何か見えてしまったのだとしたら、ぐずぐずしてはいられぬぞ」

 父は目を伏せた。

「まあ、ここから先は私の預かり知らぬこと。本日はこの匣の所在を確かめただけでじゅうぶんだ。実は匣は一つだけではないのだ。死に際して禅僧が示した匣は三つあったのだからな」

 その言葉を最後におれの記憶は途絶えている。まだ暫く客人は居残り、何か話をしていたはずだが、何時頃帰ったのか、全く記憶に残っていない。おれは父より先に家に帰ったのかもしれない。それすら記憶にない。

 その半年後に、じいさんとばあさんが相次いで死んだ


***


 さて、それから何年も経って、おれも子供ではなくなり、父の仕事を手伝わされることになった。骨董品屋などという商売はもはや単独では成り立たなくなっており、父も本業を別に持ち、副業としていた。来店する客は少なく、もし来客があったとしても予約制であり、基本的には週末に少し店を開ける程度で構わないのであった。しかし、古くからこの商売をしているせいで、同業者や、文化保存会や、そういったところからの問い合わせは結構あった。店を開けるに及ばないのであるが、しかしそのためには蔵の目録を作らねばならず、当然のようにおれもその作業に駆り出された。とにかく書物が重点的であった。父は書物の棚卸に力を入れざるをえなくなっていて、物品はおれが手伝っていた。

 そういう状況で、おれはあの小箱を見つけたのだ。

 初めは、何か見覚えがあるな、といった程度の感想だった。

 しかし、手に持った瞬間にすべて思い出してしまった。それまで全く小箱のことを覚えていなかったというのに。

 おれが倉庫の中から小箱と古い記憶を見つけ出したとき、ちょうどタイムリーなことに、倉庫の外ではある異変が起きていた。

 それを知ったのは倉庫の中でいっしょに棚卸をしていた父親に電話がかかってきたからだ。倉庫には内線を引いている。電話の主は父親の同業者だったと思われる。

 父親が喋るのを一方的に聞くだけの断片的な会話であったが、思い出す限りでは次のようだった。

「それは本物なのですかね」

「しかし私が知っている情報では三つだけで、そのうち二つはここにある」

「そりゃあ、試したことはないがね」

「私にはわかりませんよ」

「機会があればぜひそうしたいです」

「わかりました、日程が決まったら知らせてください」

 電話を切ったあと、父親は受話器をもったままぼうっとしていた。なにか考え事をしていたようにも見えるし、何も考えないように努力していたようにも見える。

 おれが辛抱強く父親を観察していると、しばらく経ってから、ゆっくりとおれのほうに動き出した。おれの前まで来て、こう言った。

「このへんに小さい箱がなかったか」

 おれはそのとき、手に持った小箱を差し出してもよかった。そうすべきだった。しかし、特に理由はないのだが、おれは小さく首を横に振った。

「そうか。いっしょに探してくれ」

 父親はおれに小箱の説明を始めた。古い磨き上げられた木製で、片手の掌の上に乗るサイズで、見かけより重く、真言を書いた札が貼ってある。同じようなものが二つある。父親の伝える箱の特徴は、おれが手に隠したものと寸分たがわなかった。長らく実物を見ていなかったはずの父親の説明が正鵠を得ているということは、父親の記憶にもこの箱の造形が鮮明に残っていたということだ。にもかかわらず、収納した場所はよく覚えていなかった。おれがその小箱を見つけた棚とは別の棚の前に行き、この辺りだったはずだとつぶやきながら、上から順に探し始めた。いや、だが、場所を覚えていないからといって父親を責めるのは酷かもしれない。というのもおれがその小箱を見つける前に、その他のものをいろいろ動かしていたからだ。

 父親は棚を三つ探し終え、四つ目の棚で一つの箱を見つけた。手にとって、慎重に一周回転させ、それから、これだ、と息を吐いた。しかしもう一つは見つからなかった。当然だ。そのとき探し物はおれのポケットにあったのだ。

