7 鉱滓
とつぜん天井が降ってきたのはおれのせいじゃない。例え天丼が降ってきたとしてもやはりおれのせいじゃない。おれは何もしていないのだから自明のことだと思うのだ。しかしやつにとってはそうではないらしい。というのも、降ってきた天丼からこぼれたと思しき海老天の尻尾をもてあそびつつ、右往左往して右顧左眄するおれを見つつこういったのだ。
「きみといると思うように事が運ばないね」
この発言を好意的に取れば、やつは天井を落とす気がなかったとも言えるし、高位的に取れば、やつは天井を落とすつもりはあったのだが、期待していた落ち方ではないということにもなる。行為的に言ったらやつは何もしていない。何もしてなくても天井を落とせるのかどうかは知らない。
おれとやつが落ちてきた天井を避けて飛び退くと、うなりをあげて落ちつつあった天井はおれのほおをかすめて床に落下した。ねこ丸君がどうなったのか見る余裕がなかったが、天井がいよいよ床と接触しようというときにぺしょっといういやあな音が聞こえた。おれは天井の下を覗き込もうとしてあきらめ、天井を持ち上げようとしてあきらめ、もひとつ何かやろうとして何をやるべきか考える前にあきらめた。
「あいつらのことは心配しなくても大丈夫だ」
やつが言った。
「あるべきところに帰っただけだ」
いや、その言葉では心配の種は消えない。しかし、あるべき場所とはなんだ。
「あるべき場所とはあるべき場所だ。彼らはもともとここにいてはいけなかったのだ」
ここにいてはいけなかったのか。
「そう。だって、きみを惑わすからなあ」
おれを惑わすから、ここにいてはいけなかったのか。
「そうだよ。そう思ってくれて構わない。偉くなったな、きみも」
お前の口からそんなセリフが出てもちっとも嬉しくない。
「きみを嬉しがらせるために言っているんじゃないよ」
では何のためだというのだ。
「あの二人がここにいてはいけなかったことをいうためだよ」
よくわからない。よくわからないが、やつがおれと二人きりになるためにあの二人が邪魔だったことはわかる。なぜやつがおれと二人きりになりたいのかはわからない。
「さて、人払いも済んだ。きみのためにわざわざこのぼくがセッティングしたんだ。実りある会合にしようではないか」
おれは何も言わずやつに背を向けた。何だか気に食わないことがある。それがなんだかはっきりしないのだ。おれはやつを追いかけていて、やつに到達した。何か不満があるのか?
ある。
そう、思う。
思うのだが、何が不満だかわからない。
おれはやつに背を向けたまま、考えを巡らせた。足りない考えではあろうが、考えなしに臨んでもいいことがあろうか。
「下手の考え休むに似たり、という言葉がある」
やつの声が聞こえた。時宜を得ている言葉なだけに腹立たしさもひとしおだ。ここでやつの口車に乗ってやつと会話を始めたところでいい結果を得られると思えるほどにはおれはやつを信用できないし、悲しいことにおれ自身も信用できない。
おれはやつに背を向けていたはずだがいつの間にか正面にやつがいた。おれは動いていないから、やつが動いたのだろう。やつはおれがやつに気づいたことに気づいた。だからこんなふうに言ったのだ。
「この部屋は天井が落ちたから天上への路ができたということもできる。いっしょに行くかい」
どこへだ。
「殿上さ」
どこだ。
「天上には点状の御殿があるのだ。そこに添乗するのだよ」
天塩を土産にか。
「それはあまじおと読むのだ。だがジオは地面のことだから天地を土産にするのも悪くない。きみにしてはいい考えだ」
褒めるな。
「褒めているのではない。感心しているんだよ。何よりの土産なのかもしれないね」
やつはまっすぐ歩き出し、おれの横を通る際に、いっしょに来るだろ、と言った。
おれは、逃げるのか、とやつにむかって吐き捨てた。
「逃げる?なぜ?」
やつは足を止め、首だけをおれに向けた。なぜかマルク・シャガールの絵を連想した。
「その言葉はぼくがきみにいうべき言葉だ。いったい何しにぼくのところに来たのだ」
そこでおれは何をすべきなのか考えた。しかしやつはおれが何か考えをまとめる時間を与える気はないようであった。
