第5話『不審な兆し』

(1)

 シエラがアズウに拾われてから、早くも一月が経とうとしていた。

 朝食も食べ、掃除も片付けも全て一段落し、ホッと一息つく瞬間。シエラは居間のテーブルに肘を付きながら、椅子に座ってボーと外を眺めていた。天気はいいが雲の流れが速かった。それを見ながら、シエラは不思議な気持ちになっていた。

 とても、平和だった。まさか自分がこんなにも穏やかに過ごせる日が来るとは思いもしなかった。いつもは、それこそ世界の終わりを愁(うれ)いているかのように塞ぎ込み、視界に入る全てのものを羨望の眼差しで見ているか、誰もいないにも拘らず、常に周囲に気を張って、いつ自分が叩き出されるのかとビクビク怯えていた。それが今、塞ぎ込むこともなく周囲に気を張ることもなく、ただホッと一息ついている。


 これは夢じゃないかしら?


 あまりにも平和で、シエラは自分の現状に現実味が沸かなかった。これまでも、何度も何度も住む場所を変えて来た。その度に親しく付き合おうと声を掛けて接して来る人たちと暮らして来た。だとしても、常にシエラは気を張り詰めていた。それこそ一日たりとて気を抜いたことはなかった。眠っているときですら、小さな物音で目を覚ましていた。信用が出来なかったのだ。怖かった。親しくして来なくていいから、そっとしておいて欲しいと、それだけを願っていた。

 勿論。いつもいつも神経を張り詰めていることなど出来るわけもなく、ときどき何もかもが嫌になって、自暴自棄のように態(わざ)とらしくはしゃいだり、他人の輪の中へ飛び込んだこともあった。周りは楽しそうに笑っていた。一緒になって笑ってみた。何一つ楽しいと思わなかった。何をやっているのだろうと思っていた。

 それなのに、今はとても穏やかだった。気が緩みっぱなしだということを実感していた。

 何故だろうと思う。きっとアズウの所為だと思う。


 アズウは不思議な人だった。初めて会ったときから、正直、初めてのような気がしなかった。一緒にいて壁を作る必要がなかった。無条件に信用出来た。この家にいると、アズウが守ってくれているような感じがして、安心出来た。

 そう。安心出来たのだ。自分が安心出来ていることに驚いた。

 だからこそ夢だと思ったのだが、夢ではないと主張するかのようにいつもの冷やかしがアズウの仕事場の方から聞こえて来る。


「何だ? アズウ。お前さん。あのお嬢さんとは結婚しないとか言っておきながらもう一月ぐらい一緒に暮らしてんじゃないのかい? その間毎日毎日飯作ってもらったり片付けてもらったり、洗濯してもらったり世話してもらってるんだろ? だとすりゃお前、そりゃあもう、立派な夫婦じゃねぇか。隅に置けねえなぁ、おい」

 と、からかわれれば、

「ふ、夫婦って、何をいきなり言い出すんですか! いいですか? 毎日毎日皆さん代わる代わる仰いますけど、僕らは本当にそういう関係じゃないですから! 僕らはですね」

 と、必死に弁解を始めようとして、

「はいはい。いいってことよ。初めは皆そう言うんだ。何も恥ずかしがることもねぇのによ。そういう俺だって、かみさん娶(めと)った日には連日からかわれたもんだ。付き合ってるって知られたときも結構な騒ぎだったけどよ。でもな、いいじゃねぇか。皆嬉しいんだよ。自分の知ってる奴が幸せになることがよ」

