第30話
音楽室には綺歩と一誠の姿はなく『遊君・ユメちゃん戸締りお願いね』と綺麗な字の書置きが残されていた。
ユメの細い腕で拾い上げたところで、時計が急かしてきたので、ユメが一瞬何かを考えた後に着替えるために準備室に入る。
相変わらずの暗闇着替え。もう慣れたもので、制服が皺だらけになることをいとわなければ、アイドルも真っ青な早着替えを行う事が出来る。
俺はやった事がないが、ユメができるから俺もできるだろう。
皺になった制服は始めの内は、綺歩が洗濯・アイロンがけしてくれていた。
今となっては妹たちを味方につける事が出来るので、我が家でも行う事が出来るだろう。
益体のない事を考えているうちにユメが着替え終わり、ほぼ同時に俺と入れ替わった。
『今アイロンがけがどうこうとか考えていたでしょ?』
「よく分かるな。何もやることがない時に考えるネタが少ないとは言え」
『今日はいつもに増して早く着替えないと遊馬のコスプレを見る事になるから。
早く着替えたら制服持って帰らないといけない時期が早くなるでしょ?』
「そうなんだけどな。今はそれどころじゃないだろ」
『遊馬に言われたくはないけどね。どうするの、おんぶ? お姫様だっこ? それとも寄りかかってもらうつもり?』
「本人に選んでもらうほかないだろ」
『そうだよね』
音楽室に鍵をかけ、先に鍵を返さないといけないだろうなと思いつつ、階段を下ると科学部室が目に入った。
夏休みに入ってからまだ行っていなかったが、そもそもこの部活は夏休みもやっているのだろうか?
俺のその疑問に答えてくれたのは扉にある小窓。
磨り硝子になっているので中の様子まではわからないが、いつものようにまばゆい光が廊下に漏れ出した。
横眼で見ながら、巡先輩も好きだなと何となく思ってしまう。
簡単に理由を話し鍵を職員室で返した後、保健室に戻る。
稜子は出て行った時と変わらず、ベッドに腰かけた状態で、何もない空中を眺めていた。
「別に寝ていても良かったのに」
「あんたが、動くなって言ったんでしょ?」
「いや、それを言ったのはユメであって俺じゃない」
「三原とユメは同じなんでしょ? だったら一緒よ」
稜子の言葉を聞いて周囲の認識が何となくわかった。
俺とユメが別々だと俺達の中で決めたことを、強いて誰にも言っていなかったような気がする。
「確かに俺もユメと同じことを言っただろうな」
「なら、一緒じゃない」
「でだお前を送っていかないといけないわけなんだけど、どうやって送っていけばいい?」
「人の話を……まあいいわ。どうやってどう言うことよ」
「おぶっていくか、お姫様だっこでもするか」
「必要ないわ。一人で行けるもの」
稜子が強がって立ち上がる。
案の定ふらついて倒れそうになる稜子を抱きかかえるようにして支えたら、「変な事考えているんじゃないでしょうね」と毒が返って来た。
強情な稜子に対して、嫌味で返す事にする。
「ユメに抱きついていた奴が何を言い出すんだか」
「……」
「それで、どうする?」
「……おぶって」
「了解」
拗ねたようにそっぽを向いた稜子に短く返し、稜子がおぶされるようにしゃがみ込む。
背中に重さを感じたところで、足を持ち稜子が落ちないようにゆっくりと立ち上がった。
背に乗った稜子はその身長に見合わずとても軽いが、人一人分の重さ。
運動部ではない自分ではそんなに長く持ちそうもなく、悠長にしていられない。
「稜子の家ってどの辺りにあるんだ?」
「嫌……」
「なんだって?」
嫌って言わなかったかこいつ。自分の耳を疑うように訊き返した言葉に、稜子が同じ言葉を繰り返す。
「嫌……帰りたくない」
「どうして?」
「……」
黙られても困るのだが。少し考えて「大丈夫だと思うか?」とユメに問いかける。
『優希も藍もいるから大丈夫じゃないかな。母さんは……居ない方がいいかもしれないけれど』
「わかった。じゃあ、家に連れて行くから」
「なんで三原の家なんかに……」
「自分の家には帰りたくないんだろ、家には妹達もいるし慰め程度だろうが帰ってしまえばユメとも替われる。それが嫌なら、熱なんて出すなよ」
これで納得してくれないかと内心ハラハラしたが、稜子が諦めたようにそれでいて力無く「わかったわよ」と返事をした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