「きみがわざわざぼくのところに来たから、ぼくは時間を作ったのだ。ぼくもきみに用事がないわけではないんだが、きみの用事をさきにすませてやろうというのに」
さて、この局面、おれが積極的に行動を起こせなかったのには理由がある。おれがやつに対して用事を済ませるためにはいくつか解決しなければならない条件があり、おれはそれらの条件を解消する必要があったのだ。やつはそれを知っていながらおれを弄んだにちがいない。でなければ場所を変えようなどと言い出すはずがない。
しかも、やつに本当に天上とやらに行く気があるのなら、おれを振り切ることは難しいことじゃない。
それをしていない、つまりおれを待っているかのような行動をとるということは、おれと話の結着をつけようというやつからのメッセージだ。
決着。そう、おれはこの一連の事柄を結着させねばなるまい。
今まで決着を避けていたのかという問いには、そうだと応えよう。そういう気持ちがなかったとは言えない。やつとの決着はおれにも少なからず痛みを伴うものなのだから。
だがそれも終わりだ。
おれは黙って、二十センチメートルほどの幅の紙でできたテープを一巻き取り出した。このテープは、自分で言っても矛盾を禁じ得ないが、目立たないわけではないが目立って映えるような色ではない黄色い色でできており、おれの目的にはうってつけなのだ。
おれはテープを大胆に入口に貼った。入口を通ることができなくなるくらい大胆に。何箇所も、何箇所も。
それから、その辺に落ちてたペンを使って、大きくKeep Outと書いた。一箇所だけじゃなく、目に付く場所に何箇所にも書いた。書きにくかったので、書いてから貼ればよかったと思った。だが、そんなことは大したことじゃない。おれは書き終えた。
おれは部屋の真ん中あたりに移動し、俯瞰して出来栄えを確かめた。どことなく目にはいる文字。おれはその出来栄えに満足した。
それから、やつに向き直り、こう宣言した。
結界を張った。おれもお前も、簡単には出られない。
やつはまるで孫を見守る老人のような表情で愉快そうに声を出さずに笑ったが、何も言わなかった。しかしやつの目は何か言いたげであったのだ。
***
おれにはやつを前にして、すべきことがあった。一つにはやつに借りを返すこと、そしてもう一つは、やつへの貸しを返してもらうことだ。おれはここでキメるべきセリフを探し、考えを一巡りさせて、結局、こう言った。
「やあやあ、ここで会ったが百年目、盲亀の浮木、優曇華の花よ、待ち得たりは今日の対面、ひと度この世に生まりょうて、恨みはらさで措くべきか」
決まらないセリフまわしだ。やつは大野でも典膳でもないし、おれの親の仇というわけでもない。やっぱり言い直そう。おれにしては非常に珍しいことではあるが、長口上を切るべきだ。そうすれば異化作用も相まりいかにこの場を待ち望んでいたのかを知らしめることができるではないか。おれはなるべく静かな調子に聞こえるよう努力しながら言葉を接いだ。
「口上はどうでもいいが、お前を探していた。ひとつにはおれのためで、もうひとつはおれの友人のためだ。まあおれは他人のことがどうでもいい人間であることは全面的に認めるし否定するつもりもないがこの友人だけは特別だ。おれはおれの友人のためにお前を追いかけてきた。おれのためだけならお前を追いかけてくることはなかったかもしれない。また、おれの友人の都合だけならおれが動くことはなかっただろう。しかし、おれ自身の思いとおれの友人の思いが一致すれば話は別だ。一人の思いより二人の思いのほうが強いのだ。思いの強さは思い思いに重荷を負いて老いたる鬼の面差しのごとしだ。だが、それだけではない。おそらくお前の思いも一緒なのだろう?そうでなければおれの追跡などいとも簡単に逃げおおせたはずだ。お前にとっておれの追跡をかわすことなど赤子の手を捻りみどり児の首を捻り白子に和えるポン酢醤油の瓶の蓋を捻るようなものだということはよく分かっている。お前がそうしていないということ、行く先々でお前がヒントを残していったこと、最後にはお前自らの意思で姿を現したこと、これらのお前の行動にはすべておれと相対しようという意志があるに違いない。