 と、軽く流される。が、シエラ同様普通の世界とは違う世界を見たことのあるアズウにとって嬉しい言葉を言われれば、

「幸せに………? 皆さんは、ぼくが幸せになることを喜んでるんですか?」

 と、真剣な言葉を相手に返し、返された人が真面目な声で、

「当たり前だろ? 今更錬金術師だとかこだわりゃしねぇよ。俺たちはあんたが気に入ったんだ。って、泣くなよ。いくら嬉しいからって」

 と、途中からからかわれ、


「泣いてませんよ!」

 おそらく赤くなりながらだな。と想像出来る声でアズウが反論する。

 そんなやり取りが、飽きることなく、一月近く続いているのである。

 よく、村人たちも飽きずにずっと続けられるものだなと、シエラは思った。一方で、アズウもアズウでいい加減慣れてもいいようなものなのにと思うが、アズウが未だに赤面しながらムキになって弁解しようとして失敗する様が楽しくて、止めるに止められないのだろうと思ったなら、結局アズウは自分の首を絞めているだけなんだな。と、シエラも思わず笑ってしまうのだった。

 とても楽しいと思った。話題として自分は上っているが、厳密には巻き込まれていないシエラ。遠慮してか、関わりたくないのかは判断付きかねるが、直接シエラをからかって来る村人はいない。だが、大方の人間が笑顔で会釈をしてくれていた。

 受け入れられているのだと思った。きっと、自分一人がこの村に来たとしても、ここまでしてくれたかどうかと考えたらなら、ありえなかったのではないかと思う。

 逆に、アズウがどれだけ村人たちに受け入れられ、親しまれているのかを実感した。

 信じられないが、幸せだとシエラは思った。

 アズウに出逢ってから、シエラは感情を込めて感情を表に出していた。笑うにしても、怒るにしても、振りではなく、心から、それこそ反射的に押さえることも、止めることも出来ずに表に出てしまっていた。何十年振りのことか判断も付かないが、自分が自分の笑い方を覚えていたことに感動した。

 アズウと一緒に過ごしたこの一ヶ月で、自分がどんどん人間らしくなるのを感じていた。何故アズウといると自分が癒されて行くのか、それは分からないが、アズウといるととても安心出来るのは事実だった。誤魔化しも言い訳も出来ない事実として、実感として、シエラは思った。今までもそう思えた人間はいたが、アズウは別格だった。


 アズウと一緒にいるのは楽しかった。アズウのために料理を作って、掃除をして、とりとめのない話をして、毎日挨拶を交わす。普通のことが特別だった。アズウを通すことで、世界が違って見えた。世界がとても楽しいものだと思えた。

 出来ることならずっと一緒にいたいと思った。

「?!」

 思った瞬間、自分が何を思ったのか理解して、シエラはハッとした。

「な、何を考えているの私は!」

 アズウではないが、思わず赤くなった自分の頬を両手で押さえて口に出す。

 シエラは思ってしまった。自分とアズウの結婚式の様子を。二人で生活している様子を。

 あり得ないことだった。叶うわけのない願いだった。

「私なんかがアズウと結婚出来るわけがないでしょ?」

 自嘲気味な台詞だった。だが、口に出して言い聞かせなければならない事実だった。寿命が違うのだ。たとえアズウが気にしないと言ったとしても、周りはそうもいかない。


「いつ見ても若いわね」

 と言う台詞では誤魔化せない状況に陥るのは眼に見えている。

「いつ見ても若いわね」から、「何かおかしくない? 私たちはこれだけ歳を重ねているのに、あの人はいつまでも歳をとった形跡がないわよ?」となり、「あの人はきっと人間じゃないわ。魔物か何かよ!」と疎まれ、排除されて行くのだ。


 もし、百歩譲って結婚したとしても、何年自分がアズウと暮らせるか分かったものではない。

 もしかしたらアズウは一緒に旅をしようと言ってくるかもしれない。各地を転々としていれば、自分の老いは周囲に違和感を与えないだろうが、そんな放浪生活では生計が立てられない。また、仮に出来たとしても、シエラは変わらない自分と、死に近付いてどんどん老いて行くアズウを見続けなければならないのだ。やがては死そのものを目の当たりにするだろう。考えただけでゾッとした。