帰りがけまず苦労したのは下駄箱で靴を履き替える事。
靴を履き替えるようにと稜子を下ろしたところでふらつくので肝が冷えた。
幸いここまで誰にも会っていないが、家までの道は誰かから見られる事を覚悟で最短ルートを通る。
稜子の顔は俺の背に隠れて見えないだろうから、後で噂がたっても俺が誰かを背負っていたと言う事だけだろうし、綺歩もフォローしてくれるはず。
稜子は途中で眠ってしまったのか、すうすうと寝息を立ててしまっていた。
「いい御身分だよな。本当に」
『そうだね。でも、こんな風になってまで部活に来るあたり稜子らしいけど』
「さすがに疲れた」
『女の子相手に重たいは酷いよ?』
「重いとは言っていないだろ」
『遊馬がひょろいだけだもんね』
「ユメは華奢だがな」
まったくもって益体の無い、わかりきっていることを確認するためだけの会話。
何せ、俺が『ひょろい』からユメが『華奢』なわけで、どうしてそうなのかと言う事は互いに熟知している。
俺の言葉が意味するところだってユメには分かっているだろうから、敢えて冗談めかした返しをしてくるだけで……だからこそ楽しいのかもしれない。
少なくとも気は紛れる。
『はい、到着』
ユメの声と同時に、チャイムを鳴らす。さすがにボタンは押せても扉は開けない。
中から「はーい」と言う藍の声が聞こえてきて、ガチャッとドアが開いた。
初めは笑顔で対応をしていた藍がすぐに頭に疑問符を浮かべる
「どちらさ……あれ? お兄ちゃんお帰り。どうしたの?」
「ちょっとな。とりあえず中に入れてくれないか?」
「う、うん……その人どうしたの!?」
稜子の姿を確認した藍の驚きが数倍になるが、とりあえず置いておいて家の中に入る。
靴を見たところ、幸い母さんは出かけているらしい。
しかも、母さんの事だから一度出かけたら夕飯の準備まで帰ってこないだろう。
「こいつを寝かせたいんだけど、藍か優希のベッドを借りられないか?」
起きて俺のベッドだったら怒るだろうからとは言わない。
藍は快く「それなら私の使って」と言ってくれたので、だいぶ久しぶりになる妹姉妹の部屋に足を踏み入れた。
ほぼ左右対称に置かれた机とベッド。二人一部屋で俺の部屋よりも広いが、家具が倍近くあるので活動できる範囲としては同じくらいか狭いくらい。
左右対称に置かれているだけで、どちらがどちらのものなのかと言うのは一目瞭然。
藍の机は綺麗に整頓されているけれど、優希の机はややモノが散らばっている。
あくまで『やや』なので全然勉強もできるし、急に人が来ても困る事は無いところが優希らしい。
ホテルでメイキングされた後のような藍のベッドに稜子を寝かせたところで、遅れて藍が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん、その人……」
「ああこいつな。俺の部活の部長なんだけど、こんな状態で部活に出てきて、家には帰りたくないって言うから連れて来た」
「この人が……でも、よかったの? 家に連れてきても」
「いつまでも学校の保健室ってわけにもいかなくてな。
綺歩は別の用事で今はいないし、ここなら藍と優希とユメとで看病できるんじゃないかと。
藍達には悪いが、俺がやるよりもこいつも安心だろうし」
苦しそうに息をしながらも、ぐっすりと眠っている稜子の顔を見る。
こうやってみると、整った顔立ちをしているし、普段の刺々しさもなく可愛げがあるのになと思わないでもない。
「そう言うことなら任せて。とりあえず、優希にも事情を説明してくるね」
「頼む。ユメ後は任せた。俺はもうきつい」
矢継ぎ早にそういうと、裏声を出す要領でユメと入れ替わる。
「遊馬がきついってことはわたしだってきついんだけど……」
「お疲れ様です。すぐに戻ってくるから、ユメさんは少しだけ部長さんを見ていてくれませんか?」
「いいよ、わたしの事は気にしなくて。ゆっくり行ってきて」
ユメが藍の言葉に呼吸を整えつつ返す。
藍は微笑んでから「すぐ戻ってきますね」と部屋を出て行った。
「何とできた妹さんをお持ちで」
『知っていたかユメ、あれお前の妹でもあるんだぜ?』
「本当にもったいないよね」
『そうだな』
ユメと言葉を交わした後、ユメは稜子の顔を眺めていた。
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