「一つしかない。もう一つはどこに消えた」

 父親はさらに倉庫の奥の方を探した。無意味だとわかっていながらおれも一緒に探した。おれはポケットの中から探し物を取り出し、見つけたと伝えることもできた。しかしそうはしなかった。

 父親は一通り探し終えてから、ふうと大きく息をついた。それからゆっくりと顔を上げ、おれの目を睨みつけた。

「出掛けねばならん。お前も来るんだ」

 有無を言わさぬ調子だった。おれは反抗する気が起きなかった。射すくめられるとはこういう状態を言うのかもしれない。

 それから、おれは父親の運転する車に乗って出かけた。


 向かったのは車で三十分くらいの場所で、街行く方とは反対側だった。街の方にはよく行くし道も知っているのだが、逆方向には滅多に行かない。寂れた神社があることは知っているがそのほかにはとくに何かあるわけではない。坂道は急だし、道の脇には水田や畑がある。しかし民家はない。夜になると街灯ひとつない。坂道がさらに急になるその間際に、神社がある。小さいころに数回行ったことがある。その時の記憶では、鳥居は朽ちかけていて、手水場の水は涸れ、石碑は苔むして何が書いてあるのか読めなくなっており、拝殿と本殿の間には草が生い茂っていて本殿に行くことができなかった。鳥居から拝殿の前までの間は草が刈られた跡があった。

 父親の運転する車はその神社の方に向かっていた。典型的な悪路で、十年ものの商用のワゴンの助手席に乗せられたおれは車輪が轍を踏み外すたびにぴょこんぴょこんと跳ね、一度などは天井に頭をぶつけることもあった。シートベルトをしているにもかかわらずだ。ワゴンの天井が低いということもある。

 父親は途中までずっと無言だったが、おれが頭をぶつけたときに一言、気をつけろと言った。気をつけるのはおれじゃないと思ったが、おれは何も言わなかった。何か言う気分じゃなかったし、何か言う雰囲気でもなかったのだ。

 おれの上着の右側のポケットにはまだ小箱が入っていた。

 父親は神社の鳥居の前に車を止めると、後部座席から荷物を取り出した。結構な大荷物だった。おれは命じられる前に荷下ろしを手伝った。そうしているうちに軽自動車がやってきて、おれの前に止まった。

 運転席から出てきたのは、袈裟を着た人物だった。袈裟を着ているのだから僧侶だと思う。しかし、長くはないものの剃髪していない黒い髪に、視線が見えないくらい濃い色のサングラスをかけていた。袈裟も着崩している。

「待ったか」

 低い声で、僧形の人物はおれの父親に向かって言った。父親は無言で首を横に振った。

「こっちだ」

 僧形の男は車に鍵をかけずに神社の奥に向かった。草履ではなく靴を履いて、雑草の生い茂る中に伸びている石畳の参道の真ん中を歩き、かつかつと音を立てた。おれと父親もそのあとに続いた。おれは参道のこころもち右を歩いた。十段くらいの石造りの階段を登ると、左手に手水場が見えてきた。しなびて乾いた水草と完全に枯れた苔に覆われた緑色の竜の口からは何も出てきていなかった。竜の緑も緑青であろう。柄杓の残骸と思われる黒ずんだ木の棒が、水溜めの角に立てかけてあった。柄杓の盥は見当たらなかった。

 もはや長いこと使われていない手水場は、作りは立派であっただけに、一層の侘しさを感じさせた。

 手水場の先には、おれの記憶にあった通りの社殿があった。拝殿までの道は草が刈られており、その先は暗くて見えないがおそらく記憶通りに草が生い茂っていることだろう。拝殿の全景も見えないがやはり記憶の通りであろうことがわかった。