違うとは言わせない。もちろんお前がおれに対する用事が全くなかったわけではないことは知っている。あえておれがお前の目の前に現れるのを待っていたのかもしれないし、そういった一面もあるだろうし、お前のことだ、暇つぶしに近い感覚でおれの言動を観察して楽しんでいて、最終的にどのように結末を持って行くのかちょっとだけ気になったのでおれに会う気になったのかもしれない。非常にあり得ることだ。だから礼には及ばんという理屈も成り立つが、ひとつの区切りとして、おれは謝意を示さねばならないだろう。癪にさわることこの上ないが礼を言おう。感謝する」
おれは不本意ながら深々と体を折り曲げて拝礼した。礼を示すにはかくあるべしというような我ながら見事な拝礼だ。自己評価だが。
「この礼はお前に対する礼ではない。おれがおれ自身のため、おれの友人のために礼を示すのだ。おれ自身にはお前に対する礼など持ち合わせていないし持ち合わせるつもりもないことははっきり言っておこう。そして、お前のおれに対する感情も同じようなものであればいいと願っている。そうであればお互いしがらみも白髪も白髭もなくしらを切って白紙に戻せるかもしらん。白紙に戻して因果を断てるならどんな労苦も厭わない、そんな気分になるほどだ」
「なるほど」
おれの言葉の隙をついてやつは言葉を潜りこませた。おれがおれらしくもなく喋り続けていたあいだ、やつはやつらしくもなく沈黙を守っていたのだ。お互いがお互いのロールを入れ替えることで見えてくるものもある。やつはおれに近づき、おれはやつに近づいた。今までユークリッド幾何における平行面のごとく接することのなかった二人は、それまではどこにあるのかわからない光源から照射された射影としてしかお互いを認識していなかったが、もしかしたら係数が変わって接線ができるようになる兆候かもしれない。面と向ってやつを見るとどこかに接線があるとは感じにくいが、お互い直面であればいずれ接線に直面することもあるだろう。いや直面するなら線ではなくて接面か。その点だか線だか面だかを楽しみに待てばよいのかそのときを畏れるべきか。 驚くべきことに、おれの言葉の間隙を付いて発言し、おれの発言に間隙を開けたにもかかわらず、やつは次の言葉を発しなかった。理由はわからない。おれの出方を窺うつもりなのかもしれない。だがやつの意思によっておれの行動を変える必要もない。
***
「お前には貸しがある。返してもらおう」 おれはそう切り出した。
「これのことだな」
やつは、木でできた小さな小箱を取り出した。そう。その通りだ。おれがやつに貸していたもの、なんとしてでも取り返したかったもの、その正体は実はこんなちっぽけな木箱であり、やつは今それを手に持っていて、おれはそれに手を伸ばせば届くところにいる。 手が伸びた。
「おっと。まだ渡せないよ」
やつはそれをおれから遠ざけた。おれはさらに手を伸ばし、やつはさらにおれからそれを遠ざけ、もう一方の手でおれの手を掴んだ。激しい衝撃を受け、おれは思わず手を引っ込めた。
「ぼくがこれを得るために払った代償を肩代わりしてもらおう」
「お前に借りがあるのは知っている。何をすれば返せる」
「実はね」やつはいやらしい表情でいやらしく笑った。「今のままの状態で返してもらってることにしてもいいんだよね」
「どういうことだ」
「つまりさ。ぼくがずっとこれを持ち続けることできみはぼくに借りを返せるとしたら、どうだい」
「なっ」
「だから今のままでもいいんだ」
「よくないっ」 おれは大声を出した。
「そうかな。一考の価値はないだろうか」
「ない」
「なかなか魅力的な取引じゃないかな」
「そんなはずはない」
「きみはいつもそうだ。考えもせず否定する」
「いつもではない」
「ほら、まただ。たいてい、いつも、そうだ」
「おれにとって荒唐無稽な提案をするやつが多いからそう見えるんだろう。今のお前のように」
「つまりきみは視野狭窄ってことだな」
「おれに対する評価はともかく、今回のお前の提案は受け入れることができない」
「どうしてだ」
