(3)


「どうして!?」

 ヒューズが出て行った直後、シエラはアズウに詰め寄った。アズウは力なく微笑んで、

「さあ、荷物をまとめようか」

 当たり前のようにシエラを促し、立ち上がった。


 シエラには信じられなかった。逃げるということは罪を認めたということだ。

 だが、アズウは何一つ罪を犯してなどいない。

 もしもあるのだとしたら、それは信用されていたということだけだ。

 信用されることが罪になるなどあってはならないことだと、シエラは強い反発心を抱いた。


「どうして?! どうしてアズウが逃げなければならないの? 逃げたら自分が悪いって言うことを周りに知らしめているようなものじゃない!」

 自分の隣を通り過ぎようとしていたアズウのズボンを掴んで抗議すれば、アズウは少し困った顔をして、床に再び膝を着いた。

 シエラの肩に手を置き、真っ直ぐにその眼を見つめ、子供に諭すように言葉を紡ぐ。

「これはね、シエラ。いつか起こることだったんだよ」

「いつか?」

「そう。僕は錬金術師だ。今でこそ、この村の人たちにも受け入れられているけれど、初めから受け入れられたわけじゃない。普通の人にしてみれば、錬金術って言うものは得体が知れない不気味なものなんだ。簡単に例えると、目の前に一匹の蜘蛛が垂れ下がっているとしよう」

「蜘蛛?」

「そう。蜘蛛。蜘蛛は害虫を捕食してくれる。だから、他の害虫を処分してくれるなら放って置こうと思う人たちがいる。でも、一方でやっぱり蜘蛛は気味が悪いと思う人たちも居るわけだ。そんなとき、蜘蛛が害虫ではなく、人に張り付いたりしたら、それまでは事実上無害だったものが、人に不快感を与えたということになる。元々蜘蛛自体は気味が悪いと思っていたけど、役に立つなら……と放って置いたのに、それが自分に張り付いたりしたら、張り付かれた方はパニックを起こすだろう。ましてやその蜘蛛に毒があるとしれたなら、それまで放って置いた人たちも一丸となって追い出しに掛かるだろう。仕留めに掛かるかもしれない。つまりは、そういうことなんだよ」

「わからないわ」

「たとえ毒蜘蛛自身に人間を刺すつもりはなかったとしても、人間が「あいつは毒を持っている。自分たちに危害を与えるつもりだ!」と思ってしまえば、それまでの状態が崩壊してしまうということさ。

 皮肉だと自分でも思うけれど、村の人たちは僕のことを信用してくれていた。だからこそ、僕の名前を使ったことで殺人が実行されてしまったんだ。もしも僕が信用されていなければ、こんなことにはならなかったと思う。ヒューズさんだって、僕の名前を見た瞬間投げ捨てていたかもしれない。でも、僕は信用されていた。だからこそ危ないんだ」

「何が?」

「信じていたものに裏切られる。裏切られた者の心は信じていれば信じていたほど、強い憎しみに取って代わる。ヒューズさんはいい人だよ。きっと気が狂いそうな思いを押し殺して僕に逃げるように勧めてくれたんだから」

「だから逃げるの?」

「そうだよ。多分、僕の名前で薬を置いたのは一軒じゃない。この薬を置いた人間の目的が僕をここから追い出すことか殺したかったのだとしたら、仮に、一軒にしか置いておかなかったことにしよう。でも、その置いた家が僕のことを信じて僕に恨みを抱かなかったら意味がない。そう考えたなら、複数の家に置いて保険を掛けることを考える。だとすれば、これから立て続けに訃報が相次ぐ。そうなれば、誰も僕の言葉を聞こうとしなくなるだろう」

「でも、ちゃんと説明すれば!」

「シエラ」

 なおも納得できない気持ちをシエラがぶつけようとすると、アズウは静かな、それでいて有無を言わせないものを含んだ声で、シエラの名前を呼んだ。シエラは思わず口を噤んだ。

「ありがとうシエラ。でも、僕も何度も住む場所を変えている。人の心理状態がどういうときにどうなるかぐらいは理解できるだけ人生経験してきたつもりだよ。誰でも肉親や愛する者の命を奪われたなら冷静ではいられない。それが一人や二人ではなく大勢だったなら、その感情に押さえは効かない。それ以前に、僕の名前が不幸を呼んだ時点で僕はここにはいられないんだよ」

