第2話
数日前まで、俺は俺としてバンドのボーカルをしていた。
しかし他のメンバーの演奏がプロ並みなのとは違い、超絶に歌がうまいわけではなかった。
ただ、バンドの中では地声でも一番うまかった事と、大抵の歌は二・三回聞けばある程度は歌えた事。
何よりも綺歩が連れてきたという事が理由で、稜子が認める歌唱力のある人物が出てくるまでと言う条件付きでこのバンドに所属している。
その日も、稜子に小言を言われる練習を終えて、楽しみにしている一人カラオケに向かっていた。
話は変わるが俺達の通う学校には科学部がある。
部活動が盛んで自由な学校なので、多種多様な部活や研究会が存在している。
有名な所で言うと、バスケットボール部やラグビー部は、学年平均二十人近く部員がいるらしい。
俺達のバンドもかなり有名で人気があるため、少人数ながら音楽室を休日も含めると週の半分も使えると言う高待遇を受けている。
人気なのに人数が少ないのは言わずもがな稜子の仕業であるが、人気が出たのも稜子のおかげと言わざるを得ないので文句も言えない。
そもそも稜子――と綺歩と一誠。文化祭でスリーピースバンドを組んで、一気に知名度を得たらしい。この時、綺歩はキーボードではなくベースを演奏していた――が始めた部活なのだ。
この軽音楽部に、演奏の巧拙もなんとなくでしかわからない素人の俺が入れたのは綺歩のおかげであるし、綺歩のせいである。
閑話休題。科学部の話に戻るが、こちらは何をしているかわからないと有名な所だ。
変な笑い声が聞こえる。わずかに開いたドアからドライアイスの煙のような白いものが出ていた。謎の光が見える事がある。エトセトラエトセトラ……。
残念ながらこの科学部室は、音楽室からあまり離れていない。
音楽室が防音のため練習中に気になることはないのだが、帰るときには近くを通らないといけないので、笑いも煙も光も見たことがある。
この日も一人科学部室の前を通り、話し声と笑い声がした後で強烈な光を浴びせられたが、今に始まった事ではないので、最初は気にせず一人カラオケ店に向かった。
一人カラオケとは何と寂しいやつなんだと思う人もいるかもしれない。
しかも、つい数十分前まで、カラオケ店の音響とは比べ物にならないレベルの演奏をバックに歌っていたのに、何故カラオケに来るのか。
答える前に一つ言っておかないけないことがある。
俺は歌うことが好きだ。
あらゆるものの中で、一番好きだと言ってもいい。
ただ、部活の時のように地声で歌っているときじゃない。裏声で歌っている時なのだ。
カラオケならば、気兼ねなく裏声で歌う事が出来る。
要するに俺は両声類と言う奴に分類される。
両声類は男の声も女の声も出せる人を指すが、裏声と女声はまた違うという話もある。
しかし、ただの裏声も五年以上使い続けていたおかげか、女の子らしい声が出せるようになった。
では何故女声で歌うことが好きなのか。単純な話そっちの方が上手いからだ。
カラオケの点数での判断しかできないが、地声で歌うことが増え地声のレベルも上がっても、裏声で歌った方が点数的に約五点は高くなる。
それから、女声――裏声――で歌うのが好きな理由としてもう一つ。
俺が俺でない錯覚に陥れるから。
裏声の時の俺は俺であって俺でない。だからどんな曲でも歌うし、台詞があろうと躊躇わず感情をこめる。
痛い奴と思われるかもしれないが、歌っている時は頭の中で勝手に美少女を想像していた。
俺よりも十五センチほど背が低く、華奢で、前向き。言ってしまえば、自分をそのまま女の子にして、かなり補正をかけたもの想像していたわけだ。
幸い歌っている時に自分の姿が見える事はほとんどないので、思う存分入っていける。手足とかは心配されるレベルには細いし。
例によってこの日も裏声で歌い始めた。
アニメソングから入り、有名なアーティストの曲をはさんで、アイドルグループの曲へと。
三曲目にはいつものように、例の美少女になったつもりで歌っていた。
その時に、ふと、頭の中の少女が羨ましくなった。
考えてもみてほしい。この少女は俺と同じ声、同じ歌い方をしているのに、カラオケなんてちっぽけな空間じゃなくて、大きな舞台で活き活きと歌う事が出来るのだ。羨ましくならないはずがない。
変化に気がついたのは四曲目が始まる直前。
着ていた制服が急に大きくなった。
前奏が流れはじめ、最初のワンフレーズを歌ったときに凄まじい違和感が俺を襲った。
裏声を出す時は、地声を出す時とはだいぶ違う――説明は難しいが、裏声の時の息の出し方は、無声音を出す時のそれに近い――のだが、地声でうたった時のような感覚に襲われた。
それだけなら、裏声を出し損ねただけだと考えられなくもないのだが、スピーカーを通して聞こえてきたのは、明らかに裏声の時の声で俺は思わず歌うのを止めた。
正確には止めようとした。しかし、結果は止めることはできなかった。
俺の支配から逃れた俺の身体は、しかし俺に様々な感覚を与えながら一曲を歌い終える。
次の曲へと画面が切り替わるときの暗転で、俺の姿が黒い画面に映った。
俺が歌う時に想像していた少女に、よく似た美少女がそこにいる。
何故か少女はとても驚いた顔をしていたのだが、次の曲が始まると何事もなかったかのように歌い出す。
変な夢でも見ているような感じが、時間がきてカラオケ店から出た後しばらく続いた。
身体の主導権が戻ってきたとき、急に止まった足に驚いて俺が転んでしまい、頭の中で鈴を転がしたかのような笑い声が響く。
しかし以降は何もなく、普通に家に帰って夕飯を食べて寝たのだが、また不思議な事が起こったのは次の日の放課後になってからだった。
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