第28話

「兄ちゃん、ユメ……お姉ちゃんに替わってもらってもいい?」


 優希にお姉ちゃんと言われた瞬間、頭の中で嬉しさをこらえられず『ふふ』と漏れ出た笑みが聞こえた。


 今のユメと入れ替わった場合、かつてないほど頬が緩むと思うのだが、妹の頼みは断れない。


 案の定だらしない笑みをユメが浮かべているのが、自分の事のように分かった。


「ごめんなさい」


「どうしたの、そんな急に」


 優希の謝罪に思わずユメが驚いて声をあげた。


「あたし多分ユメお姉ちゃんにも傷つけるようなこと言ったから……」


「うん、じゃあ許してあげる代わりに一つお願いしてもいい?」


「あたしにできる事なら」


「これからもお姉ちゃんって呼んでくれない?」


 俺は何となく予想できていたけれど、優希には予想外だったらしく目をぱちくりと瞬かせる。


 優希が躊躇いがちに「ユメお姉ちゃん」と呼び、ユメが「優希」と抱きついた。


『ユメ、気持ちは分かるがいろいろ説明する前に抱きつくとまた大変な事になるかもしれないぞ』


「あ、えっと、そっか」


「お姉ちゃんどうしたの?」


 自分が何かしたと思ったのだろう、急に離れたユメに優希が不安そうに眉をひそめる。


「あのね……わたしと遊馬って感覚を共有しているから今みたいに抱きついたりすると遊馬にも伝わっちゃうって言うか……」


「えい」


 今度は優希が抱き着き、ユメが困った顔をする。


「優希聞いていた? わたしに抱きつくと……」


「聞いていたよお姉ちゃん。あたしは兄ちゃんが好きだしお姉ちゃんの事だって好きになれる。


 だから、お姉ちゃんになら抱きついても大丈夫だよね?」


 悪戯っぽい顔する妹は本当に俺の妹なのだろうかと考えてしまうくらい可愛かった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「兄ちゃん兄ちゃん。今度のライブ友達と行ってお姉ちゃん自慢してもいい?」


「別にいいけど、流石にもう一枚チケット貰うとかできないぞ?」


「大丈夫、私と優希で半分ずつ出せば。千五百円でライブハウスに入れるって考えるとお得だし」


『ちょっと痛いけど、三千円くらいなら払ってあげてもいいんじゃないかな?』


 その日の夕食から、食卓がさらに賑やかになった。人が増えたのではないけれど、明らかに昨日までとは違う。


「まあ、駄目もとで頼んでみるから、もう少し待っていてくれ」


 ユメの言ったとおりお金を払うのはいいが、問題は二人が受け取ってくれるかどうか。


 十中八九受け取ってはくれないだろうから、稜子からお金を払って買おうと言うわけだ。


「ありがとう兄ちゃん」


「でも、無理だったからってお兄ちゃんが代わりに払うとかしないでね」


「あんたたちいつの間にそんなに仲良くなったのね」


 藍がこちらの思考を読んだ言葉に、何を返すか困ったところで、母さんから援護射撃がごとく話題転換の言葉がもたらされた。


「ちょっとあってね」


「でも、お母さんには内緒」


「はいはい。どうせお母さんは蚊帳の外よ」


 話しが逸れた後は、平和に時間が過ぎて行った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「兄ちゃん朝だよ」