「どうしてもだ」
「交渉の余地は」
「ない」
「そうか。残念だ」 やつは本当に残念そうにそう言い、おれの手に収まるべき小箱を懐にしまった。
「その箱を返せ」
おれは低く唸るような声を出し、やつを睨みつけた。こんなことでやつが萎縮するはずがないが、おれはそうせざるを得なかった。
「きみのほうにもぼくに借りがあるはずだ。その借りを返せるかい」
おそらくわざとだろうが、おれを主語にした文でものを言った。
「さっきも聞いたが、何をしたらお前に借りを返せるんだ」
「さっきのぼくの提案は、却下された。実はぼくにもよくわからないんだ。代償に何をもらったらよいのか」
「なら大人しくそれを渡してくれればよい。代償なんて考えず」
「そういうわけにはいかないよ。そうだ、きみが腰に着けているポーチを貰うというのはどうだ。もちろん、中身ごとだ」
「なんだと」
「きみの腰のポーチを中身ごとくれたらこの小箱を渡そう」
やつはさも今思いついたことをなにごともなく言うかのように言った。おれのポーチの中には決して渡すわけにはいけないものが入っている。そしておそらくやつもそのことを知っている。つまり、嫌がらせである。
***
「このポーチに入っているものを知っているんだろう。ということはそれができないということも知っているということだ。他の条件なら考えることもあろうが、今のお前の提案には考えることもない。ノーだ」
「何が入っているか、知らないよ。知るはずもない。だがその口振りだとぼくに知っていてほしいようだな。なにが入っているのか、教えてくれるんだろうね」
やつは意地悪そうに目を光らせた。おれはやつが答えを知っているに違いないと信じていた。しかし答えを言うことにした。
「お前が持っている小箱を開けるための鍵が入っている。おれが鍵を渡せば、お前から小箱を返してもらっても意味がない」
「なるほど。でも、本当に意味がないのかな。こういう話がある」
やつは準備していたかのようなタイミングで切り出した。
「あるところに貧しいが若い夫婦がいた。旦那の自慢は分不相応な高級懐中時計で、素晴らしい出来栄えの逸品だった。たぶん自動巻で補正機能がついててグレゴリオ暦カレンダーもついてるんだろう。もしかしたらジャイロ機能まで付いていたかもしれないね。ところが一点だけ難点があったんだ。何かというと、その懐中時計にはそれに見合うだけの鎖がなかった。鎖のない懐中時計なんて、首輪のついていない犬みたいなもんだからね。どこに逃げて行ってしまうかわかったもんじゃない」
例えがおかしいだろうと内心思ったが、口には出さなかった。それより、どこかで聞いたことがある話だ。次は髪の毛が自慢の妻が出てくるんじゃないだろうか。
「さて、嫁さんのほうはというと、これはね、綺麗な髪が自慢だった。我々の国では緑の黒髪などとも言うが、間違い多いけどこれ本来はみどりじゃなくてりょくの黒髪、だね。中国の故事に倣った言葉だから訓読みすべきじゃない。まあこの話はヨーロッパかヨーロッパ以上にヨーロッパ文化を持つアメリカの白人文化の話だ。綺麗な髪と言えば間違いなくプラチナブロンド。スカンジナビアの神話では雷神トールの嫁シフの髪が見事だったと記述があるが、それと同じようなもんだろう。その嫁があまりに自慢するのでヘラが怒ってその嫁を蜘蛛に変えてしまいましたなんて流れならギリシア神話ふうだが、そんな愉快なことは起こらない。この嫁さんはそんな自慢げではなかったからね」
愉快かどうかは疑問だが、次の展開は読めてしまった。何か茶々を入れるよりは、最後まで聞いてやった上でうまく切り返してやるほうがいい。そう思ったので黙っていた。
「さて、ある年のユールタイド、この夫婦は生活するので精一杯で、クリスマスのギフトを買う余裕もなかった。なかったはずなんだが、なぜかクリスマス当日、ギフトを持った二人の姿があった。別に他の家にお呼ばれするようなこともなかったから、お互いへのギフトなんだろうね。中を開けると、きみも予想がついているとおり、旦那の贈り物は嫁の髪にぴったりフィットな素敵な髪飾りで、嫁の贈り物は懐中時計にびびっとビビッドな鎖だった。二人はお互いが贈ったものに満足し、お互いから贈られたものに困惑した。どうしてかって?きみが想像しているとおりの答えだ。旦那は懐中時計を売っぱらって金を作り、嫁は髪を売っぱらって金を作ったから」