 僧は手水場を通り過ぎて拝殿の横の小さな祠に向かった。誰もこの祠に参るものはいないだろう、それほどひっそりとした場所に鎮座していた。祠自体は大きめのハンドバッグくらいの大きさで、石を積んで高くした場所に鎮座しており、高さはちょうどおれの胸のあたりに拝殿があるくらいの高さ。大社造であるが、屋根の右側が破れている。破れた屋根からは名前を知らない羊歯植物が生えている。

 おれは袈裟を着た男と父親のあとに続いていたのだが、父親はなぜか尻込みして、おれを前に押し出そうとした。それに応じる形でおれは父親と体を入れ換える形になった。

「ボン、お前がやるか」

 僧の格好をした男はおれに言った。

「何をです」

「何をって。聞いていないのか」

 僧は父親を見た。父親は首を横に振った。

「ボン、お前もこいつの息子なら知っているだろう。お前のところの倉庫には呪術の道具がある」

 おれは父親を見た。父親は何も反応しなかった。

「知らないのか」

「はい」

 おれはそう答えた。正確には、「どれのことを言っているのかわからない」だ。いろいろ怪しげな道具があるのは知っている。香炉だの金剛杵だの閼伽だの、おれの家がこういう商売をしていなければ絶対に見たことも聞いたこともなければ、そのものの名前が書いてあったとしても読むことができないだろう仏具や、おれも名前や形を知っている神鏡、三方、大幣といった神具も揃っていた。売り物なのかそれともわが家のものなのかも知らない。そのようなものがいくつもあった。神道でも仏道でもないものもあった。おれにはわからない宗教道具だ。

「お前のところはお前の代で終わりか。倅に継がすつもりはないらしいな」

 おれがなにも行動を起こさずにいると僧は父親に向かってそう言った。父親はそれに対してなにも答えなかった。おれに対して、知ってるはずだと諭すこともできたし、僧に対して何か異議を唱えることもできたはずなのだ。だがそうはしなかった。父親は黙って前に進み出た。先ほどまでは何か尻込みしていたのに、だ。父親らしいところを見せたくなったのかもしれない。

「こいつにはまだ教えていないことがたくさんある、私がやります」

 そう言って父親はおれが知らない宗教道具を取り上げた。形から見ると仏教系の道具である。僧が来ている時点で仏教系の道具を使うことは当然とも言える。しかし、通常よく見るようなものではない。

 柄杓のようなかたちのその道具を持って、父親と僧侶は奥の部屋に入っていった。おれはどうしようか迷っていた。一人取り残されるのは居心地が悪い。かといって歩いて帰るには遠すぎる。待っているには寂しい。

 すると僧は首だけ出して一言、

「入れ」

と言った。さすがにサングラスは外していた。おれは中に入った。

 中は薄暗い小さな部屋で、三人入ることは厳しいような広さ。仏像が正面にあり、その前に座布団、右側に木魚。正面に線香立てと蝋燭。そして持って来た柄杓のような仏具が置かれている。

父親は部屋の左側に正座して窮屈そうに身を屈めていた。僧はおれに向かって右側のスペースを示した。おれは示されるまま右側の空間に入り込んだ。言われたわけではないが父親と同じようなポーズを取る。このスペースに収まるにはそれ以外に方法はない。

 おれが座ったのを見て、僧も座布団の上に座った。木魚をつるんと撫でる。おれの膝のすぐそばである。

 柄杓の仏具を取り上げ、額の前に掲げた。そのまま無造作に元の位置に戻す。

 なにやら口の中でぶつぶつとつぶやいていたかと思うと、

「えい」

と大声を出した。

 それを聞いて、父親はなにやら祝詞だか真言だかを唱え出した。発声法が現代語と異なるのでなにを言っているのかまったくわからない。妙な節回しである、たぶん神道の祝詞とも異なるようだ。かといって呉音で読むような言葉にも聞こえない。日本語ではないのかもしれない。おれには梵語はわからない。もう言葉を理解できない時点でおれには雑音にしか聞こえなくなった。

