最終小節:私にとってのハッピーエンド
「もう、行くの?」
人気のまばらな駅の改札口。そこに、みらいがいた。その姿は、冷たく無機質な白銀の甲冑ではなく、いつもの白いワンピース。彼女は、改札を挟んでホームに立つしおりとおりめに穏やかな視線を向けていた。
「うん」
「次の世界が待ってる」
"観客"の役目は、多くの世界…そのひとつひとつを記憶し、その存在を留める事だった。しおりとおりめもまた、その観客の中の2人だった。しかし、永遠にこの世界を保つ為に元・セカイによってピースメーカーの役割を無理やり押し付けられ、この世界に閉じ込められてしまっていたのだ。
そして、元・セカイの呪縛が解けた今、彼女達は再び他の世界を記憶する為に旅立とうとしていた。
「帰ってくる事があったら言ってね。皆呼んで、迎えに行くから」
「楽しみにしてる」
「……んじゃ」
少しだけ寂しそうな笑顔を見せるみらいに対し、鏡写しの少女達はいつもと同じ真顔で答える。相変わらず何を考えているかわからない表情だったが、少なくとも多少は別れを惜しんでいるようには見えた。
『未来への鍵』がホームに流れ、他の世界へ通じる電車が来る。そして、それに乗り込む直前おりめが振り返る。小さく手を振るみらい。しかし、彼女の視線は、そのみらいよりも少し先を見つめていた。そこにあったのは―――待合室。
電車が発車するまでのしばらくの間、おりめは物言いたげな目でその待合室を見つめていた。しかし、やがて既に車内に乗り込んでいたしおりに呼ばれると、おりめもその中へと消えていった。
「本当によかったのか? こんな未来で」
不意に、隣に座るシンが疑問を投げかけてきた。その表情は、欲しがっていた世界を手にしたにしては妙に固かった。私は、小さくなっていく電車を見送るみらいを待合室のガラス越しに見つめながら、静かに笑う。
「はい。私の願いは、ちゃんと全部叶いましたから」
そして、膝に乗せた黒いヴァイオリンケースの縁を、指でそっとなぞった。
―――あれから。
崩壊しかかっていた世界は、シンの力によって何事もなかったように元の姿を取り戻した。今も、窓の外では人々が変わらぬ日常の中を生きている。だが、目には見えないだけでこの世界の秩序は確かに変化していた。そして、それを創りあげたのがこの私の隣に座っている冴えない風貌の男だと、気づく者はいない。彼が新たに創造した世界、しかしその役割のほとんどを彼は以前と同じに設定した。相変わらずれんなちゃんとあいらさんはやれやれ君を挟んで言い争いばかりしているし、タクミさんはのぞみちゃんの為に研究に勤しんでいる。そして、世界は未だに水面下で繰り広げられている正義と悪の戦いに気づいていない。驚くほど、世界は穏やかなままだった。
勿論、ちゃんと変わった事もある。
「遊園地、楽しみだねー! ななちゃん、お兄さん!」
「のぞみ、お兄さんじゃなくて"お父さん"でしょう。何度も言ってるじゃないですか」
例えば、のぞみちゃんがタクミさんの養子になった。のぞみちゃん自身が家族の元に帰る事を拒んだ為、タクミさんが引き取ったのだ。戸籍など様々に問題はあったが、そこはシンが上手く"辻褄を合わせて調整"したので、世間からは正真正銘の父親と娘という事になっている。現在はななちゃんと一緒にシャトランジから脱退、助手としてタクミさんの手伝いをしているらしい。
「えー? だって、お兄さんはお兄さんだもん。ねー、ななちゃん」
<そうですね、のぞみ様>
ただし、父親というよりはまだ今まで通り友達のような感覚に近いようだが。
シャトランジと言えば、やれやれ君とあいらさんは今もシャトランジの側にいる。というより、シンがピースメーカーに戻さなかったので、残ってしまった。とはいえ、れんなちゃんとあいらさんはおかげでもう争う必要はなくなったし、やれやれ君は黒い甲冑を相当気に入ったようなので、問題はなさそうだが。
「おいれんな! 踏み込みが甘い、もっと気を引き締めろ!」
「っさい! 姉貴の方こそヒカルばっか援護してんなっての! あたしはどうなってもいいってか!?」
「やれやれ…」
…問題は、うん、なさそうだが。
ちなみに、やれやれ君は後に新しいピースメーカーの子達から『
そして、みらい。彼女は、再びピアニストの夢に向かって走り出した。みらいの指は、本当はピースメーカーに役割を変えられた時に完治していた。しかし、傷を負わされた時の恐怖心が鎖となって、彼女の指を動かなくしていたのだった。今は、私が"元いたアパート"で一人暮らしをしながら、音楽学校に通いブランクを埋めようと必死に勉強している。きっと、そう遠くない未来に彼女の夢は叶うだろう。
―――だがその時、私は隣にはいられない。