やつは楽しそうに笑った。おれはやつを好ましく思わないが、これだけ楽しそうに笑うのなら、いい人生を送っているのだろうことは確信をもって言える。そして、やつの人生のために足蹴にされているのがおれやおれのようなやつらだ。他人を踏み台にして生きている人間というのは確かに存在する。やつもその一人だ。その事実をまざまざと見せつけられているのだ。 やつは、こう締めくくった。
「賢者の贈り物というらしいよ」
「なにがいいたい」
言おうと用意していた言葉も忘れ、おれはやつの真意を確かめる言葉を示した。
「大したことじゃない。ただ、そういう交換の手段もある。そういうことだ」
「誰も得をしないのにか?」
「誰も得をしないのにだ。それが、賢者の贈り物」
「そういうのが賢者だというのか」
「そういうのが賢者だという話があるのだ」
「やってられん」
「きみが賢者ではないことは知ってる」
「ご挨拶だな」
「賢者になり切れないというならば愚者なりの解決法を示してくれ」
「どうすればいいんだ」
「それをきみが示すんだ」
思いついたことがあった。「いいんだな?」 おれはやつに近づいて聞いた。確認のためにもう一度聞いた。「いいんだな?」
やつはおれの目の少し上に目の焦点をあわせながら、大きく頷いた。
***
おれはやつの首をがっちり掴んだ。
「首をへし折られたくなければその箱を渡してもらおう」
やつは全く慌てる様子を見せなかった。
「さっきから言ってる通りだ。無償で譲るわけにはいかない。きみは代償に何を出せるんだ」
「渡せばお前を無事に解放してやろう」
「公正な取引じゃないな。暴力に訴えるなんて」
「手段に構っていられないんだ」
「きみが切迫していることはわかったが、おあいにくさまだ。ぼくには関係がない」
「だからお前にも関係するようにしてやっているんじゃないか」
「どう関係するのだ」 やつは薄ら笑いを浮かべた。
「おれの焦りが最高潮に達したとき、お前の首はへし折れる」
「そうか。あまり歓迎すべき事態じゃないみたいだね」
「今まで歓迎していたのか」
「歓迎はしていないが、睨観はしていたよ」
「どういう意味だ」
「まあ、それはいいや。では、こういうのはどうだろう。きみが、きみ自身があの小箱にまつわる話をぼくに聞かせるというのは。その話を聞かせてくれた代わりに、ぼくは小箱をきみに渡そう」
「何が聞きたいんだ」
「きみが聞かせたい話をすればいいんだよ」
「お前に聞かせる話などないね」
「まあ、そう言うなって。きみだって何の理由付けもせずに小箱を奪うことは心安らかにいられないだろう」
「おれに対する気遣いなら不要だ。それより、おれはいつでもお前から目的のものを奪うことができる。いまそうしてもいいんだ」
「ではそうしないのはなぜだい?」
「お前の顔を立ててやってるんじゃないか」
「じゃあ、ぼくの顔をもう少しだけ立ててくれ。きみがこの木箱を欲しがる理由を聞きたい。それだけだ。それだけのことで、この木箱はきみのものになる」
その言葉によりおれはいくらか考えを改めた。話をするくらいいいじゃないか減るものでもなし、という考えが芽生えたのだ。もちろん、一方的に奪うことを良しとしない本心もある。
「どうしても聞きたいのか」
もったいぶって、そう言った。
「そうだね。どうしても聞きたいね」
「では、聞きたい理由を聞かせてもらおう」
時間稼ぎ、である。おれはやつにどこまで話していいのか測りかねているのだ。さきにやつに喋らせ、その言葉に合わせておれが喋ればいいのだ。
「そうきたか。じゃあ、言うが。その前にきみの手をぼくの首から離してもらえないかな」
おれは、そうした。そうしても問題なくなったと判断したからだ。やつは、調子いいことをさも調子がいいように言うが、完全なる嘘は言わない。嘘っぽいことは山ほど言うのだが、完全無欠な嘘は言わない。虚実織り交ぜ、相手を煙に巻くことを生き甲斐にしているようなやつだ。その目的のために、躊躇うことなく実と虚をブレンドする。配合は人気のコーヒー店のように絶妙だ。