「そんな……」

 シエラにも分かることではあった。分かることではあったが、受け入れたくないことだった。また、逃げなければならない。自分は悪くないのに、存在自体を憎まれて逆恨みされて、それから命を守るために逃げ出すなど、嫌だった。


 ここでなら、アズウと二人でなら大丈夫なのだと思っていた。それなのに、再び逃げなければならないなど、受け入れたくなかった。

「嫌よ。また逃げなければならないなんて。私たちは何もしていないのに。何も悪くないのに。また当てもなく一から始めるなんて嫌よ。どうしていつもいつもこっちが逃げなくちゃならないの? 私たちは何もしていないじゃない。アズウは悪くないじゃない! 今まで散々世話になっていたくせに! アズウの名前を騙った奴がいるのに! そいつが本当は責められなきゃならないのに! どうしてアズウなの? どうして逃げなきゃならないの?! おかしいよ! 嫌だ。私は認めないし、許さない。せっかくここで暮らしていけると思ったのに。私は許さない。絶対に探し出して、皆の前に突き出して、そして……」

 報いを受けさせる!

 と、言い切ることは出来なかった。その前に、シエラはアズウに抱きしめられていた。

 驚きに、涙も止まった。

「ありがとう」

 と、アズウは言った。とても優しい声だった。

「ありがとうシエラ。僕のことを心配してくれて。僕のことで怒ってくれて。君のその気持ちがとても嬉しいよ。でも、憎しみに駆られたらいけない。憎しみは憎しみを生む。もし、本当に村の人の中に犯人が居たとして、それを皆が信じたら、今度は村人同士が疑心暗鬼に掛かって駄目になる。僕が責められて終われるならそれで僕は構わないんだよ」

「そんな……」

 そんな悲しいことがまかり通るなど許したくはなかった。だが、アズウがシエラから離れ、優しい眼差しで自分の目を覗き込まれたなら、その眼が嬉しそうに微笑んでいたなら、シエラは何も言えなかった。

「それよりも、君が僕とここで暮らして生きたいと思っていてくれたことの方がとても大切で、とても嬉しいことなんだよ。

 あ、でも、恨まれているのは僕だけだから、僕だけが逃げればそれでいいんだよね。君はここで暮らし続けても大丈夫なんだよ? むしろ、僕と一緒の方が危ないことが多いかもしれない。どうしよう」


 本気で悩んでいる様子だった。シエラは「この人は……」と思った。

 シエラはアズウが愛しくて堪らなかった。憎まれて、恨まれて、危険な目に遭いそうなっているときですら、真犯人を暴くよりも村の平和を願って、自分の身を危険に晒している。これが自分だったら、相手を恨みながら村を後にするだろう。その中にあるのは絶望だけだ。心が凍っていくだけだった。だが、アズウは違った。憎んでなどいなかった。悲しみはあるだろうが、それでも村の人たちに感謝していた。その上、自分のことすら気に掛けてくれ、自分と一緒に居たいと思ってくれたことが嬉しいと言った。

 優しい人だと思った。離れたくないと思った。一人にさせたくないと思った。

 その瞬間、シエラは気付いた。

 自分はアズウと一緒に生きて生きたいのだと。

 アズウの命がある限り、アズウと一緒に居たいのだと。


 信じられないことだった。だが、それが今のシエラにとっての偽りのない一番の望みだった。アズウと一緒ならどこでもいい。一人で安全なところに居るよりも、危険でも一緒に居られるのならそっちがいい。

 だからシエラは伝えた。

「私はあなたの助手なのよ? あなたが行くところに、私はついて行くわ」

 自分はもう一人ではないのだ。アズウが傍にいる。これまでとは絶対に違う。

 シエラは自分に言い聞かせるように、自信を持たせるように力強く思う。

 アズウは幸せそうに笑っていた。その笑顔は紛れもなくシエラが与えたものだった。

「ありがとう、シエラ」

 その言葉を聞いた瞬間、シエラは言った。

「さ。そうと決まれば荷物をまとめましょ」

「うん」

 二人は手を取って立ち上がり、荷造りを始めた。そんな二人の許に殺気立った村人たちがやって来たのは、荷造りも終えた昼過ぎのことだった。

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