「お兄ちゃん起きて」


 次の日の朝、二つの声に起こされた。


 流石に上に乗っているなんてことはなかったけれど、藍の顔は近いし優希は俺の身体を揺さぶっている。


「おはよう」


 妹達の奇行に驚き、寝起きで回っていない頭では挨拶をするのがやっとだった。


 俺が起きた事に気が付いた二人は満足そうに「お兄ちゃんおはよう」「おはよ、兄ちゃん」と返す。


 昨日の事があったとはいえ、ここまでしてくれるようになるとは思っていなかった。


『でも、うれしいでしょ?』


「まあな」


「兄ちゃんどうしたの?」


「ああ、ユメがな」


「そっか、お姉ちゃんもおはよ」


「ユメさんおはようございます」


「だって、うれしいだろ」


『なんだかくすぐったいけど、うれしい……かな』


「朝ごはんできているから早くリビングに来てね」


 藍が最後に言い残して二人とも俺の部屋を出て行った。


 朝から嵐が過ぎ去ったような気がしたが、悪い気はしない。


『こんなにして貰ってお兄ちゃん冥利に尽きるんじゃない?』


「ユメだってお姉ちゃん冥利に尽きるだろ」


『わたしは今から頑張らないといけないかな』


 嵐の感想を言い合った後、着替えてリビングへ向かう。


 朝食を終え、妹たちを見送り家を後にすると、綺歩が家の前に立っていた。


「遊君おはよう」


「おはよう。妹達の事どうなったのか訊きに来たんだろ?」


「必要はなかったかな」


「そうか?」


「だって、優希ちゃんも藍ちゃんも私を見つけるといつも以上に明るい挨拶してくれたから。


 きっとうまくいったんだろうなって」


「綺歩のおかげだな」


「そんな事無いよ。私なんて話聞いた位だし」


「じゃあ、綺歩のせいだな」


「せいってどう言う事なの?」


 綺歩の表情がコロコロと変わるのを楽しみつつ、学校へと足を向ける。


「もうすぐ夏休みだね」


「明日には終業式だからな」


「遊君はこの夏休み何かやることってあるの?」


「とりあえずライブだろうな。歌うのはユメだけど、部活が忙しくなるのは避けられないだろうし」


「今年はやろうと思えば夏休みに毎日練習出来ちゃいそうだからね。今日稜子から発表はあると思うけど。


 その他に何か考えていたりする?」


「他にはないかな」


「じゃあ、今年は皆で海とかプールとか行けないかな?」


「去年は行かなかったのか?」


「去年は私と稜子と御崎君だけだったから。今年は皆で何かできないかなって思ったんだけど」


「俺は別に構わないし、一誠はのってくるだろうけど他のメンバーを誘う方法とか考えているのか?」


「桜ちゃんは来てくれると思うよ。そしたら鼓ちゃんも大丈夫だと思うし、皆行くなら稜子も来ると思うの」


 何と言うか、買い物で何か味をしめたのだろうか、こんな風に綺歩から積極的に誘って来るなんて珍しい。


 美人ばかりのメンバーの水着姿が見られるとなれば男としては迷う必要もないので、後は綺歩に任せて楽しみにさせて貰うとしよう。


『藍や優希も誘ったら来るかな?』


「どうだろうな」


「遊君どうしたの?」


「ユメが藍と優希を誘ったら来るかなって」


「誘ってみようか、行くことが決まったらだけどね」


 綺歩と話しながら気がつけば既に学校の目の前まで来ていた。


 自然と周りにいる生徒からの視線が――主に綺歩に――集まるのだけれど、今日は少し様相が違う。


「あれって志原さんだよな」みたいな話はいつもの事であるが今日はその後に「そうそう、あのバンドって言えば生徒会が……」と尾ひれがつく。


 よくよく聞いてみるとどうやら生徒会がユメを探しているという噂があるらしい。


「これはちょっとまずい事になったかな?」


「所詮噂だと思うんだけどな。流石に生徒会も全生徒の顔と名前を覚えているわけではないだろうし」


「そうだと良いんだけど……」


 綺歩は不安そうだったけれど、下駄箱に着いたので別れてそれぞれの教室に向かった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 昼休み、一年生コンビがやって来きて、クラスの何人かが普通に挨拶しているのを見て、本当にクラスに馴染んでしまったなあとしみじみと感じる。