 父親の唸りは長くは続かなかった。そうだろう、そんな訳のわからない言葉を長く吟じる技量があるとは思えない。

 そのうちに僧がよしと言った。

 そうすると僧はもう一度同じようにぶつぶつとつぶやき始めた。慣れてきたのか、おれにも節回しがわかるようになってきた。しかし意味はわからない。

 意味はわからないが同じような節を吟じられるようになってきた。おれは何を言っているのか理解しようとしたが、叶わなかった。そのうちにまた、僧が、

「えい」

と言った。

 するとまた父親が祝詞を唱え出した。おれも一緒になにか唱えるべきか迷った。迷った上で、やめた。もしかしたら事情を知らない者が茶々を入れたら良からぬことがおこるかもしれない。ありがちなことである。おれはここで傍観者として参加するべきなのだとしたら、その任を果たすべきである。僧は柄杓の仏具を手で弄び始め、詳しくはわからないが神饌を榊で祓う動きに似ている気もするし、もしくは、そうだな、飛行機のおもちゃを手に入れた子どもが空を飛ばせて遊ばせる動き。僧のつぶやきは何を言っているのかまったくわからないが、そう認識してしまうと、「ぶーん、ぶんぶーん、ひゅー、ががががが」と言っているように聞こえてしまうのが何とも滑稽だ。

 父親の節が急に止まり、僧の持つ柄杓の飛行機も地面に着地した。それと同時に僧は、

 「えいやっ」

と言った。

 おれにはわからない儀式が終わったようだった。僧は立ち上がった。そのまま後ろ手に引き戸を開けて外に出た。合わせて父親も外に出たのでおれも続いた。

「これで少しは時間が稼げるだろう。あとはお前がなんとかせい」

 僧はそう言って父親の肩をとんと叩いた。

 おれは父親のもとに向かった。

「今の儀式は」

 父親は振り払うかのように首を振り、そのまま下目におれを見た。

「いずれ話すこともあるだろうが、まじないだ」

「まじない…」

 おれは目だけ動かして僧を見ようとした。僧はもう部屋を出ていた。

「あの坊さんは」

「あの人は、あんななりであんな行動だが、かなり有名な人なのだ」

 どういうジャンルで有名であるのか。生臭坊主としてか。生臭坊主の代表格は一休宗純であろうが、この僧もやんごとなき身分の人の落とし胤だったりするのか。

 父親が蝋燭の火を消している間に外に出た。目が慣れてくると、暗い中で月の光だけが頼りであるというのに、僧はサングラスをかけていた。盲人ということもないだろうし、なんなんだ。

 おれが外に出てると、僧が寄って来た。おれは反射的に体を遠ざけたが、僧はお構いなしで寄ってきて、おれの真正面に立った。月は彼をライトアップするかのようにはっきりと顔を映した。こんな至近距離で見るのは初めてだ。僧は当時のおれよりも少しだけ背が高かった。というか、まだおれの背が伸び切る前のことだ。おれの背が伸び始める前はおれの背は平均的だったのだから。

「坊」

 僧はおれをみすえて言った。考えてみれば坊主に坊と呼ばれるのはなんだが変だ。月明かりのサングラスの奥で僧がどのような表情をしているのかはまったく見えなかった。おれが夜目に弱いだけのかもしれないが、おれにはこの明るさでサングラスをかけて不都合なくものが見えるような気がしない。

「一度お前にちゃんと話したほうがよいだろうな。お前の父親がまともに説明するとは思えぬからな」

 後ろで、父親が戸締りをする音がした。

「ここに連絡を寄越せ。いつでも良いぞ。朝早くでも、夜中でも」

 そう言ってなにか厚紙を渡された。その時は見えなかったが、あとで確認したところでは、名刺であった。

 そして僧は父親に近づき、なにか二言三言話すと、こちらを振り向きもせずさっさと車に乗ってエンジンをかけ、低い音を立てながら去っていった。

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滑走と累積のバルーン 穂積 秋 @min2hod

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