最後の演奏の最中、私は世界の崩壊の中に巻き込まれてしまっていた。しかし、演奏を中止してしまっては皆の努力が無駄になってしまう。だから、私は崩壊の中で演奏を続けた。その結果、私自身はなんとか消えなかったが、ゆかりさんから貰ったクイーンという役割を消失させてしまう事になった。つまり、私は"何物でもない存在"に逆戻りしてしまったのである。そして皮肉にも、世界の役割を受け入れない私の体は、シンの与える役割も打ち消してしまう。だから、みらいは私の事を見えないし、覚えていない。他の皆も。管理者であるシンだけが、辛うじて私を認めている状況だった。それも、もう少しの間だ。いずれは、元・セカイと同じように見えなくなるだろう。だが私は、大して悲観はしていなかった。
みらいは、元の普通の女の子に戻った。そして、2人で一緒に大きなコンサートホールで世界を変えるような演奏をするという夢も叶った。それだけで私は、満足だった。
「それより、ちゃんとこの世界を守って下さいよ。シンって結構大ざっぱだから、ちょっと不安です」
「わーってるよ。ここは俺の世界であり、お前の世界だ。やっと手に入れたもん、そう簡単に消させてたまるか。ま、観客様に忘れられん程度には上手くやるさ」
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも、誰かがここを覚えてる内はな」
私とシンは、顔を合わせて微笑みを交わす。彼の不敵な笑みは、この世界の行く末を暗示しているように光り輝いて見えた。
「…さて、俺はそろそろ行くわ。こう見えても、色々忙しいんでね」
「頑張ってください」
「おう! ……んじゃ、縁があったらまたな」
そう言って彼は、私に背中を向けた。それから待合室を出るまで、振り返る事はなかった。私もまた、彼の背中を追う事はなかった。彼が、その時何を想っていたのかはわからない。だが、少なくとも私を憐れんだり、同情したりはしていなかっただろう。彼は世界の支配者であり、悪の大組織の首領だ。そんな女々しい男ではない。きっと、いつかは役割に反発する私に絶対的な役割を与えて屈服させ、もう一度この世界に存在を認めさせてやろうとか、それくらいの事は考えていたに違いない。そして彼なら、なんとなく実現できてしまいそうな気がした。だから、私もシンも、これを永遠の別れにするつもりなんてなかった。勿論みらいや、他の皆とも。
柔らかな日差しが包み込む、たった一人の待合室。そこに、シンと入れ替わりで1人の女性が入ってきた。その、黒いワンピースを身に纏った女性は優美な動きで私のすぐ傍まで近づき、それから先ほどまでシンが座っていた椅子にゆっくりと腰を降ろす。
「やっと……やっと、取り戻せました。
私は、虚空を見つめながら静かに呟いた。隣に座る女性は、何も言わず私と同じように前だけを見つめている。
「私、あの時の選択は間違ってなかったと思ってます。確かに、引き返せない所まで来てしまったけど……それでも、みらいの事を忘れるよりはずっと良かったと思うから」
「…そう」
初めて、女性が言葉を発した。凛として、冷たくも優しい声だった。それから、彼女は私の肩に頭を預け、固くした表情を和らげた。
「よかった」
私もまた、女性の細く柔らかい手に自分の掌を重ね、体を預ける。少し長い前髪が、目元をくすぐった。
「お疲れ様………ありがとう」
「お礼を言うのは、私の方ですよ……ゆかりさん」
そして私は、包み込むような暖かさの中でそっと目を閉じた。
―――こうしてこの世界は滅び、悪の手に堕ちた。だが、多くの者が望んだものを手にし、そして未来を生きている。だからもし、これが物語だとしたら。
それは多分、世界一やさしいバッドエンドなのだと思う。
「……これから、どうしましょうか」
「そうね…とりあえず、どこか遠くに行きたい。誰にも邪魔されない、静かに2人きりでいられる場所」
「わかりました。行きましょう、ゆかりさん……一緒に、新しい未来へ」
そして―――多分、私にとってのハッピーエンドでもあった。
「…あれ?」
自宅に帰ってきたみらいは、テーブルの上に置かれたあるものに目が止まった。それは、普段みらいが着けているト音記号のヘアピン。何故かはわからないが、あまりかわいくないにも関わらず、彼女はそれを長いこと大切にしていた。しかし、みらいが違和感を感じたのはヘアピンではなく、その隣にあるものだった。
「こんなの、持ってたっけ…?」
みらいは眉を顰めて首をかしげた。それは、彼女にとって覚えのないものだったのだ。
―――そこには、日の光に照らされて黒く輝きを放つヘ音記号のヘアピンが、ト音記号のヘアピンと寄り添うようにそっと置かれていた。
世界一やさしいバッドエンド 水銀 @suigin
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