 鼓ちゃんの方の固さも――桜ちゃんは最初からなかった――なくなり、向日葵のような笑顔で挨拶を返している。


「先輩方は今日も不景気そうな顔しているんですね」


「世間が不景気だからねえ。そう言うさくらんは景気よさそうな顔しているねい」


「これから不景気そうなお二方の表情が変わると思うと楽しくて仕方がないんです」


「桜ちゃんが俺達の表情が変わるような何かをしてくれるのか?」


「するのは桜じゃなくてつつみんですけどね」


「ちょ、ちょっと桜ちゃん」


 鼓ちゃんが顔を真っ赤にして桜ちゃんの口をふさごうとする。


 鼓ちゃんの気持ちも分かるが、すでに聞こえたのだから、今更桜ちゃんの口を封じても仕方がないと思う。


 鼓ちゃんも気がついたのか諦めて俺の方を向いて俯いてしまった。


「あ、あの……先輩昨日元気がなさそうだったので、甘いもの食べたら元気になるかなって思ってクッキーを焼いてきたんです」


「俺に?」


「でも、今日の先輩元気そうですよね……」


「一つ貰ってもいいか?」


 鼓ちゃんの了承を得るより前に鼓ちゃんが大事そうに持っている、可愛くラッピングされた袋の中からクッキーを一つ奪い去る。


 丸いクッキーはほんのりときつね色に焼きあがっていて食欲をそそってくる。


 まだ昼ごはんを食べたわけではないのだけれど、なるほどこれが別腹ってやつかと思ってしまうほど。


 鼓ちゃんの心配そうな視線に見守られ一口かじった。バターの風味と砂糖の甘さが上手くマッチしていてとても美味しい。


 強いて言うなら甘さが強いような気もするけれど、鼓ちゃんらしくて微笑ましく思えた。


「おいしいよ」


「本当ですか! 良かった……」


「確かに見た目は綺麗だよな、オレにも一つ……」


「ダメです」


「どうしてただみんが駄目って言うかね」


「だって、これはつつみんが遊馬先輩の為に作ったんですよ? 空気読んでください」


「ああ、なるほど」


「あ、あの、違います。違いますよ」


 三人の会話の意味がよく分からなくて、俺が首をかしげていたら一誠がわざとらしく溜息をついた。


「遊馬って結構あれだよな」


「あれってなんだよ」


「どう考えても今日のはるるんは……」


「だから、違いますって」


 急に鼓ちゃんが大きな声を出したので、クラス中の視線が鼓ちゃんの方へ向けられる。


 多くの先輩の目に当てられた鼓ちゃんは顔を真っ赤にして「あ、あの。ごめんなさい」と頭を下げて縮こまってしまった。


 クスクスといくつかの笑い声が聞こえた後、クラスは再びざわめきを取り戻す。


「もう明日には夏休みなんですよね」


「正確には明後日な」


 話題を変えるように言った桜ちゃんの言葉に一誠が訂正を入れる。


 夏休みと言えば、と今朝の事を思い出したので、未だちっちゃくなっている鼓ちゃんを放置して口を開いた。


「そう言えば綺歩が皆で海かプールに行きたいって言っていたな」


「へえ、あの綺歩嬢がね」


「買い物が楽しかったんじゃないか?」


「桜は楽しいどころじゃなかったですけどね」


「お陰さまでその日はほぼ一日俺は表に出られなかったんだけどな」


「いつかによりますが、桜は行ってもいいですよ」


「まあ、オレは行かざるを得まい」


「そうです。行くとして、先輩はどちらで行くんですか?」


「どっちって言われても、ユメはどうしたい?」


『行けるなら行きたいけれど、わたし水着とか持っていないし今回は遊馬が行っていいんじゃない?』


「と、言うわけだ。残念だったな」


 説明するのが面倒だったので、ユメの言葉を繰り返さなかったのだけれど、案の定一誠も桜ちゃんも顔をしかめてしまった。


「先輩何が「と言うわけで」何が「残念」何ですか?」


「何が「と言うわけで」なのかは分からないが「残念」ながら遊馬は遊馬で来るらしいぞ、さくらん」


「さすがに桜もそれくらいはわかります。問題は先輩が何をもって残念だと言っているのかです」


「何とまあ、友達がいがない奴だな」


 好き勝手に言っている二人だけれど、本気ではなさそうだし、でも話が進まなさそうなので一つ尋ねる。


「それで、本音は?」


「水着購入イベントがなくて残念です」


「ユメユメの水着が見られないとか、行く理由の五分の一が削られたようなものだな」


「一誠、お前は男の鑑だな」


 ユメ含めて五人いる女の子を平等に愛でようとしていたのか。とは、言わなくても一誠には伝わるだろう。


「それぞれに素晴らしさがあるからな」


「さすが御崎先輩です。つつみんも範囲内なんですね」


「桜ちゃんそれってどう言う……」


「つつみんは御崎先輩に水着姿を見られたいわけですね」


「えっと、それはその……遊馬先輩になら……」


 鼓ちゃんが俯いてしまう。後半で俺の名前が出たような気がするが、よく聞こえなかった。


 話は途中だったが、予鈴が鳴り一学期最後の教室での昼食会はお開きになった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 放課後。ユメと入れ替わって部活に行き、着替え終わった頃稜子が遅れて部活にやってきた。


 皆が集まった後に来ることはあっても部活時間を過ぎてから来る事は稀なので綺歩が心配した様子で声を出す。


「稜子にしては珍しいね。何かあったの?」


「いいえ、ちょっと教室でボーっとしちゃっていてね」


「やっぱり、稜子嬢もあのテストの点数には思うところがあったって事だねい」


「テストに思う所なんてないわ。赤点が一つもなかったんだもの」


「そういってのける志手原様の神経はすごいと言わざるを得ないよな」


「今日は少し遅れて悪かったわね。夏休みに入ってからの練習に関して考えていたのよ」


 一誠の言葉に全く興味を示すことなく話す稜子に、少し違和感を覚えた。


 どんな違和感なのかはわからないが、ユメも何かを感じたらしくほんの少しだけ首をかしげる。


 綺歩を見ても大して安心したと言う表情ではなかったが、一応は納得したのか表情を明るくして口を開いた。


「どうせ、ライブまで毎日練習するって言うんだよね」


「アタシとしては夏休み中毎日でも構わないのよ?


 とりあえず、ライブまでは毎日来て頂戴。ライブの前々日、アタシはライブハウスとの打ち合わせで途中抜けるから、その日は完成度次第ってところね」


「その後はどうするの?」


「考えてみたんだけれど、ライブの予定もないのに毎日来てもらうほどでもないと思うのよね。


 むしろ、放っておいても貴方達勝手に上手くなっていくでしょう?」


「ま、部活は個人練習と言うよりも全体で合わせる事がメインだからねえ」


「そんなわけで、月水金には集まって残りは来たい人だけの自主練。日曜日は完全に休みって事にするわ。使用できる時間はプリントを貰っているから後で配るわね。


 一先ずは目の前のライブ。破格の待遇を受けているのだから、それに見合った演奏をするのが今のアタシ達の義務よ」


 最後に稜子が言って練習が始まった。

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