 自分一人が置いていかれることが怖かった。嫌だと思った。だが、どうしようもないことだった。自分は歳を取らないのだ。怪我をしてもすぐ直り、病気一つ罹らない。死ぬことすらない自分を、他人からしたら何かに守られているという風に見えるかもしれないが、シエラ本人にしてみれば立派な呪いだった。好きな人たちといれず、好きな人と一緒に死ねず、ただ一人で生きていくことの何が幸せなのかシエラには分からなかった。


 もしも自分以外の人間がそうだったら、自分はそれを羨ましがったのかもしれないし、その人物は自分の体質を利用して、シエラの想像もつかない人生を死ぬまで探したかもしれない。死ぬことすらないのだから不死身の使者を名乗って英雄になる人もいるかもしれない。だが、シエラは普通に生きたかった。


 そして気が付く。自分はアズウのことが好きだということを。

 シエラは愕然とした。好きだと言っても報われるわけがないのに。苦しめるだけだというのに自分は一体何を考えているのかと思った。

「馬鹿よ私は」

 久しぶりにシエラは叩きのめされた。他でもない自分によって。ある意味懐かしい感覚と言えば言えなくもないが、出来ることなら永遠に味わいたくもない感覚だった。


 ああ、もう、嫌だ。


 と、闇に落ち込んで行きそうになるとき、まるでアズウが見計らったかのように救いの手が差し伸べられた。

「じゃ、あまりイチャつかんで、仕事はきっちりとな」

「イチャついたりなんかしませんし、仕事はきっちりやります! だから、ちゃんと使用法を守ってシップ薬貼って下さい! じゃないと痛みの保証はしませんよ!」

「はいはい。おっかねぇ先生だな」

「すいませんね!」

 そんな拗ねたアズウの声が聞こえたかと思うと、ガチャリと仕事場の扉が開いて来客が部屋から出て来た。樹を切るのが仕事らしいのだが、腰を痛めてアズウのところへ薬を貰いに来ていたのだ。

 問題は、部屋を開けるとシエラが座っている姿が相手に丸見えになるということ。今までのように落ち込んでいてはアズウにあらぬ疑いが掛かるかも知れず、変に印象付けてしまう可能性も捨て切れない。

 それらを一瞬で判断したシエラは、「落ち込んでいる暇はないのよ!」とばかりに自分を叱咤し、

「じゃあ、シエラさん。お邪魔したね。後はごゆっくり」

 と、笑顔で挨拶して来る男に対して、

「はい。お大事に」

 精一杯努力して、自然体に見えるような笑顔を浮かべて返した。

 村人は何一つ不審さを見せることなく帰って行った。

 それを見たなら、きちんとやり過ごせたことにホッとした。その背中にアズウの声が掛かる。

「お待たせシエラ。まったく困ったもんだよ。未だに変なこと言ってからかって行くんだから。何がそんなに面白いんだか……。無駄に疲れたような気がするよ………って、あれ? どうかしたの? 何か緊張してるみたいだけど何か心配事?」

「え?」

 シエラの向かいに座って、心配そうにアズウが訊ねて来たなら、シエラは心臓が跳ね上がるほど動揺した。

 心配掛けてはいけない! 反射的に思う。だからこそ、シエラは微笑を浮かべると、

「あなたがいつまで皆にからかわれ続けるのかと思ったら、先はまだまだ長いかもしれないわねぇ……って呆れていたのよ」

 と、誤魔化した。刹那、面白いほど簡単に顔を赤くして動揺するアズウ。

「シ、シエラまで何を言ってるんだよ。普通は女性である君の方が動揺するもんだろ? 何で君までそうやってからかうかなぁ」

 と、抗議して来たなら、

「そうやって私より先に動揺しちゃうから私が動揺出来ないのよ。それに、見てると何だか微笑ましくて。あなたって言う人はついついからかいたくなっちゃう人なのよ」

 と、軽く流してやる。

 アズウは顔を赤らめながら悔しそうに唇を噛んでいた。少しからかい過ぎたかな? と思わなくもないが、お陰でアズウの問い掛けから上手く逃げ出せたとシエラは思った。

 とにかく、アズウには心配を掛けたくなかった。

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