「では。まず、おおもとの話から始めようか。そのほうが、ぼくの立場ときみの立場がはっきりして、お互いにとって良い方向へと向かうだろう」
おれはやつの動きを監視した。特に怪しい動きはなさそうだ。おれは警戒したまま、やつの話を聞き始めた。 ぼくはね、とやつは話を始めた。
「この木箱の中に何が入っているのか、きみが知っているはずがないと思っている。そう思っているんだが、きみがこうまでして執拗にこの木箱を追いかけてくるのを見ると、もしかしたら、とも思うんだ。もしかしたらこの木箱のことを知っているのかもしれないぞ、とね。いやさすがにそんなはずはないと思うんだが、そうとも言い切れない素振りをきみが見せているので、確かめようと思ったんだ。ぼくがきみに近づいたのは、そういうわけだ。もうだいぶ昔の話になるのだな。ときに、きみは、この木箱を開けたことがあるのかい」
おれは肯定も否定もせず目を泳がせた。おれの泳いだ目は、やつの上の天井、天井の奥の壁、壁に連なる床を経由して、やつの左手に戻ってきた。やつは左手にその木箱を持っている。
ある、と力なくおれは呟き、ある、と心の内で思った。そのときやつがどのような表情をしていたのかを見たくなくて、敢えて視線をそらせたままだ。
中になにが入っていたか、教えてくれるだろうね。
やつはそのように言った。
覚えていないな。
反射的に、なにも考えずに、おれは言った。
「きみがずっと求めてきたものだろう。覚えていないなんてことは信じられない。さあ、言ってくれ。きみがこの木箱の中に見たものを」
やつはいつになく強い口調で迫った。
おれは木箱の中を見たことがあるし、何があったのかもはっきりと思い出せる。だが、おれが尋ねているはずなのにおれが答える状況が気に食わず、おれは答えないでいた。
「やっぱり、知らないんだな。だとしたら、不思議だね。きみがここまで追いかけてきたことが」
そう言ってやつは、とん、と靴を鳴らした。
「ああそうか。見たことはないけど、何が入っているのかは知っているのか。誰から聞いたのか知らないが、それはおそらく嘘っぱちだ。実際に見た者でないとあれがなんであるかは分からないだろう。いや、見た人であってもあれがなんであるか分からない人もいるかもしれない。わからないものを理解しようとして単純化した結果の表現だけを知っているのなら、不幸なことだ。ましてやそれを追いかける羽目になるとは、とっても不幸なことだ。しかし、こうも言える。自分が不幸であることを知らないのだとしたら、それはとても幸福なことだ、と。智慧の実を手に取る前のイブは幸せではなかったか?禅僧は何を求めて解脱するのだ?全ての不幸が始まる前はみな幸福であったのだ。パンドラの箱さえ開けなければ幸福のままだったのだ。そういう意味ならきみは幸せ者だね」
相変わらず言いたいことがわからないのだが、やつがおれをばかにしてることだけはよくわかる。
やつはおれの反応を観察しようともせずに続けて言った。
「さて。木箱に入っているものは、人間の不幸を終わらせるためにある。幸福の源?まあ、そう言う人もいるかもしれない。ぼく自身はそうは思わないがね。ただしこいつは、多数の人の目に触れてよいようなものじゃない。知る人ぞ知るようなものですらない。誰も知るべきではないものだ。そう思うよ」
やつは淡々とそう言うとおれの顔に近づいた。
「だから、きみが何を思ってこれのためにぼくを追いかけているのか、聞いておきたい。是が非でも非が是でも、否応もなく、許諾に拘らず。そういうことだよ」
気取った台詞を吐き、口角を上げて笑顔に見せたがっているのだろう顔を作った。そして、おれの目をじっと見つめてから、わざとらしい笑い顔を作った。
「きみがこの箱の中に何を見たのか、教えてくれるだろうね」
おれは不機嫌なことが伝わるような声で、見ていない、と答えた。
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